オメガねこ

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「多様性」 と 「均質性」 Ⅱ

2020年09月02日 | 雑感
 【ネタ切れに付き、過去記事の「編集・加筆」です。】

 「多様性」とは、ある定義域に於いて幅広く性質の異なる「群」が存在・散在出来る事であり、混在・混合する事ではありません。例えば、ある区域に多種多様の人達がバラバラに暮らしている場合、この区域には「多様性」が有るとは言えず、単に「混在している」と言います。

 今では少し下火にはなりましたが「グローバリズム」では、その地域の特性が破壊されて「均質化」が進んでしまいます。「多様性」を重視するのなら「郷に入っては郷に従え」が正しい行動であり、他から新しい文化を持ち込むのは500年程前の「大侵略時代(通称:大航海時代)」の悲惨な歴史を繰り返す事になります。

 最近では、新しい文化や移民をを受け入れない人に対して「多様性が無い」と非難する人も見受けられますが、この非難する人自身に「多様性が無い」ように思えます。新しい文化の持ち主や外国から来る移民自身が「多様性」を尊重するのなら、旧来の文化や風習も尊重出来る筈です。しかし、多くの外国で実際に起きている事は、移民による文化破壊や人口侵略です。

 自然科学用語での「多様性」は、その土地の環境に合った動植物の「群生」を保障しています。自然の変化で「群生」が保障されなければ在来種の保存も潰えます。更に、人間が外来植物を持ち込んだ場合、多くの場合在来種の「群生」が破壊され、人為的に在来種の保護が必要になる事が度々起こります。在来種を保護して迄外来種を受け入れる事を「多様性の受け入れ」と言うのは本末転倒と言えます。

 社会科学でも同様の事が言えて、技能実習生に名を変えた技能労働者の人材確保(苦役労働者受け入拡大)や、人材派遣会社(口入れ屋)によって人為的に人口を増やす事も、社会環境に合った地域構造を破壊します。これも「多様性の受け入れ」とは言えず、寧ろ社会環境を低賃金労働者で均質化します。

 多くの国際人権派は「多様性の受け入れ」を主張し、地域文化を「閉鎖的」と非難しますが、そもそも「文化」とは自然環境や社会環境が閉鎖空間である事で生まれるもので、これを勘違いした毛沢東は「文化大革命」と銘打って支那大陸全土に広めた為に、数千万人の死者を出す悲惨な結果になりました。

「多様性」を標榜し社会を掻き回す人は「多様性」を破壊します。これは、「均質性」を目論んでいる資本家のプロパガンダに騙されているか、「多様性」の意味を誤解している事から生じていると思われます。

 近代的な大都市がダイバーシティに富んでいる様に宣伝されるのは誤解そのもので、ただ単に「多様性」を主張する「均質性」のある雑多な人間が住んでいるだけです。これは、個別に見ると色々な人がいますが「多様性」とは関係ありません。

 「多様性」とは、自然循環的で連鎖が安定的な「群生」が多種多様に存在する事を意味します。社会の「群生」が破壊されると「均質性」が進み、どの部分を見ても同じ性質を持つようになり、その後は滅亡が待っているだけです。




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