武田邦彦氏の考えによると「貴族」とは、
① 名を名乗る。
② 自分の意見を言う。他人の為に行動する。
③ 責任を取る。
一方「大衆」の場合は、
Ⓐ 名を名乗らない。
Ⓑ 他人の意見を言う(従う)。自分の為に行動する。
Ⓒ 責任を取らない。
だそうです。なかなか「的を得ている」と思います。「的を射ている」は的確な言動の意味ですが、「的を得ている」は合理的な意見と言う意味です。例え理に適っていても現在に於いては有り得ない話です。
現在は「分業化」が進んで、「貴族」とか「大衆」とかを明確に分ける事は出来なくなりました。最も顕著な「分業化」は、貴族の「権威と権力」の分業です。「権力者」は「権威者」によって承認されるだけなので、失政の責任は辞任するだけで良く、死をもって贖う必要は無くなりましたが、そのしわ寄せは「大衆」に分散化されました。つまり、③とⒸによる分類はもはや無意味と云えます。
また、「為政者は民意によって行動する」とか、「少数意見を尊重し、多数に従う」と云うのが民主主義の理念なので、②とⒷの分類も出来ません。他人の意見と同じでなければ「多数」にはならないし、他人である「多数」によって政治が行われるので、偶々、自分の意見と他人の意見が一致した場合以外は、他人の意見を言って他人の為に働くか、自分の意見を言って自分のために働くしか方法は有りません。
更に、「ブロガー」にも本名を名乗って自分の意見を言う人もいれば、名を伏せて裏工作をする為政者もいます。逆に、民主主義を捨てて「貴族」の仕事と「大衆」の仕事を明確に「分離」する事が出来れば、「武田理論」が成立するかも知れません。ところが武田氏自身が「(西洋式)民主主義」の信奉者である事を公言しています。
「民主主義」の定義が定かでは無いので、断言はできませんが「自己撞着」と言えます。「(西洋式)民主主義」の社会制度では「他人の為の行動は、最大多数の他人の意見」であり「責任の所在は、最大多数の他人にある」ことから、「貴族」は存在し得ないと言えます。また、現在では、失政により自害しても「責任から逃れた」と判断されます。
無理してでも「武田定義」に当てはめると、「貴族」とは現代では市井の実名ブロガーで、「大衆」とは報道機関の編集員や記者、或いは放送作家や台詞に従う芸名で出演の芸能人と言えます。
① 名を名乗る。
② 自分の意見を言う。他人の為に行動する。
③ 責任を取る。
一方「大衆」の場合は、
Ⓐ 名を名乗らない。
Ⓑ 他人の意見を言う(従う)。自分の為に行動する。
Ⓒ 責任を取らない。
だそうです。なかなか「的を得ている」と思います。「的を射ている」は的確な言動の意味ですが、「的を得ている」は合理的な意見と言う意味です。例え理に適っていても現在に於いては有り得ない話です。
現在は「分業化」が進んで、「貴族」とか「大衆」とかを明確に分ける事は出来なくなりました。最も顕著な「分業化」は、貴族の「権威と権力」の分業です。「権力者」は「権威者」によって承認されるだけなので、失政の責任は辞任するだけで良く、死をもって贖う必要は無くなりましたが、そのしわ寄せは「大衆」に分散化されました。つまり、③とⒸによる分類はもはや無意味と云えます。
また、「為政者は民意によって行動する」とか、「少数意見を尊重し、多数に従う」と云うのが民主主義の理念なので、②とⒷの分類も出来ません。他人の意見と同じでなければ「多数」にはならないし、他人である「多数」によって政治が行われるので、偶々、自分の意見と他人の意見が一致した場合以外は、他人の意見を言って他人の為に働くか、自分の意見を言って自分のために働くしか方法は有りません。
更に、「ブロガー」にも本名を名乗って自分の意見を言う人もいれば、名を伏せて裏工作をする為政者もいます。逆に、民主主義を捨てて「貴族」の仕事と「大衆」の仕事を明確に「分離」する事が出来れば、「武田理論」が成立するかも知れません。ところが武田氏自身が「(西洋式)民主主義」の信奉者である事を公言しています。
「民主主義」の定義が定かでは無いので、断言はできませんが「自己撞着」と言えます。「(西洋式)民主主義」の社会制度では「他人の為の行動は、最大多数の他人の意見」であり「責任の所在は、最大多数の他人にある」ことから、「貴族」は存在し得ないと言えます。また、現在では、失政により自害しても「責任から逃れた」と判断されます。
無理してでも「武田定義」に当てはめると、「貴族」とは現代では市井の実名ブロガーで、「大衆」とは報道機関の編集員や記者、或いは放送作家や台詞に従う芸名で出演の芸能人と言えます。
勿論、これは民主主義には反します。
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