オメガねこ

知識は人をバカにする。
智識はバカを人にする。
信じるか信じないかは、自分次第です。

「信教の自由」 と 「信仰の自由」

2019年08月13日 | 法律

 「信教の自由」は誰かの「教えを信じるかどうかの自由」で、「信仰の自由」は主に「何か(神など)を信じるかどうかの自由」です。

 「信教の自由」では、教える人が複数いる場合での「布教合戦?」の自由や、個人として誰を信じるかの自由を保障していて、日本では「公はこれに関与してはならないと」されています。しかし、「教え」が一つしかない場合は「信教」とは言えない場合も有ります。例えば「人の死を悼む事」や「神の”存在”を信じる事」です。ここでの「神の”存在”を信じる事」は「存在」を信じるだけであり「神の力」を信じる事ではありません。また、これらをを「当然の事」と思っている人にとっては、これは「教え」ではなく「歴然たる事実や風習」です。これを否定する場合は「新しい根拠」が必要になりますが、信じる人の心の中に立ち入ることになり、その根拠自体が「宗教」と言えなくも有りません。

 一方、「信仰」の場合は個人の問題であり、信じる対象は「無数」にあります。

 ここで余談ですが、「無数」とは「数が無い⇒0」ではなく「多くて数えることが出来ない⇒無限大」と云う意味です。また、「0」は「少なくて数えることが出来ない」訳では無く、単に「無い」だけです。一見「無い」よりも少ない状態は無いとも思えますが「-1」は「0」よりも少ない数で、「マイナス無限大」と比べると「0は無限に大きな数」と言えます。

 「無数」は「色即是空、空即是色」を一言で表現しています。式で書くと「0=無限大」です。また、「零細企業」の「零」は「小さい、とるに足らない。」と云う意味だそうですが、式で表すと「零≠0」です。日本では「零細企業」は「経済の基盤」とも言え「無限の可能性」を秘めています。算数は「宗教的な学問」と言える為、学校で教える事は禁止されるべきだと思えます。

 憲法第20条

1 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 「信仰の自由」は、「信教の自由」とは違い憲法では保障されていませんが、同時に公の関与も「憲法第20条」では禁止されてはいません。「神道」はこれを布教したり何かの教えの説く人もいない事から「宗教」とは言えないのですが、「信仰」する人は大勢います。

 憲法第19条

思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

 「信仰」が「思想」に当たるのかどうかは判りませんが、「信仰の自由」を保障する文言はこれ以外には見当たりません。「信仰」とは、特定の誰かから教えて貰う訳でもなく、生活の中で「何かを見て」自然に身に付いた慣習であり、「自分の良心」とも言えるからです。

 「神道」は自然崇拝の「信仰」が昂じてうまれた「お祭り(祭祀)」の集大成で、古事記や日本書紀を原典にはしていますが、記紀は何かを教え諭している訳では無く、「神々や天皇の歴史」が書かれているだけなので、「神道の経典」では有りません。

 GHQによる「神道指令」で「神道」が政教分離の対象になり、今なおその影響が残っていますが、憲法では「公による宗教教育の禁止」とは書かれていても、「道徳・慣習や歴史の教育」は禁止されていません。つまり、「参拝の作法や礼儀」は「毎日の挨拶」と同様に、学校で教えても問題なしと言えます。




コメントを投稿