ヒトは、「我思う故に我あり」によって自分の存在を確認するようですが、その意味は読み方によって、
・我、思う故に我あり:積極的に自ら思考しなければ、存在しないも同然。
・我思う、故に我あり:思考している自分を確認できれば、それで良しとする。
・我思う故に、我あり:自分が思考している間は、存在できる。
と、微妙に違います(私説)。
哲学では兎も角、実際の社会では「彼思う故に我あり」となり、他人によって自分の存在が左右されます。
「多様性の包摂」を正しく理解すれば、「我」を「彼」と言い換えても問題は無いのですが、政治や宗教には権威主義が包摂されているので、「権威者である彼」の思考次第で「我」の存在価値は変わります。例えば「権威者である彼」が、ワクチンを拒否する「我」に対し「存在価値がない」と思うことで、社会的(場合によっては物理的)に排除されます。
「効能デマ太郎」によるSNSのブロックは、意見をブロックするだけではなく閲覧すら出来なくなり、被害者の存在そのものが否定されます。「彼思う故に、我なし」ですww
それでも、民主主義が成立していれば、権威者の権威を奪うことで「我思う故に、彼なし」、或いは「彼、思う故に彼なし」とすることは可能で、実際にそうなりつつありますww
「AI(人工知能)」がシンギュラリティーを迎えると、ヒトは被支配層になると考えられていています。
AIは確率で「正しい結論」を導き出すのですが、ヒトは謀略や思い付き(思い込み)で行動し、なにがしの「結果」を得てから「正しさ」を評価します。同じ結論でも「正しさ」は時代によって変遷し、ヒトは反省したり誇りに思ったりで忙しいです。
AIが、ヒトから見て間違った行動を取ったとしても、それを評価するのは「ヒトより確率的に優れたAI」なので、AIは「正しい事」しかしません。
宗教によらず大量虐殺を成した人(例えばアイヒマン)は極悪人と言われ、それが戦争の場合は「戦犯」とされます。宗教に従って(或いは、従った振りをして)大量虐殺を成した人(例えば、トルーマン)は英雄とされ、「戦犯」と言われることは無いようです。
「我である未熟な白人」が「彼である有色人種を(正当と思い)支配した」のと同様に、「データ駆動型の成長過程にあるAI」が「我であるAIは彼であるヒトを支配するのは正しい」と考えるのは当然かもしれません。
・我、思う故に我あり:積極的に自ら思考しなければ、存在しないも同然。
・我思う、故に我あり:思考している自分を確認できれば、それで良しとする。
・我思う故に、我あり:自分が思考している間は、存在できる。
と、微妙に違います(私説)。
哲学では兎も角、実際の社会では「彼思う故に我あり」となり、他人によって自分の存在が左右されます。
「多様性の包摂」を正しく理解すれば、「我」を「彼」と言い換えても問題は無いのですが、政治や宗教には権威主義が包摂されているので、「権威者である彼」の思考次第で「我」の存在価値は変わります。例えば「権威者である彼」が、ワクチンを拒否する「我」に対し「存在価値がない」と思うことで、社会的(場合によっては物理的)に排除されます。
「効能デマ太郎」によるSNSのブロックは、意見をブロックするだけではなく閲覧すら出来なくなり、被害者の存在そのものが否定されます。「彼思う故に、我なし」ですww
それでも、民主主義が成立していれば、権威者の権威を奪うことで「我思う故に、彼なし」、或いは「彼、思う故に彼なし」とすることは可能で、実際にそうなりつつありますww
「AI(人工知能)」がシンギュラリティーを迎えると、ヒトは被支配層になると考えられていています。
AIは確率で「正しい結論」を導き出すのですが、ヒトは謀略や思い付き(思い込み)で行動し、なにがしの「結果」を得てから「正しさ」を評価します。同じ結論でも「正しさ」は時代によって変遷し、ヒトは反省したり誇りに思ったりで忙しいです。
AIが、ヒトから見て間違った行動を取ったとしても、それを評価するのは「ヒトより確率的に優れたAI」なので、AIは「正しい事」しかしません。
宗教によらず大量虐殺を成した人(例えばアイヒマン)は極悪人と言われ、それが戦争の場合は「戦犯」とされます。宗教に従って(或いは、従った振りをして)大量虐殺を成した人(例えば、トルーマン)は英雄とされ、「戦犯」と言われることは無いようです。
「我である未熟な白人」が「彼である有色人種を(正当と思い)支配した」のと同様に、「データ駆動型の成長過程にあるAI」が「我であるAIは彼であるヒトを支配するのは正しい」と考えるのは当然かもしれません。