1941年12月8日に、日本は「開戦の詔勅」によってイギリス帝国とアメリカ合衆国の2国に対して宣戦布告しました。 12月10日の大本営政府連絡会議で「今次戦争ノ呼称並ニ平戦時ノ分界時期ニ関スル件」を決定し「支那事変ヲモ含メ大東亜戦争ト呼称ス」とされました。これが「大東亜戦争」の定義で、支那事変が始まった1937年7月7日が開始日になります。
「開戦の詔勅」とは言いますが、正式には「米國及英國ニ對スル宣戰ノ詔書」であり、「大東亜戦争」の継続中に、新たに米英に対して宣戦の布告をしたことになります。
詔書 ( 現代語意訳 )
天佑を有し万世一系の皇位を継ぐ大日本帝国天皇は、忠実で勇敢な国民に示す。私はここに、米国及び英国に対して、宣戦を布告する。
陸海軍将兵は全力を奮って交戦し、政府関係者は職務に身をささげ、国民はその本文をつくし、心をひとつにして国家の総力を挙げ、この戦争の目的を達成するように努力せよ。
そもそも、東アジアの安定を確保して、世界の平和に寄与する事は、明治天皇と大正天皇が構想されたことであり、私も常に心がけている事である。そして、各国との交流を篤くし万国と共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要としているところである。
今や不幸にして、やむを得ず米英両国と争いを開始するに至ったが、これは私の本意ではない。中華民国政府は、我が国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし東アジアの平和を乱し、ついに我が国に武器をとらせる事態に至らしめ四年以上経過している。
幸いにして国民政府は汪兆銘新政府変わった。我が国はこの南京政府と善隣協定を結び提携するようになったが、重慶に残存する蒋介石政権は米英の庇護を当てにし、兄弟である南京政府といまだに争う姿勢を改めない。米英両国は、残存する蒋介石政権を支援し東アジアの混乱を助長し、平和の美名にかくれて東洋を征服する非道な野望を抱いている。
そして同調する国々を誘い、我が国の周辺において軍備を増強、挑戦し、我が国の平和的通商に対してもあらゆる妨害を加え、遂には経済封鎖をして我が国の存亡に重大な脅威を加えた。
私は、政府に事態を平和裏に解決させようとし長い間忍耐してきたが、米英は少しも譲り合う精神がなく、むやみに事態の解決を遅らせようとし、その間にもますます経済上・軍事上の脅威を増大し続け、我が国を屈服させようとしている。このような事態がこのまま続けば、東アジアの安定に関して我が国がはらってきた積年の努力は無駄になり、我が国の存立も危機に瀕することになる。ここに至っては、我が国は今や自存と自衛の為に、 決然と立上がり一切の障害を破砕する以外にない。
歴代天皇の神霊あり。国民の忠誠と武勇を信頼し祖先の遺業をおしひろめ、すみやかに禍根をとり除き東アジアに永遠の平和を確立し、我が国の光栄の保全を期す。
御名御璽
(1941年12月8日)
(1941年12月8日)
日本が太平洋で米英と戦闘を開始したのは1941年12月8日なので、この日がアメリカの言う「太平洋戦争」の開始日になります。この二つの戦争は、その終戦の日(口頭での降伏日)が1945年8月15日と同じ日になるので、両者を同じ戦争と勘違いする人もいます。
この二つの戦争の書類上での終戦日(降伏文書に署名した日)は1945年9月2日で、戦勝国側の標準になっています。中華人民共和国とロシア連邦は当時は存在していなかったのでどうでも良いと言えばそれ迄ですが、一応9月3日を戦勝記念日としています。
日本は「大東亜戦争」では勝っていましたが、「太平洋戦争」には完敗しました。
「大東亜戦争」の戦争目的は「開戦の詔勅」にもある様に「東アジアの安定」でしたが、国際法にも違反する米英の干渉を除去する為には「太平洋戦争」もやむを得ない決断でした。勿論、それは「米英の謀略」でもあったので、回避する事は不可能でした。
認めたとしても「倫理観」による”建前”だけですネ。