(内 容)
教師や専業主婦、医療従事者など、さまざまな立場にある77人が、新型コロナウイルスによる緊急事態宣言発令中をどう過ごしたのか――。コロナ禍の人々の裏側を日記形式で綴った『仕事本:わたしたちの緊急事態日記』(左右社)が話題だ。口コミで人気となり、多くのメディアにも取り上げられ、世の中にじんわり日記ブームが浸透している。
その日の出来事や、自分の気持ちを思いのままに綴るのが日記だというイメージも強いが、日記はひとりで書くだけのものではない。恋人や友人などと「交換日記」をした経験のある人もいるはずだ。
神奈川県在住の宮本英司さん(73才)が初めての交換日記を始めたのは、5年ほど前のこと。きっかけは、最愛の妻・容子さん(享年70)ががんで余命2年と宣告されたことだった。
「最初は、余命宣告された女房がそれまでのことを書き留めようとして、病室でひとりで書き始めたんです。途中で『ここまで書いたから、あなたも感想を書いてよ』と言われて、交換日記のかたちになりました」(英司さん)
ふたりが出会ったのは、ともに早稲田大学教育学部に入学した18才の頃。7年間の交際を経て結婚すると、2人の子宝に恵まれ、平凡ながらも幸せな家庭を築いた。
そんな50余年の日々を、夫婦は交換日記の中で噛み締めるように、しかしまるで昨日のことのように振り返った。
《あなたと初めて出会った日のことを覚えていますか。18才の終わり頃、友人の山田直子と一緒に大学の構内を歩いていたら、あなたは、たしか数人の芸研の仲間と一緒でしたよね。「社会学のノートを貸してほしい」と言いました》
《もちろん鮮明におぼえています。キミは緑色のコートを着て、とにかく目のくりくりっとした女の子という印象でした》
教職に就いていて、昔から書くことが大好きだった容子さんはスラスラと日記を書く。しかし、英司さんはなかなか書けず、1週間くらいかけて返事をするやり取りが続いた。
「私たちは決して特別ではなく普通の夫婦でしたが、交換日記で容子との思い出がどんどんよみがえってきて楽しかった。それでも思い出に満足することはできず、もっともっと容子に生きてほしいという気持ちが強くなりました。よく、がんの闘病だと整理がつくとか覚悟を決めるとか、そういったことをいわれるけれど、そんな気持ちには一切なりませんでした。日記の中で言葉を交わせば交わすほど、もっともっと一緒にいたかったと強く思うようになりました」
そう語って目を潤ませる英司さん。容子さんは2年半の闘病と交換日記を経て、2018年1月に永眠した。
以 上
宮本容子様のご冥福をお祈りいたします。
お解りいただけないのですが、名前と生年月日のデータさえあればほとんどの事を読み取る能力をいただいています。
宮本様には、是が非にでもHP若しくはコメント欄より相談していただきたかった。残念です。
「数字」が成立すれば、医療現場では全くと言って手出しできないのです。
このような進行ガンを治療できるとすれば、このブログ若しくはHPにお越しいただくしかありません。
小生の努力不足をお許しください。
小生の存在(このブログ、「HP」)が広く知れ渡らない限り、今後も医療現場でお亡くなりになる方が後を絶たないと思われます。
読まれている方にお願いいたします。
記事は真面目に書かせていただいていますし、実直な人間です。
宗教など心配される方がいらっしゃいますが、まったく関係ありません。
ほぼ全ての人が良くなられています。
どうぞお越しになってみてください。
病名に関係なく治療ができるのは「ここ」しかありません。
どうぞよろしくお願いいたします。
ここ数日、HPからお越しになられた方々の治療に当たっています。
連休返上、家業である農業もそっちのけで皆様方の病気治療を行っています。
日本の田舎から全ての方々に「希望の光」をお届けできる唯一の存在です。
良くなられて周りで困っておられる方々に「HP」の存在をお伝えください。
Whoever saves one life saves the world entire. (1人の人間を救う者は全世界を救う)
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