おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

認知バイアスについて①

2024-07-10 07:06:18 | 日記
「私たちは、なぜ、愚かな間違いを繰り返すのか」

という疑問に、最初に最も明確な喩えを用いて説明したのは、プラトンかもしれない。

彼は、人間の魂を、それぞれ違う方向に進もうとする翼が生えた力強い2頭の馬と、それらを操るのにひどく苦労している馭者に見立てた。

馭者は理性を、2頭の馬は強い気概と荒々しい衝動を表している。

それ以来、作家たちは、私たちが頻繁に過ちを犯す原因となる隠された動機を好んで作品に取り入れ、そのような私たちの失敗を愉快な喜劇や陰鬱な悲劇に仕立て上げてきたように思う。

持って生まれた無意識の衝動が持つ力は、決して謎に包まれたものではなくなったのである。

しかし、そうした力の源が、チャールズ・ダーウィンやジークムント・フロイトの著作で明確に説明されるまでには、2000年以上かかったのである。

そして、最近、人間がまったく理性的な生き物でないという事実が、ノーベル賞を受賞した認知心理学者や行動経済学者たちによって、さらに、はっきりと証されることとなった。

一方、神経科学者たちは、どの神経回路が、どのような衝動を司り、どのようにその衝動を制御しているのか、を懸命に究明しているところである。

さて、私たちの祖先は、自分が住む世界を実際にはほとんど支配出来ず、また機械論的に世界を理解することも出来なかったため、魔術的思考や儀式、神話を用いて、自分たちが世界を支配しているという幻想を作り上げて、精神的な安心感を得ていた。

現代でも、そのような姿勢は続いており、私たちは、願望に満ちた、都合のよい、しかし危険な幻想を作り上げているのである。

例えば、現代に生きる私たちは、人口過剰が戦争、飢饉、疫病などを引き起こし、化石燃料の燃焼が危険な地球温暖化を進行させる一方、集落を爆撃しても集落を救うことにはならないという事実を無視している。

願望的思考は、私たちの遺伝子の奥深くに入り込み、厳密な論理や科学的事実を頑として撥ね除けるのである。
......。

私たちは、実際に在る問題を解決する現実的なステップを踏むことができるように、成熟しなければならないだろう。

まず、危機がなんとか魔法のように消え去ることを思い描き、最後の最後に神の摂理やハイテクによって救いの手が差し伸べられるのを待っているような私たちの思考を強めるいくつかの認知バイアスについて(数回の日記に渡って)考えてゆきたいと思う。

それでは、まず楽観性のバイアスついて考えたい。

自然選択と性選択の両方で好まれたのは、陽気な楽観主義者の遺伝子であろう。

私たちの約80%が楽観性バイアスを持っているとされており、それによって願望が経験に勝るようになる。

私たちの祖先が過酷な進化の歴史の中で、困難に向き合ってこられたのは楽観主義のおかげである。

過酷な現在の向こうに明るい未来を見通せる者の方が、困難に耐え、他者に打ち勝つ可能性が高かった。

また、楽観主義者はそうでない者よりも楽しく自信に満ちているため、繁殖競争に勝つ可能性が高かったのである。

数学的モデルによれば、ポジティブバイアスは、たとえ長い目で見て深刻な問題が在るとしても、多くの場合、勝利を収める短期的戦略を生み出すことがわかっている。

脳の血流画像からも、楽観主義者は左脳が、悲観主義者は右脳の活動が活発であることがうかがえる。

ただ、楽観主義には、暗い一面もある。

楽観主義者は、利益を過大評価し、害やリスク、コストを過小評価するのである。

人類が生存の脅威に日々向き合い、小さな集団で苦労しながら生活していたとき、根拠のない楽観主義は、非常にうまく働いたのかもしれない。

しかし、人類が世界の大半を支配したものの、自らを制することにもこれほど苦労している今、そうした楽観主義は惨事を招いている。

突き詰めれば、戦争、金融バブル、人口過剰、建設過剰、資源不足は全て、
「将来なんとかなるさ」
というポジティブな願望や幻想のせいだとも言えるだろう。

ディケンズは著書『デイヴィッド・コパフィールド』で自身の父親がモデルのミコーバ氏を登場させている。

ミコーバ氏は、常に分不相応な暮らしを送り込り、いつも負債者監獄に収容される危機が迫っているのだが、当の本人は、心配などしていないのである。

「なんとかなるさ」
という、まったく見当違いの信念をずっと持ち続けているからである。

ちなみに「ミコーバ」は、英語辞書で「貧しいが、さらなる幸運を期待して楽天的に生きる人」と定義できる表現となった。

ミコーバは、妄想的な信念の象徴である。

今は、浪費してもかまわない、将来誰かが、何かが、私たちを救ってくれる、という信念である。

ミコーバは『デイヴィッド・コパフィールド』のなかで、
「さあ、貧乏だって大歓迎だ......さあ、苦難よ、来い。宿無しよ、来い。さあ、腹ペコでも、ボロ服でも、嵐でも、乞食でも、何でも来いだ。お互い信頼していれば、一生とことん支え合っていけるとも」
と言うのだが、どうにもならなくなると、ミコーバー自身と彼が愛する人たちが責任を負わされる羽目になるのである。

暢気な見当違いの楽観主義は、昔はよいことが多かったが、今では私たちから未来すら奪ってしまう可能性があるのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。