おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

アメリカ合衆国について①-アメリカ独立宣言から-

2024-07-17 06:35:26 | 日記
アメリカの建国の文章である「独立宣言」の冒頭の

「私たちは、以下の事実を自明のことと信じる。
すなわち、すべての人間は生まれながらにして平等であり、その創造主によって、生命、自由、および、幸福の追求を含む不可侵の権利を与えられているということ」
という言葉は、最もアメリカ人を鼓舞するもののひとつであるようである。

独立宣言の起草にあたって、トーマス・ジェファーソンは、トマス・モアの『ユートピア』から強い影響を受けおり、ライプニッツの理想主義にも精通していた。

しかし、ジェファーソン自身が奴隷所有者でもあったので、自分の現実が理想に適うまでには至らないとわかっていたであろう。

すべての人間が「生まれながらにして平等」であることは決して当たり前の話ではなかった。

また、彼の個人的体験からも、彼が独立を宣言した新しい国の経験からも、すべての人間が生まれながらにして「不可侵の利益」を与えられていることを示すものは、まったく存在していなかったのである。

アメリカは、確かに、高尚なユートピア的理想とともに生まれたが、その理想は常に日々の厳しい現実に裏切られていた。

また、「幸福の追求」という表現もいくらか誤って解釈されてきているようである。

独立宣言の100年近く前に、哲学者ジョン・ロックは著書『統治二論』のなかで、
「何人も他人の生命、健康、自由あるいは所有物を侵害すべきではない」
「幸福の追求の必然性は自由の基盤である」
と述べたが、ジェファーソンは「幸福の追求」という概念を借用したのである。

「幸福」ということばは、ロックやジェファーソンにとって特別な意味を持っており、現代において使われているような、快楽を暗示するような幸福とは、かなり異なるものである。

彼らにとって、幸福の追求とは、
「より善い人間になることであり、もっと責任感のある市民になること」
を意味した。
個人の快楽や喜びではなく、勇気、節制、正義という市民の徳を指した古代ギリシア哲学における「幸福」ということばを彼らは使ったのである。

アリストテレスは著書『ニコマコス倫理学』で
「幸福な人間は善く生き、善きことをなす。なぜならば私たちは幸福を事実上ある種の善き人生とか善き行為と定義づけてきたからである」
と述べた。

ロックは著書『人間知性論』でさらに明確に
「私たちは、自分たちの最大善としての真の幸福を選択し追求する必然性によって、個々の場合の欲望の満足を停止しないわけにはいかないのである」
と述べた。

人を惑わす幸福感は、
「真の堅固な」幸福ではない、のである。

アメリカ独立宣言に盛り込まれた幸福の追求が「自由の基盤」であるのは、それが、まさに、個人の欲望の奴隷となることから解放されて、よりよい市民となることを狙いとしたものだからである。

ジェファーソンが述べたように、
「最大の幸福は、運命によって私たちが置かれる生活状態によって決まるのではなく、良心、健康、職業、自由を全力で追求した結果得られるもの」
である。

以来、アメリカ人は熱心に幸福を追求してきた。

しかし、多くのアメリカ人は、アリストテレスやロック、ジェファーソンが考えてきた市民の徳よりも、マスコミの宣伝する安易な幸福を追求することが多くなってしまったのかもしれない。

常に現実的だったベンジャミン・フランクリンは、こうなることを予測してていたのか、
「憲法は幸福追求の権利を与えているだけである。
幸福は自分で掴み取らなければならない」
と述べている。

アメリカの中でのみならず、世界の中で、人間が偽りの儚い消費の快楽にとらわれ続けるのではなく、持続可能な世界値にどうすれば「真の幸福」を最善の形で追求できるかについて、私たちは、考えなければならないときに来ているのだろう。

私たちが住む世界で、さまざまな面で中心にある国のひとつがアメリカであることは、確かである。

そのアメリカを建国したのは、疲弊した、人口過剰の争いが絶えない世界からやって来た移民たちであった。

そのような世界から出てきた彼ら/彼女らを迎えたアメリカという新たな国は、確かに
「勤勉によって、自由、平等な機会、成功がもたらされる」という理想を持っては、いた。

しかし、願望は、実現の同義語ではない。

「すべての人間は生まれながらにして平等」
と謳ったアメリカ独立宣言は、アメリカ国民にとって、大きな励みとなった。

しかしながら、もうすぐ250年が経とうとしているにも関わらず、その理想は、まだ実現してはいない。

「アメリカ」は現実というよりは、いまだに、ひとつの理想にとどまったままなのかも知れない。

いわば、「アメリカ」は進行中の高尚な一大事業であり、正当な誇りの源泉であると同時に、哀しいことに、大きな幻滅の源泉となり得るのかもしれない。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日から、普段の日記を再開いたします( ^_^)

またよろしくお願いいたします(*^^*)

トランプ氏の銃撃事件前後から、アメリカ大統領の流れが変わるかもしれないことが、立て続けに起きているように思います。

注視したいなあ、と思います。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。