おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

アメリカ例外主義を後押ししたゴットフリート・ライプニッツ の楽観主義(とヴォルテールが私たちに教えること)

2024-06-30 15:41:36 | 日記
人間の在り方に関するすべてのよい評価を、意地悪く、面白おかしく、皮肉を込めて批判をしたジョナサン・スウィフトが著した『ガリバー旅行記』が政治学のテキストになりつつあることを、なんだか嬉しく思う。

ジョナサン・スウィフトが『ガリバー旅行記』を著したのは、トマス・モアの『ユートピア』からは、200年後、シェークスピアの『テンペスト』からは、100年後、ライプニッツの
「すべての可能世界の中で最善の世界」という主張からは、15年後、デフォーの楽天的な小説『ロビンソン・クルーソー』から70年後であり、アメリカ独立宣言の50年前であった。

ガリバーの旅はバミューダに向かうことから始まる。

物語の中心となるのは、多過ぎるくらいのユートピア的な夢と、ディストピア的な悪夢である。

ガリバーから連想するに難くないgullibleは騙されやすい、すぐ真に受けるという意味だが、やはりガリバーは名前からうかがえるとおり騙されやすく、しかし、物腰の柔らかい純真な人物で、人々に温かい関心を寄せていた。

しかし、彼の旅は嫌悪に終わるのだが、ユートピア思想家とディストピア思想家を考えてみたい。

とりあえず、に、なるが、ライプニッツとヴォルテールについて考えてみたいと思う。

ライプニッツは、17世紀の最も賢明な人物の面と、ユートピア思想を持ちすぎた者としての面が在り、彼の哲学は、アメリカ例外主義を後押しすることになった。

良かった面は、ライプニッツが博識であり、微分積分法を発見し、200年後にようやっと役に立てられることになる数学や論理学の諸概念を提唱したことである。

また現代のデジタル計算において用いられている二進法を研究し、量産型の機械計算機を初めて制作した。

しかし、このように最高の頭脳の持ち主は、非常にバカバカしいと思われるであろう考え方を熱心に支持をしていたのである。

ライプニッツは、私たちが、

「すべての可能性の中で最善の世界」に住んでいると考えていたフシがある。

残念なことだが、ライプニッツのある意味、現実に対する無知は、彼の気まぐれな楽観主義と、宗教的概念、倫理学の信頼、世間知らずの素朴さが相まって生まれたように思う。

「神はまったく善であり、全能である」
というのが、ライプニッツの出発点だった。

したがって、地球上の、全ての物事は、まさに神が望む通りのカタチになっており、表向きは酷く見えていても、あらゆる出来事は、神の定めが何らかのカタチで達成したに違いない、となる。

さらに、展延すれば、例えば、アメリカ先住民が病気で命を落としたり、戦争で征服されたりするのは、神が望んだことであるはずだ、となり、裕福な人がいる一方で飢えに苦しむ人がいたとしても、それは、神の意志に拠るものだし、ヘタに手を加えてはならない、不幸な目に遭った人々は、きっと罪を犯したのだから、罰を受けるに値する、主人となる人がいる一方で、奴隷になるひとがいても、そのままでよい、
あらゆる出来事は、いくら不快なものであっても、神の定めのなかでそれに相応しい根拠があるに違いない、と、なる。

このようなライプニッツのあまりにも単純ともいえる楽観主義ほど、アメリカ例外主義を正当化するものはないであろう。

さもなくば、私たちは、アメリカ大統領選挙を心配する必要などなくなるのではないだろうか.......。

最善のこの世界で、神が救済に来るからであり、不平等を正したり、医療保障を提供したり等々する必要がないのは、神の意志だから、ということになるような政権は、アメリカ国民でなくとも、見たくはないと思う。

さて、冒頭の『ガリバー旅行記』に戻るのだが、ガリバーは、元々、物腰の柔らかな、純真な人物であり、人々に温かい関心を寄せていた。

しかし、彼の旅が人間に対する嫌悪で終わる。

ガリバーは、あまりに、人間嫌いになったため、人間を視ることも、声を聴くことも、匂いを嗅ぐことにも、堪えられなくなるのである。

ガリバーは、見知らぬ奇異な場所を旅することで、人間の愚かさ、度量の狭さ、大げさな称賛、ズルさ、ワガママ、無関心、邪悪さ、を目にした。

人生を楽観的に始めるほど、人生に対する失望は大きくなる。


また、希望が、あまりに現実離れした楽観的なものであればあるほど、苦い経験によって、ますます悲観主義に落ち込んでゆくものなのかもしれない。

とても面白いディストピア思想家として、ヴォルテールも挙げられるだろう。

彼は、ライプニッツのユートピア的理想を皮肉を込めて粉砕することに、この上ない喜びを感じていたのかもしれない。

とても面白いディストピア思想家として、ヴォルテールが挙げられるだろう。

彼は、ヴォルテールの『カンディードまたは楽天主義』で、次々と恐ろしい体験、例えば、戦争、病気、飢饉、火事、洪水、地震、裏切り、欺瞞、偽善......に繰り返し苦しんでいるのに、純真なパンタグロス博士は世間知らずの教え子カンディードに
「すべての可能世界の中で最善のこの世界においては、すべてが最善である」
としつこく言って聞かせるのである。

現実主義者であれば、そうした世界は、全ての可能世界のなかで、最悪な世界だと結論づけるのであろうが、パンタグロス博士の一途な楽観バイアスは弱まることがないのである。

ヴォルテールが、私たちに、教えているのは、現実の経験からわざと目を逸らすだけで、この世界が既に、完璧とは程遠いどころか、常にもっと悪くなる可能性があるという事実が、覆い隠されてしまう、ということである。

十数年ぶりに、三島由紀夫の『豊饒の海』に向き合えて...快復は、しないが快復している、かな

2024-06-29 23:04:04 | 日記
「彼は、革の手套をとって、掌に雪を受けた。熱い掌に雪は落ちると見る間に消えた。」

「春の雪」の意味をさまざまな角度から考えさせられる。

私は、10代前半に発症したうつを、20代で難治性うつまでこじらせ、大好きだった三島も数行と読めなくなり、精神科で多剤処方に頼るも、結果的には、よりリスキーな断薬に近い減薬を決意して、立ち直りつつある30代後半の何の取り柄もないオバサンです。

しかしながら、何とかなるように思えています。

根拠のない自信ですが。
回復しているのかなあ。

「ここでも起こりうる」かもしれないこと

2024-06-28 06:56:18 | 日記
シンクレア・ルイスが『It Can't Happen Here(ここでは起こりえない)』を出版してから80年以上が経ってから、再びベストセラーになっているのは、当然のことかもしれない。

芸術が人生を模倣するように、人生が実際に芸術を模倣することがある。

バズ・ウィンドリップのほぼ生き写しや、ヒューイ・ロングの再来とトランプは恐れられているようであるが、本当に恐れるべきは、彼の台頭に映し出されている私たちの精神ではないだろうか。

トランプは、唯一無二の例外的な人間であって、アメリカ国民やアメリカの民主主義を反映した存在でない、と考えることは気休めにはなるだろう。

しかし、彼の台頭は全く予測出来なかったことではなく、私たちの精神を映し出したものであったのである。

さて、ルイスの小説『ここでは起こりえない』(1935年)は今(2024年)読んでも十二分に恐ろしい。

やり手のカリスマ扇動政治家バズ・ウィンドリップが、恐ろしい不景気を産む土壌が十分に整っていた中で、驚異的な経済的利益の獲得という、大げさな約束を掲げ、有権者の怒りと恐怖を煽り、
さらに、愛国心や、伝統的なアメリカの価値観、ユダヤ人や外国人に対する嫌悪の念に訴えかけることによって、アメリカ大統領に当選する。

その後、ウィンドリップは、民兵の後ろ盾を得て、独裁的な権力を振るうのである。

ルイスは、ヒューイ・ロングの人格と野望をもとに、ウィンドリップを描いた。

ヒューイ・ロングは、大恐慌時代のルイジアナ州で活動した大衆的な扇動政治家であり、アメリカの歴史上、最もトランプを彷彿とさせる人物かもしれない。

ロングは、自らを「キングフィッシュ」と名乗り、
「誰もが王様」
というスローガンを掲げていた。

既に、ルイジアナ州知事として、ほぼ独裁的と言ってもいい権力を振るっていたが、上院議員に選出されてからも長くその姿勢を維持していた。

1935年に暗殺されるまで、ルーズベルトに最も嫌われ、大統領選のライバルと恐れられていた。

(→ちなみに、ルーズベルトには個人的な、ロングをヒトラーに例えていた)

ロングの支持基盤は、トランプの場合よりもずっと組織化され、その分だけ規模も大きかった。

驚くべきことに、750万人の「富の共有」クラブ会員、2500万人のラジオ聴取者を従え、支持者から1週間に6万通の手紙を受け取っていたのである。

トランプと同様に、ロングも選挙集会での聴衆からの追随と、盛り上がった集会の雰囲気を堪能していたのかもしれない。

そして、トランプと同じく、自らの野心を満たすために、国民の味方を演じていたのではないだろうか。

ルイスは、ロングが暗殺されず、1936年の大統領選で、ルーズベルトに勝利した場合に、アメリカで起きることを想像してフィクションを描いたのである。

フィリップ・ロスの著書『プロット・アゲインスト・アメリカ』も同種の物語であるが、その設定は、1940年のアメリカ大統領選挙でリンドバーグがルーズベルトに勝利する、というものである。

ルイスは、扇動的に大衆の気を引くロングの振る舞いと、当時、ドイツやイタリア、スペインで権力を握ったファシスト政府とを重ね合わせることで、アメリカが架空のファシストに支配されることを想像したのである。

ニーチェは、
「狂気は、個人にあっては稀有なことである。
しかし、集団・党派・民俗・時代にあっては通例である」
と述べている。

トランプが大統領に再び就任する世界を私たちは恐れるのではなく、彼の健在な力やその背景、それを恐れる世界に映し出された私たちの精神を見つめ直す時期に、また、来ているのかもしれない。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

明日から、また、数日間不定期更新となりますので、よろしくお願いいたします( ^_^)

今日は、トランプ氏とバイデン氏のテレビ討論会ですね^_^;

......今回こそは、まともな議論を期待していますが、まさか、同じ2人だとは4年前、ほとんど想像していませんでした(・_・;)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、 次回。

独裁者にとって、純然たる真実ほど危険なものはない

2024-06-27 06:56:58 | 日記
ジョージ・オーウェルが『1984年』で描いたディストピアは、現代世界をある意味正確に予測していたのかもしれない。

ビッグ・ブラザーと思想警察が、テレスクリーンを通して、市民のあらゆる動きを監視し、会話の一言一句を隠しマイクで聞いている。

自分の子どもを含めて至る所に密告者がおり、あらゆる思考、感情、人間関係について政府に密告する。

使用言語は「ニュースピーク」である。

この鏡の世界では、何もかもが見かけと反対になる。

例えば、平和省は延々と戦争を続け、真理省は党の偽りのプロパガンダとつじつまが合うように、過去の記録を改竄している。

また、愛情省は拷問を行っている。
......。

目下のスローガンは、
「戦争は平和である」
「自由は服従である」
「無知は力である」である。

党の方針に従わなければ、「思想犯罪」となる。

善良な市民は「メモリーホール」と呼ばれる深い穴に、危険で不都合な真実を投げ入れる。

党の正当性に反するものは「非実在者」として歴史から抹消される。

真実が偽りであり、偽りが真実ななのである。

これは、まさに、現在の世界においても、独裁的なところでは、日々、平然と似たようなことが、行われていることであろう。

さらに、オーウェルは、「すべての愛情は、ビッグブラザーに向けられなければならない世界」を描いている。

個人の結びつきは、国家に対する犯罪行為で各人の1番の弱点を攻撃する極めて特殊な拷問によって罰せられる。

思想警察は、主人公ウィンストンがネズミを極端に恐れ嫌っていることを知った上で、大型で獰猛な腹を空かせたネズミが入ったカゴを、彼の顔に押しつけるのである。

警察は、彼が助かるために、彼が言わなければならないこと、感じなければならないことを指示してはくれない。

しかし、まさにカゴの扉が開こうとしたとき、ウィンストンの頭に、その時に発すべき、正しい台詞が閃くのである。
それは、

「ジュリアにやってくれ」
である。

ジュリアは、彼の最愛の女性である。
愛する女性を「自ら進んで」裏切ったとなれば、ウィンストンの狂気は正され、彼が善良で信頼できる市民として、社会に再び迎え入れられるのは明白である。
(→当然ながら、ジュリアの方も、同じようにウィンストンを裏切ることによって正気を取り戻していた。)

党は、彼ら/彼女らの服従だけではなく、愛情も欲している。

物語は、ウィンストンが涙を流しながらテレスクリーンに映るビッグ・ブラザーを見上げ、彼への愛情を確認し、自らに対して勝利を収めるところで終わる。

最近まで、西欧の『1984年』の読者は、そこで描かれている薄汚い欺瞞が、常時行われる監視が、そして善意による残酷さが、自分たちとは違う世界、アメリカの敵国、特にロシアにだけ存在する特殊なものと確信し、ある種の優越感を抱くことが出来ていた。

文明世界に住む私たちは、全体主義に汚されず、それに支配される心配もない、と思っていたのかもしれない。

しかし、トランプの登場からアメリカ大統領就任、その前後からのツイートや記者会見が、「ニュースピーク」で行われているような気がする人が世界中で増えたことは、そのような考えを変えるには十二分なキッカケだったように、私は、思うのである。

「オルタナティブ・ファクト(もうひとつの真実)」という誤魔化しが、不都合な真実を掲載した政府のウエブサイトの一層が、そしてトランプとメディアとの戦いは、『1984年』を想起させた。(→実際、トランプが大統領になると、ディストピア小説の名作はAmazonのベストセラーランキングの上位に躍り出た。
オーウェルの『1984年』はもちろん、『動物農場』、ハクスリーの『すばらしい新世界』ルイスの『ここでは起こりえない』、アトウッドの『侍女の物語』、ブラッドベリの『華氏451度』など)

トランプにとって、最大かつ最重要な戦いはメディアとの戦いである。

トランプの恐れ、その結果として起きる怒りは、ファクトチェックを重要視する自由な報道機関によって高まっているようである。

これまでも、これからも、独裁者や独裁者になろうとする者にとって、純然たる真実ほど危険なものはないであろう。

また、いつであれどこであれ、独裁政府にとって、真実を否認すること、真実を語る勇気のある人々を否認することほど、大事なことはないのである。

トランプが登場する前から既に、スノーデンの暴露文章によって、アメリカ政府が巨大な監視機関となったこと、国民に真実を伝えていなかったこと、CIAが思想警察がとさほど違わない手法と精神のもとに、精神的・肉体的拷問を行っていることが明らかになったようである。

『1984年』のなかでオーウェルが描いた、ビッグ・ブラザーが人の心を読み取り、思考を矯正する手段は、独裁者になろうとする者が、今日利用することの出来る監視技術と比べれば、悲しいほどに未熟なものであった。

プライバシー、思想の自由、民主主義が、これほど独裁的に操られる危機にさらされたことは、これまでには、なかったのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

人間の非特異性の苦しみにレッテルを貼って理解するフリをした結果から

2024-06-26 07:02:06 | 日記
神経衰弱、ヒステリー、多重人格障害(MDP)は19世紀末に見られた3つの流行であり、どれもカリスマ性に富んだ神経科医であったビアードとシャルコーが、患者の多くに見られた不可解な非特異性の症状を説明しようとしたため、発生したと言っても言い過ぎではないだろう。

なぜ、3つの流行が、一斉に始まったのか?

なぜ、3つとも神経科医が発生させたのか??

これは、神経科学のめざましい発見が、一部の未熟な臨床現場の発想に不相応な権威を与えかねないという、今日では非常に的を射た教訓物語となっているようである。

注目したいのは、
「当時の状況は、現在の状況と似ていた」ことである。

当時も、脳の仕組みに対する理解が大変革を迎えつつあったのである。

当時は、神経細胞が発見されたばかりであり、科学者は、シナプス結合の複雑なネットワークを辿るのに忙しかった。(→現在は、脳内の「化学的不均衡」を辿るのに忙しいが......。)

そして、脳は電気機械であって、ちょうどその頃に発明され、日常生活の表舞台に登場しつつあった数多くの新しい電気機器よりはるかに複雑であるが、根本は変わらない、ということが明らかにされたのである。

脳の新しい生物学は、それまで神学者の抽象的な世界に属すると見做されていた行動を説明するものであった。

だから、人間の魂の深奥を探るのは不可能であっても、人間の脳の具体的な構造や電気的結合を理解するのは可能なはずであると考えられた。

例えば、症状は、悪魔憑きや呪いや罪や吸血鬼やタランチュラの産物ではなく、脳とい機械の配線に不具合が起こっているのだと解釈出来る、と考えたのである。

確かに、これは、当時から現在に至るまで、有力で妥当なモデルになっている。

しかし、問題は、今日と同じで、この恐ろしく複雑な機械の秘密を探ることが、どれほど難しいのか、甘く見られていたことであった。

そして、神経科学の抵抗しがたい権威は、さして意味のないであろう薄っぺらな臨床現場の概念にまで、不相応な箔をつけてしまったのである。

このようにして、「神経衰弱」「ヒステリー」「多重人格障害」の3つの流行は生まれたのである。

3つともそれぞれ異なる形で、人間の非特異性の苦しみにレッテルを貼って、理解したフリをしようとするものであった。

結局のところ、どれも有益ではなかったし、ある意味では、どれもが有害であった。

原因についての説明は誤っていたし、推奨された治療はせいぜい偽薬効果が望めるくらいであり、治すつもりの問題をなおさら悪化させることも多かった。

しかし、これらのレッテルは説得力があるように聞こえ、さらには、新興の神経科学の大きな権威を拠り所にしていて、カリスマ性のあるオピニオンリーダーが後押しし、説明を求める人間の欲求にも適ったために、何十年も広く使われたのである。

こうしたことは、現在にもそのまま当てはまるように思えるし、重要な教訓を与えている。

それは、実にもっともらしいが、不正確で、有害なレッテルと原因理論が、世界で最も賢明な医師と最も賢明な患者を欺いた、ということである。

最も有力だった斬新な説が、実のところ完全な間違いだったということである。

おそらく、今日の説の多くとて、同じ道を辿るのではないだろうか。

さて、前回までに3つの流行のうち、神経衰弱と多重人格障害(MPD)については触れたので、「ヒステリー(現在は転換性障害のひとつとされている)」についても描いてみようと思う。

ヒステリーは、シャルコー、ジャネ、ブロイアー、フロイトという、当時、最も有名な神経科医4人が広めたものである。

ヒステリーは、神経系の配列や既存の神経系の病気に起因しない、不可解な神経症状を呈している患者を指して使われた。

最もよく見られたのは、麻痺、感覚の喪失、異常知覚、不自然な姿勢、失声、喉の詰まり、痙攣、めまい、失神であった。

シャルコーは、ヒステリーに取り組んだが、その常軌を逸したとも言える熱中ぶりや才気走った彼の姿勢に、人々はもっと警戒の目を向けて然るべきだったのかもしれない。

シャルコーは、とても暗示にかかりやすい患者と大勢の学生を引き寄せた。

ちなみに、フロイトもそのひとりであった。

学生たちは、ヨーロッパ中からパリに来て、師が実演するところを見学した。

それは、非常に劇的で、派手で、大人数を集めた。

.....足の不自由な人に催眠術をかけて症状を改善することが出来たようであるし、健常者に催眠術をかけて足を不自由にすることも出来たようである。

患者の多くは、同じ家に滞在し、シャルコーが見ていなくとも、互いが互いの症状を忠実に模倣したのである。

......。
どういうわけか、シャルコーは、こうしたことの重要な意味を見落としていたのである。

暗示の力とシャルコーを喜ばせたいという気持が、ちょうど、シャルコーもそうであったように、「患者」を「役者」に変えていたのである。

シャルコーは、結局、「自分が原因だと気が付かぬまま、脳疾患の曖昧な理論を展開した」のだが、おそらく、その理論は、人をさらに催眠術にもヒステリーにもかかりやすくするという弊害を生んだだけであっただろう。

シャルコーの催眠術がそうであったように、患者の暗示のかかりやすさに基づいて症状が消えたり現れたりし、医師と患者が強固な関係を結ぶときは、暗示が重要な要素になることは明らかだった。

フロイトは医師が患者から親のような役割を与えられることに対して、「転移」という語を使った。

転移によって患者は医師に結びつき、その影響をとても受けやすくなる。

しかし、フロイトは、精神分析では、暗示も非常に大きな役割を演じることを理解していなかったのである。

彼は、精神内部の葛藤を理解したが、過大評価し、現在の人間関係は理解出来ずに過小評価したのである。

精神分析は転換性障害の治療には役に立たなかったのかもしれないが、催眠術と同じく、転換性障害を広めことに寄与したのである。

皮肉な話だが、精神分析医よりシャーマンの方がうまく治療出来たのではないだろうか、という事例は散見される。

それは、シャーマンならば、患者の症状をメタファーとして理解し、それを取り除くもっと有効な方法を見つけたはずだ、と思える事例においてであるように思う。

神経衰弱と同様に、転換性ヒステリーも、助けを求める患者たちの主治医が神経科医から精神科医に替わると、消え去った。

神経科医のところに来る暗示にかかりやすい患者は、神経性の症状を患っていたため、精神分析医のところでは、もっと情緒や認知に関わる症状を訴える。

転換性の症状は、精神医療従事者が少なく、身体に症状があったほうが助けを求めやすい地域で、今も、見られる。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

私自身が、長い闘病生活から這い上がってきているので、なかなか暗い文章になっているかもしれません^_^;

でも、良かったら、これからも、読んでやって下さいね( ^_^)

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。