おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

小林秀雄がベルクソンの遺書に付け加えた「君達には何もわかっていない」ということばから

2024-09-27 07:29:06 | 日記
小林秀雄のベルクソン論である『感想』の第1回目は、ベルクソンの遺書の紹介で終わっている。

遺書というと、『感想』のあとに書かれた『本居宣長』の遺言書が想い起こされもするが、小林秀雄が、ベルクソン論と本居宣長論のいずれにおいても、遺書の分析から、その論をはじめたことは、興味深い。

このことは、言ってしまえば、小林秀雄が遺書を認めるかのようにベルクソン論である『感想』を書きはじめ、ベルクソン論を未完のままで終わらせてしまったあとに、本居宣長論である『本居宣長』においても遺言書の分析からはじめたことは注目に値することであろう。

小林秀雄のベルクソン論である『感想』は、母の死の記述からはじまっている。
「終戦の翌々年、母が死んだ。
母の死は、非常に私の心にこたえた。
それに比べると、戦争という大事件は、言わば、私の肉体を右往左往させただけで、私の精神を少しも動かさなかった様に思う」

勿論、これは小林秀雄固有のレトリックであり、小林秀雄もまた戦争という大事件によって精神を動かされ、相当、心にこたえたのであるが、
戦争という大事件よりも母の死の方が、心にこたえた、と述べることによって、精神が動かされ、心にこたえるというのは、母の死が心にこたえるような、そのような次元から、物事を考えるべきだと言っているのだろう。

つまり、喩えば、母の死については、私たちは、単純素朴にその死を哀しむのだが、戦争というような大事件になってしまうと、途端にその悲劇を悲しむというよりは、それを分析し、反省し、解釈してしまうのである。

小林秀雄が、あえて戦争より、母の死の方が精神にこたえたというのは、一種の認識の問題を言っているのであり、戦争と母の死を単純比較するのではなく、母の死に直面した時のような、直観的で単純・素朴な認識法と、戦争というような社会的大事件に直面したときのような、いわゆる分析的で、反省的な認識法とを対比しているということであろう。

小林秀雄は、『感想』の第1回目のなかで、
「以上が私の童話だが、この童話は、ありのままの事実に基づいていて、曲筆はないのである。
妙な気持ちになったのは後の事だ。
妙な気持は、事後の徒な反省によって生じたのであって、事実の直接な経験から発したのではない。
では、今、この出来事をどう解釈しているのかと聞かれれば、てんで解釈などしていないと答えるより仕方がない」
と述べている。

ここに小林秀雄が対置するふたつの認識法が書かれている。

ひとつは、事後の徒な反省によって生じる反省的認識であり、もうひとつは、事実の直接な経験から発した経験的認識である。

小林秀雄は、反省的認識を斥け、経験的認識を重視しているのであるが、小林がこのふたつの認識について、とりわけその直接的な経験に基づく経験的認識について、小林秀雄の母の死後の奇妙ともいえる経験を通じて説明している 。

その奇妙ともいえる経験を、小林秀雄は、「或る童話的経験」と呼んでいる。

「或る童話的体験」を簡単にまとめると、以下のような体験であったようである。

小林秀雄は、母が死んだ数日後のある日、仏様にあげる蝋燭を切らしてしまっていることに気付き、蝋燭買いに出かけた。
もうそのときは夕暮れであったため、門をでたところで、蛍が1匹、飛んでいるのを見つけた。
その蛍は、今までに見たことのないような大きな蛍あり、見事に光ってもいた。
小林秀雄は、母が蛍になっている、と思った。
そう考えると、もうその考えから逃れることが出来なくなった。
しばらく歩くと、曲がり角で蛍は見えなくなったのだが、小林が、Sさんの家の前を通り過ぎようとすると、1度も吠えかかったこともない犬に吠えかかられ、横須賀線の踏切の近くでは子供たちが騒ぎながら走り去った。
踏切のところについたとき、子供たちが踏切番と「火の玉が飛んでいったんだ」と大声で言い合っていた。
小林はそれを見て、
何だそうだったのか、と思い、驚きもしなかった。

簡単なまとめのつもりが随分長くなったが、小林秀雄は、このような奇妙な体験を、すこしも奇妙だとか、感傷的だとか思いはしなかった。

しかし、小林が妙な心持ちになったのは、このような事実を後から反省し、分析し、解釈した結果であろう。

事実を渦中においてではなくて、暫くしたあとで奇妙だと思える経験は、私たちも持っているかもしれないのだが、ただ、それを語ることが出来ないし、それを他人にもわかるようにせつめいすることが出来ないだけなのである。

しかし、私たちは、それを語ろうとし、また説明しようとする。
そこに矛盾が起こってくるのである。

小林秀雄は、ベルクソン論である『感想』の第1回目のなかで、死んだ母の話に続けて、その2カ月後に、水道橋のプラットフォームから転落したときのことも書いている。

転落しても、酷い場所のなかの一間ほどの隙間に落ちたため傷ひとつなかった小林秀雄は、
「母親が助けてくれたことがはっきりとした」
と述べている。

さらに、小林は、後から反省し、考えた上で、母親が助けてくれた、と思ったのではない、と言うのである。

小林はこの例を以て、反省的思考と経験とは必ずしも一致しないということを言いたかったのではないだろうか。

言い換えるならば、私たちは、現実という直接的経験を、理論によって正確に説明することも、表現することもできないのではないか、と言いたかったのではないだろうか。

確かに、アシルは、亀の子に追いつき、追い越して行くのに、私たちが、それを理論的に説明し、表現しようとすると、アシルは亀の子に追いつくことができない、という結論に、達する他はないのである。

小林秀雄は、
「この時も、私は、いろいろと反省してみたが、反省は、決して経験の核心には近付かぬ事を確かめただけであった」
と言っている。

のような考え方は、ベルクソンの、いわゆる「分析と直観」に基づいているようである。

ベルクソンは、認識をふたつに分けている。

ひとつは、「科学」的思考において用いられる分析的認識であり、もうひとつは、「哲学」的思考において用いられる直観的認識である。

ベルクソンは、分析的認識は、真の実在としての持続を認識することはできないと考えているようである。

分析的認識は、対象を既知の要素へ還元する操作である。

つまり、分析することは、ある物を、その物ではない別の物に置換することであるため、分析をいくら繰り返しても、その物の実在に触れることはできない。

その物の実在は、他の何ものにも置き換えられない物だからである。

だからこそ、分析的認識は、あくまでも相対的認識に留まるのであろう。

これに対して、直観的認識は、その対象を外側から分析するのではなくて、その対象そのものの持続のなかに一体化することである。

言ってみれば、記号や言語によらず、直接的に知ることが直観である。

ベルクソンのいう直観とは、対象を、持続の相においてとらえるということのようである。

つまり、それは、持続する実在を時間のなかでとらえるということではないだろうか。

そして、ベルクソンは、『形而上学入門』のなかで、
「直観から分析へ移ることはできるが、分析から直観へ移ることはできない」
と述べている。

冒頭で、小林秀雄のベルクソン論である『感想』の第1回目は、ベルクソンの遺書の紹介で終わっていることについて触れた。

小林秀雄の『感想』の第1回目で紹介されているベルクソン遺書は、次のようなものである。
「他人に読んで貰いたいと思った凡てのものは、今日までに出版したことを声明とする。
将来、私の書類其の他のうちに発見される、あらゆる原稿、断片、の公表をここに、はっきりと禁止しておく。
私の凡ての講義、授業、講演にして、聴講者のノート、或は私自身のノートの存するかぎり、その公表を禁ずる。
私の書簡の公表も禁止する。
J・ラシュリエの場合には、彼の書簡の公表が禁止されていたにも係わらず、学士院図書館の閲覧者の間では、自由な閲覧が許されていた。
私の禁止がそういう風に解される事にも反対する」

これが、ベルクソンが残した遺書であるが、小林秀雄は、この遺書を書き写したあとに、
「ベルクソンは、自分の沈黙についてとやかく言ったり、自分の死後、遺稿集の出るのを期待したりする愛読者や、自分の断簡零墨まで漁りたがる考証家に、君達には何もわかっていない、と言っておきたかったのである」
と付け加えているが、このことばは、小林秀雄自身のことをも含んでいるように私には思われる。

そして、小林秀雄のベルクソン論である『感想』は、ベルクソン哲学の助けを借りて、後世のベルクソンの、小林秀雄の読者や研究者たちに、
「君達は何もわかっていない」
と言い残そうとした作品であるのかもしれない。

だからこそ、小林秀雄はベルクソン論である『感想』の冒頭から、反省的、分析的な認識によっては、直観的な体験の実相に迫ることはできないと何回も繰り返したのであろう。

それは、小林秀雄の批評を、伝記的事実、あるいは外国文学からの影響という観点から分析しようとするような、後世の読者や研究者たちへの警告でもあったのかもしれない。

小林秀雄は、ベルクソン論を通じて、批評という体験は、小林秀雄個人の単純な経験であって、それは、他の何ものにも置き換えることのできないものだ、と言いたかったのかもしれない、と、私は、思う。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

明日から、また、数日間、不定期更新となりますが、また、よろしくお願いいたします😊

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。




理論(アシル)は現実(亀の子)に追いつけないということ-小林秀雄の「アシルと亀の子」にみるベルクソンへの想い-

2024-09-26 07:11:34 | 日記
小林秀雄にとって、ベルクソンとは、何であったのだろうか。

小林秀雄の初期の雑誌連載の文芸評論は、「アシルと亀の子」という題名を持っているのだが、なぜこの逆説の典型のような題名を連載時評に付けたのか、は小林自身がこの題名について詳しく説明していないため、いまだによくわかっていないようである。

中村光夫は「小林秀雄初期文芸論集」の解説で、
「昭和5年は、氏がはじめてジャーナリズムの表通りに出て、継続的に仕事をして批評家として印象づけた年であり、この4月から満1年にわたって『文藝春秋』に連載した『文芸時評』は、『アシルと亀の子』という奇抜な題とも相俟って、たんに文壇の注目をひいただけではなく
広範囲の読者の関心を呼び喝采を博したので、これまで一般には未知の批評家であった小林氏が、はじめて人気の中心というべき新進文学者として登場したのです」
と述べている。

この中村の発言からもわかるように、「アシルと亀の子」と題された文芸時評は、小林秀雄の出世作となった評論である。

「アシルと亀の子」先立って発表されたデビュー作である「様々なる意匠」が、どちらかといえば、批評の原理論であり、本質論であったのに対して、「アシルと亀の子」という文芸時評は、一種の情勢論であることから、話題が具体的、現実的であり、いわば小林秀雄的批評の実践版であったため、「様々なる意匠」よりも多くの読者を獲得したのである。

ただ、「アシルと亀の子」という題名は、小林秀雄にとっては、勿論、十二分に考え抜かれ、特別の意味を帯びた題名だっただろうが、中村光夫が、「奇抜な題」と言っているところを見ると、意味をよく理解されていなかったようにも思われる。

当時もまた、中村光夫のみならず、ほとんどの人に、小林がなぜこの題名を使用したかに関しての理解はあまりされなかったのかもしれない。

中村光夫がいうところの「奇抜な題」は、ベルクソンから借用したものだと考えることもできるだろう。

「アシルと亀の子」のパラドックスは、ベルクソン哲学の中心に位置する問題であるし、少なくとも小林秀雄がこのパラドックスに関心を持ち、初期の連載小説に選んだ理由もベルクソンを通じてであると推測することはあながち飛躍ではないように思う。

「アシルと亀の子」は、「アキレスと亀」といわれているエレア派のゼノンのパラドックスは、ベルクソン哲学にとって非常に重要な意味を持つパラドックスであり、その哲学の独創的な展開の端緒をひらく契機となったパラドックスでもある。

ルネ・デュポスの日記によると、まだ、ベルクソンが、クレルモン=フェランのリセ・フレーズ=パスカルで教鞭をとっていた頃
「ある日私は黒板に向かってエレア派のゼノンの詭弁を生徒たちに説明していたとき、私にはどんな方向に探求すべきかがいっそうはっきりと見えはじめた」
と語っていたようである。

実際、以降、ベルクソンが、この問題を端緒に新しい哲学的展開を示し、絶えずこの問題に触れ、その著作の至るところでこのパラドックスを分析し、その哲学的思考の根拠としている。

単純明快な内容と、その解決の異常な難しさのために、古くからパラドックスの代表的なものとされ、多くの哲学者を悩ませてきた「アキレスと亀」のパラドックスを解明することから、ベルクソンは、その哲学を開始したのである。

ベルクソンの『時間と自由』以来、『物質と記憶』、『創造的進化』、『道徳と宗教の二源泉』、『思想と動くもの』といった一連のベルクソンの主著においても「アキレスと亀」の問題への執拗ともいえる言及が見られるのである。

やはり、「学生時代からベルクソンを愛読してきた」小林秀雄にとって「アキレスと亀」のパラドックスは大切なものであり、「アシルと亀の子」という題名はベルクソン哲学の影響の下に小林秀雄が在ったことを示していると言ってもよいだろう。

しかし、小林秀雄は、「アシルと亀の子」と題する文芸時評を、「文学は絵空ごとか」という題名に変えてしまっているのである。

以後、1回ごとに題名は変えられているのだが、「アシルと亀の子」という題名を変更したことについて、小林秀雄は、「文学は絵空ごとか」のなかで、
「毎月、『アシルと亀の子』なんて同じ題をつけているのも芸が無いから取りかえろと言われて、なるほどと思い、偶々、正宗白鳥氏の文芸時評を読んでいたら、文学はついに絵空事に過ぎぬといい嘆声に出会ったので、今月は、多くを語りたい作品もなかったし、ただわけもなくこんな標題をつけて了った。
だが、私にとっては、依然として、アシルは理論であり、亀の子は現実であることには変わりはない。
アシルは額に汗して、亀の子の位置に関して、その微分係数を知るだけである」
と述べている。

「アシルと亀の子」という題名によって、小林秀雄は、理論(アシル)は現実(亀の子)に追いつくことが出来ないと言いたかったのであろう。

実際的な経験の世界においては、アシルが亀の子に追いつくことを私たちは、知っているのだが、それを私たちが、理論的に説明しようとするとき、アシルは亀の子に追いつけなくなってしまうのである。

ベルクソンによれば、それは理論が運動を運動としてとらえるのではなく、運動を空間のなかで、空間化してとらえようとするからである。

分割不可能な運動を、分割可能な空間の1点として、とらえようとするからである。

しかし、私たちは、日常生活において、時間を空間のなかで数量化して考え、運動を空間的な点の集合として考えることに慣れきっている。

言ってしまえば、私たちが常識として信じ込んでいる考え方は、一種の空虚な観念論に過ぎないということを、ゼノンのパラドックスは教えてくれているのかもしれない。

時間を空間的な量として考え、運動を空間のなかで数量化して考えている限り、ゼノンのパラドックスを避けることは出来ない。

つまり、そういう常識に依拠している限り、運動は存在しない、という奇妙な結論に辿り着かざるを得ないのである。

しかし、実際には、ゼノンのパラドックスを信じる人はいないだろう。

私たちが、この理論と現実の矛盾をひりひりと感じるわけでもないのは、都合の良いときだけ理論を信用し、都合が悪くなると現実を信用するという、論理的な不徹底性のなかで生活しているからであり、理論的な分析や説明というよりは、直接的経験のなかに生きているからである。

小林秀雄が、文芸時評の題として「アシルと亀の子」を選んだのは、ベルクソンの影響であると同時に、小林秀雄の主な関心が、
理論(アシル)と現実(亀の子)の矛盾、というところにあったからであろう。

小林秀雄はあくまでも理論の人として、その理論の可能な限りの極限を目指した人であり、その理論の極限において、あらゆる理論がそのパラドックスに直面して崩壊してゆく様を見た人でもあるのではないだろうか。

小林秀雄のベルクソン論である「感想(53)」のなかに、
「それなら、ハイゼンベルグが衝突したのは、あの古いゼノンの、ベルクソンが、そのソフィスムに、哲学の深い動機が存する事を、飽くことなく、執拗に主張したゼノンのパラドックスだったと言って差し支えない」
と書いている。

小林秀雄が、ハイゼンベルグが量子物理学で直面した矛盾が、ゼノンのパラドックスに他ならないと言っていることは、なぜ、小林秀雄が「物理学」にこだわったかが理解できる助けになるように思われる。

小林秀雄にとって、「物理学の革命」も、ゼノンのパラドックスのなかに在り、それに対するひとつの解答が量子物理学であったのであろう。

小林秀雄が、「アシルと亀の子」という題名に込めた「アシルと亀の子」は、マルクス主義に対する批判がテーマであったが、そのマルクス批判は極めて根底的な批判であり、理論的な思考そのものへの批判であった、ということが出来るのではないだろうか。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

ベルクソン論というかたちで公開された小林秀雄の素顔-小林秀雄のベルクソン論である「感想」からみえるもの-

2024-09-25 07:04:49 | 日記
小林秀雄は、ベルクソン論である『感想』を途中で放棄したことについて、数学者の岡潔との対談で、
岡潔が
「ベルクソンの本はお書きになりましたか」
と問うたのに対して、
「書きましたが失敗しました。
力尽きて、やめてしまった。
無学を乗りきることが出来なかったからです。
大体の見当はついたのですが、見当がついただけでは物は書けません」
と答えている。

小林秀雄のベルクソン論である『感想』は、ベルクソンの遺書に関する分析からはじまっている。

なんだか小林秀雄の『感想』に触れていると、『感想』は「批評家小林秀雄」の遺書として書かれたのではないかと、私などには、思えてしまう。

やはり、『感想』は奇妙な評論である。

5年間にわたって、『新潮』に連載された長編批評であるにもかかわらず、突然未完のまま打ち切られ、1冊の本になることもなく、全集にも入っていない(別巻扱いで出版されている)。

無論、全集に入れようとしなかったのが小林秀雄自身の希望に拠ることはいうまでもないが、このことは、小林秀雄作品のなかでは異例のことである。

小林秀雄は、この長編批評を完全に無視し、失敗作として葬り去ろうとしていたようなも見える。

小林秀雄は、ベルクソン論を打ち切ると、すぐに『本居宣長』の連載を開始した。

『本居宣長』は、1冊の長編批評として堂々と本になり、小林秀雄の代表作としての地位を獲得している。

言ってしまえば、『感想』で果たし得なかったことを『本居宣長』で果たしたようにすら見えるのだが、なぜ、小林秀雄は、『感想』でベルクソンをあれほどの熱量と持続力を以て論じながらも、途中で放擲してしまったのであろうか。

そして、そのベルクソン論を本にしようともせず、「学生時代からベルクソンを愛読してきた」と語る小林が、ベルクソンから本居宣長に切り替えてしまったのであろうか。

小林秀雄には、ベルクソン論以外にも、初期の評論で「『悪の華』一面」と題するボードレール論のように「未完」のまま長い間全集にも収録されず、放置された作品もある。

しかし、「感想」と「『悪の華』一面」とでは、その分量があまりにも違いすぎるのである。

また、「『悪の華』一面」が、小林秀雄が文芸評論家として文壇にデビューする以前の、言ってしまえば習作の域を出ないといえる小品であるのに対して、ベルクソン論は、文芸評論家としての不動の地位を確立したのちに、小林秀雄が、最後の作品、つまり遺書としての意味合いもあるような位置付けとして書き続けた長編であるため、ふたつの作品の重さはかなり違うと言わざるをえないだろう。

しかし、もちろん、このふたつのの未完の評論には、極めて原理論的な色彩が強い作品であるという共通点がある。

これは、小林秀雄の評論としては非常にめずらしいことであり、江藤淳は『小林秀雄』のなかで、「『悪の華』一面」は、
「この時期の小林の論文としては異常に論理性然としている」と述べ、
全集にこの作品が収録されていないのは、
「思弁的でありすぎるのを嫌った」
のかもしれない、と述べているのだが、この「理路整然」としていて、「思弁的」でありすぎるという特徴は、そのままベルクソン論である「感想」にもあてはまることなのである。

小林秀雄には、彼自身、人一倍「論理的」で「思弁的」であるにもかかわらず、「論理的」で「思弁的」な文章に対する異常ともいえる警戒感があったようである。

もしかすると、その意味においては、小林秀雄にとってふたつの作品は、小林秀雄にとって極めて危険な作品だったのかもしれない。

つまり、小林秀雄の本質が、小林秀雄自身の警戒心を押しのけて、溢れ出たような作品がベルクソン論である「感想」であり、ボードレール論である「『悪の華』一面」であるのだろう。

もし、そうであるならば、ふたつの作品は、小林秀雄自身の判断とは真逆に、小林秀雄という近代文学史上のパラドックスを解読するのに、重要な手がかりを与えてくれる作品だということになるはずである。

大岡昇平が、「感想」について「『本居宣長』前後」のなかで、

「56回にわたって連載された労作はここで中断され、単行本になっていない。
小林さんの著作歴において異常なことである」
と述べていることからもわかるように、小林秀雄の「感想」が中断され、単行本にもならなかった事実は、私たちに何かを物語っているようである。

私たちは、大事なものを隠そうとすることがあるし、またその隠そうとする動作によって、重要な本質的な問題が何であるかを自ら明らかにしてしまうことがある。

小林秀雄もまた、ベルクソン論である「感想」が重要かつ重大な問題を孕んでおり、ある場合には小林秀雄の文学的成果を覆しかねないような極めて危険な要素を含む作品だったからこそ、出版もせず、全集にも入れようとしなかったのではないだろうか。

柄谷行人は、「交通について」のなかで、
「小林秀雄のテクストはすべて管理されている」と述べているが、その意味でいえば、小林秀雄の「感想」は、小林秀雄の管理の手を逃れた作品のひとつなのかもしれない。

さらに言えば、「感想」は、意識家小林秀雄の意識を越えて、小林の手にも、どうにも収拾のつかなくなった作品なのかもしれない。

冒頭に岡潔と小林秀雄の対談をそのような意味でも挙げたが、岡潔との対談のなかで、小林秀雄が
「失敗しました。
力尽きてやめてしまった」
というのは、ベルクソンとアインシュタインの論争についてではないだろうか。

おそらく小林は、ベルクソンとアインシュタインの対立を最終的には解明することが出来なかった。
言い換えるならば、アインシュタインの時間論をベルクソンの時間論によって批判することができなかった。

小林人は、ベルクソンの時間は、
人間が生きる時間であり、生きてわかる時間である、という。

アインシュタインの時間は、
第4次元の時間であって、所謂、客観的な時間である。

小林は、ベルクソンとアインシュタインの対立を感情的なものと論理的なものとの対立として捉えている。

しかし、小林もベルクソンも、科学的真理を無視するような独断的な空想家ではないため、
ベルクソンは、「持続と同時性」というアインシュタイン論を絶版にし、小林は、「感想」というベルクソン論を中断したのかもしれない。

小林秀雄の「感想」は、私たちに、小林秀雄が、それまで決して見せなかった自身の素顔を、ベルクソン論というかたちで公開したものではないだろうか。

「感想」の第1回目は、小林秀雄の「母」の死の前後の話からはじまっている。

そして、水道橋のホームから転落したときに、無傷であったこと、それは、死んだ母が助けてくれたからだ、といった話のあとで、ベルクソンの「遺書」の話に及んでいる。

そして、第2回目から、ベルクソンの哲学に関する詳細な分析がはじまる。

「感想」の特色は、ベルクソンを論じる際、「生の哲学」だとか「非合理的」だとかいうような既製のよくあるようなベルクソン哲学解説ではなくて、ベルクソンの著書のなかの論理を、具体的に、ひとつひとつ検討している点にあるのではないだろうか。

言ってしまえば、「感想」は、ベルクソン論というよりも、ベルクソンを素材にして、小林秀雄が、様々な思考実験を行った評論ではないだろうか。

「学生時代からベルクソンを愛読してきた」小林秀雄が、ベルクソンについて、具体的に語ったことは、実は、あまりなかった。

それは、小林の批評の基礎原理にベルクソンが、あまりにも深く関わり過ぎているがゆえに、語り難かったのかもしれない。

小林が、ベルクソンの名前を出して、具体的に語りはじめるのは、戦後なのである。

小林秀雄は、原理的な思考に裏付けられた、極めて、論理的な、客観的な思索を得意とする人であったが、その原理論や原理的な思考そのものを、人前にあまりさらしたことはない。

小林秀雄の批評の原点は隠されがちであったが、その原理的思考の裡を「感想」は、私たちに具体的にさらけ出してくれる作品ではないか、と、私は、感じるのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

秋らしく、涼しくなってきましたね😊

買い物の途中に八百屋さんののパレットのなかを覗いたような風景を目にしました😊→→
今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

小林秀雄の思考がなぜ原理論的なものになったのか-マルクス主義との批判、対決を通じて確立された小林秀雄の「文芸批評」-

2024-09-24 07:14:15 | 日記
なぜ、吉本隆明も柄谷行人も、そして小林秀雄もマルクスを問題にするのであろうか。

そして、彼らのマルクス論は、なぜマルクス主義者やマルクス研究家のそれと異なっているのだろうか。

大正末期から昭和初期にかけての、マルクス主義とプロレタリア文学の登場に、ほとんどの文学者は冷静な対応ができなかったようである。

伊藤整は、戦後になってから、このような時代を『わが文学生活』のなかで、
「私が散文を書き出した頃から、マルキシズムが文学の世界を根本的に揺すぶっていた。
この実践的な論理が、芸術である文芸の性格を変更するという怖ろしい勢いは抵抗しがたいものに思われた」
と回想している。

おそらく、このような感想は伊藤整ひとりものではないだろう。

大正末期から昭和初期にかけて、マルクス主義の影響は、単なる次元を越えて、文学者たちの存在自体を揺すぶるような、丸山真男のことばを借りれば、
「文学の世界をおそった『台風』」となっていたのである。

小林秀雄の初期の批評には、「マルクスの影」が極めて色濃く映し出されている。

小林秀雄は、昭和4年に、雑誌「改造」の懸賞文芸批評の二席入選作「様々な意匠」で文壇デビューした。

そのときの、第一席入選作は、のちに日本共産党の委員長や議長などとなる宮本顕治の芥川龍之介論「敗北の文学」であった事実からも、小林秀雄のデビュー当時の文壇状況や社会状況が推察できよう。

小林秀雄の「様々なる意匠」の中心的テーマは、当時隆盛を極めていたマルクス主義、あるいはプロレタリア文学への批判であり、小林が、「様々な意匠」に続けて、「文藝春秋」に連載した文芸時評「アシルと亀の子」で問題にしていたのも、専らマルクス主義でありプロレタリア文学であった。

小林は、マルクス主義やプロレタリア文学を批判し、否定しようとしたのであるが、小林が絶えずマルクス主義の動向に、鋭敏に反応し続けなければならなかったという歴史的事実は、極めて重要であろう。

言ってしまえば、小林秀雄は、マルクス主義との批判、対決を通じて、「文芸批評」を確立していったのである。

マルクス、ないしマルクス主義の隆盛という時代状況がなければ、おそらく「批評家小林秀雄の誕生」という近代文学史上の出来事は、もっと異なったものになってしまっていたであろう。

小林秀雄により、「文芸批評」が確立され、「文芸評論家」という新しい文学集団が誕生したのは、マルクス主義という、かつて経験したことのない、原理的、体系的、実践的な思考体系に対する1つの対抗手段としてであったのかもしれない。

言い換えれば、マルクス主義の出現によってはじめて、近代日本の文学者たちも、原理的に思考することを余儀なくされたのかもしれないのである。

マルクス主義は、その思想的内容においてのみ衝撃的であったのではなく、むしろ、マルクス主義が持ち込んだ「原理でも思考」という側面がより衝撃的であったのではないだろうか。

小林の、ものごとを原理的に問う思考には、マルクス主義から受けた極めて深い影響を見ることが出来るように思う。

小林秀雄は、マルクス主義という、原理的、体系的、実践的な思考と対決するために、原理的、体系的、実践的な思考を展開せざるを得なかったのであろう。

そして、小林秀雄は、マルクス主義という思想と対決するために「芸術派」の仮面をも、必要としたのかもしれない。

吉本隆明や柄谷行人が、小林秀雄のマルクス論に見出したものは、イデオロギーや政治戦略に振り回されない、いわゆる、原理思想としてのマルクスであった。

吉本も柄谷も、「文芸評論家」というより「思想家」というべき位置にいるが、それは小林秀雄が、マルクス主義との対決を通じて確立した存在形式であり、吉本も柄谷もその存在の仕方においては、小林の影響下にあると言えるだろう。

小林秀雄自身、マルクス主義が果たした役割について、『文学界の混乱』のなかで、
「私達は今日に至るまで、批判の領域にすら全く科学の手を感じないで来た、と言っても過言ではない。
こういう状態であった時、突然極端に科学的な批評方法が導入された。
言うまでもなくマルクシズムの思想に乗じてである」
と述べた上で、
「これを受け取った文壇にとっては、まさしく唐突な事件であった。
てんで用意というものがなかったのだ。
当然その影響は、その実績より大きかった。

そしてこの誇張された反響によって、この方法を導入した人達も、これを受け取った人達も等しく、この方法に類似した方法さえ、わが国の批評史の伝統中になかったということを忘れ了った。
これは批評家等が誰も指摘しないわが国独特な事情である」
と述べている。

この回想から、小林秀雄が言わんとすることは、マルクス主義という原理的思想の導入によってはじめて、日本の批評家たちの間にも原理的な思考への自覚が生まれたということではないだろうか。

このように、マルクス主義の隆盛という時代状況のなかで、「批評家小林秀雄」もまた誕生したのである。

「批評家小林秀雄の誕生」という問題は、江藤淳が『小林秀雄』のなかで言うように
「人はなぜ批評家になるのか」という問題であり、小林秀雄自身にとっての「生き方」の問題であったといえるだろう。

江藤淳は、『小林秀雄』の冒頭で、
「人は詩人や小説家になることが出来る。
だが、いったい、批評家になるということはなにを意味するであろうか」
と述べた上で、
「小林秀雄以前に批評家がいなかったわけではない。
しかし、彼以前に自覚的な批評家はいなかった。
ここで『自覚的』というのは、批評という行為が彼自身の存在の問題として意識されている、というほどの意味である」
と述べている。

また、丸山真男は、『日本の思想』なかで、
「日本では『自由主義者はマルクス主義』によってはじめて作られたという問題はひとり文学だけではなく、日本の学問史や思想史一般の理解にとって決定的に重要な問題である」
と述べている。

無論これは、マルクス主義の影響というような次元の問題ではなく、マルクス主義という思想体系が、一体どのような思想体系であったのかという問題に関わっているのであろう。

冒頭で、大正末期から昭和初期のマルクス主義の登場に対する文学者の反応として、伊藤整の回想を挙げたが、
マルクス主義が「文学の世界をおそった『台風』」となり得たのは、
小林秀雄が指摘するように、マルクス主義が「科学的理論として」理解されたからであり、伊藤整が指摘したように「実践的な論理として」解釈されたからではないだろうか。

つまり、理論的には「科学」を称し、生活の次元の実践倫理としては「革命」を主張することによって、極めて過激な原理思想として登場してきたものが、マルクス主義であったのではないだろうか。

マルクス主義という思想体系は、理論的次元で受け止めようとすれば、あまりにも現実的な実践を伴っており、また、現実的な実践としてのみ受け止めようとするには、あまりにも論理的な体型を備えていたのである。

ミシェル・フーコーは、吉本隆明との対談『世界認識の方法』のなかで、
「マルクス主義は、かつてのキリスト教に代わって、国家を基礎づける哲学となった」
と語っている。

いずれにせよ、マルクス主義は、避けて通ることの出来ない重要な問題になったのである。

やはり、「批評家小林秀雄の誕生」も、マルクス主義という思想との接触によって、はじめて可能になったということができるように思われる。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

少しずつ涼しくなってきましたね😊

やっと秋が来たようにおもいます😌

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

中村光夫に「マイナス百五十点」と評された三島由紀夫-いま三島由紀夫を読むということとは?-

2024-09-23 06:27:03 | 日記
三島由紀夫の経歴は、近代日本の作家たちのなかにあって、極めて異色であるといえよう。

三島由紀夫は、それまでのほとんどの作家がそうであったように、社会的な挫折を経験したわけでもないし、また、病弱であったとはいえ、そのために職業選択の自由を妨げられたわけでもない。
また、大蔵官僚としての将来に、さしたる不安を感じたわけでもなさそうである。

三島由紀夫は、単に文学が好きだったから、文学の道に進んだのであろうか。

三島が文学への道を歩み始めた理由もまた、大きな謎である。

三島由紀夫の官僚的体質について、佐伯彰一は『三島由紀夫 人と文学』のなかで、
「三島は、普通の意味でもじつに頭脳明晰、かつ理詰め構成家、論理家であったが、とくにその評論をよみ、座談に接していて、法科論理という感じを受けたことが幾度もあった。
複雑に入りくんだ状況や課題をじつに手ぎわよく整理して、明快に筋道立てて一つ一つ片付けてゆく。
その手腕の鮮やかさにおどろきながら、一切が余りに三段論法式に割り切られすぎている。
肝心の対象そのもののうちからくみ出されたというよりは、予め用意された論理の物さしによる裁断という不満もおさえかねたのである。
こうした一家の官僚的訓練の血、また、三島自身の法学部学生としての勉強は、案外に根強く彼の思考法のなかに入り込んでいるように思われる」
と述べた上で、
「もちろん、法学生風な乾いて非実体的な論理操作がただちに三島作品の中に持ち込まれたというわけではないのだが、
論理的な斉一、整除に対する三島の偏愛は、彼が意識的に押し立てた美学的な理念とのみは受け取りかねる陰影がつきまとっている」
とも述べている。

「予め用意された論理の物さしによる裁断」という指摘の部分もうなずけるが、佐伯彰一のいう「非現実的な論理操作」特徴は、三島の本質を特に鋭く突いてるように私には思われる。

三島由紀夫というと、多くの人がすぐに「美学」や「美意識」を持ち出すが、それは仮に三島由紀夫の思想であったとしても、三島由紀夫の存在本質を表すことばではないだろう。

「詩は認識である」という三島由紀夫のことばがある。

このことばからも、三島由紀夫の問題は、「美」や「美意識」のレベルで語るべきではなくて、「論理」や「認識」を通じて語るべきだと考えることができよう。

さて、多くの人が三島由紀夫のことを一流の作家だと思っていることにあまり疑いの余地はないだろう。

たとえば、政治行動や政治思想などは受け容れられなくとも、三島由紀夫の作家としての才能や、その文学的価値は否定しようがないと、大多数の人が言いたがる。

しかし、ここで、三島由紀夫という作家はそれほど安全に、自明に、手放しで称賛できる作家なのか、ということについて考えてみたい。

「これはマイナス百五十点だ」
中村光夫は、三島由紀夫がまだ無名に近い時代に、その作品原稿を読んだ後に言ったそうである。

この、プラス百五十点や百点、零点でもない、「マイナス百五十点」が意味することは、三島由紀夫の文学が極めて微妙な位置にあることを意味してはいないだろうか。

つまり、三島由紀夫の文学は、文学という尺度からはみ出しているため、あるひとつの立場から見ればマイナスになるかもしれないが、またもうひとつ別の立場から見れば、プラスになるかもしれないのである。

言い換えるならば、三島由紀夫の文学は、読む人に極めて厳しい態度決定を迫っているのである。

よって、三島由紀夫は、安全で、自明で、手放しに称賛できる作家ではないと私は思うし、むしろ、三島由紀夫を読むということは非常に危険な作業であるとも思う。

なぜなら、自らの立場をさらけ出すことなしに、三島由紀夫を読むことは不可能だからである。

同じ愛知県出身だからといって贔屓して関連させているわけではない「つもり」だが、本多秋五は、『物語戦後文学史』のなかで、
「三島由紀夫はそれまでの日本文学にとって、ぜんぜん異質の文学者であった」
と述べている。

さらに、本多は、
「もし『近代文学』が最初から三島由紀夫を理解したら、『近代文学』というものは存在しなかったろう」
とも書いている。

つまり、本多は、三島由紀夫の文学を認めることは、本多らの「近代文学」派の否定を意味すると言っているわけである。

もちろん、ここで問題なのは、三島由紀夫と、本多らの「近代文学」派のどちらが正しいかということではなく、三島由紀夫という作家の特異性であり、その作品の異質性を読むことであろう。

私たちは、三島由紀夫の作品の解釈を行う前に、三島の「問題」がどこにあり、それが何を意味しているのかを明らかにしなければならないのかもしれない。

三島由紀夫の「問題」は、(→前回、前々回にも触れたように)小林秀雄の「評論」との関係しているようにみえる。

小林秀雄の「批評」とは、文学批判であり、文学の否定でもあるため、小林秀雄以降における文学者のひとりである三島由紀夫の「問題」を考える際に有用であると思われる。

三島由紀夫は、小林秀雄による文学批判以後において、再び文学を再建することを試みた人物ではないだろうか。

ここに、三島由紀夫という作家の問題を解く糸口があるのかもしれない。

三島由紀夫が、小林秀雄の文学批判にもっとも鋭敏に反応した文学者のひとりであることに疑いの余地ないだろう。

もし、三島由紀夫の悲劇が語られるとするならば、そのひとつに、
小林秀雄の文学批判以後において、再び文学を再建しようとして、その再建に成功したかにみえたその刹那、文学と共に自滅せざるを得なかった、作家としての悲劇も加えることが出来よう。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。