おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

ドラマ性を持ち、拡大したミニマリズム- Philip Glassの「Satyagraha」を聴いて-

2024-09-13 06:43:00 | 日記
20世紀の歴史が特に複雑であるように、20世紀の音楽の歴史もまた複雑であった。

マーラーが切り拓いた道を、シェーンベルク、バルトーク、ショスタコーヴィチといった偉大な作曲家が歩んでいったが、ふたつの世界大戦は、音楽にも暗い影を落とした。

学者のT・アドルノが指摘したように、
「Auschwitz以降、詩を書くことは野蛮である」となってしまったのである。

なぜなら、Auschwitzは理性によって為されてしまった虐殺であり、そのような理性への批判なしに能天気に詩を書くことは、罪とさえ思われたからである。

ここでいう「詩」は、「文化一般」を指しており、そのなかには、当然音楽も含まれる。

つまり、作曲家たちは、もはや思想とは無縁ではいられなくなったのである。

音楽は、何か思想的なメッセージを込めていなくてはならず、人間の理性を告発したり、人類の共生を訴えたり、簡単に言えば、左翼思想を体現したものでなくてはならなくなったのである。

大衆文化の発達と共に、いわゆるクラシック音楽というジャンルは、そのマーケットをジャズやロック、ポップスに次々と奪われていく一方であった。

さらに、「現代音楽」と呼ばれ、何かしらの高級な思想が表現されているような、しかし、不可解なものが大量生産されていったのである。

伝統の破壊こそが新しく、独創的なのだと考えられ、ジョン・ケージは「沈黙の音楽」を提唱し、クセナキスは五線譜に橋の図面を書いた。

しかし、このような途方もない現代音楽の思想的混乱、絶望的混沌の中、新しい動きが出てくるのである。

それは、スティーブ・ライヒやフィリップ・グラスに代表されるミニマリズムである。

60年代から70年代は、さまざまな左翼活動が活発化した時代でもあるが、この頃に、アメリカを席巻した「反近代」の思潮のなかに、ミニマリズムという思想も、位置づけられる。

それは、「余計なものはとことん排除する」という思想であり、シンプルライフなどの運動もミニマリズムの流れのなかにあるのかもしれない。

ミニマリズムの影響は、服飾、建築、絵画、デザインなど広範囲に渡っている。

音楽におけるミニマリズムとは、
「旋律を拒否し、音楽の最小の構成単位、つまり、リズムと和声のみによって音楽を作り上げる」という、理念としては先鋭なものである。

事実、初期のミニマリズム作品の特徴は、単純な和音やリズムを延々と反復することにあった。

本来ならば5分で終わるべき曲を、繰り返しのみで50分に引き延ばすこともあった。

初期のグラスも、例にもれず、延々と繰り返しの続く曲を書いていた。

延々と、何時間も同じ和音、リズムを繰り返しており、この頃の代表作がオペラ「Einstein on the Beach」であり、実質的なデビュー作でもある。

これは、5時間近くも、分散和音を繰り返す禁欲的に過ぎるようなミニマリスティックな作品作品であった。

しかし、グラスは禁欲的なミニマリズム、つまり、延々と同じことを続けるような模範的ミニマリズムの音楽から、段々と音楽表現の幅を広げてゆく。

つまり、いちどは放棄した「旋律」や「ドラマ」へと再び向かってゆくのである。

おそらく、これは、グラスが舞台音楽や映画音楽に深く関わっていたことも影響しているのであろう。

このような「ドラマ性を持ったミニマリズム」や「拡大したミニマリズム」という傾向は、ガンジーを主人公にした「Satyagraha」に結実していると言えるだろう。

勿論、これを堕落と呼ぶ人は、かなりいる。

なぜなら、ドラマ性を取り戻したため、強烈なドライブ感を生み出す明確なリズムと和声が、聴く者を「否応なしに」感情の高ぶりへと駆り立ててゆくからである。

グラスの「Satyagraha」を聴くと、結局、人の心を動かすことが出来るのは、人の心だけなのであり、グラスの音楽は、余計な思想性やメッセージ性を排除し、必要不可欠な最小単位として、人間の、喜びも悲しみもしながら、不断に揺れ動く心を抽出することに成功したのかもしれない、と思う。

また、現代音楽が一般的に、病める魂や絶えず落ち着かない魂のうめき声、不眠症的な思想的緊張、思想というよりはむしろ、曖昧な苦痛による叫び声であるのに対して、グラスの「Satyagraha」の頃からの作品は、思想やイデオロギー、実験音楽、観念的苦痛といった余分な要素を排除し尽くして、知性に侵され過ぎた魂とは無縁の、憂いは感じるが、結局は健康で、無垢な心の輝きを獲得することに成功した、と言えるかもしれない、とも思うのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

明日から、数日間、「また」不定期更新となります。また、よろしくお願い致します( ^_^)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

政治の二極化とともに、強まるアメリカ人の「民主主義のあり方」への不満-アメリカ合衆国について⑧-

2024-09-12 07:06:53 | 日記
初代大統領のジョージ・ワシントンは、退任時に不安を覚え、建国間もないアメリカが不確かな未来を生き抜く上で、政治の二極化が深刻なリスクとなることを真剣に考え、
「政治の二極化は、根拠のない嫉妬や間違った警告によって共同体を動揺させ、他者に対する敵意を煽り、時に暴動や反乱を誘発する。
そして、外国からの干渉や腐敗への扉を開き、党派的情熱という経路を通じて、悪影響が容易に政府そのものに及ぶようになる」
と、警告をした。

ワシントンが亡くなってから、225年経つが、現在のアメリカが、ワシントンには、見えていたようである。

これまでにも、アメリカには、政治的には二極化したデマゴーグが常に相当数存在していたが、大統領選挙を揺るがすようなことは、最近までは、なかったのではないだろうか。

「政党内のふるい分け」は、過去60年のアメリカ政治支配し、二極化してきた。

「政党内のふるい分け」が始まったのは、南部テキサス州出身の民主党大統領リンドン・ジョンソンが積極的に取り組み、1964年に公民権法を、南部出身の民主党議員の激しい反対を押し切って、可決させた時であった。

南北戦争以降、南部は民主党の強固な支持基盤であった。

民主党は、南北戦争や奴隷制の終結に関して、リンカーン率いる共和党に対して、決して容赦をしなかったからである。

社会、経済、人種、宗教、軍隊に関しても、南部は一貫して保守的な価値観を保っていたのである。

共和党は、1964年に、バリー・ゴールドウォーターが大統領選挙に出馬したときに初めて掲げられ、1968年と1972年の大統領選挙を制したニクソンによって完成されることとなる「南部戦略」によって、民主党の強固な地盤である南部を、一見すると突如、共和党支配の南部へと確実に変えることに成功したのである。

このようにして、共和党全体はさらに保守寄りに、民主党はさらにリベラル寄りの政党となった。

そして、両者が重なり合う部分は、ほとんどなくなってしまったのである。

南北戦争後の南部再建時以来、アメリカの政党における二極化の度合は、今が最大となっているのかもしれない。

政党間の隔たりが広がり続けてきた理由のひとつは、共和党が右傾化したからであり、民主党の立ち位置は以前からあまり変わっていないといっても過言でないかもしれない。

例えば、ヒラリー・クリントンは、60年前の典型的な共和党穏健派に相当し、アイゼンハワーとニクソンは、現在の共和党員よりもずっと民主党員に近い。
レーガンやブッシュも、現在の共和党過激派と比べれば、穏健派と名乗れるだろう。
また、クリントンは、ほとんどのヨーロッパ諸国では、中道派の政治家かもしれないが、トランプと現在の共和党の一部は、ヨーロッパの急進右派のように過激な右派のようでもある。
......。

政治の二極化が進むにつれて、党派的嫌悪の感情が、強まってきた。

10年前のデータになってしまうが、2014年にピュー研究所が行った1万人の成人を対象とする調査では、対立する政党に対して、強い嫌悪を感じる人の割合は、1994年に比べ、共和党員では17%から43%、民主党員では16%から38%に増えていることが判明した。

また、対立する政党が国の安定の脅威であると心配すると民主党員の70%、共和党員の62%が考えており、両党とも、極端に党派心の強い人ほど政治プロセスに深く関わり、中道の穏健な人々を納得させるよりも、党の極性化を進めることに熱心であるようである。

そして、穏健派は49%から39%に減少した。

政治に関心を持つ人々は、自らと同じ政治的思考を持つ人々ばかりで集まるという傾向が、共和党員の63%、民主党員の49%に見られる。

さらにこの調査の最も恐ろしい結果は、半数以上のアメリカ人が、現在の「民主主義のあり方」について不満を抱いているということ、であろう。
......。

少なくとも1960年代までは、民主党と共和党の2党には、重なり合う部分が、極めて多く、当選する者たちが一時的に変わったことで、多少の問題が生じても、政策が劇的に変化することはなかった。

ところが、今や、もはやそのような状況ではなく、もはや政治を軽視して良い理由もなくなっている。

今、政党間を隔てる違いは、明確であり、不変であり、妥協など出来ないようにも見える。

アメリカの民主主義と世界の持続可能性の両方を賭けた大統領選挙は、一か八かのギャンブルになってしまったのであろうか。

そして、このことは、アメリカだけの問題であろうか。

いずれにしろ、政治に対する私たちの倦んだ気分を治さなければ、それは私たちの命をも奪うことになることは、確かであろう。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

昨日、アメリカ大統領選テレビ討論会が行われたので、このような今日の日記になりました^_^;

まだまだ暑いですが、体調管理に気をつけたいですね。

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

概念のオペラ-マーラーの交響曲第6番「悲劇的」を聴いて①-

2024-09-11 07:21:41 | 日記
現在のチェコ、当時のオーストリア領ボヘミアの村で生まれ、指揮者としてウィーン宮廷歌劇場の芸術監督にまで登りつめたユダヤ人であるマーラーは、
「オーストリアにおいては、ボヘミア人として見做され、ドイツにおいてはオーストリア人と見做され、そしてどこに行ってもユダヤ人と見做される。
私は世界のどこからも歓迎されていないのだ。」
と、自らのことを述懐している。

マーラーという人間を、出自と環境が特徴付けてきたことが、わかることばである。

20世紀初頭のユダヤ人を取り巻く環境は、現代からは想像を絶するほど過酷なものであった。

物価の上昇や、失業率の高さ、領土の侵攻など、ありとあらゆる悪いことはユダヤ人のせいにする風潮が以前にもまして高まっていた。

このような反ユダヤが、表立って現れることはあまりなかったが、表へ出ない感情は、人々の心の奥深くへ根を張り巡らし、ひとつの合図で突然荒れ狂い、噴出するのである。

その合図が、政治的にはドレフュス事件であり、後のナチスの台頭であった。

マーラーの周囲にも「ユダヤ人指揮者の成功」を妬む人間は大勢おり、マーラーの人生は戦いそのものであっただろう。

さらに、マーラーには外部のみならず、内部にも敵がいた。

幼い頃から、彼のまわりをうろうろと徘徊し、何の前触れもなく家族や友人を奪ってゆく、恐るべき敵、「死」である。

「死」は、いつも愛する人々を、何の前触れもなく、マーラーの手から奪っていった。

彼が、最も愛情を注いだ重度の知的障がいを持つ弟は、幼くして病死し、作曲家を志した弟オットー、そして才能溢れる友人のフーゴー・ヴォルフは自殺している。

そのようにして生きてきたマーラーは、常に喪失の不安に怯え、何かを手に入れると、手に入れたそばから、それを失うことを想い、不安に苦しむのである。

死に追い立てられるように、作曲家マーラーは、ひたすら死から逃走するように第1交響曲から第4交響曲までを作り上げる。

マーラーも、救いを、最後の審判の到来や天国での安楽な生活という宗教的幻影にも求めたが、時代がそれを許さなかった。

検死官ニーチェは神の死亡診断書を書き散らし、不安に生きる大衆は、第2、第3のドレフュス事件を血祭りに上げようとあちらこちらを探し回っていた。

マーラーの生きた時代は、もはやシューマンやシューベルトのような脆く儚く夢見がちな魂に居場所はなく、憧れと共に天国を幻視する時代ではなかったのである。

しかし、マーラーの内面は変化していた。

20歳近くも年下のアルマとの結婚をきっかけに、マーラー自身が逃げることをやめ、やがては確実に訪れる死に、決然と対峙することを決めたのである。

自分の生命よりも大切な生命をこの世に見つけたとき、初めてマーラーは、誰の身にも訪れる死を見据えようと決心したのかもしれない。

マーラーを、特徴づけるのは、出自や環境だけではない。

マーラーが、卓越したオペラ指揮者であったことも、マーラーを特徴づけている。

言い換えれば、マーラーは、卓越した演出家であったにもかかわらず、オペラを作曲しなかったのである。

声楽が嫌いなわけではなく、むしろマーラーの本領は歌にあると言っても良いくらいであり、彼は、オーケストラ伴奏付きの歌曲集「子どもの不思議な角笛」「リュッケルトによる5つの歌」「亡き子を偲ぶ歌」などを作曲し、第8交響曲や「大地の歌」など、自作の交響曲にも声楽を取り入れているのである。

歌曲とオペラとの距離は、抽象と具象の距離でもある。

オペラでは特定の状況にある特定の個人、例えば、オペラでは、愛する娘を永久に氷山に閉じ込めざるを得ない神ヴォータンの嘆きが歌われるが、歌曲においては、我が子を亡くした親の普遍的な嘆きが歌われる。

マーラーという精神は常に、具体的なものの背後に抽象性を見出さずにはいられないのであろう。

英雄ジークフリートの後ろに「英雄性」を見出し、愛と歓喜のうちに死ぬトリスタンとイゾルデの後ろに「愛の死」という普遍的な概念を見出す。

そして、マーラーは、特定の個人、例えば、ドン・ジョバンニやフィガロが話し、歌い、跳んだり跳ねたり動き回ったりしてから、死んで消えるような一場の具体的な舞台を作るのではなく、英雄性や愛の歓喜、過酷な運命といった抽象的概念が話し合い、殴り合うような、「概念のオペラ」を作り上げるのである。

歌詞のない歌、歌声のない歌劇、それがマーラーの交響曲ではないだろうか。

第5交響曲で、新しいマーラーが始まったことは先回述べたが、第6交響曲は、この世に生きる喜びと、世界が存在しているという奇跡を讃える敬虔な祈りに満ちているわけではない。

それどころか、この世で生きようと決心した人間に降りかかってくるありとあらゆる災難と苦難が描かれ、その圧倒的な困難を克服した勝利の喜びのうちにフィナーレを迎えるのではなく、打ちのめされて、倒れてしまう、というプロットを持っているのである。

第6交響曲の長大な第4楽章で、私たちが聴くのは、まさに概念のオペラである。

それは、理念の闘争であり、人生という舞台の登場人物、すなわち愛、困難、平安、笑い、卑劣、悲嘆、といった諸概念が動き回り、そして最後に死が登場して幕を引くのである。

第4楽章では、通常のオーケストラには常備されないハンマーが登場するが、これは、マーラーがこの曲のために発明した楽器といっても過言ではないだろう。

第4楽章で
「英雄は3度の打撃を受け、3度目の打撃により、木が倒れるように倒れる」というのがマーラーの最初の説明であり、その打撃を聴覚的にも視覚的にも伝える役割をハンマーは担っている。

後に、マーラーは、3回目の打撃を削除しているが、マーラーによる直接の説明はなく、諸説あるが、真意は不明である。

第4楽章を聴く際には、3回目のハンマーが、ある構成の演奏なのか、ない構成の演奏なのかに留意しながら聴く楽しみもあるのかもしれない。

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。

今日も、頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

『葬送行進曲』から始まった「新しいマーラー」-マーラー交響曲第5番を聴いて-

2024-09-10 07:35:28 | 日記
私たちは、ともすると華美で壮麗なヨーロッパ文化を思い描きがちであるが、それは皮相に過ぎないという面もある。

ひと皮むけばヨーロッパ文化は、「人間」ということばに必ず「やがて死すべき」という形容詞を付けることを忘れなかったギリシャ人に始まり、
中世の
「汝、死を忘れることなかれ(Memento Mori)」という標語や、モンテーニュの「エセー」に代表される死の省察、あるいは、土俗化したキリスト教の奇妙な殉教崇拝、というように、元々、死の影が蔓延しているものである。

例えば、ルネサンスの美術作品が端的に示すように、「美や若さ」といったものを、ほとんど熱病のように、ヨーロッパ人が求めてやまないのは、美術史家W・ペイターが指摘するように、
「若さや美」が、すぐに失われ、やがては、「死」に奪い去られることがわかっているから、である。

そのようにして辿り着いた19世紀末から20世紀初頭のヨーロッパ世界は、頽廃と懶惰を極めていた。

画家たちは裸婦ばかり描き、ワイルドが耽美主義を標榜し、フロイトは人間の根源を性欲に求め、ニーチェが「神は死んだ」と叫び、ショーペンハウアーは「この世界は、私たちの心が勝手に作り出した幻影に過ぎない」と、説いていた。
......。

虚無感と刹那主義が社会を覆い、世界を収奪した者たちが、いよいよ戦争の準備を始めていた。

そして、小声ながらも「西洋の没落」が囁かれ始めていた。

このような背景のなかに、マーラーは、立っていた。

言ってみれば、もっも精鋭な形で、マーラーというひとりの人間の裡に、20世紀初頭の時代精神、すなわち、鬱と躁、葬送と祝祭、絶望と歓喜が宿っていたのである。

マーラーは、自らが、ヨーロッパの歴史の申し子であることを自覚し、死と頽廃と没落の瘴気を胸一杯に吸いこんでいたからこそ、自信を持って、
「やがて、私の時代が来る」
と言えたのであろう。

また、マーラーの妻であるアルマのマーラーの回想である『マーラーの思い出』が示すように、マーラーの少年時代もまた、死と苦悩に覆われていた。

マーラーという作曲家が交響曲を「葬送行進曲」で始めることは、何ら不思議ではないのである。

実際、第1交響曲の第3楽章に「葬送行進曲」を置いており、第2交響曲「復活」では、第1楽章が「葬送行進曲」で始まるのである。

言ってみれば、「葬送」というイメージは、マーラーにとっては、非常に近しい、ごく当たり前の素材であったのである。

さて、今回は、マーラーの交響曲のなかでも、交響曲第5番についてみてゆきたい。

アルマ・マーラーは、かつてインタビューで
「第5交響曲で、新しいマーラーが始まります。
ここで初めて、マーラーの自我と世界との激しい戦いが起こるのです。
......これまでとまったく違うやり方で、この世の因果律に立ち向かうのです。
彼はもはや悲しまず、嘆いたりせず、立ち向かおうとするのです。
この曲は、空想ではなく、現実そのものなのです」
と述べている。

マーラーの交響曲第5番は5つの楽章から成っているが、これは大きく3部に分割されている。

第1・第2楽章が、第1部、第3楽章が第2部、第4・第5楽章が第3部となっており、各部ごとの旋律的、素材的な意味での関連は稀薄である。

このことを以て「マーラーの精神分裂状態がよくわかる」などという向きもあるようだが、ここでは、異なった視点での展開図を描いてみたいと思う。

マーラーの第5交響曲では、ベートーヴェンの第5交響曲、つまり、過酷な運命とそれに対する勝利というテーマとの親近性もあり、事実、運命の動機が引用されている楽章もあるが、
ベートーヴェンよりも、もっと個人的な、内面的な要素が扱われているのである。

簡単に言ってしまえば、絶望、もしくはニヒリズムという、死に至る病に侵された人間が、苦悩を経て、やがて、マーラー自身が私生活上でも手に入れた幸福、つまりアルマとの愛によって回復して、ついには生を謳歌するに至る、というドラマなのである。

先のアルマ・マーラーのインタビューのなかの
「第5交響曲で新しいマーラーが始まります」
ということばは、そのことを指しているといっても過言ではないだろう。

マーラーの第5交響曲の第1楽章は、トランペットの凛烈なファンファーレで始まる葬送行進曲である。

葬送行進曲ではあるが、特定の誰かの葬列が考えられているわけでもなく、極端に言えば、私たちの生そのものが、葬送の行進である。

人生は緩慢な死であり、私たちは常に死に歩み寄っている。

だからこそ、それに抵抗を試みたり、やがてはやって来る死に怯え、嘆いたりもする。

しかし、葬列は静かに、しかし、確かに進んでゆくのである。

第2楽章では、音楽は荒れ狂うようである。
確かに
「私たちの生が、結局、死によって終わるのならば、私たちが人生で味わった労苦や苦悩は何のためだろうか」という思いにひとたび囚われると、人は虚無感に襲われるものである。

逃れることが出来ず、全能ともいえる死の猛威が荒れ狂う中で、私たちは、非力で在る。

ペストが猛威をふるった中世ヨーロッパの絵画では、「死の舞踏」というテーマが好まれた。

農夫たちが楽しそうに踊り、王侯貴族がご馳走を楽しそうに食べている、まさにその中に、骸骨が踊ったり、ご馳走を食べていたり、という絵画である。

この上ない喜びの最中にも、死はすぐ隣に待ち構え、私たちを捕らえようとしている、ということを示すものであるが、第3楽章は、まさしく「死の舞踏」であると言えよう。

また、マーラー独特のイメージを想起するならば、彼が未完の第10交響曲の第3楽章に予定していた「煉獄」ということばを当てはめることも出来るかもしれない。
煉獄では、この世の苦しみが生み出される側から焼き尽くされ、滅ぼされるのだから。

実際、第5交響曲についてマーラーは、
「次の瞬間には破滅する運命の世界を絶えず新たに生み出す混沌」
と語っていたようである。
......。

第4楽章は、弦楽とハープのみで演奏される。

この曲は、妻アルマへの愛の告白であるとする説が多いが、この曲の最初の清書がアルマによって行われたことを思い起こす戸、あながち否定は出来ないであろう。

ちなみに、この第4楽章が、ヴィスコンティの映画「ヴェニスに死す」で用いられたことはあまりに有名である。

第5楽章は、第4楽章と連続しており、ホルンの伸びやかな音で始まり、全体を通して溌剌として、喜びに満ちている。

暗い夜の闇の中に、朝の光が差し込むように始まり、今や苦悩と不安と懐疑の夜は去り、日輪は赫奕と昇り、世界は喜びに包まれるかのようである。

この最終楽章は、
「世界は輝きに満ちている」
と、マーラーが自身に言い聞かせるかのように、力強く、断定的に「勝利と喜び」のフィナーレを迎えるようにして終わる。

(→ただし、マーラー自身が、そのような結論に疑いを抱き、交響曲第6番を「悲劇的」と名付け、そこで「運命に挑む英雄がついに力尽きて息絶える様子」を描くのであるが、その話は、次回行こうにしておこうと思う。)

マーラーが、死の間際まで、「第5交響曲」の改訂を行っていたという事実は、重要である。

「結局は、死によって終わる生に、一体何の意味があるのか」
という、マーラー自身が、第2交響曲、後には交響曲「大地の歌」などで対峙した虚無的問いかけに、マーラーは、「第5交響曲」によって、
「生には意味があるのだ」
と決然と答え、また信じようとしている。

そして、彼は、その後の人生で、自分の出発点を確認するかのように、改訂という作業を通じて、その度に、「第5交響曲」に立ち返ってきていたのである。

最後の改訂は、1911年であり、ちょうど「交響曲第10番」を作曲していたときである。

残念ながら「交響曲第10番」は未完で残されているが、私たちは、その遺稿の最終楽章のなかに、第5交響曲第4楽章の引用を聞くことが出来るであろう。

まるで、マーラーが
「死は勝利を収めるであろうが、私の音楽のなかで、あなたへの愛は永遠に生き続けるのだ」
と言っているようである。

マーラーの第5交響曲を聴きながら、
「汝死を忘れることなかれ(Memento Mori)」という死の影が蔓延した社会を象徴することばがある一方、そのような社会のなかで「今を生きる(Carpe Diem )」ということばもあったことを、想い起こしたいと思った。

ここまで、読んでくださり、ありがとうございます。

週末に、日仏哲学会に行くため、南大沢に行って参りました( ^_^)

見出し画像は、会場に行く途中の風景です。

学会では、自分の未熟さを思い知るとともに、勉強になり、楽しく参加させていただきました。

質問をして、バカであることがかなりの勢いでバレましたが、これから頑張って勉強していきたく、気持ちを新たにいたしました(*^^*)


まだまだ、暑い日が続きますね。

体調管理に気をつけたいですね( ^_^)

今日も頑張り過ぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

「アメリカ人」としてのバーンスタイン、「ユダヤ人」としてのバーンスタイン-バーンスタインの『チチェスター詩篇』を聴いて-

2024-09-07 06:31:27 | 日記
詩篇23篇は、旧約聖書の中でも最も有名な詩篇の一つであり、クリスチャン生活とは無関係な文学や映画などでもこの詩篇が引用されることが多い。

詩篇23篇の、
「主はわが羊飼い、私には何も欠けるところがない......死の陰の谷を行くときも私は災いを恐れない。
あなたが私とともにいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それが私を力づける」
ということばは、多くの人が、1度は文学や映画の中の、特に葬儀シーンで見聞きしたことがあるのかもしれない。

旧約聖書は、過酷な運命を課せられたユダヤ民族が、その過酷な運命こそが神の恩寵の証であると読み換えた、人類思想史上の一大冒険の記録といえるのかもしれない。

特に、神への讃歌がまとめられた『詩篇』は、この世で苦しみを味わえば味わうほど、ますます神への感謝と愛が強まってゆくという、後のキリスト教の原型とも言える、重大な思想転換が示されている。

バーンスタインは、アメリカで生まれ、アメリカ育ちのスター的な指揮者であり、作曲家でもあった。

作曲家バーンスタインの名声が世界に広くとどろき渡ったのは、彼が1957年、シェークスピアの『ロミオとジュリエット』の物語を、当時のアメリカ社会に移植したミュージカル『ウエスト・サイド・ストーリー』によってである。

モンタギュー家とキャピュレット家の争いは、白人青年とプエルトリコ移民の娘との道ならぬ恋に読み換えられ、このミュージカルは、移民国家が宿命的に抱えざるを得ない社会問題を鋭く描き出したのだが、その音楽もまた素晴らしく、全米が熱狂したようである。

当時、アメリカに留学していた小澤征爾は自伝に、
「タクシーに乗ると、いつも『ウエスト・サイド』の『トゥナイト』が流れていて、アメリカ中が本当に熱狂していた」
と、記しているところからも、その熱狂ぶりが伝わってくる。

バーンスタイン本人は、
「うーん、あの旋律は、バレないように、チャイコフスキーの『ロミオとジュリエット』をパクったんだよ」
などと笑って語っているが、
『ウエスト・サイド・ストーリー』の成功は、伝統的なクラシック音楽の作曲技法と、ジャズ、ロック、マンボのリズムなど南米由来の民族音楽を融合して、誰も聞いたことがなかった音楽空間を切り拓いたことにあるだろう。

アメリカ生まれで、アメリカ育ち、アメリカ的にジャズとロックとクラシックを融合させて、兎に角売れる曲を作る作曲家バーンスタイン、それもひとつのバーンスタインの顔であろう。

しかし、バーンスタインには、もうひとつの顔があった。

名前からも推測できるように、バーンスタインには、「アメリカ人」としてのバーンスタインの精神の他に「ユダヤ人」としての精神があったのである。

バーンスタインは、「アメリカ人」として生まれ育ったからこそ、自分の出自、自分の祖先に対して思いを馳せずにはいられなかった。

そして、「アメリカ人」としてのバーンスタインから離れ、「ユダヤ人」としてのバーンスタインとして、ユダヤ人が、本当の意味で未だ持たざる国家の國體を見つめる。

バーンスタインは、それは、『詩篇』にすべて書かれているはずだと考えた。

詩篇2篇のなかの
「なにゆえに国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声を上げるのか。
なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して主に逆らい、主の油が注がれた方に逆らうのか」
ということばも、バーンスタインの脳裏に焼き付いていたことであろう。

『ウエスト・サイド・ストーリー』や『キャンディード』といった商業的なミュージカルの作曲経験を活かし、バーンスタインはついに、積極的にイディッシュ語を用いた、ユダヤ教をモチーフとする音楽を作曲するようになった。

そのようにして成立した音楽が、旧約聖書の預言者エレミアを名に冠した交響曲第3番『エレミア』であり、イギリスのチチェスター大聖堂からに名付けたといわれる『チチェスター詩篇』である。

人生は、苦しみの連続なのかもしれない。

人はなぜ生まれ、そしてなぜ苦しまねばならないのだろうか。

『詩篇』は「その苦しみこそ、神の恩寵の表れである」と、思想転換を行う。

その思想転換の過程をバーンスタインは音楽を以て語る。

『詩篇』の中心人物に少年ダビデがいるが、バーンスタインは、ダビデの言葉に、繊細にして美の極みの音楽を付したのである。

人生は苦しみの連続かもしれない。

しかし、ふと出逢う美というものによって、苦しくとも生きたいと思うことがある。

バーンスタインが、示すのは、そのような心の動きなのかもしれない。

ここまで、読んで下さりありがとうございます。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。