おざわようこの後遺症と伴走する日々のつぶやき-多剤併用大量処方された向精神薬の山から再生しつつあるひとの視座から-

大学時代の難治性うつ病診断から這い上がり、減薬に取り組み、元気になろうとしつつあるひと(硝子の??30代)のつぶやきです

偽薬効果に私たちが学べること-時代を問わず、患者と社会の双方にとって重要である理由から-

2024-07-31 07:07:35 | 日記
placebo、という語は、ラテン語で、
「私は喜ばせる」
を意味する。

そして、慥かに、偽薬(placebo)は、人を喜ばせる。

「偽薬効果」とは、その治療に明確な効果があるかどうかにかかわからず、効果があるとはずだ、という思い込みによって、症状が改善することをいう。

偽薬効果は、大変に有効であるといえるだろう。

なぜなら、病気と何ら関係のない治療であっても、たいていの場合は、なんらかの結果を得られるからである。

偽薬は、これまで生み出された薬のなかで最も効果範囲の広い特効薬だと言っても、差し支えないのかもしれない。

偽薬ほど、安上がりで、きわめて重い病気以外のほぼすべてに有効で、副作用も無いに等しい薬が、他に在るだろうか。

しかし、偽薬は偽薬である。

当然ながら、偽薬効果は、非常に深刻な問題も引き起こしている。

偽薬効果のせいで、在りもしない症状のために、高価で有害な恐れの在る薬を、人々は、必要もないのに飲み続けているのである。

医学の歴史には、治すべき病気よりも、ずっとずっと危険な、恐ろしい治療を施した例が、いくつも在る。

呪術が信じられていた頃、医師は、まやかしの効果を主張し、大きな害を与え、患者もそれを受け容れていた。

まったく効果が無いどころか、ひどく有害な場合であっても、医師の指示は、忠実に守られてたのである。

例えば、長患いの患者には、病気を、吐き出しやすくするために催吐剤が与えられたり、排泄しやすくするために下剤が与えられたり、吸い出すために蛭が使われたり、解き放つために頭蓋骨に穴が開けられたりした。

また、患者が溺れる寸前まで水に沈められたり、高熱状態にされたり、氷囊を巻き付けられたり、特製の椅子で回転させられたり、天井からロープで吊されたりすることもあった。

さらに、劇薬として現在では大いに恐れられているあまたの薬物も、かつては秘薬として尊重されていたのである。

今から見れば、これらは、明らかに愚かな治療法であり、邪悪といっても良いくらいで、既に病気を抱えている人々に、何千年にも渡って余計な苦しみを与え続けたはずなのだが、このような危険行為の数々が行われた理由は、偽薬効果でしか説明が出来ない。

偽薬効果は、いわば、医学の魔術であり、医師に不相応な権威を与え、劣悪な治療をしばしば正当化してしまうのである。

偽薬反応の著しい効果には、さまざまな原因が在る。

原因が独立しているときもあるし、絡み合っているときもあるが、おそらく、最も重要なのは、「時間の膏薬」であろう。

時間は、必ずしも最良の癒し手ではないし、すべての傷を治すわけでもないのは確かであるが、人生の肉体的、心理的問題の多くを解決する最も効果的で安全な手段であるのは、今も昔も変わらない。

時間がこれほど、大きな治癒力を備えているのは、病気の多くが短期的なもので、状況に起因し、限定された経過を辿るからである。

また、私たちの心身は、私たちの想像以上にもともと回復力に富んでいるのである。

次に考えられる原因は、希望と期待の並外れた力である。

治療を信頼し、それが快復に役立つと確信しているとき、たとえそれが的外れで危険を伴う治療であっても、人々は回復する。

人生には、苦痛と危険が付き物であるため、ポジティブ思考の力は、私たちの心理に組み込まれているのである。

偶々であれ、ポジティブ思考に恵まれた人間にとって、ポジティブ思考は、生き残ってゆく上で非常に大きな強みになったからである。

おそらく、進化というレースで最初にリードを得るのは足の速い者でも、ゴールに辿り着くのは、さらに言うなれば、生き残って私たちの祖先となったのは、持久力のある者であったはずである。

偽薬効果という、偽りの薬であっても、好ましい反応を示すことによって、病気による支障と不利を克服できる力は、進化で成功する慥かな道筋であった。

現在の脳画像化技術は、偽薬効果が心理学的に刻み込まれているだけでなく、生物学的にも深く刻まれていることを証明している。

また、偽薬反応は、あらゆるものに対する私たちの反応の重要な部分になっており、それは私たちの脳の仕組みに深く組み込まれていることが解っている。

例えば、偽薬の鎮痛剤は、痛覚刺激に対する脳の反応を鈍くするし、偽薬の抗うつ薬は、本物の抗うつ薬が脳に及ぼす結果を再現するし、偽薬の抗パーキンソン病薬は、脳のドーパミン系を刺激する。

また、偽薬の抗糖尿病薬は、血糖値に影響し、偽薬のカフェインとリタリン(メチルフェニデート)は脳の中枢に対して刺激効果があり、偽薬は免疫系にも大きな影響を与えることも解っている。

偽薬効果において、社会的要因も重要である。

なぜなら、偽薬に反応することは、重要な人間関係を維持することに役立ち、大事な共同儀式の土台になるからである。

私たちは、高度に社会的な動物であり、順調に機能できるのは、集団の一部になっているときだけであって、順調に機能できないときは、集団の福利を脅かすのである。

だからこそ、呪医と患者はともに、その時々に合わせて、主流になっている理論、儀式、祈り、まじない、診断と検査の手順、薬などには、治療の力が在ると信じる必要があった。

治療の儀式に大した意味は無くても、個人を病気から解放し、集団を個人の病気から解放するという点では、大いに期待できるのである。

偽薬に好反応を示すのは、集団の貴重な一員であり続けるのに欠かせない。

なぜなら、病気が重すぎるという理由で、今も昔も、社会から置き去りにされる恐れを少なくしたり、回避したりするからである。

そして、病人から信頼と希望を引き出すのは、かつてのすぐれたジャーマンや現代のすぐれた医師にとって、昔も今も、何より大切な能力であろう。

医学の専門的な技術は次第にマンネリ化しており、いずれはコンピューターのプログラムの方が上手く出来るようになるのかもしれないが、医学のシャーマン的な技術は、今後も、患者と社会の双方にとって重要であり続けるであろう。

偽薬効果は、今も昔も、患者と社会の双方にとって、重要であるのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日から、また、定期更新に戻る予定です( ^_^)

また、よろしくお願いいたします(*^^*)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

西田幾多郎先生も、また、人間でありました

2024-07-28 05:58:56 | 日記
「三食のほか、ものを食うべからず」

あるお酒がほとんどいけなくて、甘いものを食べる習慣をやめられない28歳の男性が、書いた日記です。

そのひとは、32歳になっても、日記に、
「無益のもの、食ふべからず」
「心きたなくも、ものを食ひたり」
「パンを食ふ、一時の気の迷いなり」
と、日々、記していました。

なんだか可哀想になる心の葛藤ですが、彼は、30代半ばで、なんとか、おやつを食べたい衝動を克服したようです。

おやつを食べる習慣は、だらしなく、身体にも良くないなあ、とわかりつつも、その習慣をやめようと決意しても、なかなかに実行出来ない己の不甲斐なさを嘆き、それでも、なお、努力を重ね、やっとの思いで乗り越えたようなのです。

そのとき、はじめて、
おやつは身体に悪い
という知識と、
おやつをやめよう
という意思と、
そして、
実際におやつをやめる
という実行が、一致したのでしょうね。

これが、日記ではなく、
『善の研究』
という哲学書になると、
「純粋経験の事実としては、意志と知識の区別はない。......真に知足行である」
などと、難しく書かれてしまうのでしょうか。

「明治以降、日本人がものした最初のまた唯一の哲学書である」とまで評価された、しかし、大変に難しい内容の哲学書である『善の研究』を発表した方と、おやつ日記の書き手が、同一人物なのは、本当に素敵だなあ、と思ってしまいます。

どんなに立派だと言われるひとにも、隠された弱点、秘められた傷、人知れず悩んでいることが在るのでしょうね。

しかしながら、人間の素晴らしさは、まさにそのような弱点や、傷や、悩み、のただなかからこそ、生まれてくるのかもしれませんね。

日本が、世界に誇る西田幾多郎先生も、また、同じ人間なのだと、ほっ、といたします。

難しい哲学的な文章をお書きになる西田先生であっても、日記の文章は、とても、わかりやすいのですから。

ただ、西田先生は、日記が、公表されて、人目に晒されることになろうとは、思わなかったのではないでしょうか。

死後に、手紙や日記を含めて、全集を出版されるほどの有名人は、大変ですね。

西田幾多郎先生に想いを馳せてみました。

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

【追記】
代官山の書店のトークショーで、尊敬する先輩にサインを貰ってから、頑張れる気がしています( ^_^)





ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番・第3番」から「ピアノ協奏曲第4番」までの哀しい軌跡

2024-07-26 07:07:41 | 日記
三島由紀夫は『天人五衰』のなかで、本多繁邦に
「ゆたかな血が、ゆたかな酩酊を、本人には全くの無意識のうちに、湧き立たせていたすばらしい時期に、時を止めることを怠ったその報いに。」
と、考えさせている。

私は、この台詞の在る頁の前後を読むときに、『天人五衰』を考えるときに、よく、ラフマニノフを想い起こす。

一体どうして、美しく生まれついた人間は、美しいままに終わりをむかえることができないのであろうか。

ラフマニノフが哀しいほど明るく凡庸極まる「ピアノ協奏曲第4番」で意図せずして示したのは、人間のこうした根源的悲劇なのかもしれない。

セルゲイ・ラフマニノフは、紛れもなく天才であった。

チャイコフスキーを慕い、ロシアの大地に根ざした叙情性溢れ、その1曲々々には「濃度があり、酩酊さえ具わっている」。
そのような音楽を作っていた。

例えば、自らも優れたピアノ演奏者であったラフマニノフの最も人気が高い「ピアノ協奏曲第2番」の冒頭は、荒涼たりながらも、慈悲深いロシアの大地の夕暮れに、教会の鐘が甚深と響き渡るように始まる。

出だしから、いきなり、聴く者をロシアの精神性そのものへと誘う紛れもない名曲である。

この時、ラフマニノフは慥かに、ロシアの大地に根ざし、自分の作曲活動は、ロシアなしには、有り得ないという、自己認識のうちに作曲をしていたのであった。

しかし、ロシア革命が訪れるや、彼は、すぐに亡命した。

勿論、ロシア革命の前後に亡命した作曲家は、他にもいる。

グラズノフ、ストラヴィンスキー、プロコフィエフなど錚々たる作曲家たちが、亡命している。

彼らが新天地でも、故郷を想いながら作曲活動に従事したのに対して、ラフマニノフは、アメリカでの演奏活動という名の巡業に終始してしまい、自らの音楽を掘り下げるということが、できなかったのようだ。

ラフマニノフは、昔作曲した協奏曲を演奏する、巡業芸人として日銭を稼ぐことに専心したのである。

ラフマニノフは、
「あの有名なカッコいいところをもう一度弾いて」
と聴衆が要求すれば、恥ずかしげもなく「ハイライトだけ」を演奏してチップをもらう日々なのであった。

その巡業の日々は、理想も信念も、プライドも捨て去り、類い希なる才能を二束三文で切り売りして銭を乞う日々に他ならなかった。

時代が少々ずれるのだが、ナチスの迫害から逃れて、ハンガリーから、同じく、アメリカに亡命したバルトーク・ベラは、むしろアメリカで生活するなかで、マジャール人としての自己意識を強め傑作を作ったのとは、対照的である。

だんだんに、ラフマニノフの巡業公演も飽きられてきたため、ラフマニノフには、新曲が要請される。

それは、すなわち、聴衆が求める曲である。

それまでのピアノ協奏曲第2・第3番の「ような」、「気持ちの良い旋律」に満ちた曲が求められた。

それは、作曲家の精神性を無視して、兎に角、「おカネになる」新作が要請されたことに他ならない。

そのようにして、ラフマニノフは、ピアノ協奏曲第4番を作曲するのであるが、すでに彼の才能は、「からからに枯渇して」いたのである。

もはや、ラフマニノフは、かつての栄光を博した自分の音楽を、それが何を意味していたのかも忘れて、醜悪に自己模倣をせざるを得なかったのであろう。

そのようにして作られた音楽は、内的必然性を欠いて、まったく無意味に盛り上がり、前後の脈絡などなく
「これならば、聴衆を惹きつけ られるだろう」
という商売的意図が見え透いた、甘い旋律が、デタラメに、配置される。

この音楽を、私は、聴いていて哀しくなってしまうのである。

オーケストラは徒に咆哮し、ピアノはただ単に全く意味のない曲芸的な超絶技巧の音階を奏でるだけなのだ。

すなわち、ここには、かつてラフマニノフが書いたような、人の心に触れるような「音楽」は存在しないことを感じ、私は、哀しくなるのである。

(私のみならず)ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番・第3番」を続けて聴いた後に、「ピアノ協奏曲第4番」を聴くとき、哀れさと無残さのあまり涙することになる人も、少なくはないように、思う。

一体、どうして、素晴らしい能力を持って生まれたならば、堕落してしまうのであろうか。

どうして、美しく生まれついたならば、美しいままに終わりを迎えることが出来ないのであろうか。

ラフマニノフが、哀しいほど明るく凡庸極まる「ピアノ協奏曲第4番」を意図せずして示したことは、やはり、人間のこのような根源的悲劇である。

ラフマニノフは、ピアノのひどく上手な巡業芸人として、その人生を、カリフォルニア州のビバリーヒルズで、ひっそりと、終えた。

彼は、おカネを得たのかもしれないが、「ピアノ協奏曲第4番」を作曲したことにより、彼が作った名曲の数々による名声を凌ぐ汚泥をかぶったのかもしれない。

三島は、『天人五衰』のなかで、本多に
「一分一分、一秒一秒、二度とかえらぬ時を、人々はなんという稀薄な生の意識ですりぬけるのだろう。」
と述べさせている。

忘れないようにしよう、と、「また」思った。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

明日から、また、数日間、不定期更新になります^_^;

よろしくお願いいたします( ^_^)

また、DSMが「バイブル」になってしまうまでシリーズの⑤~は、また次回以降のどこかに描く予定です。
相変わらず計画性が無くてごめんなさい(>_<)

毎日、暑いですが、体調管理に気をつけたいですね(*^^*)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

【追記】
代官山の蔦屋書店のイベントは楽しく、また頑張る気力を貰えました(*^^*)

これからも、頑張りすぎず、頑張りますので、よろしくお願いいたします( ^_^)



(→代官山蔦屋書店のイベント会場での記念撮影)

DSM-5が「バイブル」になってしまうまで④-DSM-3RからDSM-4まで-

2024-07-25 07:03:49 | 日記
DSM-3RがDSM-3からDSM-4までのつなぎ、どころか、誤りであり混乱のもととなってしまったことからいえることは、
「診断は、研究が追いつくために、それまでその場に留まらなければならない」
ということなのかもしれない。

ごく一部の閉ざされた専門家の思いつきに基づいて、記述精神医学の模様替えを繰り返したり、新しい診断を次々に作ったり、既存の診断のハードルをむやみやたらに変えたりしても、意味がなかったのである。

DSM-3では、必要であった方法は、DSM-3Rでは適切ではなかった。

精神疾患の原因と、それを定義して治療する最善の方法をずっと深く理解できたわけではないのならば、診断の変更はごく僅かにとどめるべきであったのだろう。

やむを得ないことではあったのだが、DSM-3は、もっぱら専門家たちの頭の中から生まれ、スピッツァーによって「マニュアル語」に翻訳された。

DSM-3Rにおいては、いっそう慎重な態度、いっそう厳格な基準、いっそう客観的な意見が必要であり、「変化のための変化」は、必要ではなかったのである。

診断のインフレが、動かし難い現実となるのはまだ何年もさきであったが、危険の気配は漂い始めていた。

DSM-3Rが発表された1987年に、抗うつ薬のプロザックも世に出た。

プロザックの売り上げが急増した理由の少なくとも一部は、DSMによる大うつ病性障害の定義が、ずいぶんと曖昧だったからである。

向精神薬は、巨大な市場を作る可能性があり、売り上げはDSMの決定に大きく左右され得るようになっていたのである。

肝心なことは、診断システムが、知らず知らずうちに、製薬企業のマーケティングの道具になってしまうことのないようにすることであろう。

そのような反省から、DSM-4の作成の目標は、ごく控え目なものに定められた。

DSM-4では、作成委員長がDSM-3Rまでの、スピッツァーではなく、アレン・フランセスが指揮を執ることになった。

フランセスが、定めた目標は、厳密、客観的で透明性のある決定を下すことであり、システムを刷新したり、そこに個性を加えたりすることではなかった。

彼は、科学的な立証責任を厳しく定めたならば、変更はほぼ無くなると承知をしていたようである。

DSM-3とDSM-3RとDSM-4は7歳違いずつで生まれていたが、その間に診断システムの重要な改訂をする根拠になるほどの、説得力のある発見は、なかった。

ちなみに、DSM-3は、1980年生まれ、
DSM-3Rは、1987年生まれ、
DSM-4は、1994年生まれである。(発表=生まれ)

フランセスは、自身の役割を刷新ではなく、洗練と保全にあると考えた。

どんな変更に対しても、厳格な科学的証拠を条件にすれば、個性やリーダーシップにまつわる問題のほとんどを排除できるからである。

また、フランセスは、論争を避けて解決する機械的なシステムを構築した。

意思決定は、対立する個人的見解ではなく、ルールを通じて行われることになった。

それによって、DSM-4の作成作業グループの役割は、何かの主義主張を支持したり、診断の革新的な開拓者を目指したりするのではなく、入手できるデータを黙々と見直すだけの「まとめ役の学者」である、と定められたのである。

DSM-4の作成グループは、DSM-3Rが「バイブル」のようになりつつあった反省をふまえて、DSM-4を「バイブル」ではなく、「ガイドブック」と見なすことにした。

つまり、DSM-4は、「本物」の病気のカタログではなく、現状で有用な診断の概念を集めたもの、として、
DSM-4の序文でひときわこの点を明白にしようと試み、DSM-4ガイドブックでは、さらに詳しく記述をしたのである。

しかし、DSM-4の発表から3年後、DSM-4の理想や理念は、製薬企業との戦いに敗北してしまう。

その結果、アメリカは、消費者に直接宣伝する自由を製薬企業に認める国になってしまったのである。

電波と印刷物は、あっという間に
「日常生活の問題は、実のところ隠れた精神障害によるものである」
という、あからさまに誤解を招く表現で満たされてしまった。

哀しいことに、DSM-4は、製薬企業の強引かつ狡猾な運動に煽られた軽率な欲求の洪水を堰き止めるには、あまりにも貧弱な堤防であったのかもしれない。

DSM-4の作成委員会は、製薬企業を利する提案を一貫して拒んだのだが、そのため製薬企業にどこがどのように宣伝材料にされるか、という予想は出来なかったのである。

さらに敗北から、数年のうちに、製薬企業の勝利と、DSM-4作成委員会の掲げた理念の敗北は明白になっていったのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

今日も、暑いですね^_^;

最近は、にわか雨もあるので、折りたたみ傘があると、助かりますよね( ^_^)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。

DSM-5がバイブルになってしまうまで③-DSM-3からDSM-3Rまで-

2024-07-24 07:30:45 | 日記
DSM-3は、画期的な「多軸」システムを導入することで、内包する問題点をを埋め合わせようとした。

つまり、患者の判定に使われるのは、第1軸の精神医学上の症状のみではなく、第2軸のパーソナリティー障害、第3軸の内科疾患、第4軸の社会的ストレス要因、第5軸の全体的機能レベルも考慮する、というものである。

しかし、残念なことに、多軸システムは、ほぼ無視されてしまった。

悩んだスピッツァーは、一時、「百花斉放プロジェクト」を提案している。

これは、記述的診断に限らず、完全な評価に役立つすべての要因を取り上げようとするものであったのだが、実現することはなかった。

さらに、心理学的モデルや社会的モデルの提唱者は疎外感を感じるようになり、そして、DSM-3の発表以降、地位や影響力を失ったのである。

確かに、どの分野でも、改革は、決して容易くなく、終わりもないのかもしれない。

DSM-3は、表面的な類似性に基づいて患者をひとまとめにし、個々の違いを無視した。

これに対して、心理学志向の臨床医は、共感や独創的な直感を用いて、それぞれの患者の複雑な身の上、無意識の動機、そして社会的背景を理解しようとする方を好んだのである。

精神科医が診断で一致するためには、DSM-3の単純ともいえるアプローチは絶対不可欠ではあったが、DSM-3のアプローチでは、患者の最も興味深い点の大半を見落としてしまうようにも思われた。

スピッツァーは、「リンガ・フランカ(共通語)」を用意したのだが、それを使わなければならない人の大部分にとっては、歓迎の出来る提案ではなかった。

当時のことを、フランセス博士は、
「スピッツァーは、個々の患者という『詩』を、DSM-3という『散文』に変えつつあった」
と表現している。

(→ちなみに、フランセス博士は、DSM-3に対する強硬な懐疑論者であり、その後かなり経ってから転向されたが、完全に転向なさったわけではなかったそうである。)

DSM-3は必要ではあるが、売り込みすぎ、買われすぎたのかもしれない。

確かに、DSM-3は、科学に基づく精神医学の救世主とはなったものの、精神医学の分野の視界を狭め、有害な診断インフレの引き金を引いてしまったのである。

精神疾患の診断と治療を体系化したという点で、DSM-3は、不可欠だった。

しかし、盛んに宣伝されたDSM-3の信頼性は、あまりにも、「売り込みすぎ」であった。

なぜなら、理想的な研究環境のもとで得られるほどの診断の一致率は、予測不能な混乱に満ちた通常の臨床医療の現場では、決して、得られないからである。

また、DSM-3は、あまりにも、文字通り意味でも、比喩的な意味でもだが、「買われすぎ」であった。

毎年、数十万部が売れ続ける息の長いベストセラーとなったのだから。

ちなみに、売れた本の数は、精神医療従事者の数をはるかに超えている。

DSM-3は、精神医学の「バイブル」のようになりはじめていた。

診断は、総合評価の一部で在るべきなのに、総合評価を支配したり、
患者全体の理解をしばしばチェックリストの記入に落とし込んだり、
患者の人生の物語や症状の発生に影響する背景要因を見落としたりした。

これは、DSM-3に元から在った欠陥ではなく、DSM-3があまりにも大きな権威を与えられたために生じた欠陥である。

権威を与えたのは、臨床医、教師、学生、研究者、保険会社、学校、障害者福祉施設、裁判所であり、一般の人々であった。

DSM-3の診断はあまりにも速く、広く、信頼され、浸透しすぎたのかもしれない。

そのように急速に広まったDSM-3の最も悪い産物は、診断のインフレであろう。

DSMの書き方に全く責任がなかったわけではないが、DSMが濫用されたことに責任があるのである。

とりわけ、製薬企業の病気作りに影響された乱用には大きな責任があるだろう。

DSM-3は、細分派の分類学者にとっては、幸せな夢であり、併合派の分類学者にとっては悪夢であった。

そして、細分は、どうしても診断のインフレに繋がってしまう。

臨床医の診断を一致させやすくするために、DSM-3は診断自体を非常に細かく分け、そのため、ずっと多くの人々が診断されやすくなってしまったのである。

それに加え、DSM-3はあまりにも多くを詰め込みすぎていたのである。

軽い症状が出る新たな精神疾患を多数載せたが、それらは、「正常との境目」に位置し、あてはまる人が多かったのである。

DSM-3が、急速に臨床医と患者の大きな興味を引いたことも、診断の増加を促したのであろう。

DSM-3が発表された1980年当時の状況を考えれば、DSM-3は、感度と特異度のかなり適正なバランスを取っていた。

そして、その頃は、誰も、感度と特異度のシーソーが、特異度、つまり、過剰診断の側に大きく傾くとは思っていなかったのである。

DSM-3が蒔いた診断のインフレの種子は、製薬企業のマーケティングから養分を与えられ、やがて巨大な豆の木へと成長していくのである。

DSM-3の発表から、わずか7年後の1987年、DSM-3Rが、発表された。

DSM-3Rは、DSM-3の発表以降に指摘された誤りや抜けを修正して次までのつなぎとするだけの小さな改訂になるはずだった。

スピッツァーが再び指揮を執った。

しかし、DSM-3Rは誤りであり、混乱のもとであったといっても過言ではないだろう。

DSM-3の目標のひとつは、精神疾患を客観的に定義して、一種のリンネ式の分類、または元素の周期表のようなものを編み出し、それにより、臨床研究や基礎科学研究を促進することにあった。

自己修正を反復するシステムになるよう意図されていたのである。

どうしても作り物になりがちなDSM-3の基準から出発しながらも、研究に基づいて基準を確認したり、変更したりするつもりだったのである。

しかし、診断システムが、気まぐれな意見に基づいていて、むやみに動き続ける研究ターゲットしか提供しなかった場合、この循環は、決して巡ることはないのである。

ここまで、読んで下さり、ありがとうございます。

中途半端?なところで終わりましたが、次回以降に続きます( ^_^)

今日も、頑張りすぎず、頑張りたいですね。

では、また、次回。