以前から気になっていること。歳のせいかとも思う。
簡易裁判所には司法委員という人がいる。
裁判所のホームページから借用。
(それにしても裁判所のホームページも充実している。驚きだ。)
要するに社会人としての健全な良識のある人であればいいことになる。
誰もが知っていると思われる調停委員のような感じ。
司法委員は簡易裁判所にのみ認められている。
その役割等は以下のとおり。
簡裁にはクレジット会社などからの金員請求のようなものがほとんどといっていい。
多くは、争う意はなく、要は手元不如意につき支払えないというケース。
手元不如意だからといって払わなくいいというわけではない。
とはいうもののない袖は振れない。
というわけで、和解ねらいが多いのである。
簡裁は事件数が多いので、裁判官は超多忙である。
和解、減額や支払い回数の話し合いは、別に裁判官でなくても、いわゆる良識人であれができる。
ということで、司法委員の登場となるわけである。
ただし、裁判所での和解は、本人同士の話合解決とは異なり、特別の効力(強制執行)がある。
なので、まとめるときは裁判官の出番となる。
なお、簡裁の裁判官は簡裁判事といって、いわゆる司法試験に合格した裁判官ではない。
併せて、上述のとおり、法廷の審理に立ち合い発言等できる。これは参考程度に過ぎない。
法律的知識がないので当然である。
簡裁の法廷は最近はほとんどがこんな感じ。ラウンドテーブルである。
裁判所のホームページから。わかり易いイラストいっぱいである。
和解を試してみることにした場合は、司法委員と原・被告は別室に移動することになる。
1時間以上かかることもあれば、一回で終わらず、別の日を決めることもある。
和解がまとまるようだと、簡裁判事と書記官が別室に登場し、双方に確認して正式になる。
・・・・
ところが、最近気になることがあった。
契約書もなく、そもそも契約の成立に争いがある。和解はしないことを明確にしている。
簡裁というのは弁護士が付かないことが多い。
全く言い分に筋が通っていない。こういう場合、弁護士を付けるように勧めることが多いが、
付けない人もいる。
そうすると、裁判は進まない。
裁判所というのは同じ時間に数件の予定を入れている。
順調に進行しないと裁判官も順番待ちの人もイライラする。
ということで、司法委員にそれをさせたいというわけである。単なる整理だからという
理由をつけてである。
しかし、魂胆は和解にあることは見え見えである。
整理というのは、実際は、法律的知識が必要なのである。
素人が裁判所に提出する書面を作成するために、司法書士を頼んだりするのは、
生の事実を法律的に当てはめてまとめるには法律的知識がなければできないからである。
司法委員をこういう使い方するのは、権限外で違法だと思っている。
もっと、問題なことは、司法委員は法律的な争いのないケースを扱うことしかしていない。
そういうケースしか知らない。
ところが、最近は架空請求詐欺が多くなっている。
裁判所も裁判所を利用した架空請求に警告を出している。
ところが司法委員は嘘の訴えや架空の請求などあつかったことがないので、
全部それが本当のものとの前提で話を進める。
つまりは、司法委員の手によって嘘が本当に変わるというわけである。
被告は素人で何もわからない。裁判所の司法委員を全面的に信頼しているわけである。
気が付いたら、嘘の請求を認めさせられ、減額して(実際は減額ではない。義務もない
支払をさせられることになった)和解と進むわけである。
和解をすることは司法委員の仕事である。
何も問題はない。一件落着。
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事件の帰趨を決するのは、正式な手続きに移行するまでの段階で決まってしまうのでは
ないか、と考えるようになった。相手が騙そうとしているときは。
最近、いろいろな詐欺事件、要するに架空請求といっていい、について、電話に出ないように
などという警告を警察等がするようになったのも、騙されないためには、騙される前に
気をつけること。
だましにはパターンがある。
人間というのは、いったんそのパターンに持ち込まれると、無抵抗になってしまうという
特性があるからだ。
司法委員制度も便利に使っているうちに、裁判官が忙しいときの便利屋さん的に使われるよう
なっているのでは?制度疲労といおうか、マンネリで緊張感を欠くようになっているのでは?
と思う。
さらに、もっとひどいのは、和解の場合は、双方が同席することはない。
片方ずつ部屋に入る。本音を言える。
ところが、先の整理は和解ではないので、双方同席している。
騙そうとしている者にとって、自分の目の前で司法委員がいろいろ聞いている。
その反応をみて、司法委員に答えをする。
司法委員は手下のようなものである。
和解の手続きをしていないのに、気が付いたから話し合いが成立していたので、
和解になった。何が問題?
もし、和解の手続きでない整理などということがなければ、話し合いの場はないので、
当然、和解などには至らなかったのである。
人間というのは、こういうちょっとした不都合はすぐに忘れる名人のようだ。
結局「ちょっとしたこと」が如何に重要かを最近、いろんな場面で気づくようになった。
手続き的なことは、決して「ちょっとしたこと」ではないことを肝に銘じることである。
手続きとはもともとそういうものだ。
どんな小さなことでも、どのように慣れても、一つ一つ確かめることである。