神に生かされた人生!

日々の生活の中に出来事や、アフリエリトを紹介します。

兄が7歳の時、生き別れた母親への許しがたい思いが解けてきた。

2016-03-31 03:13:30 | キリスト教

兄は現在,鶴見に住んでいる。

私が結婚する時、一緒にすんでいたアパートに今もすんでいる。

私と兄は兄が7歳、私が6才の時、父親が列車事故で亡くなり、その後、母親は私達兄弟を祖父母に預けて、家政婦として1人で働いた。

彼女が33歳の時で、63歳の時、私の教会の近くのアパートに移ってきた。

そして、86歳で亡くなる。

兄は、中学を卒業して、静岡の叔父の世話になりながら、職業訓練所で電気工事の資格取って、関東電気工事の会社に就職する。

その後、諏訪にいって、寒い土地で5年程、仕事をしたが、東京にもどって、仕事をさがす。

ある時、私が山手の病院に勤めていた時、きたない恰好で、私に、お金をくれないかと訪ねてきた。

びっくりした。

それから、住み込みで鶴見のサッシの会社で働く。

私が自殺未遂をした時は、富士宮まで迎えに来てくれた。

そして一緒にアパートで暮らす。

貯金をはたいてくれた。

3年くらいいっしょいに住んで、私は教会の牧師のお世話で結婚する。

おおきな家をもった、お金持ちの家に嫁いだ。私にとっては玉の輿でした。

兄は私が結婚した後勤めた会社で、定年まで勤めた。

日本中の大手の会社の機械の修理をする会社で、よく、秋田、新潟、九州、北海道などに主張していた。

仕事だけで、景色などの観光みたいにゆっくりできず、夜中の12時まではたらいたといっていた。

今は、年金も少ないが、もらって、貯金も少しはあるようで、のんびりすごしている。

母の事は、いっさいノーコメントだったほど、関心がなかったが、イエス様の話をしたり、月刊誌を送ったりしている中、また私が毎日祈っているので、イエスさまが祈りにこたえていてくれているようで、母に対する無関心もすこしずつとれて、母の人生に対する理解もするようになったようだ。

今日は、久しぶりにいっしょに、活魚のみせで、お寿司や鉄火丼やはまぐりを食べた。

毎月1日、なるべく会って、会食している。

その後、鶴見川のそばの公園にいって、川を見たり、サクラを見たりした

母親の話をしていたら、いつもはあまり話題にあげても関心がないようだったが、今日は母親の人生について、本人が30年も一人で生きてきたことに、あの時代は女の人が一人でいきていくのは大変だった。自分で働いたお金で、趣味の美術館巡りや相続したお金で服をつくったり、海外旅行をしたり、好きなことをして生きられて、よかったねというはなしになった。

ちょうど、ベンチに座って話していたら、前を丁度、私達が母から離れたくらいの、兄弟が母親に手を引かれて、前を歩いていた。

「私達が父親が死んで、母親から離れ離れになったのはあのくらいだったね。」とはなした。

兄の心が少し、母親を許す、気持ちになってうれしく思った。

 

いつも喜んでいなさい。絶えず、祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。

主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも、あなたの家族も救われます。(聖書)


平安がありますほうに   復活のイエス様

2016-03-30 08:08:42 | キリスト教
災いの過ぎ去るまで、
  あなたの翼の陰を避けどころとします。詩編572

その日、すなわち週の初めの日の夕方、
  弟子たちはユダヤ人を恐れて、
    自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、
  「あなたがたに平和があるように」と言われた。ヨハネ2019

        (ローズンゲン日々の聖句3/29;火)

 イエスが十字 架刑で息をひきとられたのは金曜日の午後の3時頃だったそうです。
日没からは、過越しの祭りの、特に大事な安息日が始まるので、急いで、隠れ弟子であったアリマタヤのヨセフが自分のために掘ってあった墓に納めたのだそうです。

 そして、安息日(土曜日)が過ぎて、日曜日のこと、弟子たちは、自分たちも捕まりはしないかと恐れ、家の戸にしっかりと鍵をかけ、奥にひそんでいたようですね。
すると、そこに、閉めてある戸を通り過ぎて、イエスが入って来られ、「シャローム」と声をかけられたのだそうです。
 幽霊だと恐れている弟子たちに、イエスは、そこに残っていた魚の一切れを食べて見せて、ちゃんと身体があることを証明して見せたのだそうです。

 そこにいなくて、この話を聞いても信じられないトマスにも、復活されたイエスは現れてくださり、「あなたの指を、わたしの手の、十字架刑で開いた釘の穴に差し入れ、脇腹の、ローマ兵が突き刺した槍の後に触ってみなさい。信じない者にならないで信じる者になりなさい」と優しく証明してくださったのだそうです。

 このことでわかることは、受け取る者に与えていただける復活のからだは今のからだとは違う身体だということですね。
今のからだに蘇生するというようなものではなく、まったく新しい霊のからだなのだそうです。
病気になることもなく、死ぬこともない、天使のからだのよう、なのでしょうね。

 イエスの場合は、私たちが、「この方が私たちに代わって十字架刑で処刑されて下さった方だ」と分かるために、十字架刑での釘の穴、槍の後をそのまま残してくださっておられるようですが、私たちがいただく復活の身体は、父である神と呼ばれる方が一人一人にイメージしてくださっているとおりの、完全な身体なのでしょうね。
おそらく、30歳くらいの、力に満ちあふれた。

 そして、イエスが『シャローム」と言われる時は、単なる挨拶の言葉ではなく、本当に「平安」が来るのでしょうね。
ことばどおりの方なのだそうですから。

 イエスは、受け入れる者に、新しい霊のからだに復活する約束を与え、不安に恐れ、おじ惑うような状況にある人にも、平安を、平和を与えてくださるのだそうですね。
今日も。