筑豊の縄文・弥生

筑豊の考古学は「立岩遺蹟」「嘉穂地方誌」先史編の2冊に凝縮されている。が、80年代以降の大規模調査成果は如何に。

気になることどもⅡ

2008-07-21 09:37:35 | Weblog
 筑豊の嘉穂盆地は、甕棺分布地域の東限をなしている。そこから田川や遠賀川下流域には、何故か甕棺が導入されていない。最も田川の糸田や方城には一部に発見されている程度である。したがって、嘉穂地域の甕棺墓観察すると甕棺を導入した
かしないという点が明らかになるものと考え、以前、「遠賀川上流域における甕棺の受容と展開」と題して『考古学の諸相』Ⅱに掲載されたものがある。嘉穂地域は立岩遺跡の調査によって甕棺墓が主体となる地域として概ね考えられていた。しかし、スダレ遺跡では弥生中期前半を主にする墓群はほとんど木棺・土壙墓で占められていた。しかし、甕棺墓から貝輪を得ており、立岩周辺でも副葬品を有するのは甕棺墓であり、木棺・土壙墓に対する優位性は変わらないものと考えられていた。
 しかし、その後、周囲の遺跡が調査されることで当地域の一面が明らかとなってきたのである。
 その答えを導くには、鎌田原遺跡あるいは旧筑穂町の上穂波地域での墳墓群群の調査に加え、旧嘉穂町の原田や馬見本村、あるいは千手のアナフ遺跡の調査があったからにほかならない。
 まず、嘉穂地域にいつ頃どのようなコースで甕棺が入り、どう広がって行ったかを検証することとした。『立岩遺蹟』のなかで甕棺の編年を高島さんがやられていたので、それに、鎌田原遺跡の成果を加えると弥生中期前半の汲田式から中期末の立岩式までの変遷をたどることが出来る。
 そこで、近年の成果までを含めてその変遷と照らし合わせると、盆地に導入されたのは弥生中期前半の汲田式で、出土したのは鎌田原・上穂波・彼岸原の3地区で何れも、穂波川や遠賀川の上流にあって、甘木・朝倉・二日市地区あたりと峠越しに接している所ばかりである。それが立岩や土師地区に広がるのが中期中頃の須玖式段階、そのやや新しいタイプが旧頴田から糸田町、後半期になると方城町へと線状に延びるのであるが、それより東へは浸透していない。また、遠賀川中・下流域や田川の上流部への拡大化もみられないという特徴がある。
 拡大も一気に広がるのではなく、波紋のように1型式ごとに広がっていくのである。それは、有力な地区が一気に導入したりする事はなく徐々に拡大化している傾向が看取される。これは、導入当時甕棺が特定有力者の墓制として定着していない証拠であり、中期後半段階に至るまで待たなければならなかった。
 中期前半から中頃、後半期にいたる墓制の優位性が変化するのは、中期中頃あたりであることが、鎌田原遺跡から解釈される。それは、当初、大型木棺墓もしくは木槨墓という埋葬様式が嘉穂地方を占有していた。スダレ遺跡でも、その他の地区でもそのようである。汲田式の甕棺が導入されてすぐに中心的墓制になったわけではない。中期前半の鎌田原は、大型木棺墓があり、続いて中心主体となる長さ6m、幅4mの大型の木槨墓が造営される。それと同時期頃であるが墳丘墓の端に甕棺墓が作られている。何れも銅戈を副葬するが、墓域の占有位置に違いがあり、主体部周辺は大型木棺墓が陣取り、甕棺墓は周囲に作られるが最後まで中央部を占有する事はない。
 ただし、中期中頃を境に大型木棺墓は造営されなくなり、通常の土壙墓や木棺墓
が、実は甕棺墓群の外側に数基作られ、やがて終焉を迎える。一方、甕棺墓はその後も継続しており、鎌田原の墳丘墓が終焉するまで続く。
 この現象を見る限り、中期中頃を境に大型の木槨墓や木棺墓が中心的な墓制ではなくなり、甕棺墓に取って代わられる様相がうかがえる。立岩ではこの、変化が起った中期仲頃の新相段階から甕棺墓群が形成されているため、墓制の交代、あるいは変革期の状況がつかめない。そのあたりを目の当たりにしたのが鎌田原遺跡であった。したがって、嘉穂地域の弥生の墓制が大型の木槨墓や木棺墓→甕棺墓という変遷を遂げているのは、おそらく違いないことで、立岩周辺の特殊事例とはいえないと考える。これは、嘉穂地域に限らず他地域も同様の場合が想定される。

 話は変りますが、勝手に思い込んでいるのですが、師である井上裕弘さんの本が出るようです。皆さん是非買いましょう。発掘から報告まで一連の流れを極めた人だからこそ、疑問に思い、その答えを模索してきた結晶が磨きぬかれて活字になったと思います。退職後鎌田原の甕棺を観察し、拓本を取っていた姿が、自ずと井上流考古学のスタイルだと思います。筑豊なまりの神奈川弁、神奈川なまりの筑豊弁、どちらでもいいですが、枕元に置いて寝る前に少しずつ読みましょう。是非

 筑豊地域には、甕棺を受け入れた事実があり、それが特定地域に受け入れられるが、受け入れられない方が多いような気がする。中期前半期と後半期は別途に考える必要があるが、上から物を見ずに水平で見るべきだと思うが、確かに北部九州での甕棺の使用はすごいものであるが、受け入れなかった地域が厳然と存在し、今や宗像は甕棺を受け入れなくとも立派に成り立っているのではないか。何か中心主義的部分をもって、そこは他の地域とは異なり優れているとか先進地域とか勝手に思い込んでいるのではないのか、逆に筑豊地域のイメージをもって過去の歴史を見ずに、福岡から海岸沿いに瀬戸内へと入るコースを考える人が多いように感じるが、内陸の道を軽視しているのではなかろうか、考古学的情報が欠落しているかもしれないが、内陸の筑豊抜きに研究会等が開かれる現実がある。何故だろうか、私には理解できない。過去の人にとって峠はたいしたものではない。むしろ、季節によっては海路を断たれる事が多いと思う。むしろ、陸路が以前から発達していて様々な利用がなされていたと考えるのである。
 とかく人は現状に惑わされ、事実に目をつぶってしまうことがある。甕棺に惑わされ、産炭地筑豊のイメージに翻弄される。何度もくり返すが、田川の青銅器出土について論文に取り上げた人が何人いるのだろう。甕棺がないからといって後進地域と決め付けるのはいががなものか、逆に、中期後半から青銅器を大量に副葬する墳墓があるからといって、前半期の実態はよくわからないとか、何を基準に事象を考えるのかかいもく解らない。
 
 近年、行政における文化財専門職の肩身が狭くなってきている。それまでも経験したが、役所で教育委員会は外され、教育委員会では社会教育が外され、文化財は欠けらほどもない。どうも、市政に関係ない、なければないでいい場所に見られるようである。今度、機構改革のヒアリングがあるが、その場で、将来、文化財係をどうしたいのかたずねてみようと思う。

 8月11日福岡大学より古墳の調査のお知らせがあった。見ると篠栗町の長者の隈古墳というではないか。これは驚きである。中学生時代から何度も石室にもぐりこんだ古墳で、亡き父親も一度入ったことがあるという、篠栗では知られた古墳である。まあ、興味がある人だけかな。明治時代に金銅製馬具が発見され東京国立博物館に納められた事は以前から知っていた。前室の上から盗掘孔があいており、そこから内部に入るのだが、玄室の右側壁にいかにも綺麗な同心円が見えていた。今はどうなっているのだろう。篠栗の町史には後世のいたずらとされているが、黒っぽく薄くはなっているが、見事に二重の円形が見られた。ぜひとも、その真偽を明らかにしてもらいたいと思う。
 ぜひとも、調査には出向きたいと考えている。福岡大学の関係者の方々によろしくお願いしたいと思います。

 福岡県教委から「彼岸原遺跡」2008が発刊された。県の吉田氏が執筆された報告書である。発掘中に1度お邪魔したが、藤田 等先生が移植ゴテをもち、自ら遺構を掘られていたのには驚いた。結局、先生から現場の説明をうかがうこととなったが、弥生中期後半期の竪穴住居跡群で、立岩丘陵で明かに出来なかった集落のようすが分かること、しかも、円形プランばかりで構成され、排水の溝が住居跡からのびていることなど、ご説明いただいた。立岩丘陵で新原さんが確認した同時期頃の竪穴住居跡も、やはり、円形だった。
 土器を概観すると、広口壺が朝顔形に開くものと鋤先状の物が存在し、後者には円形浮文が附されたものも有る。甕は頚部やその直下に三角突帯を附し、口縁端部を跳ね上げとするもの、丸くおさめるものの二種類に大きく分かれる。ただし、丹塗りはほとんど鋤先で、中には跳ね上げの影響をうけたものがあるようである。その他、高杯や器台、無頚壺などひととおりの器種がそろっており、吉田氏が記されるとおり須玖Ⅱ式に相当するものと思われる。
 この時期と同様な例で、嘉麻市千手地区のアナフ遺跡という居住区と墓地が接する集落跡を調査した。そこからも、須玖Ⅱ式に相当する土器群を相当量検出したが、様相はよく似ており嘉穂盆地内の共通性を感じるのである。1~2点異なる点を挙げるとすれば、今のところ嘉麻市内では、鋤先口縁の長頚壺に幾重にも突帯が付されるものの出土例が見当たらないのである。桂川町では見たことがあるし、桂川と旧碓井の境界線である八王寺遺跡では、溝状遺構から出土しているが、それより南では今のところ検出例がない。
 それと、袋状口縁壺の出土が見られない。もっとも、後期の中頃あたりのもので、二重口縁に稜線が明確なものがあるくらいである。
 ところで、8号溝から出土した袋状口縁のカーブに稜線があり、頚部も太く短めのような気がして、遺構の切り合いも含め、須玖Ⅱ式の新相あたりかなという気がしており、その頃まで継続する集落とすると、まさに、立岩とぴったりで、輝緑凝灰岩製の石庖丁が数点あるのもいい感じである。
 竪穴住居のプランについて、嘉麻市を含めた嘉穂盆地の南側では方形プランであり、地域性あるいは居住した集団の関係を少し触れられている。私の知る限りでもその通りであり、嘉麻市あたりでは、中期前半段階で楕円や方形プランがあり、北筑後地域に類似するという印象がある。つまり、穂波地域と嘉麻(鎌)地域というのが、かなり、早い段階から大きな地域性のようなもので別れていた可能性も考えられる。
 今回の調査は、嘉穂盆地内の緩やかではあるが、古代につながる地域的差異の一部を垣間見せてくれたと内心喜んでいる。
 
 この際、嘉麻(鎌)と穂波を大枠で区分する何か根拠となるものがないか。1つは、遠賀川があるが、右岸と左岸ではなくもっと地形的に区分するなら、土師地区の丘陵から忠隈に延びる丘陵だと感じている。そこに、忠隈古墳が位置しているが、そのラインで嘉穂盆地を大きく二分したと考えている。しかし、確たる証拠はない。ただ、地域の違いとして、少なくとも弥生時代からあったように思えてならない。ある時は小地域ごとに別れ、そして、立岩の統一、再び小地域に区分されるが、基本的に二つの地域に大きく分かれていたと考えている。

 8月25日月曜 今日は発掘現場見学には絶好の日和、風涼しく秋の訪れを肌で感じた。ついに、篠栗町若杉の長者の隈古墳を見学した。最後に訪れたのは36年前になろうか、記憶によればこんもりとした丘陵の山頂部は開けていて、ヒノキの苗が植えられていたと思う。その関係で下草が刈られ地面が見えないほど敷き詰められたようになっていた。
 古墳は小さなマウンドで、玄室から羨道に向かって低くなるのに沿うように土がかぶる程度のもので、明らかに周囲は開墾で削られていると感じた。今回、福大の桃崎先生に案内していただき説明をうかがった。
 石室内では気になっていた同心円模様をさがし位置を示したが、以前より表面が白っぽく汚れていて、赤土が染み出してきたようである。良く見ると円のようなものは残っているようであるが、前のようにはっきりした二重の円には見えなかった。玄室正面の鏡石も白っぽく全体にクリーニングして、科学的調査を行えばはっきりするかと考える。
 それにしても、明治時代に掘られ出土した馬具が東京国立博物館に収められているが、写真を見せていただいたが見事なもので、朝鮮半島からの渡来品である事は確実であろう。全く驚きである。そのような素晴らしいものを出土しながら、ほとんどこの古墳について知られていない現状はなんとも残念である。桃崎先生もより多くの方々に知っていただければありがたいという信念を持っておられた。中学時代に何度も入った石室である。願わくは、調査の成功を祈りたいと思う。
 また、先生は前方後円墳説を持っておられ、これが証明されればさらに好条件がそろう。また、装飾古墳と来れば鬼に金棒であるが、そうはうまくいかないだろう。少年時代の想いが1つ開花しようとしている。応援あるのみ。

 立岩の下方遺跡の報告書を見ていたのだが、未製品の記載に気になる一文を見つけた。浜田さんが記したと思うが、調整段階で錐のような先端の鋭いもので、細かく調整を行なっているという。考えてみると、未製品と呼ばれるものの製作に関して、細かなテクニックについて言及したものがあるのだろうか。
 というのも、立岩の場合専業的に製作しており、かなり洗練されたシステムを持っていたと考えられる。粗わりから研磨に至るまでの打製段階を旧石器研究がやるように細かな分析が試みられているのかどうか、気になっている。案外、ソフトハンマーの使用や押圧剥離的な調整が施されているかも知れない。
 その辺りを、石器屋さんが観察するとどのような特徴があるのか。それとも、遠賀川下流域と大差ないのか、気になるところである。
 浜田さんが「錐のような先端の鋭いもの」と表現しているのは、器具が直接あたる箇所が、細かな半月形をなしてなくなっている特徴がある。このあたりにヒントはないのだろうか。未製品を掘り下げてみるのも面白いと思う。時間を見つけてやってみようとは思うが、さて?

 9月になって雨ばかり、古墳石室の天井石が崩落し、民家に落ちかかっている連絡を受ける。なるほど、墳丘が完全に壊され宅地化のために切り崩された崖ののり面にむき出しになった石室の一部が見える。その天井石(推定1.2t)が斜めに滑り始めていた。急いで応急措置を行なう。強い雨足の中三人で土嚢を積み上げ10本近くの杭を土嚢に打ち込み土留めを強化する。最後に、ブルーシートをかけて直接雨水の進入を防ぐことで修了。その週の土曜になって、業者による天井石の除去とのり面に植生の土嚢積みを行い作業を終了する。連絡から6日間の超スピード対応であった。
 緊急時のことで対応したが、指定文化財でもなんでもない古墳の崩落、その責任はどこにあるのだろう。管理は当然地権者であろう。そもそもこのような危険な状態を招いた原因の一つに、公害復旧工事が絡んでいる。本来なら崩落を防ぐ石垣をつくはずであろうが、古墳が出現したためそのままの状態で残すという意見が、文化財の方から述べられ、のり面むき出しのままに放置された。最も、発掘調査が出来る面積は全くなく、排土を置く場所もないし、第一複数の人間が入る余地もない。当時としては賢明な措置だと考えられる。しかし、それまで、大岩を崩落から防いでいた木々がすでに切り払われているため、将来を考えるなら何らかの対策をするべきであった。その時のつけが24年後に結果を招いた。
 運良く家屋直撃は避けられたが、家主は雨が強く降るたびに恐怖が戻るであろう。石垣はついてくれないのかという家主の要望は当然であろう。大きな権力が動き出す可能性もある。それに対応するのがまた難関である。

 8月6日土曜日は、秋月街道八丁越の視察に行く。以前から指定申請が出ておりその範囲を確認する目的があった。石畳が続くのだが各所で切られ途切れている。しかし、最もふさわしい範囲を見出すことが出来た。「おおよこい」あるいは「およこい」と称される場所があり、その前後の石畳と、なんと、石切り場がすぐ脇に見えていたのである。そのあたりで一旦途切れるのであるが、この範囲は全体の中でも景観も含め一押しの場所である。しかも、石を切り出した跡が残るとと来れば条件が揃ったと考えてもよい。

 8月9日篠栗の長者ノ隈古墳を再び訪れる。ここは、今は亡き父母を中学三年のときに連れて行った思い出深い場所でもあり、そこが調査されている事はまことに喜ばしいことであり、学術調査の対象となったことに感謝する次第である。
 中学時代に何度も石室に入ってろうそくの明かりで中を見ていたのだが、その時のすすが、まだ石室の石に残っているとは信じられない光景だった。また、その頃植えられたヒノキが大きくなり、当時のようすはすっかり変ってしまった。第一に夏みかんが1本もない。若杉といえば夏みかん、甘夏、はっさくとどこでも見られたのだが、長者ノ隈には見られなかった。36年の歳月とはこのようなものかと思った。
 現場に県の小池さんが来ていたので、色々話をしていたが、私が同心円文を石室内で見たという話が伝わっていたらしい。中学の頃に確かに綺麗な二重の円は見た。落書きにしては見事に円文だったことを覚えている。しかし、右側に1ヶ所確認しただけで後は見えなかった。今は、さらに見えなくなっている。また、当時、長者ノ隈に接する池の付近で採集した、片刃石斧を持っていった。桃崎先生応援しています。

 9月9日に九州考古学会から査読結果が届いた。笠置山山麓で石庖丁の石材産地を確認したという内容から、書き上げた論文のつもりだったが、結果は散々であった。合併してから今日まで、あせりを感じながら、着実な路線を逸脱してしまったようだ。
 まずは、発見したら的確な判断を下せる方を案内して実見していただき、確実な標本採集とともに、立岩の採集品との比較研究という道をすっ飛ばしてしまった結果と反省、学会には今回の原稿を取り下げていただくよう連絡した。
 ここ数年、何かに追われるように原稿を書いてみたのだが、ひどいものである。もう少し涼しくなったら、藤田先生を千石峡に案内しようと考えている。それから、立岩の石材採取に絞ってゆっくりと考え、まとまったら、再度、学会事務局の方々にお世話になるつもりである。
 それにしても、何か突き上げてくるあせり、ジレンマ、何ともいえない心境、有頂天、表現しようもないが、長者ノ隈古墳の調査を偶然にも36年目に目の当たりにしたのだから、初心に帰るべき時と思う。やはり、私は幸運である。50の節目として心に刻んでおこう。

 ようやく、榎町遺跡で発掘されていた東部瀬戸内系土器の実測をやったが、本物を見たこともなく、断片資料であるため、傾きなど分からずに苦労する。しかも、壺なのか甕なのか、中には高杯の口縁部が外側にのびる資料があるようだが、はっきりしない。とりあえず実測したものを誰かに見せなければならないが、はたして誰に見せてよいのやら迷う。
 また、共伴資料が全く出土していない状況も不思議といえば不思議である。当時、整理をやってくれたのは、九歴の岩瀬さんで、中期の遺物(須玖式)は全くないし、前期のものか、後期後半から終末以降のものばかりであった。
 ただし、凹線文については特殊遺物として抜き出していてくれたのだ。当時は、九州に来て初めての発掘調査であり、もちろん、凹線文土器には全く気付かずに来てしまった。何かに資料紹介をしなければならない。

 9月17日 梓書院から井上裕弘さんが書かれた『北部九州弥生・古墳社会の展開』が届いた。早速、目次に目を通し「筑豊地方における大型甕棺の導入と展開」を最初に読ませてもらった。というのも、2006年に「福岡県遠賀川上流における甕棺の受容と展開」という拙文を『坂詰秀一先生古希記念論文集』に掲載していた関係から、井上さんの論考を楽しみにしていた。
 最初は導入時期の時期と分布であるが、中期前半の橋口編年でいうところのKⅡbで、福岡・春日と夜須・甘木の両地域からの搬入の可能性を胎土に含まれる赤鉄鉱の粒子からわりだしている。つまり、穂波川流域と嘉麻川(遠賀川)流域で時期は同じであるが、別の地域から導入された可能性を示している。
私は、福岡・二日市・甘木方面からと大まかに指摘したが、さすがである。導入地域が当初から異なるところで、後の鎌・穂波につながる嘉穂地域の大まかな区分けが出来そうで、ちなみに、立岩の立地は、穂波川と嘉麻川(遠賀川)が合流する嘉穂地域の中央付近である。
 胴部三条突帯の甕棺については、短く嘉穂地域の地場産と記していたが、ここではさらにアプローチされており、嘉穂地域三大拠点と位置づけてある立岩・十三塚・鎌田原(馬見)の中で、立岩・十三塚と鎌田原(馬見)に大きく分かれる点を指摘、筑豊独自の甕棺として存在が筑豊弥生人の好みとして理解され、その製作には福岡平野の工人集団の影響と渡り工人の関与という考えを示されている。
そこまで、深くは考えなかったが、福岡平野で須玖式甕棺の口縁下突帯一条が二条に増えるという現象も踏まえ、須玖Ⅱ式の古段階で生活用の土器や祭祀用土器が、突帯を多条化する傾向も考慮する必要があろう。特に、遠賀川以東の影響は見過ごせない。

 10月になり、久々に千石峡に向う。九州歴史資料館で西谷先生と久々にお会いし、たまたま持参していた輝緑凝灰岩の破片を見ていただく。先生はとても興味をもたれたようで、すごいですねを連発されると同時に、はっきりしたら是非九州考古学に投稿してくださいと肩を押していただいた。実は、九州考古学への投稿は査読で落とされたとはとてもいえなかった。しかし、この問題をそのままにすることはできない。よって、再度、未製品探しに赴いたというわけである。
 再び訪れると、チップの量の多さに先ずは驚嘆した。さらに、剥片が散乱し、割とられたような原石も点在する。おそらく、露頭から塊で剥ぎ取るのだろうが、それらのおびただしい量に、おそらく、戦中戦後と畑の開墾も出来なかったと考えられる。土よりチップが多いのであるから。
 その中から20点以上を採集し、藤田先生宅に無理やりお邪魔して見ていただく。先生曰く「千石峡は石材産地ながら誰も調査していない。君が採集したものは粗割工程の第一次剥片でこれを立岩に運んだんだろうね。」と同意していただいた。そして、時期を見計らって現地踏査することにした。
 10月11日飯塚歴史資料館の嶋田さんに見せるべく訪れるが、伊藤邸の案内の助っ人で留守。かわりに樋口君に預けて後日嶋田さんに見てもらうこととした。収穫は、焼ノ正や下方の未製品を拝見し、全く違和感がないことを確認する。私が千石峡で採集したものをどちらかの遺跡の中に入れておいても誰もわからないだろう。まさしく、第一工程で企画的にあったものを大量に立岩に運び込んだものであろう。そこが、今山の2キロ以上もある硬い石材と違うところで、輝緑凝灰岩はかなり扱いやすい。藤田先生もおっしゃっていたが、川の礫は硬くて加工しにくいが、露頭のものは板状に簡単に剥れるからものの5分もあれば、ある程度の形に加工することが出来る。全く同感である。川の転石は柔らかい部分が失われ、さらに、摂理が分からなくなっていて加工しにくい。その点、露頭の新鮮なものは板状で簡単に薄く剥れていくのである。
 段々面白くなってきた。興味がある人この指とまれで、立岩の石庖丁生産もなかなか緻密な加工ラインが作られていたらしい。
 さらにいうなら、立岩が石庖丁製作遺跡として認識されて以来、様々な採集や発掘が行なわれてきたが、原石が発見されたとはついぞ聞かないのである。そこが、遠賀川下流域あたりと異なるのではないだろうか。単なる集落単位の消費に終わらない立岩の存在がクローズアップされることになろう。実に楽しみである。

気になることども

2008-05-25 21:35:45 | Weblog
 5月24日付けの夕刊で宗像から飯塚に延びる西山断層(活断層)がさらに、嘉麻市から東峰村へ続く可能性が出てきたという。九大の下山先生は、80キロの長さの断層がおこす地震エネルギーはM8という。四川の大地震なみではないか。1万から2000年前に動いたと観察されている。確か警固断層も平行して走っているいるな。これから調査が開始されるというが、最後に動いたのがいつかがはっきりしないと不安だね。2000年前は、弥生中期末から後期初頭、この時期、北部九州を含め広範な地域で遺跡の減少化、集住現象が見られるという特殊な時期に相当する。この時期、両方の断層が一緒に動いた可能性はないのか。
 概要を見ると、弥生中期前半の遺構に影響が及んでないという見解が示されている。遺跡数からすれば前期末から中期前半にかけて、最も遺跡数が多い。中期末から後期初頭、あるいは、もっと古い縄文や旧石器にどうであったのか。詳細な検討が必要と考える。
 西山断層について、インターネット上に掲載されている平成7年度~10年度の調査報告書を読んで感じた事を書いてみます。
まず、飯塚市明星寺で行われたトレンチ調査の層位と考古学的資料等による年代推定の部分についてです。土層を見ると1~7層に分けられ、6層はA、Bに区分されている。基盤は花崗岩であるが、本来、地震のため丘陵が27mほど落ち込んで上下にずれを生じ、基盤上層に堆積していた6A、B層が基盤と同じ高さとなっている。また、6Aと花崗岩基盤層が等しい高さとなるのは、地震後に風化あるいは水流によって高さが一定したものと考えられる。その後に、5層が堆積するが、河川による堆積物である砂礫層で古期段丘堆積層(6A・B層)と基盤層を不整合に覆う沖積層である。その上の1~4までの層がほぼ並行に堆積している。
考古遺物による層位の年代決定であるが、3層が龍泉窯系の青磁碗破片と口ハゲの白磁皿が出土しており13~14世紀を中心とする時期に、4層はヘラ切底の土師器が出土しており、平安の後期に位置づけられている。これらの層は粘性の砂層と砂層で比較的ゆっくりと堆積した感がある。5層は2~7㎝の礫や亜角礫を大量に含んでおり、濁流状態での堆積層で一気に流れ込んで堆積したと考えられる。その中で、弥生土器の甕底部片が出土しており、弥生中期初頭の城ノ越式ということで考えられている。
まず、土器底部であるが、やや、厚底で上げ底気味となっている。遠賀川流域の場合、城ノ越式は完全な分厚い底部で、かなりの上げ底となる。また、須玖式についてもⅡ式の古段階まではかなり残っており、私的には中期中頃あたりと考えられる。また、5層の体積状況が2~7㎝の礫や亜角礫を大量に含んでおり、濁流状態での堆積層で一気に流れ込んで堆積が伺えることから、土器の流れ込みという考えも成り立とう。1~2点の土器から層の年代を決めるのはなかなか困難と考えられ、まして、西山断層の下限を決定する重要な年代を決定するには、決め手が少ないように考える。上部層との比較からもう少し新しい年代も考慮する必要があるかと思う。
 
 2007年の福岡地方史研究45に「弥生後期前半期における弥生集落の減少と起因」という一文を掲載した。それは、北部九州においてその時期に集落数の極端な減少例が見出せるものとして、小沢佳憲氏が2000年あたりに古文化談叢に掲載したもののトレース的な文章を投稿し掲載されたのだが、糸島はむしろ弥生後期後半から本領発揮というか、三雲・井原地域を中心とした伊都国中枢部が完成するように見える。国と称される一大拠点集落についてその成り立ちを訪ねると、おおよそ、弥生前期に萌芽が見られ、中期前半にはある程度の様相が現れる。そして、中期後半段階で花が咲くのだが、伊都国はむしろ中期後半期から突然花咲く都の趣きがる。春日丘陵の奴国は中期前半期から中頃にその萌芽を見る。早良は前期末から中期初頭に花咲いてしぼんでいく、立岩は中期前半までに石庖丁製作ラインを作りあげ、中頃から後半期に花を咲かせる。伊都国は計画的に三雲の地に都を建設したのか、それ以前の様相が分からない。しかし、世々王有というくらいに後期終末まで大規模集落が根をはったように継続している。それに比べ、春日や福岡平野、早良平野、嘉穂盆地は、後期前半期に集落消滅に近い状況下に追い込まれる。奴国はハイテクの金属器生産で体制を維持するが、立岩は復帰する事はなかった。伊都国をのぞいて王が継続して存在する地域が果して存在したのか、疑問である。
 後漢鏡の分布は、嘉穂盆地では分散している。春日ではどうであろう。邪馬台国時代の北部九州は、伊都国以外に王として君臨する権力者がいたのであろうか。ちなみに、嘉穂盆地では緩やかな紐帯を基盤とする連合体というのが実情ではないか、むしろ、田川盆地の糸田地域を中心に出土した数々の青銅武器類のほうが、国としての体裁を放っていたのではないか。北部九州の弥生後期終末に邪馬台国なるものを維持する連合体が存在できたのか疑問に思うこの頃である。

 弥生中期の嘉穂盆地を概観すると、立岩を中心とする強力な勢力圏が形成され、周囲の集落はそこに飲み込まれるような感じをおぼえるのである。しかし、自然災害等の影響を持ってその結合が失われた後、つまり、後漢後期から晩期の鏡が盆地内に点在する。その何れも中期前半までに拠点集落として形成された遺跡であり、本来、素地として力を持つ集落であり、農業基盤の上に築かれた村々である。それぞれの勢力範囲は変らず、小地域を把握する集団と解釈できる。そこに、1~2面程度の後漢鏡が入ってきている。その何れもがことさらに勢力圏を広げるのでもなく、本来の領域を保持しているようである。あえて、魏志倭人伝の国に相当するならば、どう見ても、緩やかな紐帯を基盤とする連合体であり、トップが見えないのである。しいて言えば、卑弥呼のように連合体が擁立したトップレベルの存在は想像できるが、北部九州の弥生後期末あたりに中期の王と同等あるいは越える王というのが本当に存在したのであろうか疑問に思う。
 嘉穂盆地以外でも、伊都国以外の地域では、意外と後漢鏡が分散しているのに気付く。嘉麻市の原田遺跡の場合、石棺群が壊されていて、石まで抜かれていた。そんな中にあって、石蓋土壙墓と石棺から1面ずつ後漢晩期の鏡が得られたが、おそらく、もう少しあったものと想像される。それからいけば、香春町の採銅所は4面でてるのかな、石棺が横に4列に並んでいたというが、原田のB群がまさに4基並列したもので、周溝を持った墳丘墓で、周溝内から出土した土器は、西新式のように同部に刻みの入った突帯を巡らすもので、後期終末から古墳初頭くらいの時期と考えられる。採銅所と似ているといったのは高倉さんである。

 その後、西山断層の件についてなんら書かれていないがどうなっとるのかな。そういえば、旧穂波地区のあたりから明星寺にかけて集落の廃絶が中期後半期までに集中していて、やや早くにその傾向が現れるように見える。『福岡地方史研究45』「弥生後期前半規における弥生集落の減少と起因」より、旧筑穂町は中期前半でそういう現象が現れるのだが、早くに集落減少あるいは廃絶が見られるのは何故だろう。地震災害等も含めて再度考えなければならない。

 話は、後期初頭から前半にほぼ廃絶状態の集落遺跡が、後期中頃から後半期にかけて、再び増加傾向に転換するのだが、地域によって再進出の格差は大きい。嘉穂盆地で言えば、立岩近辺にその現象を見出すことは出来ないが、馬見台地一帯を中心に典型的な増加現象をうかがうことが出来る。しかも、原田遺跡には5箇所に墳丘墓が並び、銅鏡や鉄製武器を副葬している。時期的におそらく後期後半から末頃の時期であり、それから古墳時代へとスムーズに移っているのである。ただし、今のところ前方後円墳は見当たらないが、古墳初頭の居館跡までが穴江・塚田で検出されている。しかし、そこには土器様式の大きな変化があるものの、大乱的な要素を今のところ見出せない。
 また後漢鏡の分布は盆地内の過去からの拠点地域に分散所有されており、伊都国の平原のような一極集中は見受けられない。魏の使いが国としたの中に中期後半の王的存在がこの時期にどのようにありえたのか、伊都はいいとして、奴国はどうであろう。後漢晩期の鏡を大量に保有するような墳墓があるのだろうか、不爾国が糟屋群としてはたして後漢晩期の鏡がどれくらい集中して出土しているのであろう。宇美町の光正寺古墳が不爾国と関係するとの説があるが、少なくとも後漢晩期の鏡を確実に保有する墳墓は、墳丘墓であり何故宇美町だけが前方後円墳なのか分からない。平原だって周溝をもつ墳丘墓と考えられるし、粕屋町大隈の大型石棺なんかは、原田に何ヶ所か存在するし、田川でも採銅所や公文原遺跡で出土している。むしろ、大形石棺は、嘉穂や田川、北九州といった内陸部から東部に多い。大隈の大型石棺等はそんな地域の影響下にあるとも考えられる。福岡平野や糸島平野で見ることが可能なのか疑問である。光正寺古墳に関しては、土器様式で西新式というが、案外周辺部ではやや長く材地形時の使用があるのでは、それが突然畿内や山陰系の土師器と交代するように見えるが、案外、在地の土器を使い続けていた可能性はあろう。再度、墳丘等から得られた土器資料も検討すべきであろう。

 意外と後期終末に後漢鏡を所有するような有力地域に、畿内系の初期前方後円墳は、入ったのだろうか。在地勢力が強い中に直接入り込むより、案外、それほど勢力がないような場所に入り込むというのが最初かな。いきなり、親分同士が何じゃというわけではなく外堀から埋めていく、石塚山ふくめ北部九州後期末の勢力分布範囲と初期の畿内型前方後円墳の在り方についてどうでしょう。
 嘉穂盆地で見る忠隈古墳は円墳だが、立派な竪穴式石室と三角縁神獣鏡を持つが、その位置は私が考えている後の鎌・穂波の中間にあって周辺には後漢鏡を有する墳墓は、まだ見つかっていない。原田遺跡は後漢鏡2面があり、石棺群が荒されてなければ、まだ、存在した可能性はあるし、鎌田原の地蔵堂付近には巨大な石棺が複数あって、さらに、副葬品が出土する可能性がある。古墳初頭の集落もいたるところにあって、その繁栄ぶりはすごいものを感じるが、前方後円墳がない。穴江・塚田で方形居館が検出されているにもかかわらず、ないのである。何故だろうと考えるのである。

 また、東北で地震が発生した。活断層のことを書いていたが、四川では太古の断層が動いたという。今回も、岩手から宮城にかけての断層らしいが、活断層ではない可能性が高いというが、断層はそこここに走っている。これが周囲のエネルギーによって動くとなれば、大変なことである。現在の河川はおおよそ過去の断層運動によって引き裂かれ、多きくずれ落ちた谷地形を流れている場合が多い。また、河川跡でも断層があり、私が居住している場所も古い断層が走っている。また、西山断層とその後活断層として発見されたものが連続していれば、宗像から飯塚の明星寺をつなぎ、その延長線上に線を引き東峰村まで持っていくと、どうも、遠賀川沿いの現居住地を通っている可能性が考えられる。もう一つの可能性は、山田川沿いとなり、ここも古い断層が走っている。さて、どちらでも問題である。
 西山断層の最終が弥生中期以前として把握されいるが、遠賀川沿いにおける遺跡で、まだ地震を示す具体的な例がない。可能性としては、弥生後期前半期における集落減少期、あるいは、さかのぼって縄文中期か早期以前の旧石器時代と考えられるが、証拠にかける。
 もう少し、地域ごとにトレンチ調査を実施し、より確実な年代探るべきと考える。国庫補助でも県費でもいいわけで、ぜひやるべきであり、各自治体の考古の連中も協力して行なうべきと考える。それと、過去の遺跡発掘調査例を再検討すべき問題でもある。それには、報告書使用外の写真も含め調査時点の記録や記憶をたどり、発掘調査面でどのような特徴が見られるのか、久留米の松村さんあたりにご教示いただきたい。我々はもっと地質を勉強すべきと考え、九大の下山先生に詳しく現地で説明を受けたいとも考えている。
 観光や学校教育との連携、体験学習も推進しなければならないが、頻繁に起る昨今の地震を考える時、直接にしかも住民の生命に係る仕事としての可能性も追求すべきと思う。

 宗像の安部ちゃんから久々に青銅製武器の複数出土のニュースを聞いた。土壙墓か木棺墓、あるいは、木槨墓かよくわからないという。一基の墓壙から複数出土するのは、かなり珍しい。吉武・高木(木棺墓)、古賀市は甕棺墓かな、前期末~中期初頭あたり、それと、宗像の例になるのかな。あとは、1~2本がせいぜいか。杉原先生が宇木汲田で1棺に1本という宇木型は、ある意味で階層をあらわすもので、実は、数本の青銅器あるいは吉武・高木のように多鈕細文鏡が加わるものがあり、海岸部での大量副葬はありうるのであろう。
 しかし、中期後半から末頃に大量の前漢鏡を伴うかというと、今の所、伊都・奴・それに立岩と来るが、後は1面のみの副葬である。

 夕刊に出た。銅剣4本が固まっているように見える。また、上部のほうは銅戈だろうか、他にヒスイの勾玉かな管玉も出ているようで、吉武・高木に近いのだろうか。しかし、銅矛は出ないのだろうか。鎌田原は銅戈であったが、糟屋のほうは銅剣が多いようだが、以前、小田先生が北筑後や筑豊あたりは以前から銅戈がよく出土しますねと言われたことがあった。細形から中細の古式の段階あたりから、筑紫野近辺から北筑後、筑豊周辺は銅戈が多いように見えるし、糟屋から北側は銅剣のように見える。福岡平野はその中間で銅矛を含む。3器種プラス鏡(鈕細文鏡)に玉類がそろうのは、吉武・高木とすれば、もう一度、たんねんに調査すれば、青銅器の拡散が一定ではなく、器種ごとの何かがあったのか、下條さんが書いていたように思うが。背景に何かがあるのでしょう。

 阿部ちゃんと電話で記者発表前に話したのだが、木棺か土壙墓か判断できないが一段目の墓壙は広いといっていた。このような場合、木槨墓という可能性も生じる。また、土器片が出土したかについては聞かずじまいだし、周溝や盛土の一部でもなかったか聞いとくべきであった。次の機会に聞くことにするが、なんかありそうな気がしてならない。

 西山断層の続きを書くが、宗像から飯塚の明星寺までほぼ一直線に来ている断層は、穂波川あたりで消えていることになっている。穂波川自体が古い断層に沿って流れておりそれにT字形に接するようにして消えていると考えられるのだが、もし、これがさらに続くとしたらどこを通るのかを、地図上で延長させると久保白ダム付近から桂川の寿命、都井、旧碓井の飯田付近、琴平山北側から竹生島、旧嘉穂町の上西郷、下益、中益、宮吉、桑野、東峰村に達するラインが怪しい。特に、西郷、上西郷、下益、中益あたりの丘陵の東側は直線的になっていて、河川による開析というよりは、断層崖的な雰囲気がある。遠賀川を挟んだ東側は完全に断層で、かなり古い時代に大きくずれていることが分かっている。その断層に沿って遠賀川が流れているようで、飯塚市街のほうへ続いている。
 さて、西山断層が続くとするなら、中位段丘や高位段丘に影響をあたえているはずである。今考えているのは、飯田の五穀神社や竹生島が独立丘陵になっている状況、あるいは、桂川の土師を通る県道があるが、その付近も丘陵が切断されている。特に、竹生島は、西側の丘陵から延びていたと考えられるが、いつの頃かに切断され、今では円形状の独立丘陵である。仮にこの切断が、断層によるもので、そこを河川が一時期流れたとすれば、なんとか説明は付く。
 竹生島は赤化し琴平山の噴火によって生じた火砕流の塊みたいな大形で粘性の礫を大量に含む。地元の人によれば基盤までその赤土が続くらしい。標高は50m余りで山頂から出土するものは、縄文早期の土器や石器に始まる。丘陵の形成は、間氷期のいずれか暖かい時期と考えられ、10万年以上前の段丘堆積層で、それが断層で分断され、河川が低い位置を流れると共に浸食されて現況を作ったと想像している。その後、五穀神は中位段丘であるがやはり独立丘陵となっている。何れのライン上も低位段丘が形成されており、そこに遺跡がのっているわけで、数万年前に大きな地震が起きて以来、2度目は未確認のようである。したがって、次の予測が難しいと考えられるが、先ず西山断層につながるのかが問題で、全く新たな断層かもしれない。早期に調査してもらいたいものである。我々考古学関係者は協力は惜しまないので、考古学的な資料提供はすぐにでも出来る。
 今のところ、県道中益線沿いが断層ラインと踏んでいるが全く異なるかもしれない。情報が欲しいものである。

 6月28日(土)福岡旧石器研究会に宇美町の資料館に出かけた。12時30分頃到着、早い時間なので誰も来ていない。事務室に行って研究会はありますかと尋ねると全く分からない、聞いていませんとの返事、結構ですといいながら展示物を見て回る。その時、研究会のみなさんに見ていただこうと、竹生島古墳調査の際に出土した、石鏃(鍬型)、剥片、黒曜石の原石、サヌカイトのスクレーパー?と押型文2片、無文の土器片、最後に、繊維を含み土師器のような色調、で表面に1~2ヶ所の押引あるいは刺突文があって、私はかなり古いものと予感しているのだが、決定打がない。
 その内、1時30分になったので、もう一度事務室で聞いたが、やはり、何も聞いてないということで、帰ったのだが、一点気になることがあった。光正寺古墳の第一主体部に伴うという甕である。底部は平底気味で形態は西新式の甕に似ているが、口縁部は畿内系の布留式に見られる口唇部内面に段が付くもので、外面の調整は細かいハケ目である。内面はナデだと思うがガラス越しではない。焼成や色調からして、土師器であり布留式の変形か折衷タイプに見える。そうすると、先ず布留式があって、その後に起る変形や折衷と考える必要があろう。
 著名な先生方による慎重な審議の結果と思われるが、三世紀半ばから後半期の時期に位置付けるのは如何と思った次第である。平ノ内さんすいません。ただ、どうしても畿内の初期古墳と同年代には思えませんでした。C14で確認したらどうでしょうか。

 話は、押引文あるいは刺突文らしき土器にもどるが、今までになく小さな穴で、押引スタイルなのか穴の周囲が盛り上がっている。この穴は間違いなく文様として考えられるが、問題はもう一つの穴である。確かに周囲の面が若干盛り上がるが、砂粒が抜けた跡の穴とも取れる。問題は繊維を含むということと、焼成と色調が土師器に似ているという点である。ただ、この資料は表採であるため単独で共伴資料を欠いているためなんともいえないが、出土している石器類は、細石器らしきものはなく、縄文早期の範疇でおさまっている。
 
 7月13日(日)古文化研究会で発表するが、実証性のなさと思いつきのままに書いた内容で、悪戦苦闘、というより全くだめな内容になってしまった。せっかくお呼びいただいた小田先生と宇野さんにご迷惑をおかけした。最近たて続けに原稿を書いては掲載していただいているのだが、正直何かあせりを感じて十分な検証等が出来ていないことがはっきりわかりました。昔から地に付いた研究をしたことがなく、時々の思いつきで書いているのが、見えなくなっていた。しかし、これは性分で今から変えるのも難しい、ただ、フィールドは嘉穂地域というのは変わらない。古文化談叢59集に掲載していただいたものも、墓地関係はまあまあであるが、集落関係は危ないと感じている。したがって、これもアウトのジャッジを受けそうである。九州考古学に投稿しているのは、笠置山での石庖丁原石採取の件であるが、先走り傾向にある。しかし、考えようでそれが切っ掛けで新たな道も開ける可能性があり、ひとまず、それにかけようと思う。間違もあるさと自分に言い聞かせている最中である。
 
 宗像市田熊石畑遺跡のニュースが以前夕刊に掲載されたが、その後、宗像の安部ちゃんと会う機会があり、その後の話を聞くとなんと、5本が15本に増えたという。これはすごいと思っていたら、7月18日の夕刊にそのニュースが紹介されている。その中に気になる箇所があった。6基の墳墓から最高5本もの青銅武器を副葬し、しかも、剣・矛・戈の三種類がそろっており、その上装飾品も出土している。なぜ、今の世にそれほど話題とならないのか、吉武高木なみの墳墓群群には間違いない多丑細文鏡がともなっていないためなのか、意外と地元もマスコミも冷静に見ている。これも、捏造事件の影響なのかな。
 記事の中に、甕棺の及ばない北部九州を非先進地域と確定している。これは非常に危ない見解である。特に、今回のような中期初頭から前半期にかけては、複雑な様相を呈していて、簡単に甕棺に軍配を上げることは出来ない。というのも、早良の吉武高木の中心的墳墓は、大型木棺墓である。鳥栖で以前見つかったものも木棺もしくは木槨墓で中心をなしていて、何れも周囲に甕棺墓があるのだ。嘉麻市の鎌田原遺跡は、典型的で墳丘墓の中心を木槨墓や大形の木棺簿が占有し、周囲に甕棺墓が点在する。今日まで常識とされてきた甕棺墓が墓制として優位にあると考えられるのは、中期後半の世界で、三雲南小路や須玖岡本、立岩の掘田遺跡などが甕棺墓であることは中期後半期である点、また、古賀市の遺跡や佐賀に古い甕棺から複数の青銅器が出土している事などから、そう考えられがちであるが、単純ではない。中期前半の汲田式甕棺は、広範囲に広がりそれまでの土壙墓・木棺墓社会に入り込んでくるのだが、その交代劇が中期前半から中頃に行なわれるようで、それまでは、甕棺と土壙墓・木棺墓は対等もしくは土壙墓・木棺墓が優位な地域がある。朝鮮半島を考えるなら、土壙墓・木棺墓(木槨墓を含む)が優位である事は疑いない。特に、糟屋郡から宗像、北九州から遠賀川流域(中・下流域)田川を含めた豊前地域は、基本的に甕棺を受け入れていない。しかし、後進地域とは言えない。嘉穂地域は、中期前半に甕棺が導入されるが、鎌田原でも観察できるが、優位なのは木槨墓か大型木棺墓で、中期中頃から優位性が逆転し、後半から末頃ついには甕棺に変る。その変った時期に立岩の堀田遺跡は形成されるわけで、宗像のように甕棺を受け入れなくとも、勢力を持った集団はあちこちに出現したのが中期前半で、それらがある意味整理された段階が中期後半の王墓といわれる段階と考えれば、甕棺イコール先進地域という福岡中心主義は瓦解すると思うがいかがであろう。
 北部九州は甕棺とそれ以外の墓制で成り立っていることを忘れてはならない。

北部九州の縄文・撚糸文

2007-12-06 00:32:19 | Weblog
前篇に何度か書いたが、投稿できず。続きはここから書くことにするが、せっかく書いたのが、2度消えてしまったので今日はやめにするが、柏原遺跡のE地点で、気になるものがある。17回縄文研究会の九州における縄文早期前葉の土器相2007の91ページ11の口縁部破片に残る何とも言い難い文様について考えてみたい。
 乱れた条は無節のように見え、さらにね絡まるように反撚の感じを残している。解説には撚糸とも縄文とも記されてないが、どちらかであることには間違いない。一ついうと、通常の撚糸文には見られない特徴がある。それは、施文端部、すなわち施文の最初が連結していてV字を逆にしたようなつながりがあることで、おそらく、撚糸文には見られないものと考えられる。そこで、1段の縄文の端部(二つに折った撚始め)の跡が見えるのか、しかし、条の乱れは如何ともしがたい。では、反撚の縄文の横位回転押捺か、はたまた、反撚の結節(日本先史土器の縄紋の図版前編24の中央にある結節)か、全く異なるものか、再度、観察し解き明かす必要があろう。近年、福岡市を中心に撚糸文を主とする土器群が検出され始めたが、縄文を観察し研究する必要性を痛感する。出来れば、東日本との関連について明らかにすべきとと考えるが、西日本の状況が分からない現状では如何ともしがたい。ただ、全く別個に出現するとは思えないので、その辺を考えてみては如何か。

撚糸文は、最初のほうで触れたようだから、縄文をさらに進めてみることにする。それは、右撚と左撚を撚あわせる際に見られるもので、LとRをどちらに撚合せるかで一方は安定した撚になるが、もう一方は撚がほどけた所謂反撚となる。ただし、実例としては2段のLRとRLをRに撚るかLに撚るかで、3段の段階とな
る。LとRをRに撚ればRLは安定した撚で節が出来るが、RRは反撚となって撚がもどり2条の平行線となる。それが節の間に2本の平行線として現れる。Lに撚れば全く同じ現象として節の向きが反対になるが、節と節の間に2条の1段撚の縄が登場することとなる。しかし、どんなに複雑でも、条に対する節の傾きは変化なく現れることから、どちらに方向に何を撚っているかが分かることとなる。これらを合の撚という。これに、途中反撚が加わるとまた面白い文様が出来上がる。
おそらく九州の縄文土器には複雑な縄文はみられないが、こうしてみると縄文とは様々な種類が分かる。
 山内先生の「斜行縄文に関する二三の観察」という論文があるが、これは、縄文の正体が回転押捺ということが分かる以前に書かれたものである。その観察はまさに寸前まで迫っているのだが、そこに描かれている縄文は、撚った原体の観察と単節斜縄文が描かれている。右撚は時計回り、左撚は反時計回りとが示され、右に節が立っている図とやや斜めに寝ている斜行縄文が描かれ後に回転方向の違いと分かるのだが、当然、条の方向は縦回転と横回転では逆となるが、それを圧痕によって見分けている。つまり、原体を押し付けた場合、上から見た場合と圧痕では反対になることを知り、土器に描き出されたのと同じように粘土に連続平行させて押し付けていって復元されたようである。したがって、説明には(圧痕)と記されている。そして、単節から複節、無節、異節、異条とが説明されている。
 次に、斜行縄文の原体の末端として説明されているが、単節斜縄文の末端として6種類の図が描かれている。その(4)に2条が連結したものがあるが、柏原遺跡群E出土土器で、本稿でも触れた17回縄文研究会の九州における縄文早期前葉の土器相2007の91ページ11の口縁部破片の文様解読のヒントにならないだろうか。無説のようでもあるので、1段の撚で末端が強く残るような押捺方法を試してみては如何だろうか。
 また、条痕文の中にも直線的に稜線が平行するものと、波打つようなものがあり注意を要する。長崎県茶園遺跡の早期資料の中に結節沈線と表現されたものがあるが、自分にはよくわからないが、特徴として類似しているようにも思える。
 さて、施文はどのようにして行なわれたのか、施文具はいったいなんであるのか、茶園遺跡では微波状を呈したものが存在していて、草創期の押引文の系譜下にあるとしている。ちなみに、沈線文の間隔が狭いものと広いものがあり、広いものは直線的で関東の田戸下層式を思わせるが、問題は幅が狭く等間隔で何条も施されているものである。しかも、微隆起線状のものや押引文を思わせるものがあるという。実物を見ないで何とも言いようがないが、櫛歯条の施文工具がありそれを押引状に施すのか、あるいは、0段の撚糸を絡状体として、回転させずに表面を押引状にするのか、それとも、0段の撚糸を絡状体として回転押捺させるか、また、動物の腱といったものを絡状体とすることも考えられよう。いずれにしても、撚糸文土器群との関連を考慮する必要はあろうかと思う。
久々に書きます。今思いつきましたが、絡状体の半回転あるいは、一部回転とかが存在するようで、その方面にも探りをいれると面白いでしょう。
 
 また、縄文について書くことにしよう。せっかくだから、北部九州で草創期から早期前葉にかけて縄文系が出土することを念頭において進めていこう。撚糸文が出土するのだからた縄文があってもいいと思う。案外、日本海沿岸から直接北部九州に入っている可能性もあろう。

さて、縄文草創期の隆起線文土器が北部九州に入ってないかという話からはじめよう。かつて、古文化談叢52集2005に、生意気にも隆起線文土器として旧嘉穂町の小野谷に所在する巻原遺跡出土の土器片を、観察の結果、細隆起線文土器の可能性ありとして報告し、さらに、過去、轟B式として報告された様々な資料中に、隆起線文土器が混在していないだろうかという事を記してみた。何ら感触はなかったがすっぽり抜けた福岡県内において爪形文まで出ているのに、まして、長崎にそのような草創期の資料が多々発見されているのなら、福岡県内にもその可能性はあろうかと考える。遠賀川下流域では、柳又式の有舌尖頭器が出土し、立岩では神子柴系の局部磨製石斧も出土している。さて、土器はどうしたのかな。
 報告した、巻原より若干下流域の低段丘から刺突文、条痕文、格子目の押型文の破片が得られている。おそらく、その一帯は少なくとも縄文早期前葉には集落の進出があった事は明白である。その中に、逸早く隆起線文土器あたりから居住が開始されているとしたらどうだろう。しかし、古い石器は確認されていない。見落としとも思えないが、今一度石鏃あたりから探してみようと思っている。その前に、刺突文土器等の資料紹介を考えているが、なかなか暇がない。ただ、面白いのは、巻原遺跡出土の刺突文土器の表面を飾っている格子状の条痕文が、勘高遺跡出土の条痕文の文様となっていて、そこに共通点が見出せることである。東九州の条痕文土器に格子状に重なる類例はないだろうか、早期初頭に登場するとすれば、刺突文も含めて、草創期の押引文あたりに突入できたらと考えている。

勘高遺跡で思い出したが、黄褐色系のシルトのような層が広がっていた。原田遺跡でもその層は存在した。おそらく、洪積世の堆積物と判断したが、勘高遺跡ではそんなことは微塵も考えられなかった。今考えるとレスと呼ばれる黄土の堆積層ではなかったかと、後悔している。勘高遺跡に近い藤右ェ門畑遺跡(段丘堆積層)の上層から押型文や塞ノ神式がオレンジ色の火山灰土(アカホヤ層)から検出されたが、その下層は礫層でレスの堆積は見られなかった。もしかして、礫層の下に隠れていたかもしれないが、そこまでの掘り下げはしなかった。

 過去から近年、最近まで目に触れた本や論文等から、私なりに感じたこと、思ったこと等をささやくように記したいと思います。
 
 石井浩幸氏の「山形県西川町月山沢遺跡出土石器群の検討」山形県埋蔵文化財センター紀要第3号 2005を読んで。
 1980年に山形県教育委員会によって発掘調査が成された槍先形尖頭器と細石器が出土した当遺跡を重要視され、石器群の出土状況と組成について検討を加えられいる。当遺跡の発掘調査は、私が大学2年の夏休みで初めて参加した旧石器の遺跡であり(当時は先土器時代と言ってたかもしれない。)、調査期間は10日から2週間くらいだったと記憶する。
 1日目は機材搬入と雨の中の草刈で、地元から三人くらい作業員のおじさん達が来ていた。2日目からベンチマークの移動とグリッドの杭打ち作業で、三日目から発掘に入ったと記憶する。後にJ遺跡とされる地点が最も高い位置にあって、調査区候補となるが、墓地であったと言うことでかく乱があり、短期間調査ではよりプライマリーな状態であるやや低くなった平坦地が中心となった。グリッドを開けていきながら、遺物集中地点を探し、拡大化していく方法で、時間節約のためグリッドも『のように全体の3/4を開けて確認していった。確か、私が一番に槍先形尖頭器に当ったと思うのだが、それが、Bブロック第5図12で、一部にアスファルトが付着していたと思う。当然、その周囲から拡大化していくという方法をとった。
 ついに、Bブロックに槍先形尖頭器が集中して出土することとなる。石井氏は第11図に出土状況の写真より復元された石器の配置状況を示され、デポの可能性を指摘されている。当時、確かに集中して出土したがデポという意識は誰も持ち合わせてなかったと思う。また、出土した位置や方向に対する考えも固まっておらず、出来るだけ出土した状況を押さえればという平凡な考えである。実は、せっかく石井氏が復元された石器集中状況であるが、石器はおじさんが掘り出したもので、現場経験がある人は分かるであろうが、通常、初心者は掘り上げてしまうもので、スタンプを残してという考えはない。石井氏には申し訳ないが、石器類の方向性については、あまり信用できない。ただ、写真5の大形石槍手前に角の丸い石があるが、台石ではないかと疑ったものである。
当時、元位置論盛んなりしころで、様々な細かい作業が関東の旧石器現場で行なわれていたようだが、地方はその比にあらず。極めて短期間の調査では、そこまで厳密な作業は行ない難し。また、初心者の作業員さん達とあってはなおさら困難である。その辺りご注意願いたい。
 次に、槍先形尖頭器と細石器の共伴問題であるが、自分達が掘っていて、伴出するとは考えていなかった。薄い包含層の中では確認は出来ない。これは、石井氏の記されている通りで、表土の下にソフトローム状の漸移層がありその下にハードローム層があるがね遺物は、全てソフトロームに含まれていたと思う。黄褐色の柔らかい層が終わり表面がやや明るく硬くなるとその下には何もない状況であった。それから、分布からすると槍先形尖頭器と細石器関係は、範囲を異にしていると考えていた。母岩の同一が見受けられないのは、そのようなところではないか、我々は若干の時期差をもって最後まで発掘を続けた記憶がある。Dブロック辺りから細石刃1片を掘り出したのは私である。出土直後から長さ的に裁断により短くなっている。あるいは、折れたものであったが、稜線と両脇のラインが平行で、細石刃と直感した。また、その辺りから三戸式?当時は田戸下層式と言っていたが、その土器片も出土している。D~Bブロックの間くらい、細石刃が出土した辺りから下方東側に急激に落ちていく地点であり、石片が多く混在するかく乱状の地点があった。時間が許せる限り掘ったが、まだ下に落ちていた。その中に細石刃が隠れていたかもしれないが、槍先はなかった。個人的に、デポという意見には、賛成しがたい。槍先形尖頭器と細石器の同時性は、月山沢では確認できないと考える。
 ちょうど、その頃県教委の阿部さんが山大の学生と弓張平を調査していた。その時は縄文が主に発見されていたと記憶する。いずれにしても、懐かしい思い出である。その後、加藤 稔先生や小田静夫さんが遺物を見に来ている。
 もし、石井氏もしくは彼と知り合いの方がこれを読んだら、知らせてください。


最近、アフリカにおける人類学バトルともいうべき、人類の祖先を求める壮絶な学者の戦いを描いたアン・ギボンズ著 河合信和訳の「最初のヒト」新書館2007を読んだところである。私はかつてルイス・リーキーのジンジャントロプス発見のドキュメントを中学時代に見て、また、ライフの「原始人」を読んで興味を覚えた。その後、アフリカの人類祖先探しの本は読まずにいたが、以前、ルーシーを読み再びアフリカに興味を持ち出した。自分は考古学だから石器類には興味を持っていたが、リーキーの時代石器と人骨との関係についてつぶさに調査がなされ、ホモ・ハビリスという石器を使用したであろう、現生人類に直結する人骨の発見まで発見されたというところで終わっていた。ところが、石器は200万年を越えず、人類はそれ以前から枝分かれしており、その証拠がアフリカ各地で発見されているという。また、遺伝子レベルからの捜索により分子時計ともいうべきタイムスケールから、現生人類に最も近い類人猿はチンパンジーで、それと枝分かれしたのが500~600万年という。私の記憶では180万年ほどであったのが、3倍ほども遡っているようで、名称もアウストラロピテクスからアルディピテクスやサヘラントロプス、オロリンといった耳慣れない名称が並んでいる。年代は500~600万年に近づいている。しかも、各国の大学や研究所、地元の博物館も加わって、それこそ、人骨戦争ともいうべき状況である。
 私の夢の一つに、旧石器の人骨探しというのが入っている。日本の風土気候からかなり困難ではあろうが、いつか、とんでもないところから発見される可能性がある。恐竜の化石がそれである。私の学生時代に日本から陸上恐竜の化石は発見されないであろうというのが大方の意見であったが、熊本の御船層から肉食竜の歯が発見されるや否や、全国に飛び火し、今や日本は様々な恐竜化石が発見されることで世界でも知られるようになって来た。何気ない発見が切っ掛けとなる事は多い。さしずめ岩宿はその典型例であろう。人骨はローム層で無理だろう。したがって、砂礫層や石灰岩洞窟やその近辺の土壌、つまり、酸性が強くない土質に期待するほかないであろう。これは、アマチュアに頼ったほうがよい。一度発見されれば、次々と見つかる事は予想がつく。やはり、動物化石がよく発見される地層を求める、これからスタートか。

 実は、旧嘉穂町鎌田原弥生墳墓群(県指定)から出土した中期前半の汲田式甕棺であるが、中細の最も古式の銅戈を副葬していたが、その下甕の口唇部に凹線文のような2条の窪んだ平行線があった。須玖式の古段階相当であるから、第Ⅲ様式に平行するのであろうが、注意すべき点と考える。他に甕棺の口縁部にそのような跡が見られるのか、単なる偶然か、興味あるところである。

 嘉穂地域に於ける弥生中期後半~末頃にかけて、立岩丘陵とその周囲に集住現象が見られるようである。その辺りを、今度、古文化談叢書いてみましたが、実証性にかけたものとなり、論文と言うより物語となってしまいました。5月頃の発刊だそうで、初稿を終了し明日送付します。

久々に書き込みます。下山先生の書かれた「北部九州における第四紀後期の地質とその形成環境」九州旧石器研究11号九州旧石器研究会2007を基本に、地形を読み取ろうと考えています。特に、段丘の高位・中位・低位を見分け、花崗岩台地とは異なる河川堆積から成立する地形を地図に書き込もうと思います。地質図とも言うべきものでしょうが、あくまで旧石器を見つけるための1歩です。
 当地は盆地であり、先生の書かれた内容では、福岡平野と筑後平野を題材とされていまして、当地は今ひとつ分からない。しかし、内容を見ていると福岡の糟屋方面との関連が見られる。あるいは、筑後との関係も見られ、ちょうど両者から借りてくればいいのかなという浅はかな考えを持っております。
 現在、調査された旧碓井の竹生島古墳の乗った独立丘陵は、まさに、高位段丘で標高56mほど、地元の人によればずっと下方まで赤土を主とするようで、予想は下方部がマサ土で上層に段丘堆積物があると考えていたが、それは外れたようである。赤土の礫層の上に赤色の土が堆積しているが、これは鳥栖ロームと考えられる。もちろん粘性があって礫等は一切含んでいない。その上に黄褐色のレス層があればよかったのだが、見当たらずじまいである。
 旧嘉穂町の下益にASO4が風化もせず暗灰色のまま3~4mの厚さで堆積しており、そこの標高が、やはり56m前後であり、ASO4が堆積した頃には、段丘がつながっていた可能性が考えられる。現在、下益付近では沖積地との比高差4m程で竹生島では10m以上となり、その西側に存在する低位段丘とは6~8メートルである。竹生島が独立丘となったのは、低位段丘形成の前段での河川浸食が原因と考えられるが、いつ頃と考えたらよいのか、それが判明すると、嘉穂盆地の低位段丘形成の時期がおおよそ判明するはずである。
 現在、ASO4が確認される場所をプロットしていくと、高位段丘形成時の様相が判明してこよう。確実なのは旧筑穂町の北古賀丘陵である。

3/1 新聞で長野の柳沢遺跡出土の銅戈と銅鐸の記事が記載してあったが、大阪湾型と九州型として紀元前2世紀に製作、紀元前後に埋納とあった。これは、新年代で記してあるのか、鎌田原遺跡出土の細形と中細は汲田式の甕棺に納まっていたが、それでは、汲田式はいつ頃になるのだろう。それと同時期のものが、鎌田原の木槨墓で、楽浪郡が紀元前108年、そこに存在する木槨墓の影響と朝鮮半島系の青銅武器の所持から紀元前1世紀頃と検討付けたのだが、何処まで古くなるのだろう。そうすると、中国からの直接的影響下による木槨墓となるが、どう考えればいいのかな。新しいC14の年代を見てみよう。

最近、中村修身さんから石庖丁に関するレポートの抜き刷りをいただいた。中村さんは、一貫して立岩石の庖丁製作所址とその製品の配布、あるいは分配に対して異論を唱えておられる。特に、遠賀川以東の北九州地域における各村々による製作を強調されている。ご存知の通り白亜紀後期の火山活動活発なりし頃の状況を示す下関亜層群に相当する火山系の岩石で、小豆色の凝灰岩を素材とする石庖丁等の石器が、飯塚市立岩遺跡群で専業的に生産され、北部九州のあちこちに搬出されたという、学会の定説的見解に対する反論である。

 この下関亜層群の分布は、遠賀川以東地域で福岡平野や筑後方面には見られないようであり、小豆色の石庖丁がその地域等で出土すれば、立岩製品かとおもわれるほどである。近年、遠賀川流域の各遺跡から石庖丁の未製品等が点々と出土しており、立岩オンリーでない事は、どうも真実らしい。しかし、点在する北九州地域での未製品が自村消費かそれ以上に製作し他地域へ搬出しているのかは見極めねばならない。

 中村氏のレポートで立岩を含め北九州域で出土した石庖丁等の未製品の一覧が掲載されているが、残念ながら点数が分からない。かつて、中村氏は地域相研究1991年版の中で飯塚市立岩地域出土石包丁と未製品の数を数えて1500点ほどの点数を示してある。ここに提示されているのはほとんどが採集品であり、正式に発掘されたものは極めて少ない。にもかかわらず大量の製品・未製品・欠損品である。とするなら、立岩遺跡群と呼ばれる範囲を完全に包括する前面調査すればどれだけの資料が得られたであろうか。どうも、弥生中期に集住という周辺集落からの移動であろうか、大拠点集落の形成が明らかとなりつつある。この立岩もそうであり、嘉穂地域各所の遺跡数減少に反して川島の川床の遺跡も含め、立岩丘陵一帯が一大拠点となったようで、その中心に石庖丁等の製作があると考えている。

 ちなみに、旧嘉穂町で相当弥生集落は発掘したが、未製品は1~2点くらいか、おそらく嘉穂地域は農業主体で、鎌田原や原田といった青銅器出土遺跡間で存在するが、石庖丁は作ってない。むしろ、北と南の筑後方面における小豆色の石庖丁に注目されよう。何故なら、遠賀川流域や北九州地域とは比べようもない広い平野を有しており、立岩の目がどちらを向いていたかである。ちなみに、甕棺は北筑後辺りから入ってきており、これが大きな交易の道と考えている。甕棺の分布から見ても嘉穂地域が東限であり、北九州や遠賀川下流域とは一線を画している。商売相手は、石庖丁を手に入れたくとも入らないが、裕福な耕地を有している地域を対象としなければ儲からない。財力を蓄積するには欲しい相手と取引しなければ意味がない。下関亜層群の分布地域との取引は懸命ではないと考える。
 立岩地区で注目しているのが、中期の石庖丁等の未製品等が採集される地点が、丘陵から丘陵下の下ノ方、さらに、川島の殿ヶ浦遺跡に見られる点である。もっとも、下ノ方等は中山平次郎氏から以降、十分に知られている。特に、中期の須玖Ⅱ式段階における遺跡群の拡充は目を見張るところがある。その辺りの嘉穂地域における遺跡数をグラフにすると遺跡数はかなり減少するが、立岩一帯は増加傾向にある。これを私は、石器専業体制確立とともに周辺から人々が集まる集住現象と推定した。
 笠置山周辺で原材料採集の状況は見られないとし、おそらく、川床の転石を採集したと考えられているが、つぶさに探したとは聞いたことがない。化石採集で山麓の平地に分け入ると頁岩の破片の山がある。そういったところを丹念に探す必要があろう。マムシと猪にはご注意。専業体制になると荒割り加工所があってもよいと考える。輝緑凝灰岩も質の良不良があろう。転石より露頭採集が効果的ではないだろうか。一度、そういう目で現地を訪れたいものである。 

 

九州の縄文・撚糸文

2007-11-04 09:42:27 | Weblog
 九州の縄文・撚糸文

 田川の添田で、撚糸文土器を見たがおよそ東日本のものとはかけ離れていた。しかし、突然に降って湧いたように撚糸による施文方法が出てきたはずもない。福岡市松木田遺跡では大量の撚糸文土器が検出されているようであり、柏原遺跡では刺突文土器とともに縄文早期の古層として把握されて来た。
 その中で、気になる点がいくつかあるが、まず、口唇部に絡状体圧痕を施すものが結構指摘されている。つまり、撚糸文の原体を口唇に押し当てていることになる。結果として、口唇には刻み目状の凹凸が生じることとなるが、この場合、口唇とそれ以下に施す施文とに意図的なものがあるのかどうかである。また、押し当てているのか、回転させているのかを見極める必要があろう。関東の井草式は口唇部が肥圧しそこに縄文を回転させている。大丸式は撚糸文でやはり口唇部に回転させて施文している。つまり、松木田の場合施文面が少なく原隊を押し当てたのか、回転させたかの判断は難しいと考える。また、原体を回転させると撚が中々見えないが、狭い面積の口唇に確実に施文するとしたら、片方の手で土器内面から固定させ指先で原隊を少し回転させると確実に、綺麗に施すことが出来る。その場合、撚糸の撚り明確に分かるように、以下にも押し当てたように見える。
 私が述べたいのは、絡状体圧痕と記載すれば、多縄文系のものと混同する恐れがあり、確実に押圧しているのか、それとも少し回転させているのかそのあたりよく検討していただければと思う。口唇の狭い場所に確実に施文しようとするなら、絡状体を押し当てて口縁部に乱れを生じさせるよりは、回転押捺によるほうが確実で綺麗な痕跡を作ることが可能である。
 柏原や松木田で思うのは、撚糸の間が実に密接している点と撚がよく見えないほど直線化している点である。おそらく、軸に密に巻く際に撚が戻るため節がかなり間延びしているのではなかろうか、しかも、コイル状というよりは、直線状に巻かれているため、斜方向へと条が走るなら斜位に回転させているのであろう。
 田川の添田で見た撚糸文はいかにも太い条で思わず撚縄文かと思ったくらいである。押型文土器と一緒のようで、器壁を両者が飾るものもある。福岡の縄文早期前半期の型式整理は、もう少し時間を要するだろう。

 古文化談叢52集2005に投稿した資料紹介の中で、撚糸文土器を1例挙げているがこれは条の中に縦に間延びする節が明確に観察できたため、1段のLを短軸絡状体として施文したものと考えている。撚が見えない場合lやrつまり0段のものをそのまま絡状体にとして施文する場合も想定されよう。
 17回九州縄文研究会 「福岡大会の九州における縄文時代早期前葉の土器相」という資料集を見ているが、福岡市柏原E遺跡(P91)の11と13は撚糸の末端がループ状につながっているように見えるが、どうであろう。しばしば、縄文の折り返しの部分が器面に接触するとユーターンするような連続性が見られる場合がある。最も、11は口縁部であるから、施文の連続でそのような文様になったのかもしれない。また、縄文もあるようで撚糸文より比較的薄い器壁のようで、口縁部内面に施されるものもあるようだ。表裏縄文との関係はどうであろう。
 続いて松木田(p72)の8は、1回の施文スパーンが短く不連続的で、他のものとは異なるような感じである。撚糸文は縄文に比べ軸があって回転させやすく、比較的長いスパーンの施文を可能としている。しかし、縄文は指先からせいぜい第2関節くらいのスパーンで、それをまんべんなくくり返すことで全体に施している。それと、条の乱れがもう一つ気に成っている。各条は一見撚糸文に見えるが、幅といい条間に見られる細い条など反撚の縄文を想起させるがどうであろうか。
 さて、北部九州の撚糸文の系譜は何処にあるのだろうか。近年、九州でも縄文晩期の大洞式がちらほら出土しているようで、かつて、近畿までといわれた東北系の土器は、今や九州に至っている。近い将来、関東の撚糸文土器群との関連が明確になってこよう。ひにくにも大規模開発のお陰であろう。
 
 縄文中期の船元式という型式の土器が筑豊でもちらほら出土する。話では撚の緩い縄文を回転押捺するという。しかし、中には、節がよく見えるものがあり1段撚のものというのは解るが、節の特徴に注意するものがあるようだ、それは節が細長く詰まった感じのもので、両端が尖っているように見えるものである。この場合、0段のものを2本以上の複数を撚るという、つまり、多縄文ということにならないだろうか、得てして条の幅が大きく感じるが、撚り合わせる0段のものの太さより、多条にするために自ずと縄が太くなるように思える。いかがであろうか。
 
 縄文を撚るには、ティッシュを裂いて使うのだが、早い話コヨリを作ればlかrが出来上がる。その時、コヨリを目先から正面、つのまり、横にして朝顔のつるが巻き登っていくように左から右に斜めに上がりながら回転していくのを時計回りのrその反対に右下から左斜め上に巻き上がっていくのがlである。rを二つに折って折り曲げた箇所をL方向に撚る。その時、撚りがほどけながら絡み合う。得てして巻が弱い撚りが完成するので、右手指先で2本のrを強く締めながらL方向に撚って行くと安定した1段Lの縄が誕生する。これはちょっとしたテクニックが必要であるが、中々に面白い。
 1段のLが出来たら観察する。反時計回りに植物のつるが巻くように上に登るのが分かる。そこで気をつける事は、縄の状態ではなく土器の表面に押し付けてあったり、転がしてあったりするところで、つまり、押圧すると縄の裏面が常に押し付けられることから、縄の見た目の節が左上がりででも圧痕は右上がりとなる。逆にRは見た目右上がりだが、圧痕は節が左上がりとなる。それを見るには、LとRの縄を鏡にうつせば、圧痕の招待がつかめよう。
 さて、このLとRを回転押捺させるとややこしくなってくる。押圧縄文の節は回転押捺によって条となる。1段の場合、節が転がってつくる条には節がない。無節縄文というものになる。しかし、条の中を観察すると繊維の縦線が見える。この繊維は、LとRに撚り合わされる前のrとlが出現しているのである。条の平行線に対して、繊維の方向がやや左上がりでであればL、右上がりであればRとなる。また、状の方向でも見ることが可能である。ただし、横に転がした場合と縦に転がした場合は、条の方向が変ってくるのでご用心。
 縦か横かは、条の中の節や繊維の状態で分かる。横の場合条に対して繊維の方向や節の出かたがたっている。縦に転がすと条に対して繊維の方向や節が寝ている。私の場合、回転方向を節などの状態で把握して、縦回転に方向を変えてみる。そうすると、Lは左上から右下に条が流れ、節や繊維はその方向にやや左上がりとなっている。Rは右上から左下に条が流れ、節や繊維は条に対してやや右上がりとなっている。これは、縄文を見るときの大前提となるので覚えていて欲しい。これが2段、3段となっても基本である。
 Lは二つ折りにして撚ると2段のRLとなる。その場合、圧痕は縄を見た目は、節が右上がりで、節の中に左上がりの小さな節が2つ団子みたいに入れ子となっている。横回転させると条は右上から左下に流れ、その中に節が出来る。節は1段のLが現れているのである。節の方向は条に対してやや右上がり、その節の中にはさらに繊維の方向が分かり、それはrが現れているのである。LRの場合は条が左上から右下に流れ、節は条に対してやや左上がりとなる。
 再度、気をつける事は縄文は回転方向によって条の流れが左右に変化するので、条と節の関係を確実に捉えることが基本となる。ちなみに、条が横に流れる場合は、斜度45度くらいで回転させている。

 多縄文
 通常、lやrを折り曲げて2本で撚るものが多いが、時として、lやrを3~4本撚り合せて一段の縄にする場合がある。また、一段のLやRを3~4本撚り合わせるものがある。この場合の特徴としては、節が詰まっていて細長く整然としている。LRでRがlを3本を寄り合わせたものとすれば、圧痕は右から左に細長い節が見られ、その節の中にRがあるが、通常2本の撚り合わせでは節の中2~3の入れ子化した小さな節が見られるが、多縄文の場合6個程度が見られる。さらに回転押捺させると左上から右下に流れる条の中に左上がりの細長く詰まった美しい節が見られるのが特徴である。この場合、何本のlを撚っているかは、条の中の節に何本かおきに同じ形の節が現れるので、特徴在る節から次に出現する同様の節の手前までを数えればその数が分かる。同じLRでもRが何本か撚られる場合は、条に特徴あるものがあるので、先の節と同様に数えれば何本のRを撚り合わせたかが分かる。
 それで気になるのは、筑豊でも出土する船元式の縄文に多条と思われるものがある。戸田哲也氏は、「縄文文化の研究」縄文土器Ⅲの「縄文」の中で、反撚りによる多縄文を原体としているものとして、船元Ⅳ式を示されている。確かに、節が細長く詰まったもので、節の両端が鋭利なものがある。これは要注意である。また、緩く撚った縄文を回転させたとするものがあるが、節がよく観察できないものである。しかし、粘土の乾燥状況により湿りすぎると節が流れてしまったり、逆に乾燥しすぎると節の表面だけが押捺され条と条の間隔が広く見えるものもあるので注意が必要である。
 
 反撚り
 反撚りという言葉が出てきたので、その説明に入る。これは、通常、LRLR、あるいはその反対にRLRLとくり返していくのが、縄文の正の撚りである。ところが、中にRRとかLLといったように同じ方向に2回撚ることがある。その場合、当然整然としてた縄にはならず、節が崩れたものとなる。しかし、以外に綺麗な文様を出現させ、原体は見事にしまって硬いものとなる。多い例としてはRRとかLLといった2段目の撚りの際に再び同じ方向に撚るものが多いようで、東北南部の大木式の中に円筒上層系の土器があって、上半部に施されたものを実測したことがある。反撚りを完全にすると、撚りが戻って前段の撚りがコイル状に巻き上がる形になる。しかし、実際はどこかに撚りが残っていて、長い節といったらいいのか、どこかに、撚りが現れてくる。RRとかLLは直前段反撚りと山内先生は記している。3段になるとRRLとかLLR、RLL、LRRということになるが、現れ方はそれぞれである。直前段反撚りの場合、節は1段目が状の中に出現するが細長く非常に斜めになっている。また、撚りのもどりが大きいほどその節は間延びして、条自体がねじれたように見える。その圧痕は多条文のように節の中に4つくらいの節が見られる。縦の回転押捺はLLの場合、条は左上から右下に流れるが、節は非常に立っていて、横回転に見える。RRはその反対に右上から左下に流れるがやはり、節は立っている。両者ともに条が明確ではなく、条の脇から別の条が現れる監事である。RRLとかLLR場合は、条が乱れて分からず、RLやLRがそれぞれ短い錠のうに見える。何か、芋虫の大群が這っているようにもみえ、面白い。
それに対してRLL、LRRは、条が明確で節は詰まった上体で美しく現れ、まるで、多縄文と見間違うようである。しかし、よく見ると多縄文より節が粗くそろっていない。また、RLLは右上から左下に条が流れ、LRRはその逆であるが、節が条に対してほとんど直角で正の撚りのような傾きが見られない特徴がある。
 戸田哲也氏は「縄文」『縄文文化の研究』5縄文土器Ⅲ 雄山閣1983の中で、1段の反撚りを2段目で正による縄文を関東の加曾利E式の末期に検出され、記載されている。実は、この本が出た頃に私も1段反撚りの縄文について書いた事がある。山形県埋蔵文化財調査報告書75集「水木田遺跡」1984の31ページである。この文章を書いていた頃に戸田氏のものを読み、あわてて、註として書き込んだ記憶がある。この報告書で縄文土器のほとんどを実測させてもらい、その時に、縄文の撚り方の手ほどきを受けたのであるが、九州に来てほとんど役には立っていないが、そのうち、撚糸文も含めてみんなで論議することがあろう。楽しみである。

 みなさんは、山内清男先生の「日本先史土器の縄紋」1979をご存知だろうか。実は、一度、東京の中野で行なわれた学会の場で販売されたことがあった。限定商品で当時1万円だったと記憶する。私の友人は購入したが、私は買わなかった。その時の後悔は山形県埋蔵文化財調査報告書75集「水木田遺跡」1984の整理作業でもろに現れた。私は、購入した人から借りては大学ノートに書き写した。コピーはもちろん使用することが出来たが、それでは頭に入らないと、毎日、少しずつ書き写したものが手元にある。その後、全集とともに文献も手に入れたが、この書き写したノートはある意味、私のちょっとした自信となっている。
 文様帯系統論という言葉をご存知かと思うが、わたしは、ゲジゲジとカエルとヘビとの関係を例え話として拝聴したことがある。食物連鎖のようにゲジゲジが最初に文様帯に登場する。それをカエルが食べてしまいカエルの世界になったかと思うとヘビが現れてカエルを食べてしまう。食べ終わったヘビは食べ物がなくなり、再びゲジゲジが出現しカエル、ヘビという繰り返しだというのである。未だに理解できないが縄文をやっている人だと解るかな。