筑豊の縄文・弥生

筑豊の考古学は「立岩遺蹟」「嘉穂地方誌」先史編の2冊に凝縮されている。が、80年代以降の大規模調査成果は如何に。

北部九州の縄文・撚糸文

2007-12-06 00:32:19 | Weblog
前篇に何度か書いたが、投稿できず。続きはここから書くことにするが、せっかく書いたのが、2度消えてしまったので今日はやめにするが、柏原遺跡のE地点で、気になるものがある。17回縄文研究会の九州における縄文早期前葉の土器相2007の91ページ11の口縁部破片に残る何とも言い難い文様について考えてみたい。
 乱れた条は無節のように見え、さらにね絡まるように反撚の感じを残している。解説には撚糸とも縄文とも記されてないが、どちらかであることには間違いない。一ついうと、通常の撚糸文には見られない特徴がある。それは、施文端部、すなわち施文の最初が連結していてV字を逆にしたようなつながりがあることで、おそらく、撚糸文には見られないものと考えられる。そこで、1段の縄文の端部(二つに折った撚始め)の跡が見えるのか、しかし、条の乱れは如何ともしがたい。では、反撚の縄文の横位回転押捺か、はたまた、反撚の結節(日本先史土器の縄紋の図版前編24の中央にある結節)か、全く異なるものか、再度、観察し解き明かす必要があろう。近年、福岡市を中心に撚糸文を主とする土器群が検出され始めたが、縄文を観察し研究する必要性を痛感する。出来れば、東日本との関連について明らかにすべきとと考えるが、西日本の状況が分からない現状では如何ともしがたい。ただ、全く別個に出現するとは思えないので、その辺を考えてみては如何か。

撚糸文は、最初のほうで触れたようだから、縄文をさらに進めてみることにする。それは、右撚と左撚を撚あわせる際に見られるもので、LとRをどちらに撚合せるかで一方は安定した撚になるが、もう一方は撚がほどけた所謂反撚となる。ただし、実例としては2段のLRとRLをRに撚るかLに撚るかで、3段の段階とな
る。LとRをRに撚ればRLは安定した撚で節が出来るが、RRは反撚となって撚がもどり2条の平行線となる。それが節の間に2本の平行線として現れる。Lに撚れば全く同じ現象として節の向きが反対になるが、節と節の間に2条の1段撚の縄が登場することとなる。しかし、どんなに複雑でも、条に対する節の傾きは変化なく現れることから、どちらに方向に何を撚っているかが分かることとなる。これらを合の撚という。これに、途中反撚が加わるとまた面白い文様が出来上がる。
おそらく九州の縄文土器には複雑な縄文はみられないが、こうしてみると縄文とは様々な種類が分かる。
 山内先生の「斜行縄文に関する二三の観察」という論文があるが、これは、縄文の正体が回転押捺ということが分かる以前に書かれたものである。その観察はまさに寸前まで迫っているのだが、そこに描かれている縄文は、撚った原体の観察と単節斜縄文が描かれている。右撚は時計回り、左撚は反時計回りとが示され、右に節が立っている図とやや斜めに寝ている斜行縄文が描かれ後に回転方向の違いと分かるのだが、当然、条の方向は縦回転と横回転では逆となるが、それを圧痕によって見分けている。つまり、原体を押し付けた場合、上から見た場合と圧痕では反対になることを知り、土器に描き出されたのと同じように粘土に連続平行させて押し付けていって復元されたようである。したがって、説明には(圧痕)と記されている。そして、単節から複節、無節、異節、異条とが説明されている。
 次に、斜行縄文の原体の末端として説明されているが、単節斜縄文の末端として6種類の図が描かれている。その(4)に2条が連結したものがあるが、柏原遺跡群E出土土器で、本稿でも触れた17回縄文研究会の九州における縄文早期前葉の土器相2007の91ページ11の口縁部破片の文様解読のヒントにならないだろうか。無説のようでもあるので、1段の撚で末端が強く残るような押捺方法を試してみては如何だろうか。
 また、条痕文の中にも直線的に稜線が平行するものと、波打つようなものがあり注意を要する。長崎県茶園遺跡の早期資料の中に結節沈線と表現されたものがあるが、自分にはよくわからないが、特徴として類似しているようにも思える。
 さて、施文はどのようにして行なわれたのか、施文具はいったいなんであるのか、茶園遺跡では微波状を呈したものが存在していて、草創期の押引文の系譜下にあるとしている。ちなみに、沈線文の間隔が狭いものと広いものがあり、広いものは直線的で関東の田戸下層式を思わせるが、問題は幅が狭く等間隔で何条も施されているものである。しかも、微隆起線状のものや押引文を思わせるものがあるという。実物を見ないで何とも言いようがないが、櫛歯条の施文工具がありそれを押引状に施すのか、あるいは、0段の撚糸を絡状体として、回転させずに表面を押引状にするのか、それとも、0段の撚糸を絡状体として回転押捺させるか、また、動物の腱といったものを絡状体とすることも考えられよう。いずれにしても、撚糸文土器群との関連を考慮する必要はあろうかと思う。
久々に書きます。今思いつきましたが、絡状体の半回転あるいは、一部回転とかが存在するようで、その方面にも探りをいれると面白いでしょう。
 
 また、縄文について書くことにしよう。せっかくだから、北部九州で草創期から早期前葉にかけて縄文系が出土することを念頭において進めていこう。撚糸文が出土するのだからた縄文があってもいいと思う。案外、日本海沿岸から直接北部九州に入っている可能性もあろう。

さて、縄文草創期の隆起線文土器が北部九州に入ってないかという話からはじめよう。かつて、古文化談叢52集2005に、生意気にも隆起線文土器として旧嘉穂町の小野谷に所在する巻原遺跡出土の土器片を、観察の結果、細隆起線文土器の可能性ありとして報告し、さらに、過去、轟B式として報告された様々な資料中に、隆起線文土器が混在していないだろうかという事を記してみた。何ら感触はなかったがすっぽり抜けた福岡県内において爪形文まで出ているのに、まして、長崎にそのような草創期の資料が多々発見されているのなら、福岡県内にもその可能性はあろうかと考える。遠賀川下流域では、柳又式の有舌尖頭器が出土し、立岩では神子柴系の局部磨製石斧も出土している。さて、土器はどうしたのかな。
 報告した、巻原より若干下流域の低段丘から刺突文、条痕文、格子目の押型文の破片が得られている。おそらく、その一帯は少なくとも縄文早期前葉には集落の進出があった事は明白である。その中に、逸早く隆起線文土器あたりから居住が開始されているとしたらどうだろう。しかし、古い石器は確認されていない。見落としとも思えないが、今一度石鏃あたりから探してみようと思っている。その前に、刺突文土器等の資料紹介を考えているが、なかなか暇がない。ただ、面白いのは、巻原遺跡出土の刺突文土器の表面を飾っている格子状の条痕文が、勘高遺跡出土の条痕文の文様となっていて、そこに共通点が見出せることである。東九州の条痕文土器に格子状に重なる類例はないだろうか、早期初頭に登場するとすれば、刺突文も含めて、草創期の押引文あたりに突入できたらと考えている。

勘高遺跡で思い出したが、黄褐色系のシルトのような層が広がっていた。原田遺跡でもその層は存在した。おそらく、洪積世の堆積物と判断したが、勘高遺跡ではそんなことは微塵も考えられなかった。今考えるとレスと呼ばれる黄土の堆積層ではなかったかと、後悔している。勘高遺跡に近い藤右ェ門畑遺跡(段丘堆積層)の上層から押型文や塞ノ神式がオレンジ色の火山灰土(アカホヤ層)から検出されたが、その下層は礫層でレスの堆積は見られなかった。もしかして、礫層の下に隠れていたかもしれないが、そこまでの掘り下げはしなかった。

 過去から近年、最近まで目に触れた本や論文等から、私なりに感じたこと、思ったこと等をささやくように記したいと思います。
 
 石井浩幸氏の「山形県西川町月山沢遺跡出土石器群の検討」山形県埋蔵文化財センター紀要第3号 2005を読んで。
 1980年に山形県教育委員会によって発掘調査が成された槍先形尖頭器と細石器が出土した当遺跡を重要視され、石器群の出土状況と組成について検討を加えられいる。当遺跡の発掘調査は、私が大学2年の夏休みで初めて参加した旧石器の遺跡であり(当時は先土器時代と言ってたかもしれない。)、調査期間は10日から2週間くらいだったと記憶する。
 1日目は機材搬入と雨の中の草刈で、地元から三人くらい作業員のおじさん達が来ていた。2日目からベンチマークの移動とグリッドの杭打ち作業で、三日目から発掘に入ったと記憶する。後にJ遺跡とされる地点が最も高い位置にあって、調査区候補となるが、墓地であったと言うことでかく乱があり、短期間調査ではよりプライマリーな状態であるやや低くなった平坦地が中心となった。グリッドを開けていきながら、遺物集中地点を探し、拡大化していく方法で、時間節約のためグリッドも『のように全体の3/4を開けて確認していった。確か、私が一番に槍先形尖頭器に当ったと思うのだが、それが、Bブロック第5図12で、一部にアスファルトが付着していたと思う。当然、その周囲から拡大化していくという方法をとった。
 ついに、Bブロックに槍先形尖頭器が集中して出土することとなる。石井氏は第11図に出土状況の写真より復元された石器の配置状況を示され、デポの可能性を指摘されている。当時、確かに集中して出土したがデポという意識は誰も持ち合わせてなかったと思う。また、出土した位置や方向に対する考えも固まっておらず、出来るだけ出土した状況を押さえればという平凡な考えである。実は、せっかく石井氏が復元された石器集中状況であるが、石器はおじさんが掘り出したもので、現場経験がある人は分かるであろうが、通常、初心者は掘り上げてしまうもので、スタンプを残してという考えはない。石井氏には申し訳ないが、石器類の方向性については、あまり信用できない。ただ、写真5の大形石槍手前に角の丸い石があるが、台石ではないかと疑ったものである。
当時、元位置論盛んなりしころで、様々な細かい作業が関東の旧石器現場で行なわれていたようだが、地方はその比にあらず。極めて短期間の調査では、そこまで厳密な作業は行ない難し。また、初心者の作業員さん達とあってはなおさら困難である。その辺りご注意願いたい。
 次に、槍先形尖頭器と細石器の共伴問題であるが、自分達が掘っていて、伴出するとは考えていなかった。薄い包含層の中では確認は出来ない。これは、石井氏の記されている通りで、表土の下にソフトローム状の漸移層がありその下にハードローム層があるがね遺物は、全てソフトロームに含まれていたと思う。黄褐色の柔らかい層が終わり表面がやや明るく硬くなるとその下には何もない状況であった。それから、分布からすると槍先形尖頭器と細石器関係は、範囲を異にしていると考えていた。母岩の同一が見受けられないのは、そのようなところではないか、我々は若干の時期差をもって最後まで発掘を続けた記憶がある。Dブロック辺りから細石刃1片を掘り出したのは私である。出土直後から長さ的に裁断により短くなっている。あるいは、折れたものであったが、稜線と両脇のラインが平行で、細石刃と直感した。また、その辺りから三戸式?当時は田戸下層式と言っていたが、その土器片も出土している。D~Bブロックの間くらい、細石刃が出土した辺りから下方東側に急激に落ちていく地点であり、石片が多く混在するかく乱状の地点があった。時間が許せる限り掘ったが、まだ下に落ちていた。その中に細石刃が隠れていたかもしれないが、槍先はなかった。個人的に、デポという意見には、賛成しがたい。槍先形尖頭器と細石器の同時性は、月山沢では確認できないと考える。
 ちょうど、その頃県教委の阿部さんが山大の学生と弓張平を調査していた。その時は縄文が主に発見されていたと記憶する。いずれにしても、懐かしい思い出である。その後、加藤 稔先生や小田静夫さんが遺物を見に来ている。
 もし、石井氏もしくは彼と知り合いの方がこれを読んだら、知らせてください。


最近、アフリカにおける人類学バトルともいうべき、人類の祖先を求める壮絶な学者の戦いを描いたアン・ギボンズ著 河合信和訳の「最初のヒト」新書館2007を読んだところである。私はかつてルイス・リーキーのジンジャントロプス発見のドキュメントを中学時代に見て、また、ライフの「原始人」を読んで興味を覚えた。その後、アフリカの人類祖先探しの本は読まずにいたが、以前、ルーシーを読み再びアフリカに興味を持ち出した。自分は考古学だから石器類には興味を持っていたが、リーキーの時代石器と人骨との関係についてつぶさに調査がなされ、ホモ・ハビリスという石器を使用したであろう、現生人類に直結する人骨の発見まで発見されたというところで終わっていた。ところが、石器は200万年を越えず、人類はそれ以前から枝分かれしており、その証拠がアフリカ各地で発見されているという。また、遺伝子レベルからの捜索により分子時計ともいうべきタイムスケールから、現生人類に最も近い類人猿はチンパンジーで、それと枝分かれしたのが500~600万年という。私の記憶では180万年ほどであったのが、3倍ほども遡っているようで、名称もアウストラロピテクスからアルディピテクスやサヘラントロプス、オロリンといった耳慣れない名称が並んでいる。年代は500~600万年に近づいている。しかも、各国の大学や研究所、地元の博物館も加わって、それこそ、人骨戦争ともいうべき状況である。
 私の夢の一つに、旧石器の人骨探しというのが入っている。日本の風土気候からかなり困難ではあろうが、いつか、とんでもないところから発見される可能性がある。恐竜の化石がそれである。私の学生時代に日本から陸上恐竜の化石は発見されないであろうというのが大方の意見であったが、熊本の御船層から肉食竜の歯が発見されるや否や、全国に飛び火し、今や日本は様々な恐竜化石が発見されることで世界でも知られるようになって来た。何気ない発見が切っ掛けとなる事は多い。さしずめ岩宿はその典型例であろう。人骨はローム層で無理だろう。したがって、砂礫層や石灰岩洞窟やその近辺の土壌、つまり、酸性が強くない土質に期待するほかないであろう。これは、アマチュアに頼ったほうがよい。一度発見されれば、次々と見つかる事は予想がつく。やはり、動物化石がよく発見される地層を求める、これからスタートか。

 実は、旧嘉穂町鎌田原弥生墳墓群(県指定)から出土した中期前半の汲田式甕棺であるが、中細の最も古式の銅戈を副葬していたが、その下甕の口唇部に凹線文のような2条の窪んだ平行線があった。須玖式の古段階相当であるから、第Ⅲ様式に平行するのであろうが、注意すべき点と考える。他に甕棺の口縁部にそのような跡が見られるのか、単なる偶然か、興味あるところである。

 嘉穂地域に於ける弥生中期後半~末頃にかけて、立岩丘陵とその周囲に集住現象が見られるようである。その辺りを、今度、古文化談叢書いてみましたが、実証性にかけたものとなり、論文と言うより物語となってしまいました。5月頃の発刊だそうで、初稿を終了し明日送付します。

久々に書き込みます。下山先生の書かれた「北部九州における第四紀後期の地質とその形成環境」九州旧石器研究11号九州旧石器研究会2007を基本に、地形を読み取ろうと考えています。特に、段丘の高位・中位・低位を見分け、花崗岩台地とは異なる河川堆積から成立する地形を地図に書き込もうと思います。地質図とも言うべきものでしょうが、あくまで旧石器を見つけるための1歩です。
 当地は盆地であり、先生の書かれた内容では、福岡平野と筑後平野を題材とされていまして、当地は今ひとつ分からない。しかし、内容を見ていると福岡の糟屋方面との関連が見られる。あるいは、筑後との関係も見られ、ちょうど両者から借りてくればいいのかなという浅はかな考えを持っております。
 現在、調査された旧碓井の竹生島古墳の乗った独立丘陵は、まさに、高位段丘で標高56mほど、地元の人によればずっと下方まで赤土を主とするようで、予想は下方部がマサ土で上層に段丘堆積物があると考えていたが、それは外れたようである。赤土の礫層の上に赤色の土が堆積しているが、これは鳥栖ロームと考えられる。もちろん粘性があって礫等は一切含んでいない。その上に黄褐色のレス層があればよかったのだが、見当たらずじまいである。
 旧嘉穂町の下益にASO4が風化もせず暗灰色のまま3~4mの厚さで堆積しており、そこの標高が、やはり56m前後であり、ASO4が堆積した頃には、段丘がつながっていた可能性が考えられる。現在、下益付近では沖積地との比高差4m程で竹生島では10m以上となり、その西側に存在する低位段丘とは6~8メートルである。竹生島が独立丘となったのは、低位段丘形成の前段での河川浸食が原因と考えられるが、いつ頃と考えたらよいのか、それが判明すると、嘉穂盆地の低位段丘形成の時期がおおよそ判明するはずである。
 現在、ASO4が確認される場所をプロットしていくと、高位段丘形成時の様相が判明してこよう。確実なのは旧筑穂町の北古賀丘陵である。

3/1 新聞で長野の柳沢遺跡出土の銅戈と銅鐸の記事が記載してあったが、大阪湾型と九州型として紀元前2世紀に製作、紀元前後に埋納とあった。これは、新年代で記してあるのか、鎌田原遺跡出土の細形と中細は汲田式の甕棺に納まっていたが、それでは、汲田式はいつ頃になるのだろう。それと同時期のものが、鎌田原の木槨墓で、楽浪郡が紀元前108年、そこに存在する木槨墓の影響と朝鮮半島系の青銅武器の所持から紀元前1世紀頃と検討付けたのだが、何処まで古くなるのだろう。そうすると、中国からの直接的影響下による木槨墓となるが、どう考えればいいのかな。新しいC14の年代を見てみよう。

最近、中村修身さんから石庖丁に関するレポートの抜き刷りをいただいた。中村さんは、一貫して立岩石の庖丁製作所址とその製品の配布、あるいは分配に対して異論を唱えておられる。特に、遠賀川以東の北九州地域における各村々による製作を強調されている。ご存知の通り白亜紀後期の火山活動活発なりし頃の状況を示す下関亜層群に相当する火山系の岩石で、小豆色の凝灰岩を素材とする石庖丁等の石器が、飯塚市立岩遺跡群で専業的に生産され、北部九州のあちこちに搬出されたという、学会の定説的見解に対する反論である。

 この下関亜層群の分布は、遠賀川以東地域で福岡平野や筑後方面には見られないようであり、小豆色の石庖丁がその地域等で出土すれば、立岩製品かとおもわれるほどである。近年、遠賀川流域の各遺跡から石庖丁の未製品等が点々と出土しており、立岩オンリーでない事は、どうも真実らしい。しかし、点在する北九州地域での未製品が自村消費かそれ以上に製作し他地域へ搬出しているのかは見極めねばならない。

 中村氏のレポートで立岩を含め北九州域で出土した石庖丁等の未製品の一覧が掲載されているが、残念ながら点数が分からない。かつて、中村氏は地域相研究1991年版の中で飯塚市立岩地域出土石包丁と未製品の数を数えて1500点ほどの点数を示してある。ここに提示されているのはほとんどが採集品であり、正式に発掘されたものは極めて少ない。にもかかわらず大量の製品・未製品・欠損品である。とするなら、立岩遺跡群と呼ばれる範囲を完全に包括する前面調査すればどれだけの資料が得られたであろうか。どうも、弥生中期に集住という周辺集落からの移動であろうか、大拠点集落の形成が明らかとなりつつある。この立岩もそうであり、嘉穂地域各所の遺跡数減少に反して川島の川床の遺跡も含め、立岩丘陵一帯が一大拠点となったようで、その中心に石庖丁等の製作があると考えている。

 ちなみに、旧嘉穂町で相当弥生集落は発掘したが、未製品は1~2点くらいか、おそらく嘉穂地域は農業主体で、鎌田原や原田といった青銅器出土遺跡間で存在するが、石庖丁は作ってない。むしろ、北と南の筑後方面における小豆色の石庖丁に注目されよう。何故なら、遠賀川流域や北九州地域とは比べようもない広い平野を有しており、立岩の目がどちらを向いていたかである。ちなみに、甕棺は北筑後辺りから入ってきており、これが大きな交易の道と考えている。甕棺の分布から見ても嘉穂地域が東限であり、北九州や遠賀川下流域とは一線を画している。商売相手は、石庖丁を手に入れたくとも入らないが、裕福な耕地を有している地域を対象としなければ儲からない。財力を蓄積するには欲しい相手と取引しなければ意味がない。下関亜層群の分布地域との取引は懸命ではないと考える。
 立岩地区で注目しているのが、中期の石庖丁等の未製品等が採集される地点が、丘陵から丘陵下の下ノ方、さらに、川島の殿ヶ浦遺跡に見られる点である。もっとも、下ノ方等は中山平次郎氏から以降、十分に知られている。特に、中期の須玖Ⅱ式段階における遺跡群の拡充は目を見張るところがある。その辺りの嘉穂地域における遺跡数をグラフにすると遺跡数はかなり減少するが、立岩一帯は増加傾向にある。これを私は、石器専業体制確立とともに周辺から人々が集まる集住現象と推定した。
 笠置山周辺で原材料採集の状況は見られないとし、おそらく、川床の転石を採集したと考えられているが、つぶさに探したとは聞いたことがない。化石採集で山麓の平地に分け入ると頁岩の破片の山がある。そういったところを丹念に探す必要があろう。マムシと猪にはご注意。専業体制になると荒割り加工所があってもよいと考える。輝緑凝灰岩も質の良不良があろう。転石より露頭採集が効果的ではないだろうか。一度、そういう目で現地を訪れたいものである。