崖面に立つと青味がかった砂岩の厚い層が傾斜して見える。右手には一層挟んで石炭層があり、砂岩層が上に積もっていることが分かる。石炭層は沼地などに静かに堆積した植物群らしい。その上に礫層が積もっている。不整合を示しているのかもしれない。さらに、その上に砂岩層があるのだか、4~6mほどはあろうか、よく見ると生痕化石の円形に黒い輪が見えている。しかも砂岩層一面に無数に見えいる。本当に無数それが傾斜する分厚い層の全面に分布している。久々に興奮した。海の水がしかも石炭層の上にちゃんと流れ込んだ後である。九大の坂井先生が言われたことがドンぴしゃで観察できている。「少なくとも200キロくらいに広がっているでしょう。」この先生の言葉どおり、その広がりの一端をつかんだ。浅い海ならなんとかサメの歯の化石でもと、欲は限度を知らない。結局、1時間半くらい風の中で全域を回り、探し続けた。石炭層の上に薄い泥岩層(数ミリ)が幾重にも重なっているいかにもスローな堆積とわかる層を発見したが、あんのじょう木の葉の化石が炭化してブラックで印刷されたように入っている。たしか、篠栗の池ノ端で見つけた化石層によく似ている。ただし、池ノ端はカラーで、栃木県塩尻の植物化石のようであった。ふと思い出したが、篠栗に青い砂岩層があった。生痕化石は見逃したが例のサンゴに似た化石はひょっとすると巣穴の生痕化石のような気がしてきた。直方層群の大焼層なのかは分からないが、高田層というのがあるらしい。
また、勉強じゃ。
12月もあと一週間で休みにはいる。今度は休みが長い分表面採集に出かけるつもりである。もちろん狙いは旧石器であるが、未だに何も発見できない。碓井、桂川、筑穂、飯塚の八木山から続く丘陵群を踏査するも感触すらない。縄文のものはいくらか発見したが、獲物に当たらない。弁分から彼岸原、潤野もまわった。明日は伊岐須から蓮台寺、建花寺の丘陵にある溜池を回るつもりである。金が尽きたので握り飯と水筒持参でいこう。ぬかるみにはまらないよう気をつけるが、昔のように軽くはなく、機敏でもないのでしょうがないか。
最近、昔に帰っているような気がする。結局は遺跡と遺物探しに帰るのか、そこがスタートだったからグランド一周してきたと思えばいいのかな。それにしても、視力がよければと度々思う。何か見逃してしまったような感じがするのだが。
12月20日の土曜日、天気は晴れ。おにぎりを2個作り水筒にお茶を入れ出発、伊岐須に向う。脊損センター横の溜池は満水でだめ。ここは引くことがないようである。その次に西側の筒口池に回る。やや岸が見える程度に水面が下がっているが、下に降りれない。というより池畔の状態を見ると、花崗岩の純粋な風化土で赤土が見えない。おそらく直接見ると、石英や長石の砕けた粒が堆積、あるいは、岸を覆っているようだ。
次に、弥生の散布地になっている蓮台寺小学校の裏にある池に向う。ようやく堤防を見つけて行くと、水面が下がって池畔が見える。これは行けると確信したが、まてよ、地図と大きさも形も違うのである。これは、予想に反して隣の小さな池に来てしまったようである。サギが飛んで行った。周囲を見ると、花崗岩の岩盤がむき出しになっていて、あんのじょう、石英の氷砂糖のような粗い礫が、岸を埋め尽くしている。「こりゃだめやな」と思いつつも一応、見ることにしたが、何にも落ちていない。次があると気を取り直しつつ、目的の蓮台寺小裏の池に到着、ここはやや広く、左岸に黄褐色の堆積土が見える。「これはいける。」と確信し左岸の急斜面を這うように進む。途中に何本かの木が倒れ、枯れ果てて白い骸をさらしている。その小枝の間をすり抜ける以外に進む方法はない。そこで、右足が枝に引っかかり転びそうになる。「年齢にはかなわん」と思いつつ右足のズボンの裾を見ると、見事に穴が開いていた。コーデュロイの温かいやつだが、残念であった。
先に進むと、どの池でも同じだが、水が流れ込む小さな小さな入江みたいなのがよくあるが、ここは注意が必要である。何故なら必ずぬかるんでいる。奥を見るとわたれそうな所が見えるものの、年をとるとめんどくさくなり、近場でわたろうとしたが、その瞬間、両方の靴がぬかるみにしずんだ。幸いに、下が固く靴全体がぬかるんだだけ助かった。またまた、泥靴になってしまった。やはり、奥に進み、倒木をつたってわたりきる。それまで、氷砂糖の石英ばかりだったが、黄褐色の土が見えているし、上は平らで池に向って突出している。ここが狙い目とばかりに、探すと土器片がぱらぱら落ちている。何れも弥生土器、やや大きい壺の肩部の破片がまだ新鮮な面を残して落ちていた。ひょっとして、甕棺墓があるのかと思う。さらに進みながら、もう一つのぬかるみを倒木を2本渡して橋にしながらわたりきる。昔の感が戻ってきたようだ。
そこは、さらに出っ張っていて弥生土器の口縁部や底部が結構大きな破片で落ちている。形状から弥生中期前半の須玖Ⅰ式新とわかるが、それにしても破片が大きい。そのうち、斜面に、つぶれてはいるが完形に近い甕が真横に埋まっている。その先にももう1基埋まっているようで、間違いなく土器棺、つまり、小児用甕棺である。それにしても、黒曜石やサヌカイトの微塵も落ちてはいないのである。墓地ならしょうがないが、せめて複合遺跡であればと望んだが全くアウトだった。
そこを後にして、伊川に向うが何れの池も幼魚池で満杯。しかし、思うのだが、碓井・桂川・穂波・飯塚と久保白ダムや溜池回りを繰り返しながら観察するのだが、花崗岩の風化土、つまり、どこもかしこもマサ土ばかりで、肝心要の洪積世の堆積土がほとんど見られないのである。つまり、赤土が顔を見せているのは、土師地区、天神山古墳付近、北古賀の丘陵、彼岸原地区くらいかな、それも、ところどころにあって何れも薄く、マサ土ばかりが目立っている。横田の切通しで観察しても、50㎝あたりであろう。これでは、旧石器の包含層に当たるのはかなり困難と見た。芥田にも赤土の丘陵があるが、圃場整備で大部分が失われている。嘉穂盆地は赤土が少ない地域と感じる。粕屋あたりに行けばどこでも見られるのだが、どうも地質が違うのか見当たらないのである。
結局、黒曜石の一片も拾うことなく終了した。ふと思ったのだが、すり鉢のような形状を呈する嘉穂盆地は、毛細血管のように河川が入り乱れ、それが遠賀川へと向っている。つまり、浸食作用が著しいために、旧石器の包含層がすり鉢状の底へと押し流されてしまったのではないか。また、ひょっとすると、縄文草創期以前は、湖のような状態で、湖岸に住まいした人々の痕跡が、湖の水が引くのと同時にすり鉢状の地形とって、解析が急進し全てを流したのか、何て考えたりもした。その点、田川は彦山川等の流路に沿って長い地形であり、おのずと長い丘陵が多く、赤土もよく残っている。今のところ、旧石器は田川方面に多いのは、そんな環境の関係かも知れない。
ひとまず、溜池回りは休みにしよう。
「きびすをかえす」という言葉があるが、握り飯を2個食べ、水筒のお茶を飲んだのが午後2時前、頭に浮かんだのが田川の夏吉にある岩屋第一鍾乳洞である。気がつくと201号線を田川に向っていた。前回訪れたときは今にも雨が降り出すような天気、鍾乳洞の中に入ることなく概観のみの観察に終わった。今回は、晴天前回にまして様子がつぶさにわかるのである。鍾乳洞はほぼ西を向いているようで、標高60mで脇に神社がある。また、入口の前には水田が開けており、圃場整備か鉱害復旧により整然と区画された水田である。比高差は2mほどだが、おそらくは、もう少し水田面が高かったと考えられる。午後の太陽光は鍾乳洞を照らし全体が明るく暖かな気分になる。
入口は、中央にある石壁により、本来人間の鼻のように2つに分かれており、やや進むと1つになるという構造だったようである。したがって、中は概観より広く、角が丸い三角形を呈している。高さは3mほどもあろうか、底部はおそらく4~5mはあろう。床面は黒色土が固くしまった状態で堆積している。また、入口に向うほど傾斜度は高くなる。底部はどれほど深くなるのかは、わからないが、数mはろう。外部は特に向って左側に崩落した岩が重なる事から、左側に庇が延びていたもので、幅は10m近くあり、前方にも8m以上のテラスが存在したようである。
やはり、洞窟あるいは岩陰遺跡として、試掘調査は行なうべきと考える。建指定の天然記念物ではあるが、遺跡としての確認はおこなうべきであろう。
第二鍾乳洞は、水が流れ込む状況下にあるため遺跡とはならないと思われる。第三は未確認であることから、正月休みを利用して確認するつもりである。
夏吉古墳の近くを間違えて通過したが、かなり広く土取りが行われており、赤土の層が奥のほうに続いていた。観察したかったが、うっかり立ち入って起こられると大変と思い。2度通過して様子を見たところである。夏吉のあたりにも洪積世の堆積物が広く分布するようで、なんだかうらやましかった。
洞窟遺跡に興味がある方は、ぜひ、夏吉第一鍾乳洞を見学していただきたい。
12月23日、早朝、香月先生から電話がかかった。「馬見山に雪は積もってないですか、天気は同ですか山に登れますか」というおたずねに、「少し、白くなっていますが、大丈夫じゃないでしょうか」と答えると、予定通りに登りましょうという、力強い声が返ってきた。
馬見神社に集合したのが11時、9名の参加である。皆さん山登りの格好で登場するも、私だけ長靴に手提げバックと作業着姿という、表面採集にでも出かける姿に、先の不安を感じる。登り始めは馬見キャンプ場の上にある林道から、登山道を登る。馬見は古処山に比べてかなり険しい。
途中ですが気になることを書きます。九州考古学83号が送付されてきた。その編集後記に、論文の査読による論文の掲載について査読(各論文2名)による審査の上に成り立つものであり、伝統ある学会の会誌としてのクオリティ維持のためとしてという納得できる内容の編集側の意見をのべられており、査読の結果、「投稿者が原稿を辞退されることもあります。」と残念な結果があッたことを記されている。
その、残念な結果辞退した人物の1人が私「福島 日出海」である。内容は、立岩の石庖丁の原産地遺跡と仮定されている宮若市の千石峡で、輝緑凝灰岩の第1次工程、つまり、粗割段階の加工品と膨大なチップが散乱する場所を確認し、その内容を投稿したのだが、内容の不備により大幅な内容変更、あるいは、資料紹介という形での再投稿を詳細な内容で提示していただき、かえって編集の方々にご苦労とご迷惑をおかけするものと辞退した次第である。
査読結果の内容をお知らせいただき、立岩と今山を無理に比較するような安易な内容である点等気付かせていただき感謝申しあげる。別の機会に何らかの形で報告できればと考えているところである。
ただし、釈然としないのは、その査読内容の結果が送付され来たのが、最終しめ切り2週間前という時期、社会人として仕事をしながらもなんとか考古学にしがみついている人間にとっては、あまりに短い時間であり、しかも、5月あたりに投稿しているにもかかわらず、その時間的な対応はいかがかと感じる。投稿の締め切りを早くされるのであれば、当然、査読結果も早く知らせるべきではないかと考えるのだが。
この件は、過去のものとし、新たに出直そうと考えていたが、編集後記でふれてあったので、あえて書いた次第である。遠賀川源流の落水の音が、九州考古学会関係者の方々のお耳に届けば幸いである。
話をもどそう。馬見山は険しく直登は結構辛い。香月・豊福両先生ともに昭和5年生まれ、かなり厳しい山登りとなろう。それより、私がばてそうである。ゆっくりペースで登り始めたが、途中が倒木やがけ崩れのため迂回する道が出来ているのだが、何れも下を通る事は出来ないのであり、自ずと険しい上に上がることとなる。途中の伐採材を運ぶ林道で休憩、飴が配られる。一息して再び登り始める。昔登った道とはどこか景色が違う。それは、間伐のためいたって見晴らしがよくなっているからで、かえって道の痕跡がわからなくなっている。木立を抜ける一本道だったのが、その木立がすき間だらけとなれば、道と木々のコントラストが大きく変化してしまっている。私が案内人をしなくてつくづくよかったと思う。
途中何度かの休憩を挟みながら、目指す羅漢岩に到着する。標高820m、さらっと残雪を残し、羅漢の大岩には何本ものつららがたれている。寒い、今までのぼりばかりで、少し汗ばんだ体には、立ち止まって食事をとると寒さがしみて来る。昼飯には自分でつくった2個の塩むすびのみ、それで十分に事足りており、すぐに、1人で調査に入る。私は、正面のスケッチと平面のスケッチをして必要ヶ所の寸法を記入する。やがて、他の人が幅35㎝のハサミ岩とも言うべき狭さで胸あたりまである両脇の岩の間を横になって登ってくる。私が通れたのだから他の人は軽く通るはずである。
すき間を通りぬけると目前に半洞窟が広がる。奥行き5メートル、幅8メートルほどもあろうか、巨大な変成岩が上部に乗っていて両脇に同じ変成岩がそれを支えているという構造である。中は湿気がありもちろんかび臭い。奥の方を照らすと礫が詰まっており、ある時期までこの中を水が流れていたように見える。おそらく、大水で大量の礫が運ばれ奥を塞いでしまったのであろう。その結果、洞窟となったというところであろうか、期待される遺物等は落ちてなさそうである。今でも、大雨などの場合は水が流れ込むような感じである。
中には昭和に入ってつくられた石仏が納められている。ただ、中に1対古そうなものがあり、馬見の庄屋の名が刻まれた碑が横になり、石仏の台座に使用されていた。これが、羅漢岩である。注意深く前庭部を掘れば何か出土するかもしれない。おそらく、古式のものは期待できないようではある。
1月20日になった。実は市内に防災無線のアンテナが100ヶ所以上建つとあっ
て、そのうち40ヶ所ほどの立会いが始まった。本日は1日目で3ヶ所、何れも遺跡とはかけ離れた場所であるが、分布調査の大きなデータとなる。明日は1ヶ所、次は4ヶ所と毎日の仕事となるが、何かに当たりそうで心ひそかに期待している。
そういえば、圃場整備の前に土壌調査が行なわれ、1m四方の穴が地権者の手で掘られ、それを見回りながら、遺跡の有無などを調べていたが、今回はそれを思い出させる。土壌調査の時には、掘りあげられた土の中に、青磁や弥生土器が混じり、断面にまともに遺構がひかかっていたことが時々あった。今回もやや期待しながらの予備調査である。
最近、また、石灰岩地帯の周辺部に堆積していると思われる石灰岩の礫層や周辺より骨の残り具合によいと思われる堆積層がどうなっているのか知りたくてしょうがない。もちろん、鍾乳洞や石灰岩の裂け目に堆積した土中からの化石骨の出土はよく耳にする話であるのだが、なにせ、一般人には近づけず、危険も伴う。例えばあの広い平尾台から流れ出る河川堆積物はどうなのか、カルスト台地周辺に堆積するのであろうが、すべて酸性土になるのかどうなのか、調べた人もいないだろう。
また、洞窟内堆積物が流れ出る可能性もあろう。田川の糸田町で河川敷から見つかったナウマン像の臼歯もその手のものだろう。
ジャワ原人の出土したトリ二―ルの地質図には、河川によって寸断されている丘陵の両方に石灰岩の長方形マークが記してあるのだが、地質的にはどうなんでしょうか、ご存知の方はいませんか。石灰岩の周囲にある堆積層は、通常より化石の保存に適した土質であれば、素人の我々でも夢が描けるのですがね。今度は、河川を歩いて見ます。数万年前の化石を含む地層が周囲にあれば探すのですがね。石灰岩採石場には法的な網がかかっていて近づけもせず、直良先生のものでも読みましょうかね。あきらめずに探しましょう。
突然ですが、しばらく休んでおりました。というのも、現在、甘木市史料の1巻から5巻までを読んでおりますとともに、旧嘉穂町関連江戸期の古文書史料をつきあわせ、古八丁越の江戸期における利用と石畳の年代推定をこころみているわけで、老眼の身には辛いものとなっております。もちろん、古文書原本は読めませんので、読みやすくしたものをつかっております。
なんとも困難な作業で、正徳元年に古八丁人馬通行止なる文言が出てまいります。また、寛永に古八丁を塞ぎ新八丁を開削するとあり、基本古八丁は通れないとなりますが、秋月封内図等には道が記してある。ということは、完全封鎖ではない、しかし、通行記録も見当たりません。また、塞いだ道にわざわざ石畳を設けて管理する必要があったのかどうか、これが最初の疑問。
しかし、読み解くうちに竹の伐採を嘉麻で行なった場合、蛇渕山など切り出した竹を大休に運んでいる。また、文政11年の大洪水のさいに、大休の上が崩れ野鳥川に流れ込み多大な被害を出しているが、即座に石方を野鳥川筋に派遣し往還の根石を居たと記されている。2日間かかり、その後に野鳥番所の上や下の川や道の普請を行なっている。往還の根石とは石畳の可能性があり、しかも、往還あつかいというのがいい感じである。この道は、古八丁に続き、一方では古処山参道で秋月の殿様も何度か参詣している。
ちなみに、石方は川の石垣等の普請のため間 小四郎が筑後より師匠を招いて教示し、郷夫石方という専業的集団として編制している。この集団と石畳普請、あるいは定期的作道がかんれんしているのかな。
この史料集「秋城年譜」の中の東畑記録中に面白い現象が書いてある。一つは彗星らしきものの出現、もう一つは、古処山から屏山、馬見山、江川の方へと幅180メートルほどでかなりの距離になるが木々が木っ端微塵に砕け散り、あるいは、大風で倒れたように根こそぎなぎ倒されたらしい。2日2夜振動したというが地震とは書いていないし、限定的された範囲のみそのような状態になるのもおかしいものである。当初、隕石かとも思ったが、2日間振動したとあるし光のようなものを見たとの記録もない。
古記録の中に天狗倒しと表現される現象があるが、まさにそれかもしれない。それにしても、幅が同じで木々が砕けるような現象が起るのか、ひょっとすると竜巻かもしれないが、3月か4月頃のこと、しかも、標高6~700メートルくらいの限定箇所である。UFOかもしれませんね。馬見あたりに以前UFO騒ぎがあったらしいから、また、彗星かとしてある記載も絵が描いてあるが、これもそのてのものでは、いやーはまっちゃいましたよ。
隕石で思い出しましたが、ずいぶん前のことですが、嘉麻市(当時は嘉穂町)牛隈に隕石が落ちたという話がないか確認に来た人たちがいました。ある炭鉱経営者の自宅に飾られていたもので、なんでも、隕石が落下するのをご本人が見たとのこと、炭鉱で働いていた人たちに仕事そっちのけで探させたそうです。溜池に落ちていたとかでだれかが探し出して持ってきたそうです。
炭鉱経営者は相当の金額で買い取り応接間に飾っていたそうです。それが、流れ流れて福岡の人が所持されていました。箱には九州大学の先生による鑑定書が入っていて、隕石であり鉄隕石と何かの中間のようなもので大変珍しいものだということでした。実物はいかにも高熱で解けた感じでした。
今、甘木史史料集を何度も読み返しては、古八丁越の利用と石畳の時期について調査している。なかなか面白いことがわかってきたのだが、決定打に欠けるのも事実である。というのも、市指定文化財に一部をしようと以前から奮闘しているのだが、なにせ、寛永年間に塞がれたとあり、正徳元年には人馬通行止となり、文久年間に開こうとしたが再び閉じられた道が古八丁、今で言う旧八丁越の道なのである。秋月街道をあつかわれた方は多いが、その利用について明確な回答をもっておられる方はいないといってよい。せいぜい、秋月封内図に道が記載してあるという理由から地元は使ったと想像されるが、その根拠は乏しい。
当時、才田村の紺屋なる人物が八丁口の番所に文句をいったところ、その先の石原口まで送り出されたが再びもどってきて文句を言ったという地方文書の記録がある。つまり、地元でも新八丁越を使っている証拠である。それと「石畳の残りがよく」と街道のガイド本にもあるが、新八丁開削から明治頃まで通行止めの道にあのような大掛かりな石畳を敷いたのはいつのことか、はたまた何故なのか明確な証拠がないのである。
何人もの先生方が本を書いておられるが、そこは新八丁と混同した書き方ですり抜けている。根拠がないのだからしょうがなかろう。しかし、指定して保護しようという地元にとっては事実をきちんと記していただきたいものである。
ともあれ、こまめに史料に当たるとなかなか面白く、状況証拠ではあるがこつこつと集めている。今度、何かの機会に発表しようと思うが、秋月街道という名称も古(旧)八丁越の利用等に関しても嘆かわしいくらいな研究しかなされていないのには驚く。街道研究家と称されるみなさんしっかり研究してよ。あとが大変なんですよ、あとがね。
石方郷夫・郷足軽・竹木が伐採される蛇渕山・大休・文政11年の大水害など、これらは間 小四郎関係でなかなかにいい史料を残してある。また、郷足軽の配置とその役目の一つに、夜須の津出し米の件で甘水を通る白坂越の改修に伴う史料に面白いことがのっています。これらは、間接的証拠として古八丁越の利用に関しかなりよい史料です。また、明和の殿様御郡回りの記録には、わざわざ蛇渕山を通って御帰城とあり、通常なら何も書かずに御帰城あるいは書いても八丁という文字がはいるが、明和の例は異例であったのかも知れない。もちろん、地方文書「田中大庄屋」の中の記載ではある。
さて、これから古八丁越関連の問題に付き合っていただこう。
まず、八丁関連の古記録で豊臣秀吉以前にさかのぼる例としてこのような資料がある。
永禄10年(1567)に秋月・毛利の軍勢と大友の軍勢が争った「休松夜軍」では、秋月軍が大友軍に夜襲をかけ大友軍を敗走させるが、その際に「豊後勢以ての外大崩れして、芥田千手へ引もあり。甘水、長谷山を打通り」(筑前国続風土記 元禄期)同合戦を甘木根基(天明期)では、「豊後三将甘木・長谷山間七度鑓合戦」と題し「以て外ニ大崩シテ、或ハ千手・大隈ニ引クモアリ」と記し「九州記四巻ニアリ」としている。
この記載を見ると、おそらく、(古)八丁越を命からがら逃げる大友軍の姿が浮かんでくる。面白いもので、石瀧先生は求める史料は、図らずも向こうから飛び込んでくる場合があるとか、この史料もその手のものである。
もうすぐ、字数の限度がせまっているので、新たにコーナーを設けます。
また、勉強じゃ。
12月もあと一週間で休みにはいる。今度は休みが長い分表面採集に出かけるつもりである。もちろん狙いは旧石器であるが、未だに何も発見できない。碓井、桂川、筑穂、飯塚の八木山から続く丘陵群を踏査するも感触すらない。縄文のものはいくらか発見したが、獲物に当たらない。弁分から彼岸原、潤野もまわった。明日は伊岐須から蓮台寺、建花寺の丘陵にある溜池を回るつもりである。金が尽きたので握り飯と水筒持参でいこう。ぬかるみにはまらないよう気をつけるが、昔のように軽くはなく、機敏でもないのでしょうがないか。
最近、昔に帰っているような気がする。結局は遺跡と遺物探しに帰るのか、そこがスタートだったからグランド一周してきたと思えばいいのかな。それにしても、視力がよければと度々思う。何か見逃してしまったような感じがするのだが。
12月20日の土曜日、天気は晴れ。おにぎりを2個作り水筒にお茶を入れ出発、伊岐須に向う。脊損センター横の溜池は満水でだめ。ここは引くことがないようである。その次に西側の筒口池に回る。やや岸が見える程度に水面が下がっているが、下に降りれない。というより池畔の状態を見ると、花崗岩の純粋な風化土で赤土が見えない。おそらく直接見ると、石英や長石の砕けた粒が堆積、あるいは、岸を覆っているようだ。
次に、弥生の散布地になっている蓮台寺小学校の裏にある池に向う。ようやく堤防を見つけて行くと、水面が下がって池畔が見える。これは行けると確信したが、まてよ、地図と大きさも形も違うのである。これは、予想に反して隣の小さな池に来てしまったようである。サギが飛んで行った。周囲を見ると、花崗岩の岩盤がむき出しになっていて、あんのじょう、石英の氷砂糖のような粗い礫が、岸を埋め尽くしている。「こりゃだめやな」と思いつつも一応、見ることにしたが、何にも落ちていない。次があると気を取り直しつつ、目的の蓮台寺小裏の池に到着、ここはやや広く、左岸に黄褐色の堆積土が見える。「これはいける。」と確信し左岸の急斜面を這うように進む。途中に何本かの木が倒れ、枯れ果てて白い骸をさらしている。その小枝の間をすり抜ける以外に進む方法はない。そこで、右足が枝に引っかかり転びそうになる。「年齢にはかなわん」と思いつつ右足のズボンの裾を見ると、見事に穴が開いていた。コーデュロイの温かいやつだが、残念であった。
先に進むと、どの池でも同じだが、水が流れ込む小さな小さな入江みたいなのがよくあるが、ここは注意が必要である。何故なら必ずぬかるんでいる。奥を見るとわたれそうな所が見えるものの、年をとるとめんどくさくなり、近場でわたろうとしたが、その瞬間、両方の靴がぬかるみにしずんだ。幸いに、下が固く靴全体がぬかるんだだけ助かった。またまた、泥靴になってしまった。やはり、奥に進み、倒木をつたってわたりきる。それまで、氷砂糖の石英ばかりだったが、黄褐色の土が見えているし、上は平らで池に向って突出している。ここが狙い目とばかりに、探すと土器片がぱらぱら落ちている。何れも弥生土器、やや大きい壺の肩部の破片がまだ新鮮な面を残して落ちていた。ひょっとして、甕棺墓があるのかと思う。さらに進みながら、もう一つのぬかるみを倒木を2本渡して橋にしながらわたりきる。昔の感が戻ってきたようだ。
そこは、さらに出っ張っていて弥生土器の口縁部や底部が結構大きな破片で落ちている。形状から弥生中期前半の須玖Ⅰ式新とわかるが、それにしても破片が大きい。そのうち、斜面に、つぶれてはいるが完形に近い甕が真横に埋まっている。その先にももう1基埋まっているようで、間違いなく土器棺、つまり、小児用甕棺である。それにしても、黒曜石やサヌカイトの微塵も落ちてはいないのである。墓地ならしょうがないが、せめて複合遺跡であればと望んだが全くアウトだった。
そこを後にして、伊川に向うが何れの池も幼魚池で満杯。しかし、思うのだが、碓井・桂川・穂波・飯塚と久保白ダムや溜池回りを繰り返しながら観察するのだが、花崗岩の風化土、つまり、どこもかしこもマサ土ばかりで、肝心要の洪積世の堆積土がほとんど見られないのである。つまり、赤土が顔を見せているのは、土師地区、天神山古墳付近、北古賀の丘陵、彼岸原地区くらいかな、それも、ところどころにあって何れも薄く、マサ土ばかりが目立っている。横田の切通しで観察しても、50㎝あたりであろう。これでは、旧石器の包含層に当たるのはかなり困難と見た。芥田にも赤土の丘陵があるが、圃場整備で大部分が失われている。嘉穂盆地は赤土が少ない地域と感じる。粕屋あたりに行けばどこでも見られるのだが、どうも地質が違うのか見当たらないのである。
結局、黒曜石の一片も拾うことなく終了した。ふと思ったのだが、すり鉢のような形状を呈する嘉穂盆地は、毛細血管のように河川が入り乱れ、それが遠賀川へと向っている。つまり、浸食作用が著しいために、旧石器の包含層がすり鉢状の底へと押し流されてしまったのではないか。また、ひょっとすると、縄文草創期以前は、湖のような状態で、湖岸に住まいした人々の痕跡が、湖の水が引くのと同時にすり鉢状の地形とって、解析が急進し全てを流したのか、何て考えたりもした。その点、田川は彦山川等の流路に沿って長い地形であり、おのずと長い丘陵が多く、赤土もよく残っている。今のところ、旧石器は田川方面に多いのは、そんな環境の関係かも知れない。
ひとまず、溜池回りは休みにしよう。
「きびすをかえす」という言葉があるが、握り飯を2個食べ、水筒のお茶を飲んだのが午後2時前、頭に浮かんだのが田川の夏吉にある岩屋第一鍾乳洞である。気がつくと201号線を田川に向っていた。前回訪れたときは今にも雨が降り出すような天気、鍾乳洞の中に入ることなく概観のみの観察に終わった。今回は、晴天前回にまして様子がつぶさにわかるのである。鍾乳洞はほぼ西を向いているようで、標高60mで脇に神社がある。また、入口の前には水田が開けており、圃場整備か鉱害復旧により整然と区画された水田である。比高差は2mほどだが、おそらくは、もう少し水田面が高かったと考えられる。午後の太陽光は鍾乳洞を照らし全体が明るく暖かな気分になる。
入口は、中央にある石壁により、本来人間の鼻のように2つに分かれており、やや進むと1つになるという構造だったようである。したがって、中は概観より広く、角が丸い三角形を呈している。高さは3mほどもあろうか、底部はおそらく4~5mはあろう。床面は黒色土が固くしまった状態で堆積している。また、入口に向うほど傾斜度は高くなる。底部はどれほど深くなるのかは、わからないが、数mはろう。外部は特に向って左側に崩落した岩が重なる事から、左側に庇が延びていたもので、幅は10m近くあり、前方にも8m以上のテラスが存在したようである。
やはり、洞窟あるいは岩陰遺跡として、試掘調査は行なうべきと考える。建指定の天然記念物ではあるが、遺跡としての確認はおこなうべきであろう。
第二鍾乳洞は、水が流れ込む状況下にあるため遺跡とはならないと思われる。第三は未確認であることから、正月休みを利用して確認するつもりである。
夏吉古墳の近くを間違えて通過したが、かなり広く土取りが行われており、赤土の層が奥のほうに続いていた。観察したかったが、うっかり立ち入って起こられると大変と思い。2度通過して様子を見たところである。夏吉のあたりにも洪積世の堆積物が広く分布するようで、なんだかうらやましかった。
洞窟遺跡に興味がある方は、ぜひ、夏吉第一鍾乳洞を見学していただきたい。
12月23日、早朝、香月先生から電話がかかった。「馬見山に雪は積もってないですか、天気は同ですか山に登れますか」というおたずねに、「少し、白くなっていますが、大丈夫じゃないでしょうか」と答えると、予定通りに登りましょうという、力強い声が返ってきた。
馬見神社に集合したのが11時、9名の参加である。皆さん山登りの格好で登場するも、私だけ長靴に手提げバックと作業着姿という、表面採集にでも出かける姿に、先の不安を感じる。登り始めは馬見キャンプ場の上にある林道から、登山道を登る。馬見は古処山に比べてかなり険しい。
途中ですが気になることを書きます。九州考古学83号が送付されてきた。その編集後記に、論文の査読による論文の掲載について査読(各論文2名)による審査の上に成り立つものであり、伝統ある学会の会誌としてのクオリティ維持のためとしてという納得できる内容の編集側の意見をのべられており、査読の結果、「投稿者が原稿を辞退されることもあります。」と残念な結果があッたことを記されている。
その、残念な結果辞退した人物の1人が私「福島 日出海」である。内容は、立岩の石庖丁の原産地遺跡と仮定されている宮若市の千石峡で、輝緑凝灰岩の第1次工程、つまり、粗割段階の加工品と膨大なチップが散乱する場所を確認し、その内容を投稿したのだが、内容の不備により大幅な内容変更、あるいは、資料紹介という形での再投稿を詳細な内容で提示していただき、かえって編集の方々にご苦労とご迷惑をおかけするものと辞退した次第である。
査読結果の内容をお知らせいただき、立岩と今山を無理に比較するような安易な内容である点等気付かせていただき感謝申しあげる。別の機会に何らかの形で報告できればと考えているところである。
ただし、釈然としないのは、その査読内容の結果が送付され来たのが、最終しめ切り2週間前という時期、社会人として仕事をしながらもなんとか考古学にしがみついている人間にとっては、あまりに短い時間であり、しかも、5月あたりに投稿しているにもかかわらず、その時間的な対応はいかがかと感じる。投稿の締め切りを早くされるのであれば、当然、査読結果も早く知らせるべきではないかと考えるのだが。
この件は、過去のものとし、新たに出直そうと考えていたが、編集後記でふれてあったので、あえて書いた次第である。遠賀川源流の落水の音が、九州考古学会関係者の方々のお耳に届けば幸いである。
話をもどそう。馬見山は険しく直登は結構辛い。香月・豊福両先生ともに昭和5年生まれ、かなり厳しい山登りとなろう。それより、私がばてそうである。ゆっくりペースで登り始めたが、途中が倒木やがけ崩れのため迂回する道が出来ているのだが、何れも下を通る事は出来ないのであり、自ずと険しい上に上がることとなる。途中の伐採材を運ぶ林道で休憩、飴が配られる。一息して再び登り始める。昔登った道とはどこか景色が違う。それは、間伐のためいたって見晴らしがよくなっているからで、かえって道の痕跡がわからなくなっている。木立を抜ける一本道だったのが、その木立がすき間だらけとなれば、道と木々のコントラストが大きく変化してしまっている。私が案内人をしなくてつくづくよかったと思う。
途中何度かの休憩を挟みながら、目指す羅漢岩に到着する。標高820m、さらっと残雪を残し、羅漢の大岩には何本ものつららがたれている。寒い、今までのぼりばかりで、少し汗ばんだ体には、立ち止まって食事をとると寒さがしみて来る。昼飯には自分でつくった2個の塩むすびのみ、それで十分に事足りており、すぐに、1人で調査に入る。私は、正面のスケッチと平面のスケッチをして必要ヶ所の寸法を記入する。やがて、他の人が幅35㎝のハサミ岩とも言うべき狭さで胸あたりまである両脇の岩の間を横になって登ってくる。私が通れたのだから他の人は軽く通るはずである。
すき間を通りぬけると目前に半洞窟が広がる。奥行き5メートル、幅8メートルほどもあろうか、巨大な変成岩が上部に乗っていて両脇に同じ変成岩がそれを支えているという構造である。中は湿気がありもちろんかび臭い。奥の方を照らすと礫が詰まっており、ある時期までこの中を水が流れていたように見える。おそらく、大水で大量の礫が運ばれ奥を塞いでしまったのであろう。その結果、洞窟となったというところであろうか、期待される遺物等は落ちてなさそうである。今でも、大雨などの場合は水が流れ込むような感じである。
中には昭和に入ってつくられた石仏が納められている。ただ、中に1対古そうなものがあり、馬見の庄屋の名が刻まれた碑が横になり、石仏の台座に使用されていた。これが、羅漢岩である。注意深く前庭部を掘れば何か出土するかもしれない。おそらく、古式のものは期待できないようではある。
1月20日になった。実は市内に防災無線のアンテナが100ヶ所以上建つとあっ
て、そのうち40ヶ所ほどの立会いが始まった。本日は1日目で3ヶ所、何れも遺跡とはかけ離れた場所であるが、分布調査の大きなデータとなる。明日は1ヶ所、次は4ヶ所と毎日の仕事となるが、何かに当たりそうで心ひそかに期待している。
そういえば、圃場整備の前に土壌調査が行なわれ、1m四方の穴が地権者の手で掘られ、それを見回りながら、遺跡の有無などを調べていたが、今回はそれを思い出させる。土壌調査の時には、掘りあげられた土の中に、青磁や弥生土器が混じり、断面にまともに遺構がひかかっていたことが時々あった。今回もやや期待しながらの予備調査である。
最近、また、石灰岩地帯の周辺部に堆積していると思われる石灰岩の礫層や周辺より骨の残り具合によいと思われる堆積層がどうなっているのか知りたくてしょうがない。もちろん、鍾乳洞や石灰岩の裂け目に堆積した土中からの化石骨の出土はよく耳にする話であるのだが、なにせ、一般人には近づけず、危険も伴う。例えばあの広い平尾台から流れ出る河川堆積物はどうなのか、カルスト台地周辺に堆積するのであろうが、すべて酸性土になるのかどうなのか、調べた人もいないだろう。
また、洞窟内堆積物が流れ出る可能性もあろう。田川の糸田町で河川敷から見つかったナウマン像の臼歯もその手のものだろう。
ジャワ原人の出土したトリ二―ルの地質図には、河川によって寸断されている丘陵の両方に石灰岩の長方形マークが記してあるのだが、地質的にはどうなんでしょうか、ご存知の方はいませんか。石灰岩の周囲にある堆積層は、通常より化石の保存に適した土質であれば、素人の我々でも夢が描けるのですがね。今度は、河川を歩いて見ます。数万年前の化石を含む地層が周囲にあれば探すのですがね。石灰岩採石場には法的な網がかかっていて近づけもせず、直良先生のものでも読みましょうかね。あきらめずに探しましょう。
突然ですが、しばらく休んでおりました。というのも、現在、甘木市史料の1巻から5巻までを読んでおりますとともに、旧嘉穂町関連江戸期の古文書史料をつきあわせ、古八丁越の江戸期における利用と石畳の年代推定をこころみているわけで、老眼の身には辛いものとなっております。もちろん、古文書原本は読めませんので、読みやすくしたものをつかっております。
なんとも困難な作業で、正徳元年に古八丁人馬通行止なる文言が出てまいります。また、寛永に古八丁を塞ぎ新八丁を開削するとあり、基本古八丁は通れないとなりますが、秋月封内図等には道が記してある。ということは、完全封鎖ではない、しかし、通行記録も見当たりません。また、塞いだ道にわざわざ石畳を設けて管理する必要があったのかどうか、これが最初の疑問。
しかし、読み解くうちに竹の伐採を嘉麻で行なった場合、蛇渕山など切り出した竹を大休に運んでいる。また、文政11年の大洪水のさいに、大休の上が崩れ野鳥川に流れ込み多大な被害を出しているが、即座に石方を野鳥川筋に派遣し往還の根石を居たと記されている。2日間かかり、その後に野鳥番所の上や下の川や道の普請を行なっている。往還の根石とは石畳の可能性があり、しかも、往還あつかいというのがいい感じである。この道は、古八丁に続き、一方では古処山参道で秋月の殿様も何度か参詣している。
ちなみに、石方は川の石垣等の普請のため間 小四郎が筑後より師匠を招いて教示し、郷夫石方という専業的集団として編制している。この集団と石畳普請、あるいは定期的作道がかんれんしているのかな。
この史料集「秋城年譜」の中の東畑記録中に面白い現象が書いてある。一つは彗星らしきものの出現、もう一つは、古処山から屏山、馬見山、江川の方へと幅180メートルほどでかなりの距離になるが木々が木っ端微塵に砕け散り、あるいは、大風で倒れたように根こそぎなぎ倒されたらしい。2日2夜振動したというが地震とは書いていないし、限定的された範囲のみそのような状態になるのもおかしいものである。当初、隕石かとも思ったが、2日間振動したとあるし光のようなものを見たとの記録もない。
古記録の中に天狗倒しと表現される現象があるが、まさにそれかもしれない。それにしても、幅が同じで木々が砕けるような現象が起るのか、ひょっとすると竜巻かもしれないが、3月か4月頃のこと、しかも、標高6~700メートルくらいの限定箇所である。UFOかもしれませんね。馬見あたりに以前UFO騒ぎがあったらしいから、また、彗星かとしてある記載も絵が描いてあるが、これもそのてのものでは、いやーはまっちゃいましたよ。
隕石で思い出しましたが、ずいぶん前のことですが、嘉麻市(当時は嘉穂町)牛隈に隕石が落ちたという話がないか確認に来た人たちがいました。ある炭鉱経営者の自宅に飾られていたもので、なんでも、隕石が落下するのをご本人が見たとのこと、炭鉱で働いていた人たちに仕事そっちのけで探させたそうです。溜池に落ちていたとかでだれかが探し出して持ってきたそうです。
炭鉱経営者は相当の金額で買い取り応接間に飾っていたそうです。それが、流れ流れて福岡の人が所持されていました。箱には九州大学の先生による鑑定書が入っていて、隕石であり鉄隕石と何かの中間のようなもので大変珍しいものだということでした。実物はいかにも高熱で解けた感じでした。
今、甘木史史料集を何度も読み返しては、古八丁越の利用と石畳の時期について調査している。なかなか面白いことがわかってきたのだが、決定打に欠けるのも事実である。というのも、市指定文化財に一部をしようと以前から奮闘しているのだが、なにせ、寛永年間に塞がれたとあり、正徳元年には人馬通行止となり、文久年間に開こうとしたが再び閉じられた道が古八丁、今で言う旧八丁越の道なのである。秋月街道をあつかわれた方は多いが、その利用について明確な回答をもっておられる方はいないといってよい。せいぜい、秋月封内図に道が記載してあるという理由から地元は使ったと想像されるが、その根拠は乏しい。
当時、才田村の紺屋なる人物が八丁口の番所に文句をいったところ、その先の石原口まで送り出されたが再びもどってきて文句を言ったという地方文書の記録がある。つまり、地元でも新八丁越を使っている証拠である。それと「石畳の残りがよく」と街道のガイド本にもあるが、新八丁開削から明治頃まで通行止めの道にあのような大掛かりな石畳を敷いたのはいつのことか、はたまた何故なのか明確な証拠がないのである。
何人もの先生方が本を書いておられるが、そこは新八丁と混同した書き方ですり抜けている。根拠がないのだからしょうがなかろう。しかし、指定して保護しようという地元にとっては事実をきちんと記していただきたいものである。
ともあれ、こまめに史料に当たるとなかなか面白く、状況証拠ではあるがこつこつと集めている。今度、何かの機会に発表しようと思うが、秋月街道という名称も古(旧)八丁越の利用等に関しても嘆かわしいくらいな研究しかなされていないのには驚く。街道研究家と称されるみなさんしっかり研究してよ。あとが大変なんですよ、あとがね。
石方郷夫・郷足軽・竹木が伐採される蛇渕山・大休・文政11年の大水害など、これらは間 小四郎関係でなかなかにいい史料を残してある。また、郷足軽の配置とその役目の一つに、夜須の津出し米の件で甘水を通る白坂越の改修に伴う史料に面白いことがのっています。これらは、間接的証拠として古八丁越の利用に関しかなりよい史料です。また、明和の殿様御郡回りの記録には、わざわざ蛇渕山を通って御帰城とあり、通常なら何も書かずに御帰城あるいは書いても八丁という文字がはいるが、明和の例は異例であったのかも知れない。もちろん、地方文書「田中大庄屋」の中の記載ではある。
さて、これから古八丁越関連の問題に付き合っていただこう。
まず、八丁関連の古記録で豊臣秀吉以前にさかのぼる例としてこのような資料がある。
永禄10年(1567)に秋月・毛利の軍勢と大友の軍勢が争った「休松夜軍」では、秋月軍が大友軍に夜襲をかけ大友軍を敗走させるが、その際に「豊後勢以ての外大崩れして、芥田千手へ引もあり。甘水、長谷山を打通り」(筑前国続風土記 元禄期)同合戦を甘木根基(天明期)では、「豊後三将甘木・長谷山間七度鑓合戦」と題し「以て外ニ大崩シテ、或ハ千手・大隈ニ引クモアリ」と記し「九州記四巻ニアリ」としている。
この記載を見ると、おそらく、(古)八丁越を命からがら逃げる大友軍の姿が浮かんでくる。面白いもので、石瀧先生は求める史料は、図らずも向こうから飛び込んでくる場合があるとか、この史料もその手のものである。
もうすぐ、字数の限度がせまっているので、新たにコーナーを設けます。