突然ですが、韓国のソウルに2泊3日で行ってまいりました。インチョン空港からソウルへと入りましたが、ものすごい開発ラッシュに驚きました。高速の両脇は、すでに開発によって丸裸の丘陵が続いていて、紅土というかまっ赤な土の小山がどこまでも続き、トレンチを縦横に入れたあとがはっきり見えました。もちろん、発掘の最中なのか終了後なのか、遺構すら手に取るようにわかりました。
まず感じたのが、土の色が赤色でおそらく粘質あるいは粘土層でしょう。どこもかしこも真っ赤で、粕屋の古賀や粕屋町あたりの土の色と似ている。例えば私が今住んでいる筑豊にはそのように赤い土はほとんど見れない。なにせ、花崗岩地帯であるから基盤は全て花崗岩の風化したマサ土、これはやわらかいためすぐ風化による開析が進み上にのっているロームやレス層はあまり残らない。旧石器がないのもそれが原因かな。
さて、韓国中央博物館というとてつもなく大きな建物に向った。玄関入口と間違って最初に入ろうとしたのが、博物館への車専用入り口で警備が常に2人立っているが、そこから入ろうとすると「ノーノー、入り口あっち」とだめだしをされとぼとぼ入り口に向う。博物館は巨大な建物2つがエントランスホールで連結されたもので、その大きさは想像を超える。
まず、入場券を手に入れようときょろきょろとその販売所を探す。ようやくそれらしき建物を発見した。隣接して食事が出来る所があるらしく、家族ずれでごったがえし、ハングルと英語の案内表字が各所にある。
その建物の横が入場券販売所らしいのだが、誰一人並んでない。みんな、どうやって入っているのか不思議であったが、まず、自動の券売り機を探すがない。そこで思い切って売り場らしきガラス窓の、穴から顔を見せ、韓国語で「今日は」あとは英語で「いくらですか、1まい」といったら「むりょん」と聞こえた、もう一度「なんですか」とたずねると再び「むりょん」とかいってチケットをくれた。あぁー「無料」といっているのかとおもいつつ、チケットを受け取って「かむさむはむにだー」と礼をのべ、上の建物群へと階段を登っていった。もちろん私1人で行っているので、たよるものは自分だけである。
階段を登りきると広いエントランスホールがあり、韓国語が飛び交っている。とにかく、親子・学校・大半が子ども達で、エントランスの塀に登っていた子供が警備の叔父さんから怒鳴られていた。日本で言えば「はやくおりなさい」だろうが、もっと強く叱っているように聞こえる。日本なら子ども達が「あの親父なにいってんだ、うるせー、うったえるぞ」とかなんとか言うのかもしれないが、すなおに、おりていた。
左右巨大な建物だが、どこから入るのかさっぱりわからない。見た目は左が近代的、右が重厚な建物である。しかし、みんな、左に入っていくのでついついつられて左の建物に入る。日本人だなーと感じた瞬間だった。左は子供ばかりで全く何だかわからない。ことも専用の建物に感じた。そこで、案内板を見ると、ライブラリーの字が見え右側の建物を指していた。
大理石の建物で、建築費用はいかばかりかなんて考えながら、ライブラリーに進むが、これも距離がある。中に入ると、突然吹き抜けの大理石の広間に入る。3階からなっているようで、ねらう考古館は1階、あとはとても回れないと感じた。チケットもぎりのおねーさんが三人くらい立っていて、奥に向って右が入口、左が出口となっているが、ほとんどオープンである。化石に興味がある人は、必ず見つけられるよ。壁、床、天井全て大理石でアイボリーかうすい茶色のものばかりであった。
さて、考古の入り口を入ると、崖の上のポニョではないが壁面に巨大な壁面の写真が飾られている。壁面というより崖面であるが、海の動物など様々な生き物の壁画の写真である。そこを右に進むと右側の壁に埋め込まれたガラスケースに、櫛目文土器などが飾られている。「トキ、トキ」と子供がいうと、親や祖父母が何じゃかんじゃと説明する。写メとり放題、ノートにスケッチと説明を書き入れるもの、とにかく、親子、親族、学校の先生と生徒、カップルとぼう然となるくらい人がたかっている。しかも、子供に熱心に親が説明しているのがすごい。そこは、また後で書こう。
いよいよ、旧石器展示が目に入ってきた。進行方向の左手ガラスごしに、石英製の大形で重量感あふれる石器類である。これが全谷里の石器かと覗き込むようにしていると、韓国の子ども達が数人でやってきては写メのとり放題、一歩下がって全体をみわたすと、茶褐色に色あせた6~7点の石器で、ハンドアックス・ピック・クリーバーといった、ヨーロッパのアッシュール文化に登場する名称が付されている。それにしても、石英の角礫みたいなものの側面から粗い剥離を施して仕上げている。よく見ると剥離面に横方向に石英本体にあるしま模様が見える。こいつはどこかで見たことがあるなとしばらく考えていると、糟屋町の新大間池で昔採集した石英製の石器見たいなものと全く同じである。脈石英というのだろうか、新大間は急斜面の丘陵の下方に、少し平らな部分があって、そこに、石英の破片みたいなものがかなりころがっていて、ハンドアックス状のものとルバロアのポイントによく似たものをひろって近年まで所有していたが、石器ではなく自然剥離と断定して処分した。
うそー、そんなバナナ、いや、馬鹿な。ここで、同質の石材にあえるとは何ということであろう。違いは石器か自然石かという根本にあるが、その色や風化具合、よく似ているのだ。まてよ、似ているとまずいのか。
石英系の風化したのは、土の色がしみこんでいるのか表面が茶系である。自然面と剥離面がよくわからないものもある。全谷里のものも本来白色系の石英であろうが長年の風化や色素の浸透により同じように茶色がかったものであった。少し気になったのは、剥離の稜線が以外にきれいにで、鋭利であった。誰かも書いていたがピックの先端に使用痕が見られないという。そこまでは気が付かなかったが、想像以上に鋭利であったこと。また、剥離面も新鮮であったことが頭に残る。
それと、石核があった。これは、全谷里ではなく金坡里遺跡出土のもので、石英の白色に赤い筋みたいなものが見えた気がする。韓国の土はそれこそ赤く、石英の摂理にしみこんだものだろうか。上端が丸みをもっており、周囲に剥片を剥いだと思われる稜線が見えた。興味を覚えたのは、ハンドアックス系の石器は、剥離が深くおそらく剥片がバルブを有しているので、その反転で凹面をなしている。一方、石核の剥離は、目立つ凹面が見えなかった。摂理を利用して、薄く的確に剥いでいったものか、最初、上部が丸みをもった厚手の円形枕のように見えてしまった。ガラス越しには限界が多いものである。
話変って中国の周口店の石英系石器は同なんだろうか、古いものの多くが石英で、中国・韓国ときたら、やはり、日本のしかも九州にも石英系の旧石器があっても・・・早水台?という考えが出るよねー。
とにかく、石英製の石器はないものでしょうか、筑豊は、花崗岩地帯でけっこう石英の露頭があるんだけど、ちゃんと見ていない。馬見・屏・古処山の変成岩の下は花崗岩で、ペグマタイトが何ヶ所かあって、水晶が拾える。その周辺は石英だらけである。標高は500~600mくらいかな、高原のような地形が続いていてひょっとすると、ひょっとする。学生時代に山形の弓張平に行ったけど、やや似ている場所がある。小石原の旧石器はそれくらいの標高のところにある。今度は高いところを探してみようか。興味はつきない。
おっと、話がそれてしまった。韓国へもどろう。
全谷里のハンド・アックスには、側面から段階的に剥ぎ取っていかれた剥離面がきれいに残っている。横長の厚手の剥片が飛び散ったことだろう。残念ながら剥片石器は見ていない。もう一つは金坡里のハンド・アックスはさらに美しい剥離のラインを示しており、剥ぎ取られた剥片にはバルブ等がきちんと見えるのだろうと想像した。ただし、多面体の石核の剥離面は、いかにも石英らしく平面的で、薄くそぎ落とすように剥いだ感じであった。
学生社のシンポジウム「日本旧石器時代の考古学」の中で、早水台の石英系石器や星野のチャート製石器を踏まえて、周口店の石英石器について、杉原氏と芹沢氏のやり取りが続いている。基本は剥片等にバルブ・リング・フィシャーが明らかであることが人工品ということから始まるが、芹沢氏は脈石英を割っても明確なバルブ等は見られないという。杉原氏はかなり周口店のものにはバルブが見られるという。芹沢氏は斐 文中氏等の書き物から引用しているのに対し、「実際に見てきた」という杉原氏、しかし、杉原氏はバルブがあったのは砂岩系のものかもしれないといい、チャートも石英同様バルブがわかりにくいならと、おそらく、早水台から星野へ移行した芹沢氏に対して、石英=チャートという矢を放った。ところが、石英系は斐 文中氏等も書いているように、容易にバルブ等は見られないとするが、チャートは質がよいところに当たれば、バルブは明確にわかるとした。
周口店の石英石器を一度はじっくり観察したいと考えているが、韓国のものは、明確に石器とわかり、剥ぎ落とされた剥片にはバルブ等が見えそうな気がする。やはり、石英や水晶といった石材の石器研究を何故やらないのでしょうか。
水晶は、自然に稲荷森の赤土の中で1点のみ大きく結晶したとは考えにくい。また、礫層はなく、人為的に持ち込まれた可能性はある。ただ、これまで確認されている水晶石器は透明のガラス状に結晶したものを使用している。旧嘉穂町でも数点出土しているがいずれも透明な良質の水晶で、今回のように煙水晶のようなものは使用されていない。最もである。
行橋市の渡筑紫遺跡は、水晶を原材とする旧石器が確認され、石器製作所の可能性が指摘されている。水晶はやはり透明なものを選択して使っているようで、ATより下層から検出されたことで3万年前後の年代が考えられている。水晶以外には珪質岩、黒曜石、安山岩で、黒曜石以外は付近の石材を利用している点に特色がある。関東でも立川ロームの下層のものはチャートやホルンフェルスなど身近な石材を多用しているようである。
韓国の全谷里や金坡里など明らかに石英を石材として使用しており、それをうまく連続的に剥ぎ取って石器を作っており、その剥離も交互剥離である。また、核となるものとそれから剥離した剥片が共存しており、人口品であることが容易に分かるという。全谷里より金坡里のほうがもっと分かりやすく、ハンド・アックスから剥ぎ取られた剥片は、バルブ等が確認されると思わせる見事なもので、かなり硬い石材をうまく加工していたようである。ちなみに、石材は身近で手に入る石英の礫を使用しているらしい。
中国から韓半島とくれば北部九州という道筋が出来ようが、杉原荘介先生はかつて、「杉原仮説」の中でリス氷期、ビュルム氷期前半、そして後半期に陸橋を渡って原人・旧人・新人が渡ってきたと考えるのは、いかにも話がうますぎて信じるわけにはいかないとしている。先生も自分の仮説を破って欲しいと願ってあるのだから遂行すればよいわけで、原点にもどって身近にある石材の石器群を探すこと、足元をもう一度注意することが必要と考える。それと、石英・チャート・玄武岩などの破砕礫と加工品との違い、層位など再び研究する必要を感じる。ぜひ、3~4万年の扉を開きたいものである。
次に、色々な石材の石器が展示してあったが、その中に北九州の辻田遺跡で出土した石材とそっくりなもの、いや、同じものがあった。凝灰岩系の石材だろうか驚いてしまった。しかし、アジア大陸の東端でともに同一の陸地であった時期が長ければ同じ石が出てもいいのかと考え直す。次に、棒を削るノッチが施された石英の石器状のものがあったが、中国の東谷坨のものと似ていた、おそらく、本物ではなく石器の使用法説明のためのレプリカとも感じられたのだが。
剥片尖頭器が6点くらい展示してあった。これが、九州の方でも出てくるやつかと見ていると、やはり、石材が違うのかレンガ色のものもあった。凝灰岩質の頁岩のような感じでながめたが、全体に短いのかなとも感じた。というのも、日本のものの中には恐ろしく長いものがあり、長刀かと考えてしまうものまでバリエーションがある。対馬と釜山の間に深い地溝帯があるという。それが、勢いよく流れていたのか、緩やかに流れていたのかは知らないが、凍結していた可能性もあろう。韓国ではそれほど出土していないようだが(古い資料より)もっと出ることを望んでいる。それと、各石器るいとの組み合わせやテクノロジーなど共通することが多いならまた面白い。
細石器類も多く展示されていた。私には何技法とか分からないが、私の見慣れた黒曜石があまりなかったかな(あやふや)正直疲れていたため意識がうせてしまっている。新石器に入ってだろうか巨大な石鏃がいくつもあったように思えたが、儀式用、それとも石槍かもね。
実は、今かぜをひいて微熱の中キーボードをたたいている。せっかく、フィールドに出ようと思ったのだが、無理らしい。あとは、家族サービスの日々が待っている。娘に有田の陶器市だけは勘弁してもらった。今日は息子の誕生祝で焼肉屋に行かねばならないが、それまでに完治させよう。葛根湯を飲んでね。ふー。
韓国旅行からかなりの時間が過ぎた。インターネットを見ると全谷里のレス古土壌の問題やさらに古い石器群の発見など松藤さんを中心に研究が進められているらしい。中国でもハンドアックスが多く発見されているようで、東アジアにもアフリカ・ヨーロッパから西アジア、中央や東南アジアを経てハンドアックスの文化が流入したのだろうか、私が学生の頃はチョッパーやチョッピングトゥールの文化と記され、群馬の権現山が何か特殊的に考えられていたようだった。もっぱら研究者はチョッパーやチョッピングトゥールを追い求めていたように記憶する。特に、前者は自然破損でも見られるのに対し後者は人工品として考え、学生時代に別の研究会がさかんに前期旧石器といっていたことが懐かしい。
国府遺跡のサヌカイト製ハンドアックスは、どうなっているのでしょうかね。喜田先生が報告された例のものですが、そのままでしょうね。
まず感じたのが、土の色が赤色でおそらく粘質あるいは粘土層でしょう。どこもかしこも真っ赤で、粕屋の古賀や粕屋町あたりの土の色と似ている。例えば私が今住んでいる筑豊にはそのように赤い土はほとんど見れない。なにせ、花崗岩地帯であるから基盤は全て花崗岩の風化したマサ土、これはやわらかいためすぐ風化による開析が進み上にのっているロームやレス層はあまり残らない。旧石器がないのもそれが原因かな。
さて、韓国中央博物館というとてつもなく大きな建物に向った。玄関入口と間違って最初に入ろうとしたのが、博物館への車専用入り口で警備が常に2人立っているが、そこから入ろうとすると「ノーノー、入り口あっち」とだめだしをされとぼとぼ入り口に向う。博物館は巨大な建物2つがエントランスホールで連結されたもので、その大きさは想像を超える。
まず、入場券を手に入れようときょろきょろとその販売所を探す。ようやくそれらしき建物を発見した。隣接して食事が出来る所があるらしく、家族ずれでごったがえし、ハングルと英語の案内表字が各所にある。
その建物の横が入場券販売所らしいのだが、誰一人並んでない。みんな、どうやって入っているのか不思議であったが、まず、自動の券売り機を探すがない。そこで思い切って売り場らしきガラス窓の、穴から顔を見せ、韓国語で「今日は」あとは英語で「いくらですか、1まい」といったら「むりょん」と聞こえた、もう一度「なんですか」とたずねると再び「むりょん」とかいってチケットをくれた。あぁー「無料」といっているのかとおもいつつ、チケットを受け取って「かむさむはむにだー」と礼をのべ、上の建物群へと階段を登っていった。もちろん私1人で行っているので、たよるものは自分だけである。
階段を登りきると広いエントランスホールがあり、韓国語が飛び交っている。とにかく、親子・学校・大半が子ども達で、エントランスの塀に登っていた子供が警備の叔父さんから怒鳴られていた。日本で言えば「はやくおりなさい」だろうが、もっと強く叱っているように聞こえる。日本なら子ども達が「あの親父なにいってんだ、うるせー、うったえるぞ」とかなんとか言うのかもしれないが、すなおに、おりていた。
左右巨大な建物だが、どこから入るのかさっぱりわからない。見た目は左が近代的、右が重厚な建物である。しかし、みんな、左に入っていくのでついついつられて左の建物に入る。日本人だなーと感じた瞬間だった。左は子供ばかりで全く何だかわからない。ことも専用の建物に感じた。そこで、案内板を見ると、ライブラリーの字が見え右側の建物を指していた。
大理石の建物で、建築費用はいかばかりかなんて考えながら、ライブラリーに進むが、これも距離がある。中に入ると、突然吹き抜けの大理石の広間に入る。3階からなっているようで、ねらう考古館は1階、あとはとても回れないと感じた。チケットもぎりのおねーさんが三人くらい立っていて、奥に向って右が入口、左が出口となっているが、ほとんどオープンである。化石に興味がある人は、必ず見つけられるよ。壁、床、天井全て大理石でアイボリーかうすい茶色のものばかりであった。
さて、考古の入り口を入ると、崖の上のポニョではないが壁面に巨大な壁面の写真が飾られている。壁面というより崖面であるが、海の動物など様々な生き物の壁画の写真である。そこを右に進むと右側の壁に埋め込まれたガラスケースに、櫛目文土器などが飾られている。「トキ、トキ」と子供がいうと、親や祖父母が何じゃかんじゃと説明する。写メとり放題、ノートにスケッチと説明を書き入れるもの、とにかく、親子、親族、学校の先生と生徒、カップルとぼう然となるくらい人がたかっている。しかも、子供に熱心に親が説明しているのがすごい。そこは、また後で書こう。
いよいよ、旧石器展示が目に入ってきた。進行方向の左手ガラスごしに、石英製の大形で重量感あふれる石器類である。これが全谷里の石器かと覗き込むようにしていると、韓国の子ども達が数人でやってきては写メのとり放題、一歩下がって全体をみわたすと、茶褐色に色あせた6~7点の石器で、ハンドアックス・ピック・クリーバーといった、ヨーロッパのアッシュール文化に登場する名称が付されている。それにしても、石英の角礫みたいなものの側面から粗い剥離を施して仕上げている。よく見ると剥離面に横方向に石英本体にあるしま模様が見える。こいつはどこかで見たことがあるなとしばらく考えていると、糟屋町の新大間池で昔採集した石英製の石器見たいなものと全く同じである。脈石英というのだろうか、新大間は急斜面の丘陵の下方に、少し平らな部分があって、そこに、石英の破片みたいなものがかなりころがっていて、ハンドアックス状のものとルバロアのポイントによく似たものをひろって近年まで所有していたが、石器ではなく自然剥離と断定して処分した。
うそー、そんなバナナ、いや、馬鹿な。ここで、同質の石材にあえるとは何ということであろう。違いは石器か自然石かという根本にあるが、その色や風化具合、よく似ているのだ。まてよ、似ているとまずいのか。
石英系の風化したのは、土の色がしみこんでいるのか表面が茶系である。自然面と剥離面がよくわからないものもある。全谷里のものも本来白色系の石英であろうが長年の風化や色素の浸透により同じように茶色がかったものであった。少し気になったのは、剥離の稜線が以外にきれいにで、鋭利であった。誰かも書いていたがピックの先端に使用痕が見られないという。そこまでは気が付かなかったが、想像以上に鋭利であったこと。また、剥離面も新鮮であったことが頭に残る。
それと、石核があった。これは、全谷里ではなく金坡里遺跡出土のもので、石英の白色に赤い筋みたいなものが見えた気がする。韓国の土はそれこそ赤く、石英の摂理にしみこんだものだろうか。上端が丸みをもっており、周囲に剥片を剥いだと思われる稜線が見えた。興味を覚えたのは、ハンドアックス系の石器は、剥離が深くおそらく剥片がバルブを有しているので、その反転で凹面をなしている。一方、石核の剥離は、目立つ凹面が見えなかった。摂理を利用して、薄く的確に剥いでいったものか、最初、上部が丸みをもった厚手の円形枕のように見えてしまった。ガラス越しには限界が多いものである。
話変って中国の周口店の石英系石器は同なんだろうか、古いものの多くが石英で、中国・韓国ときたら、やはり、日本のしかも九州にも石英系の旧石器があっても・・・早水台?という考えが出るよねー。
とにかく、石英製の石器はないものでしょうか、筑豊は、花崗岩地帯でけっこう石英の露頭があるんだけど、ちゃんと見ていない。馬見・屏・古処山の変成岩の下は花崗岩で、ペグマタイトが何ヶ所かあって、水晶が拾える。その周辺は石英だらけである。標高は500~600mくらいかな、高原のような地形が続いていてひょっとすると、ひょっとする。学生時代に山形の弓張平に行ったけど、やや似ている場所がある。小石原の旧石器はそれくらいの標高のところにある。今度は高いところを探してみようか。興味はつきない。
おっと、話がそれてしまった。韓国へもどろう。
全谷里のハンド・アックスには、側面から段階的に剥ぎ取っていかれた剥離面がきれいに残っている。横長の厚手の剥片が飛び散ったことだろう。残念ながら剥片石器は見ていない。もう一つは金坡里のハンド・アックスはさらに美しい剥離のラインを示しており、剥ぎ取られた剥片にはバルブ等がきちんと見えるのだろうと想像した。ただし、多面体の石核の剥離面は、いかにも石英らしく平面的で、薄くそぎ落とすように剥いだ感じであった。
学生社のシンポジウム「日本旧石器時代の考古学」の中で、早水台の石英系石器や星野のチャート製石器を踏まえて、周口店の石英石器について、杉原氏と芹沢氏のやり取りが続いている。基本は剥片等にバルブ・リング・フィシャーが明らかであることが人工品ということから始まるが、芹沢氏は脈石英を割っても明確なバルブ等は見られないという。杉原氏はかなり周口店のものにはバルブが見られるという。芹沢氏は斐 文中氏等の書き物から引用しているのに対し、「実際に見てきた」という杉原氏、しかし、杉原氏はバルブがあったのは砂岩系のものかもしれないといい、チャートも石英同様バルブがわかりにくいならと、おそらく、早水台から星野へ移行した芹沢氏に対して、石英=チャートという矢を放った。ところが、石英系は斐 文中氏等も書いているように、容易にバルブ等は見られないとするが、チャートは質がよいところに当たれば、バルブは明確にわかるとした。
周口店の石英石器を一度はじっくり観察したいと考えているが、韓国のものは、明確に石器とわかり、剥ぎ落とされた剥片にはバルブ等が見えそうな気がする。やはり、石英や水晶といった石材の石器研究を何故やらないのでしょうか。
水晶は、自然に稲荷森の赤土の中で1点のみ大きく結晶したとは考えにくい。また、礫層はなく、人為的に持ち込まれた可能性はある。ただ、これまで確認されている水晶石器は透明のガラス状に結晶したものを使用している。旧嘉穂町でも数点出土しているがいずれも透明な良質の水晶で、今回のように煙水晶のようなものは使用されていない。最もである。
行橋市の渡筑紫遺跡は、水晶を原材とする旧石器が確認され、石器製作所の可能性が指摘されている。水晶はやはり透明なものを選択して使っているようで、ATより下層から検出されたことで3万年前後の年代が考えられている。水晶以外には珪質岩、黒曜石、安山岩で、黒曜石以外は付近の石材を利用している点に特色がある。関東でも立川ロームの下層のものはチャートやホルンフェルスなど身近な石材を多用しているようである。
韓国の全谷里や金坡里など明らかに石英を石材として使用しており、それをうまく連続的に剥ぎ取って石器を作っており、その剥離も交互剥離である。また、核となるものとそれから剥離した剥片が共存しており、人口品であることが容易に分かるという。全谷里より金坡里のほうがもっと分かりやすく、ハンド・アックスから剥ぎ取られた剥片は、バルブ等が確認されると思わせる見事なもので、かなり硬い石材をうまく加工していたようである。ちなみに、石材は身近で手に入る石英の礫を使用しているらしい。
中国から韓半島とくれば北部九州という道筋が出来ようが、杉原荘介先生はかつて、「杉原仮説」の中でリス氷期、ビュルム氷期前半、そして後半期に陸橋を渡って原人・旧人・新人が渡ってきたと考えるのは、いかにも話がうますぎて信じるわけにはいかないとしている。先生も自分の仮説を破って欲しいと願ってあるのだから遂行すればよいわけで、原点にもどって身近にある石材の石器群を探すこと、足元をもう一度注意することが必要と考える。それと、石英・チャート・玄武岩などの破砕礫と加工品との違い、層位など再び研究する必要を感じる。ぜひ、3~4万年の扉を開きたいものである。
次に、色々な石材の石器が展示してあったが、その中に北九州の辻田遺跡で出土した石材とそっくりなもの、いや、同じものがあった。凝灰岩系の石材だろうか驚いてしまった。しかし、アジア大陸の東端でともに同一の陸地であった時期が長ければ同じ石が出てもいいのかと考え直す。次に、棒を削るノッチが施された石英の石器状のものがあったが、中国の東谷坨のものと似ていた、おそらく、本物ではなく石器の使用法説明のためのレプリカとも感じられたのだが。
剥片尖頭器が6点くらい展示してあった。これが、九州の方でも出てくるやつかと見ていると、やはり、石材が違うのかレンガ色のものもあった。凝灰岩質の頁岩のような感じでながめたが、全体に短いのかなとも感じた。というのも、日本のものの中には恐ろしく長いものがあり、長刀かと考えてしまうものまでバリエーションがある。対馬と釜山の間に深い地溝帯があるという。それが、勢いよく流れていたのか、緩やかに流れていたのかは知らないが、凍結していた可能性もあろう。韓国ではそれほど出土していないようだが(古い資料より)もっと出ることを望んでいる。それと、各石器るいとの組み合わせやテクノロジーなど共通することが多いならまた面白い。
細石器類も多く展示されていた。私には何技法とか分からないが、私の見慣れた黒曜石があまりなかったかな(あやふや)正直疲れていたため意識がうせてしまっている。新石器に入ってだろうか巨大な石鏃がいくつもあったように思えたが、儀式用、それとも石槍かもね。
実は、今かぜをひいて微熱の中キーボードをたたいている。せっかく、フィールドに出ようと思ったのだが、無理らしい。あとは、家族サービスの日々が待っている。娘に有田の陶器市だけは勘弁してもらった。今日は息子の誕生祝で焼肉屋に行かねばならないが、それまでに完治させよう。葛根湯を飲んでね。ふー。
韓国旅行からかなりの時間が過ぎた。インターネットを見ると全谷里のレス古土壌の問題やさらに古い石器群の発見など松藤さんを中心に研究が進められているらしい。中国でもハンドアックスが多く発見されているようで、東アジアにもアフリカ・ヨーロッパから西アジア、中央や東南アジアを経てハンドアックスの文化が流入したのだろうか、私が学生の頃はチョッパーやチョッピングトゥールの文化と記され、群馬の権現山が何か特殊的に考えられていたようだった。もっぱら研究者はチョッパーやチョッピングトゥールを追い求めていたように記憶する。特に、前者は自然破損でも見られるのに対し後者は人工品として考え、学生時代に別の研究会がさかんに前期旧石器といっていたことが懐かしい。
国府遺跡のサヌカイト製ハンドアックスは、どうなっているのでしょうかね。喜田先生が報告された例のものですが、そのままでしょうね。