筑豊の縄文・弥生

筑豊の考古学は「立岩遺蹟」「嘉穂地方誌」先史編の2冊に凝縮されている。が、80年代以降の大規模調査成果は如何に。

ニュース「歩けおじん」2 腰痛に要注意

2010-02-06 17:20:46 | Weblog
 石垣島の化石人骨のことである。そもそも、明石の西八木から腰骨の化石が発見されたが、直良氏はじめ眼差しは石灰岩洞窟に向けられた。牛川・三ヶ日・浜北と続くが、断片過ぎたり、新しいものが混じったり、明確なものは三ヶ日・浜北くらいかな。そこに登場したのが沖縄を中心とする琉球諸島の石灰岩洞窟群だ。山下町・港川など点々と発見されている。沖縄の戦跡を訪ねガマといわれる洞窟をいくつか見学したことがある。そこで思ったのは、人類が住むにはいい場所かななんて、戦争の悲惨さを物語る遺品が残る洞窟内でそう思った。20年くらい前の話だが。
 それはそうとして、石器類の出土についてはほとんど聞かないがどうなのだろう。山下町では、骨角器?やハンマーストーンなどが出ていたようだが、石器類の関連がよくわからない。いずれにしても、今後のさらなる発見が期待できる良好なフィールドのようだ。そこから、九州へのルートはすでに考えられているようで、洞窟を積極的に利用する旧石器人は、どうも、今の所南方経由型か、例えば福井洞穴などもなんとなく関連があるのか。列島の多くの場所に洞窟遺跡があるが、そのほとんどが縄文草創期で、九州以北では南方系の進出はどうなのか、もう一つは朝鮮半島経由、それと、北方から南下する人々など様々である。
 田川市の岩屋1号洞窟を掘ってみたいね。県指定だが堆積物を探るのは、いいんじゃないかな。洞窟遺跡調査を試みたい方々へ、是非、1度たずねてみてください。
 おっと、そうそう、考古学やってる皆さん、無理して長年発掘やっていると、腰に来ますよ。

 2月も中旬に入りますね。石垣島の人骨記事をインターネットで探していたら、大腿骨も出ているようでしたね。骨に含まれるコラーゲンでC14が可能とか例のなんたらスピン法ですか、2万~1万5千年まであるようで、測定値が正しければ3段階にわたって人類の痕跡が残されていることになりますね。不安なのは、発掘状況、特に層位の関係が伝わってこないし、道具類の提示も全くありません。港川のように石灰岩の裂け目に何らかの理由で埋まった、あるいは埋められた可能性があれば、道具は無理でしょうし、スティルクフォンティンのようにヒョウなどの猛獣が狩った獲物とすれば、これも道具はないでしょうね。もっとも、獲物であれば人骨に歯形が残るでしょうが。
 その洞窟で過ごしたのか、運ばれたのか、流れ込んだのか、そのような点が分かれば、なお、興味がわきます。
 沖縄諸島は石灰岩多く、近年の化石人骨はほとんどそのあたりからのものですね。九州や四国、本州をはじめ結構石灰岩の分布は知られていて、規模もかなりなものですが、なんといっても、セメント関連企業による鉱業権が設定されているから、うかつによれないのが難点ですね。それでも、帝釈峡なんかは何十年も調査をやっていますが、化石人骨にたどり着けない。三ヶ日や浜北などいずれも石灰岩の裂け目に流れ込んでいる。逆に考えれば、近辺にいたことは間違いないですが、旧石器時代の石灰岩洞窟利用がよくわかりませんね。
 それが、草創期あたりから盛んに利用し出す。氷期に利用せず、暖かくなると利用を始めるこれもまた解釈に苦労します。
 インターーネットを見てたら、人骨は流れ込みのようですね。正式な発掘ではないようで、2010年に正式な発掘調査に入るようです。期待してます。
 
 2月14日の朝日に高島忠平さんの記事があった。今年度で学長をやめられるそうである。いつもは、詰め襟のワイシャツだが、さすがにネクタイ姿での写真である。九州説を唱えるにあたりかなり勇気がいったこと、はじめは、奈文研の中で1人九州説側で討論し、全員にひどい目に合わされたこと、その火付け進行は坪井さんだったこと、立岩の発見者で佐賀県ではニ塚山遺跡にすぐに遭遇し、吉野ヶ里地域の秘めた可能性をうすうす感じていたこと、吉野ヶ里遺跡の調査、国指定、全国に先駆けた広大な史跡公園の完成、九州邪馬台国説の先鋒、様々な経歴と顔を持った方で、紅白の審査員をした考古学者は、高島さんただ一人かと思う。
 偶然、「卑弥呼と台与」を840円で買った。何の事はないが、前1世紀から邪馬台国の時代まで続けられた中国との関係は、九州からはじまり受け継がれている。一方、あきらかにヤマトが勢力拡大あるいは統一を行う4世紀前後から100年以上中国との関係は断たれている様にみえる。邪馬台国とヤマトの中国政策について断絶を感じるのである。それまで、統一や勢力の拡大、安定には中国の後ろ楯が必要だったのが、何故ヤマトは必要としなかったのか、ヤマトは邪馬台国の系譜を受け継いでいないのではないかとも思えて、たまたま、木曜にかったのだ。そこに、高島さんの記事を見つけたわけです。

 「卑弥呼と台与」の最後にありましたね、ヤマト政権がなぜ中国の力を後ろ楯にする必要がなくなったのか、前方後円墳の出現によりその上での儀礼行為によって首長継承がスムーズになったとか、どうでしょうね。例えは悪いが、ある組織グループが治める地域がある。その縄張りは、他のグループからちょくちょく狙われる。そこで、巨大な組織に属すことで庇護を受けるが、代償を支払う義務が生じる。しかし、この関係なくしては外敵から身を守れず内部分裂も起る危機がある。それが、邪馬台国でも継続される。卑弥呼の没する前には、真っ向から対立する狗奴国があり、30余とされる以外に様々な国の存在も考えられる。しかも、卑弥呼の死後男王が出るが治まらずに台与が擁立されるという。不確だが資料では倭から使いが来たと言う。そのような不安定な状況の中で、いわばまつろわぬ国々をはじめ、内部抗争を停止するような力が古墳と継承儀礼にあったのか、しかも、1世紀余りの間である。そして、5世紀の巨大古墳群がヤマトに登場し、それこそ列島内に前方後円墳が続々と作られる頃にようやく、中国に使者を送るというなんとも理解できないことが、起きているのは事実であろう。むしろ、謎の4世紀こそバックの強大な権力を必要としたのではないかと、これまた単純に考えるわけである。また、中国へは九州の諸勢力の力がないと渡れなかっただろうから、特に、1世紀後に使者が使わされる際は、その傾向が最も強く出たと考える。まあ、今の所こんなんかなー

 2月20日 久しぶりに福岡旧石器文化研究会の例会に顔を出す。九州大学キャンパス予定地の発掘現場を見学、出土遺物を見てから内容の検討会。その中で、石器研究とは異なるが、近年のC14関係の年代データで驚かされたのが、撚糸文土器の年代であった。浦江・松木田・大原Dなど9000年以上前のデータが示されていた。最近、縄文の情報にうとかったが、関東の撚糸文とほぼ同時期ではないか。唖然とした。それまでは、東日本で確立する撚糸文の影響下で北部九州あたりに出現するが、押型文土器に若干伴うものくらいの認識であったが、あらためて、年代を見ると「えー」と素直な感想。ところが、その系譜がわからないと言う。西日本での撚糸文土器の資料は圧倒的に少なく、どこをどう経てやってきたのか見当がつかないのが現状。しかし、確かに、撚糸文土器で構成されるような遺跡が、九州大学キャンパスの造成が進む地域に存在している。
 もう1点は、撚糸文が斜行しいる資料が多い。古式のものは横位方向に施文されているようで、本気で撚糸文の解明を行う必要を感じている。実は、この一連のブログの中に撚糸文土器群についての疑問を感じて書いていた。
 東日本には、草創期の後半に絡条体圧痕文を含む非回転押捺の多縄文が出現する。室谷などは半回転の付加縄文かな、それから、回転押捺の時代へと入る。少し乱暴な展開だが、多縄文の時期に、縄文と撚糸文の原体は揃っていて、それを回転させる施文が井草、大丸、夏島、稲荷台と変遷していく。ところが、その夏島と変わりない年代が得られている撚糸文群は、現状として前後が全く不明なままである。少なくとも、絡条体の原体があり土器面に回転押捺させる技術の存在はある。
 今、思い出したが福井洞穴の出土土器中に線縄文(縄文原体を横位に押捺したもの)があったのを水ノ江氏のスライドで見た。氏も不確かながらそのことに触れたが、それ以上の進展はなかった。もしそうであれば多縄文群の可能性もあろうが。

 2月23日 福岡市松木田遺跡の報告書を再見する。土器の230番には、口縁部に半円状の突起、すなわち、把手が付されている。カーボンでいくと8500年前となるから縄文早期に位置するものである。1972年段階で、全国的視野に立って縄文土器の把手の出現は、関東の田戸下層式とされている。関東では撚糸文から沈線文の段階に入っている。そのあたりの整合性はどうなのか、関東と九州では地域が離れすぎて比較できないとして、独自に考察するのも当然であるが、松木田の例は、田戸下層式より関山などに見られる形状である。
 さてさて、何をどう考えるのか慎重にならざるを得ない。
 大形石鏃様のものが、山形県日向洞窟発掘資料中に存在する。石鏃と石槍を比較研究するには、同遺跡資料も参考となろう。現状として西日本に類例が、まだないとすれば、東日本にも視野を広げてはどうだろう。

2月24日 
 山内清男氏『日本先史土器の縄紋』によれば、早期の時期にRとして押型文土器に伴うもので判断したとしている。吉備も同様で畿内はRかLは不明であるが押型文に伴うようである。関東がLの斜位のものがあり、続いてRになる。もちろん、情報は1960年代までのもので、50年以上も前のことではあるが、関東では縄文・撚糸文全盛期の時期が、あり、それが、微妙ではあるが九州方面に及んでいる可能性が見えるが、近年まで九州の撚糸文群は、押型文に伴うものと判断され、それほど注意は払われなかった。
関東を中心とする回転撚糸文は縦位方向を主とし横位方向は希である。器面に45度近くから横位方向の斜行撚糸文とも言うべき福岡市西部の一群はどう解釈すべきか。撚糸文の施文は条間が密であり、コイル状にかなり密に巻かれた原体を使用しているようであるから、器面に斜方向あるいは横位となろう。稲荷台式のように条間が離れていれば、斜方向に施文しないと縦位にはならない。
 また、密に巻かれた原体を考えると関東の早期でも、井草・大丸や夏島といった古式の様相と類似する。山内氏は、押圧縄文(多縄文)までは、文様帯(古)があり、撚糸文群の時期に文様帯の断絶があり、再び、文様帯が出現するという。(小林達雄氏は、撚糸文群にも文様帯があるとした。)この文様帯が途絶える時期には、全国的に縄文・撚糸文が拡散するのか。これも、系譜が解らないため類例を待つしかないだろう。ちなみに、多縄文の時期に、線縄文や絡状帯圧痕文は横位の展開であるのだが。
また、円孔文とどのような関係にあるのか刺突文も福岡ではかなり広範に認められる。時期的には、なお型式差があるようで、福岡市西部では条痕文⇒撚糸文⇒刺突文といった年代差みたいなものがあるようにも見えるが、なんともいいがたい。条痕文や撚糸文は純粋なものがあるが、刺突文は条痕文や撚糸文と組み合っており、条痕文・撚糸文の次段階での刺突文の導入ということなのか。

 3月えーと何日かかな、とにかく土曜日だ。あまりの衝撃に曜日も忘れてしまった。何が原因かって、きまってらー「石垣島の洞窟遺跡破壊」という朝日の記事です。ガックリもいいとこ昨日は飲みすぎてしまった。いつもだが。今回は何が何だかさっぱり分からないが、新石垣島空港建設に伴い、数年前から化石骨を多く含む堆積物が確認され、しかも、頭骨を含む人骨が発見され、新聞に大きく報道されたじゃないの。それがなに、一転して堆積物のほとんどがなくなった。空港建設賛成反対の様々な葛藤はあったろうし、今でも続いているのだろうが、以前からの調査要請に県教育委員会は重い腰をなかなか上げなかった。空港の完成図を見ると橋の方だよね。ここに、貯水池を作るのだとか、そんなもの少しずらせよ。
 それはともかく、洞窟遺跡内に入りにくかったので、天井部を重機で引っぺがしたんだって、堆積物中に目に見えるものがなかったから埋め戻した。なにそれ、考古学の土器や石器ではなく相手は骨だよ。石灰華に包み込まれ、土とまじりあったような状況、しかも、土自体が白かったら白に白、見えないよ。それとも、目をつぶったか、知っていながら知らんぷりだったのかな。前庭部もなくなっているところを見れば、洞窟遺跡云々は知っているね。県の担当者様よ。堆積物や前庭部の土はどこに持っていったの、全力で探しなさいよ、まだ、見つかればきっと出てきますよ。遺跡はなくなっても人骨等の資料が残れば幸いとして探しましょうよ。
 直良先生と腰骨(明石原人)の因縁を読んでくださいよ。守りに守ってついに戦火で消失、残った石膏模型がふたたび論争を起こし、とどめを刺すように人類学者から中世以降とされた。直良先生のご子息はその化石化した状況を観察、重量感まで記憶してあった。いくら状況証拠をそろえても化石がないから先には進めない。直良先生の叫びが聞こえますか、洞窟の上を重機で割り取る調査方法は誰が教えたのですか、何と言う先生が教えたのですか。前庭部から洞窟ないの堆積物をどのように葬り去ったのですか、教えてください。
 緊急調査の状況や苦労は分かります。いたばさみになっていたのでしょう。みんな逃げますよ、最後は担当者が責められますよ。だから、埋め戻したなら、再度、自然科学系と一緒に、どこかに処分したのなら、断片でも調査してください。お願いします。
ちなみに、先日『ホモ・フロレシエンシス』の上下巻を買って呼んでいる最中だった。

 3月17日 中学生時代にひろった大形の扁平片刃石斧についてに聞いてみた。案外のものらしい。早速、下條さんが書かれた伐採石斧の論文に目を通すと、形状の似たものがあった。こりゃ大変とばかりに、採集屋の魂が揺さぶられた。近日中に36年ぶりのひろった場所に行ってみることにしている。
 つくづく思うが、正直なにより心ときめくものは、遺物の採集でことに古い石器がよい。しかも、誰も見つけていない遺跡を探すことに燃えるようである。なんと、中学時代から何も変ってない自分に驚く。

 3月19日 古八丁峠の指定範囲測量に行くが、足腰がバリバリになった。光波をもって距離等を計測し簡易な作図を試みる。それと、やはり行ってみるもので、下草まで刈ってあり峠の石畳の片側のみ建物跡を発見していたが、反対側にも簡単な石垣と平場があり陶磁器類がけっこう落ちていた。中に江戸期のものらしいものや縄文土器のようなものまであった。また、下りの石畳付近で江戸期の古そうな磁器も発見した。何より、足を運ぶことがかんじんと反省する。しかし、そう簡単に近づけるものでもない。ほんと、運動不足です。

 3月21日 彼岸参りのついでに篠栗町若杉の長者ノ隈古墳の北側に西浦池に行ってみた。なんと、40年ぶりくらいにお寺の人と再会した。私より2つ上、さらに、3月上旬の紅姫祭りの時には、40年以上であろうか、小学校低学年のころよく遊んでくれた近所の兄ちゃんにあったばかりであった。今回池に来るのもまさに36年ぶりである。運のよいことに池の水は完全に抜かれていて、工事が行われようとしていた。久々に池に降りたが重機が中を走っていて、そこの一部は剥ぎ取られ片岩系の石がごろごろと露出している。まあーこの中で遺物を狙うのはかなり困難である。
 とりあえず、昔の記憶を頼りに池に流れ込む所に近づくが何も落ちていない。以前は、砂っぽい堆積がありその中に片刃石斧があったが、今回は、土ごとはがされ何もわからない。そこで、池はあきらめおそらく石器が包含されていた小川沿いの水田地を歩き回った。小石がかなり混じる扇状地のような地形で、ほ場整備は受けておらず以前の地形そのままに水田にしているようである。中に、数箇所畑が作られていたので見てみたが、それらしきものはなし。ただ、龍泉窯の青磁片を拾ったので、中世初頭遺跡があることは間違いないだろう。
 それにしても、懐かしい人物2人と再会したことのほうが私にとってはよかった。

 3月最後の日曜日、昨日の夜久々に佐藤達夫氏の「縄紋草創期前半の編年について」を寝床の中で読んでいた。隆起線文土器と爪形文土器の位置関係について爪形文に隆起線文が後続するというもので、波紋をよんだ内容である。そして、最古の土器として小瀬ヶ沢洞穴の窩紋土器、刺突紋土器、箆紋(櫛目紋)土器という候補が提示され、その系統をウラディウォストク近くのザイサノフカⅠ遺跡、あるいはミヌシンスクのサラガシやシャバラク・スクのものに求められている。近年、窩紋土器については縄文原体の先端による刺突文が確認されたようで、多縄文に含められているようである。佐藤氏は「土器は土器から、文様は文様から」という原則にのっとられ土器の位置付を石器によった福井洞窟の2層・3層の問題を型式学に基づけばという問題提起をされたのだと思ったわけである。
 当時、福井洞窟の調査で土器に細石器が伴うということで、関東以北で確認されていた隆起線文や爪形文と九州のそれとが整合しないことになり、西高東低あるいは九州だけ細石器が残存するという考えが登場するのだが、その辺の整理はまだ判然としないようである。
 また、豆粒文土器の位置付や九州の細石器が爪形の次の押引(刺突)文まで残ることなど、本州域とは不整合の状況らしい。これも、福井洞窟の再調査が行われるようで楽しみの一つである。
 
 なんか、野尻湖から45,000年前の敲石が出土したとか、写真を見るとこげ茶の土に青色の楕円状をした円礫が写っている。なんでも、キルサイトというからナウマン像やオオツノ鹿を解体した場所なのだろう。もう少し探るとほかの石器も出てきそうであるが、がんばってください。必ずあると信じてやれば、けっこうむくわれます。確実に動物の化石は出土していますから、ヨーロッパ的ですね。私の好きな『ライフ』の91ページにスペインのアンブロ谷の発掘の様子が写真に出てます。クラーク・ハウエルが発掘したもので、94ページの図を見ると、結構石器が出てますね。特に、剥片や剥片石器が多いようで、その場で解体用に石器を作ったのかもしれませんね。範囲は結構広いようで像を中心にかなりの骨が出ているようです。
 日本列島に到達した人類の年代を限定的に考えるというのがありますね。立川ロームのⅩ層ですか、それ以前の例はないという考えですね。それ以前を見つけてほしいという希望の現段階ですか、それとも、ありえないという否定的見解でしょうか。
 あるというのは、岩宿ではないですが1箇所見つかれば扉は開きますね。しかし、「ない」という断定はよほど難しい。出アフリカもグルジアのドマニシでアフリカのホモ・ハビリスやジンジとほぼ同じ年代の人骨が出ているという。極東地域への到達ももっと早くなる可能性がないかな。
 とにかく、すべての地域でより古い確実な証拠を探そう。あせりは禁物、まずは、野尻湖なんか力を入れるべき遺跡であろう。期待してます。

 4月21日 しばらく書いてませんでした。嘉麻市の沖出古墳公開を17・18の両日に行い180人くらいのお客さんを案内してました。王塚古墳の公開にあわせて遠賀川流域の古墳を一挙公開というところです。沖出古墳は、完全に近い状態で復元した4世紀後葉の前方後円墳で70mほどあります。割竹型石棺という珍しさに加え、近年、石棺に朱が塗られていたことがわかりました。過去に何度となく盗掘され副葬品は残っていませんでしたが、盗掘した穴の底から三種の腕輪が見つかっていて現在県指定になっています。
 しかし、装飾古墳の人気には勝てずいまいちお客が少ないのが悩みです。まあ、王塚古墳に勝とうとは思ってませんが。
 最近新聞で、アウストラロピテクスの新種が発見されたとか、南アフリカだったかな、タウングチャイルドと関係するのか、アフリカは新発見続きで、200万年あたりのころに極端に種がふえるものの、ピテカントロプスの時期には、何らかの原因で種が少なくなった。隕石かな、なんて、これも新聞ネタで古生代から中生代に5回にわたって生物群の絶滅状態があったとか、旧石器以降の日本列島での画期といわれるものにも小規模ながら絶滅とはいわないが人口が著しく少なくなる何かがあったかもしれない。災害考古学とでもいおうか、弥生後期初頭ころの飢饉説を書いたことがあるが、そんなことも頭の片隅におくと、面白いかもしれない。

 4月23日沖出古墳公開翌日より風邪をひいてしまい、木曜は1日休み、昨日は耳鼻科にかかってしまった。というのも、45歳を過ぎるころから、春前後に鼻が悪くなり急性の蓄膿になってしまうのだ。何度かそのような経験をしながらも、洗浄と飲み薬で快復していた。ところが、あるとき担当の先生が、薬を直接患部に注入する方法がありますのでやりましょうという。「え、洗浄じゃないですか」と聞くと「治癒するのに時間がかかるし、再発する可能性も高いですから、薬を入れましょう。」しかたなく「はあ、お願いします。」「そうですか、やり方は簡単です。この鉄の鍵爪で鼻の中の骨に穴を開け、そこから洗浄液を流し込んできれいになった所で薬を注入します。」・・・「えっ」見ると歯医者で使用する鍵爪の柄が太いもので鼻に差し込んで側面に穴を開けるという。しかたない、イエスと返事をしてしまったからにはしょうがない。やがて、注射による鼻の中の麻酔がはじまった。「少し、チクットするかもしれません」チクッどころではない、異様に長い針が鼻の中にめり込んでいく。なんとか辛抱していると「麻酔も聞いたようなので」と例の器具を左側の鼻の穴から入れはじめ、「このあたりで」といいつつ両手で汽車のレバーを動かすように力を込めた。鼻の骨がミシリと曲がりやがてグズっといってバキッと音がした。貫通である。こんな思いをするなら、なるべく早くに医者にかかる決心をしたのである。
 おかげで、今回も蓄膿ではなかった。年齢とともに虚弱になっていくのがひしひしと伝わり、医者がよいがやたらと多くなった。そうそう、先日も腰と首を診てもらいに病院にかかっている。
 
 4月24日 夕方のこと飯塚市の花瀬あたりで石をふみ突然のパンク、おそらく、タイヤが切れていると思う。久々のタイヤ交換でくたびれてしまった。最近の車のキットはちゃちでジャッキをあげる際に回転させる棒が見当たらない。適当なものでやったが、タイヤ交換なんかする人もめっきり減ったのであろう。
 ところで、よさそうな地形と切通しを見つけた。不幸中の幸いかもしれない。明日、早速訪れ見よう。何か発見できればよいが、嘉穂盆地ではどうにもアンテナが働かない。何か調子が今一である。

 4月25日(日) タイヤは側面が切れていた。最近、新しいのにやり変えたのに交換しかない。なんだかついてないよなあー。「何かに当ったなら」ということで、スクラッチを5枚買っていたのをみんなで削るも、100円当っただけ。当りは当りだがなんだかさびしい。
 昨日、パンク修理中にふと見つけた丘陵の切通しに行ってみた。やはり、スカだった。しかし、丘陵上には墓石があり、一軒家がたっているがその上の丘陵部には、古い墓石が倒され木琴のように並んでいる。さしずめ、ポルターガイストのそれと似ている。考えすぎかな。
 この、ページも10000字の限界に近づきつつある。内容は、さらに続く。ひつこいかのー