筑豊の縄文・弥生

筑豊の考古学は「立岩遺蹟」「嘉穂地方誌」先史編の2冊に凝縮されている。が、80年代以降の大規模調査成果は如何に。

過去への旅(気になることどもの続き)

2009-03-08 01:16:24 | Weblog
 さて、八丁越、あるいは八丁坂がどれくらいさかのぼって利用されたのか。永禄10年の記載は紹介したが、はたして、古くはどこまでか。
 利用時期の確実な例としては、天正15年(1587)に豊臣秀吉とその軍勢が、大隈町の益富城から秋月の荒平城への進軍の際に通行していることや慶長5年(1600)「如水はそれより筑前に入、八町坂をこえ、秋月と言所に着給ふ。」(黒田家譜一巻 -寛文期-)とある。
 その他、慶長5年(1600)(推定)「路次之儀、道も近く候間、秋月通能候ハんと存候、但其元可然談合尤候」の史料は、肥前佐賀藩主鍋島勝茂が国許に送った書状であるが、秋月を通る(古)八丁越が最も近いと記している。
 確実なのは何れも江戸初期で、有馬、立花、細川、鍋島などの諸大名が、江戸にのぼるさいに使用していたようで、重要な道として認識、存在していた事はわかる。
 慶長5年(1600)「如水はそれより筑前に入、八町坂をこえ、秋月と言所に着給ふ。」(黒田家譜一巻 -寛文期-)とある。これは、関ヶ原合戦のあたりで、江戸時代直前に黒田が豊前から筑前、そして、筑後を目指した合戦のくだりである。これを見ると、八丁越が豊前と筑後を結ぶルートとして最短距離にあったことがわかる。
 このように頻繁に利用された峠道であり、江戸初期の江戸登城と藩との往復に使用されてきたのである。千手町は慶長期に宿場町として整備され、諸大名はじめ旅人の憩いの場とされてきた。

 その他に、可能性を示唆するものとしては、文明12年(1480)「是より守護所陶中務少輔弘詮の舘に至り・・・折ふし千手冶部少輔、杉次郎右衛門尉弘相など有て、一折あり・・・十六日、杉の弘相の知所長尾といふに行・・・」(宗祇〔筑紫道記〕- 文明期 -)がある。
 これは、大内政弘の招請により宗祇の九州下向が実現し、筑前の木屋瀬にある陶弘詮の館に宿泊、その後、杉 弘相の所領である上穂波の長尾、米山越から大宰府に入っている。コースとしては、木屋瀬→上穂波長尾→米山越→大宰府となる。ここで、陶 弘詮の館では、杉次郎右衛門尉弘相と千手冶部少輔2名の名を記している。ここで、コースとして上穂波長尾→米山越→大宰府が設定されていたことは、杉氏と宗祇とのその後の関係でも明らかであるが、嘉麻郡千手を領有する千手冶部少輔もまた同席した事から、米山越がもし通行出来なかった場合の腹案として、千手冶部少輔の千手から八丁(町)越を通り、秋月氏の秋月経由で大宰府に向かうというコース設定も考えられていたのではないか。千手と秋月は建武4年(1337)には南朝方としてともに軍事活動を行なっていた事がわかっており、大内の筑前・豊前支配時代は、ともに大内配下の筑前衆として名を連ねた国人衆で、千手から(古)八丁越で秋月コースもまた、可能な選択であったと考えられる。
 大内氏は、寛正2年(1461)の教弘の時代に、支配下の周防・長門・豊前・筑前・安芸・石見・肥前の各郡への使節の所要日数と飛脚等による返書の日数を定めており、通行路を把握していたものと考えられる。ちなみに、嘉麻郡は使節の所要日数4日、返書までに13日を要し、上座・下座は6日・17日と記され、千手と秋月をつなぐ(古)八丁越もまた主要な通行路として把握されていた可能性はあろう。
 おそらくは、秋月氏と千手氏が南北朝期から、かかわりの深い間柄であり、その連絡網として、また、内陸交通において豊前・筑前・筑後を結ぶ重要な往還であった事は間違いないだろう。
 
 それでは、もともと八丁坂・八町坂、八丁越・八町越と称された名称が、古あるいは新と呼ばれ、さらに、八丁越、八丁往還が常に新八丁越の名称となり、古八丁が間道となるいきさつとは何であろう。
 寛永7年(1630)には、秋月藩主となった黒田長興の命により「家臣足軽の司安倍惣左衛門一任に命じて、古八町の道をふさき、新に道を切開かしむ。翌年に至て其功なれり。」とあり、また、「是肥後、肥前、筑後より・・・此道を超えて、嘉麻郡千手町、大隈町をへて豊前に通る大道なり」(筑前国続風土記-元禄期-)ということから、往来は新八丁越に移ったことが分かる。
 これを期に、古八丁は間道というただの峠道に格下げとなった。しかし、新八丁越開削理由の1つである「秋月の城郭内を貫通する故」(秋月史考)という点を考慮するなら、江戸期を通じて道を消滅させなかのは何故か、しかも、険しい峠道の大半を石畳で覆い、風雨から道を保護し明治以降再び同じ道が通れるほどに管理してきたのはなぜであろう。

 正徳元年(1711)には、「古八丁の道人馬通路止と古記にあり、其頃迄は新旧共に通路とせしにや、寛永七年より正徳元年迄八十年斗なり」(望春随筆-天保期)にもあるように、江戸期半ばにして古八丁の人馬通行止めのお触れを出してまで、交通を遮断している。その後は、全く禁じられたようで、秋月の望春の記憶には通行の差し止めしかなく、さらに、地方文書には嘉麻の才田村紺屋久吉なる人物が、八丁口の番所でさんざん文句を行ったので、その先の石原口まで連れて行かれたが、再び舞い戻って文句を言ったので、取り押さえられてしまった。つまり、地元の者でも八丁口・石原口といえば新八丁コースであり、一般やある研究者達が記すように地元は古八丁を通れたという曖昧な事実はなかったものと考えられる。第一に地元と一般の旅人の違いを番所が設けられていない嘉麻郡側でチェックする事は困難である。
 それなら、いっそ道自体を消滅させれば事足りたはずである。しかし、秋月封内図をはじめとする地図にはしっかりと書き記されている。道は手入れしなければ10年以内に埋もれ、あるいは崩壊していくものであるが、古八丁は残されたままである。
 
 そもそも、古八丁と新八丁の区分とはいつ頃行なわれたのであろう。古記録を見ると以下のようになる。

 貝原益軒の筑前国続風土記 -元禄期-)には、八丁(町)越の由来を「山路の嶮き所を八町通る故、八町越といふ。」と記すとともに、「いにしえより名ある要害也。」とし、重要な古道として紹介している。
また、「四月四日 秀吉公以大隈城・・・自大隈越八丁坂入夜須郡秋月・・・種長為古所山道之案内者給、此時肥前国住人・・・八丁坂蛇渕」 (古本九州軍記十一巻 - 慶長期 -)や「如水はそれより筑前に入、八町坂をこえ、秋月と言所に着給ふ。」(黒田家譜一巻 -寛文期-) から八丁あるいは八町という両方の書き方があるとともに、八丁坂・八町坂とも称されていた事がわかる。
 それが、寛永7年(1630)には、秋月藩主となった黒田長興の命により「家臣足軽の司安倍惣左衛門一任に命じて、古八町の道をふさき、新に道を切開かしむ。翌年に至て其功なれり。」とあり、新道の開削によって古八丁と新八丁という名称が使用されることとなる。黒田長興意図することは、従来の八丁越では、大休から野鳥を通って、まともに城館にたどり着くコースの問題と、峠を秋月に下る際に城館及び城下の配置が丸見えとなること、また、古処山から連なる標高600m以上の尾根を直接越えるため、非常に旧坂となり峠を越える人々の負担を少なくするという狙いがあった。
 つまり、この新八丁開削によって、古八丁と新八丁という呼称が出来たのである。
 これに似た話が、実は大隈町の益富城にもある。それは、愛宕山の横から大隈町に下る坂道を通っていたが、後藤又兵衛の築城の際であろうが、コースを谷底に切り替えている。この話は新八丁切り替えほどには有名でないが、その名残として、太閤坂という小字が愛宕山の西斜面に残っている。

 新八丁が完成するまでに、この峠を越えた大名
 1 元和3年(1617)年 柳川藩主 田中忠政
 2 寛永3年(1626)年 立花藩主 立花宗茂
 この道を利用した大名は、肥前佐賀藩主鍋島、筑後久留米藩主有馬、筑後柳川藩主立花、肥後熊本藩主細川などである。(福岡県文化財報告書「秋月街道」より)

 新八丁越完成後も、上記の大名は度々この道を利用したようである。特に、細川は、黒田と反目していたため、筑前の黒田本藩領からよりはなれたこの道を利用している。
 正徳元年に出された「古八丁の道人馬通路止」のお触れについては、望春が記す「八十年斗」という長い年月の間に徐々に人々が通行するようになり、新八丁越開削理由の1つである「秋月の城郭内を貫通する故」(秋月史考)という点において、形骸化した古八丁越の通行差止を古事にならって再度掲げ、通行する旅人等を八丁往還(新八丁越)に集中させる手段と目される。
 新八丁越開削以来、元禄・宝永頃まで続く諸大名の参勤交代等において、新八丁越とその前後に設けられた秋月のお茶屋は、大名達の休憩あるいは宿泊の場として賑わい、宿場及びその沿線に相当のお金を落としたことであろう。したがって、古八丁なる間道を旅人が急ぎ通過しようともなんら痛手はこうむらない。まして、大休から野鳥口までに郷足軽・番所・武士団といった警護とも取れる居住地があり、やすやすと進入する風でもない。古八丁の間道越は大目に見られ始めたのであろう。それも、望春が言うように80年もの時の経過があった。

 ところが、その状況が一変する状況が生じたのである。その背景には、この時期、千手地域の大力と千手町にそれぞれ御茶屋があった、徳元年(1711)「此年御舞台・大力村茶屋等年内ニ被成御解」(秋城年譜)と「千手町御茶屋并諸御道具当分御預り」(「萬覚帳」田中家文書 )により大力は解体し、手町は閉鎖状態になったと考えられ、再び千手町に御茶屋が設けられるのは寛延4年(1751)のことであるが、明和7年(1770)千手町大火(「萬覚帳」田中家文書 )により消失し、その後の再建はなかった。
 これについては、甘木根基(天明期)の「秋月城下ヨリ久留米・柳川街道、往古西国諸大名此筋御通路、甘木御茶屋柳川 立花様御泊、宝永年中以後此筋大名通路相止、御茶屋其後引ル」とあり、宝永年間に鍋島、有馬、立花、細川といった諸大名の通行が途絶えたことによる秋月藩の財政事情から御茶屋を一旦整理したものと考えられる。
その後も、甘木においては、明和年中から細川氏がたびたび通路についてお尋ねになったが、筑前や豊前に御茶屋がないことから通行を止められたとあり、明和7年(1770)千手町大火により御茶屋が消失し再建されなかった点と一致する。
 なお、甘木御茶屋の利用について、宗官家文書の「先祖より覚書」によれば、当家は黒田忠之より御茶屋を仰せ付けられ代々甘木御茶屋守を続けている。また、「其節細川越中守様八丁通被遊、御宿被遊候節・・・立花飛騨守様ハ、毎々御泊り被遊・・・其上御通り之御大名様方御休泊御座候ニ付」に記されるように、細川氏は八丁(新八丁越)を利用していること、立花氏や甘木を通る諸大名が御茶屋を利用していた事がわかる。
 今まで相当の金額を秋月藩に落としたであろう諸大名の通行が途絶えたのである。いわば財政状況の悪化に伴う解決策が必要となったわけであり、その一つが、御茶屋をなくすこと、また、通行路を往還に絞り込むことで、一般の旅人にその代価を求めて行ったのではなかろうか。

 文化・文政よりややさかのぼる頃からかと思われるが、八丁峠(新八丁越)で興味ある事件が起っている。
 千手や秋月の助郷たちが、峠の上までやってくると座り込んで一歩も動かなくなるというのである。目的は酒代と称していかほどかの賃金をねだるというもので、これも、大名達の通行が途絶えてしまったための余波であろうか、しかも、街道警護が手薄になっているようで、八丁口の番所から人を引き上げたなんていうこともあったようだ。街道筋の治安の悪化と経済事情が比例しているようにも思える。

 餘樂日記によれば、往還筋の手入れに十分にするよう、あるいは、1月4日に毎年手入れをして怠らないよう注意し、それが、5日から日常の仕事始めにつながるとしている。特に、往還は様々な人が往来するので手入れが行き届くように命じている。

 この日記の中に興味あることが記されている。それは、文政11年の大水害が野鳥村の川筋を襲ってから、下流に大水をもたらした様子がかかれている。そこに、すぐさま石方夫が召集され、まずは道の修理を2日間行なっている。根石を居えと書かれていて、石畳が敷かれていた様子がわかる。しかも、この道は往還と書かれているが、古八丁越の大休あたりをふくめてのことと考えられる。石方夫とは、間 小四郎時代に、主に河川における石垣や石井手を構築する専門集団で、筑後方面から師をよんで修練させている。それが、文政に入ってのことであり、さっそく石方を使って道の修理を試みている。その後は、嘉麻郡からかなりの人数を招集し、野鳥の番所あたりまで道の修復を行なっている。

 八丁往還手入之事

一 八丁往還出水之節土流れ、石を洗出し、人馬之通路難渋ニ付、石工江申付、大  石ハ割除ケ、小石も取除、其上出夫ヲ以テ致手入候、猶後年折々手入之儀申談  候事

 この史料は、文政11年の大水害を踏まえてのことと考えられる。新八丁往還に関することであるが、石工とあるのは石方のことかも知れない。その後、往還の手入れはことに他国の人々も通行するので、決められた手入れはきちんとやるように、しかも、1月4日と定め、これを期に仕事始めとしている。どこか、役所の仕事始めと同じで、江戸時代以来の決め事の踏襲かとがっかり。

 
 突然ですが、韓国で石英製の旧石器を見て、中学2年のときに見つけた新大間池の丘陵先端にあった、石英製石器のようなものを採集したあの時のことがよみがえり、いてもたってもいられず日曜に行きました。37年ぶりにあの現場に足を踏み入れました。池の渕にあるという以外は全て変ってました。あの頃、ちょうど植林のため木々は伐採され、およそ低木くらいしか生えていなかった。池の渕には家があったのかなかったのかさえさだかでない。当時は数件あったかなというくらいで、狭い水田の畦道を通って山の裾野に行った記憶がある。
 全谷里遺跡の石英製石器を目の当りにして、37年前にかよった粕屋町新大間池の南東に位置する急傾斜の丘陵先端部で採集した、2点の資料を思い出した。当時、植林のため木々が伐採されていた丘陵が2つあり、奥の丘陵上にかなり盗掘された古墳を発見。手前の丘陵では、先端のかなり狭い平地から、ハンド・アックス、あるいは、尖頭状石器と思われるものとルバロアのポイントと思われる、両者ともに石英製石器(思い込み)を採集した。
 この頃、テレビでルイ・スリーキーのオルドバイ峡谷における一連の活躍を見た。また、ライフの「原始人」を必死に読んでいた頃で、ボルドー大先生による石器製作の図の中で、ルバロアの石核とポイント製作が頭に残っていた。というのも、非常に複雑な工程を経てポイントを製作するが、ポイント自体には加工を加えないという点が興味を持ったのと、星野遺跡発掘のきっかけとなるのが、ルバロア型のコアだったからである。
 数年前まで所持していたが、石器ではないという事で砕いて捨ててしまったのだが。韓国で現物を見たとたん思い出して、4月12日の日曜に新大間池の奥にある畑に立っていた。以前は水田であぜ道をいった記憶があったが、今は畑となっていた。畑を耕していた人に、奥に行ける道があるかと尋ねたら、獣道みたいなものがあるだけという返事、それでも40年近く経過した思い出の地であり、ここで引き返すわけにはいかない。一つ目の丘陵の縁を歩いていたが当時とは全く違っている。竹の子の頭がかすかに出ていて、食べごろの物がわんさと見える。そんなものには興味がない、ただ、石英の破片を見つけながら歩くと、丘陵のはしに点々と石英片が落ちている。「ここだ」と思わず声が出た。次に丘陵端部に露出していた石英の露頭を探すとすぐに見つかった。やはり、ここであった。すっかり木々に覆われていたが間違いない。
 さっそく、採集に取りかかる。10cm内外の薄くはがれた石英片が土にまみれて茶色に染まっており、縁辺は鋭いが肝心の加工痕がない。北京原人の剥片製作技法に両極打法があるというが、石英の自然崩壊がすでに手頃な鋭い剥片をしょうじさせるのである。石英の露頭に行けば崖錐堆積中に方形の鋭い刃部をもった剥片がてにはいるのである。その中には、ノッチ状のものドリルといえる先端の尖った一部を有するものというように、加工を加えることなく手に入る道具はそろっている。
 問題は、アーティーファクトと呼ばれ、現代の人間の目に明らかな石器とそうではない石器、さらに、擬石器の違いとはどこに求めるべきであろう。意外と、石英はどこにでもある石材であり、自然に剥片として存在するとするなら、まずは、手頃なそのあたりから手を付けるのが人間、もう一度、このあたりを注意しないと永遠に3万年は超える事は難しい。 
 先ずは、大陸に近い福岡で、到達した人類が何を最初に石器として求めたらよいか、そのあたりから考えてみても面白いと思う。


 5月31日日曜、宗像の田熊石田遺跡を見学に行った。