筑豊の縄文・弥生

筑豊の考古学は「立岩遺蹟」「嘉穂地方誌」先史編の2冊に凝縮されている。が、80年代以降の大規模調査成果は如何に。

過去の報告再見 何が出るかな?

2009-05-28 22:57:45 | Weblog
 過去の報告を再び見よう。何か新たな発見があるかもしれない。
 みなさん、「宇宙、それは最後の開拓地である」というフレーズから始まるスタートレックをご存知でしょう。その昔、テレビ放送で宇宙大作戦と出ていましたね。中でもスポックの「魅惑的だ」という台詞を何度も聞いたことでしょう。また、カーク船長がスポックを呼ぶ時、日本語吹替えにも関わらず「スパァック」といっていたような気がします。
 それはともかくとして、「史蹟名勝天然記念物調査報告書」を見てたら何だか興味がわいてきて、過去の文献の世界に飛び立とうという感覚になりました。魅惑的な世界が待っているように思えてなりません。

 昭和9年3月の、「史蹟名勝天然記念物調査報告書」第九輯 史蹟之部
の91ページに浮羽郡福富村西山古墳群地帯の遺蹟 宮崎勇蔵とある報告の中に、ふと目を引く縄文土器片があった。写真上段の一枚で、上下二段に土器片3点ずつ並べられている。下段3点は突帯文土器の口縁部であるが、気になるのは上段部左の1点である。右端は細かい楕円文の押型文土器で、中央はよくわからない。左端は撚糸文か、さもなくば多縄文系に見えるのだが、実物はどうなっているのやら。是非、見たいものである。吉井町辺りになろうか、興味をそそる。
 とかく、九州の撚糸文は東の影響と考えている。大体、長崎・宮崎・鹿児島と隆起線文土器があり、福井洞穴出土土器の中に線縄文土器が1点あるのを、見ている。多縄文系の土器があることを望んではいるが、なんとか、資料に出会いたいものである。
 同じ中山博士の報告に飯塚市立岩遺跡の立岩運動場(グラウンド)から発見された甕棺墓の報告がある。5基が見つかったようであるが、その2号と4号が多条突帯をもつ大型甕棺であったことから、福島(2006) 井上裕弘(2008)須玖式甕棺の胴部に3条以上の突帯が巡る多条のものについて、嘉穂地域特有の生産品という視点で指摘されているが、井上氏によれば22基が確認されており、さらに、その2基が加われば24基となる。今後ともその数は増加するだろう。
 さて、その報告に第2図として土器が4点写真で示されている。その最も左に口縁が厚ぼったく若干胴部がはるもののほとんど底部に向ってすぼまる。底部は暑くやや張り出し気味の甕がある。これは、現在も飯塚市の歴史資料館に展示してあるが、以前から後期無文土器との関連を疑っている1点である。疑無文なのか折衷なのかは定かでないが、その素性に興味がわく1点である。もう1点、昭和57年に刊行された飯塚市の「下ノ方遺跡」の報告書の土器の中に甕の口縁部小片であるが、口縁端部がくるっと円形になるものが1点示されている。下方にハケ目が見られるようであるが、断面の実測は明らかに粘土を巻き込むように円形に仕上げているのが分かる。何れ実物は見せてもらうが、極めて無文土器に近いと考える。
 おそらく、前期末に相当する時期であろうが、立岩遺跡において輝緑凝灰岩製の石庖丁が製作されだした頃に相当する。そういえば、韓国中央国立博物館で石庖丁を見たときに、1点だけ輝緑凝灰岩のような色をしたものがあったように記憶する。韓半島にも脇野亜層と同様の堆積岩が南の方に広がっているのは知っている。韓国でもその利用があった可能性はあろう。前期末になって突然輝緑凝灰岩を使用するというより、それ以前に石材の利用を知っている一部の人たちが内陸の笠置山に原材料を求めたとも考えられる。今は、砂質頁岩や縞が入る頁岩の磨製石器が弥生の古相を独占するようだが、輝緑凝灰岩の利点は韓国でもすでに知られていたと考えれば、添田の庄原にも無文土器があるし、求める価値はあろう。

 ミネルヴァという雑誌の合本を昭和61年に購入して時々読むが、喜田御大と若手山内両氏のミネルヴァ論叢は、何度読んでもいいですね。甲野 勇氏も対談で火をつけておいて誌上で対決なんて、なかなか出来ませんね。縄文土器の編年に限らず概念から縄文時代観、そして、ついには、考古学全体の方法論に至るまでけを包括する内容に拡大化していく、佐原さんだったかな、「考古学の現状として否応なしに山内レールの上を走っている。」いった様なことを書いたのは、それほどに影響力のある両氏の論争が記されている。
 
 話は、飛びます。近年、立岩製石庖丁の原産地遺跡の可能性が高い地点を発見して、1年以上が経過した。何ら進展のないままに過ごしたが、中村さんのすすめもあって資料紹介をしようと目論んでいるのだが、採集資料の実測は進まないし、夏場は寄り付けない場所でもあり、もっぱら、研究史に目を向けている。
 中山・森両先生から児島・岡崎・藤田各先生方、そして、下條先生の一連の研究につながるのだが、『立岩遺蹟』あたりを境にあまり触れられなくなった。特に、原産地である笠置山での原石採集については、森先生以来、踏査すら進んでいないように感じる。
 そこで、そのあたりから関心を持ってもらおうと、再度、この問題に触れてみたいと考えている。
 中山先生は、立岩運動場の工事で丘陵を大きくカット、甕棺5基が発見され内部から貝輪や鉄剣片が出土したのを詳細に報告、しかも、人骨の鑑定を行っている。その一方で、先生は焼ノ正と記したが、その後、下ノ方遺跡と判明、数多くの石庖丁の製品、未製品を発見、また、工事の際に採集された多くの未製品等を観察し、そこが、石庖丁の製作所であることに気付いた。これは有名な話であるが、先生は、それ以前に今山においてすでに石斧の製作所を発見され、その報告と論文を公にされていた。
 先生は、今山と立岩を調査され、石材の採集場所を明確にすること、また、今山と立岩の比較から、石材採集場所周辺に石器製作所がある今山タイプと立岩のように石器製作所近辺に石材の供給場が見当たらない場合の2タイプをすでに指摘されている。北九州の梅崎さんが弥生の石器製作遺跡で石材産地から、6キロも離れているのは、立岩だけであろうと書かれているように、今日でも明快な回答は得られていない気がする。中山先生の2つの課題は、残されたままである。
 石材産地については、戦前に森先生が川床に無数に散乱する輝緑凝灰岩の礫と山頂もしくは、山腹あたりであろうか露頭を発見したと書かれ、飯塚の地を離れて福岡に越されている。『立岩遺蹟』の中で岡崎先生が古生代の呼野層が、千石峡キャンプ地の上にあることから、そこからの転石に原石を求められた。しかし、おそらくは現地踏査を行われず、森先生の論文と地質学的な見地から導き出された回答ではなかったのかと思うのである。その後も、その影響の下に書かれた先生方は多いと考える。
 直方の牛島さんは、石鎌の未製品らしきものを採集され報告されているが、河原で採集されたのか、その後の追跡はされていない。福岡の今山は、行政発掘が繰り返され、全貌が明らかとなりつつある。一方、笠置山は、以前のまま手付かずの状態である。その差は何なのか分からないが、笠置山は開発の波が押し寄せることなく残されており、全域を調査するチャンスは大いにある。遠賀川関係者よ集まれである。
 今、改めて立岩の石庖丁に関する研究史をひっくり返しているが、中山先生が報告した焼ノ正(後に下ノ方と判明)遺跡は、市営運動場出土の甕棺を調査しているのを見学に訪れた名和さんが発見者だとはじめて知りました。市営運動場や焼ノ正あたりの包含層はかなりの厚さがあったようで、立岩丘陵の西側あたりは、丘陵にそって段丘が形成されていたのであろうか。そうすると、背後に丘陵を有する南北に長い平坦な台地が帯のように延びていたとも考えられ、そこに立岩の集落群が形成されていたのかもしれない。

 先日、直方の牛島さんから秋月藩士 江藤正澄の「秋のかり寝」という幕末に書かれた史料のコピーをいただいた。正澄が嘉麻郡の史蹟・遺物など様々な資料調査を行ったもので、慶応元年に古八丁越を利用しての見学旅行である。古八丁越については、それまで通行止めになっていた道であるが、この時は通行可能となっており、道を開くにあたり背景に小倉戦争があるようで、幕末から明治への転換期を、この峠道利用の動向から感じ取ることが出来る。
 正澄は、峠を下り千手宿駅に到着し、それから才田村・九郎原村にいたって秋穂某なる庵室を訪ねるが留守であった。これは、地誌類に登場する庵のことで現存しない。その後、陰陽石などを見学、次に、上臼井の永泉寺に立ち寄る。ここは、秋月家の位牌が納めてあり、宗 貞国の寄附状や種実の位牌を龍の巻たる掛絵があると聞いて、主僧に会わんとしたが、ちょうど安国寺学寮に行かれいた。享禄年間に
没せられたものから順にあった。寺を後にして、上臼井の小山の半腹に岩窟を見る。以前にたずねたおりに秋穂某氏が岩屋に住む人がいて日頃から隠れ家造作の窟という。岩屋の中に入ってみると、神代むかしの穴居か、岩窟の数12であるが、この1とつに遊民の老夫婦が住み着いている。内部の四方は岩壁で戸や障子の必要も無く、雨露や風などの心配も無い。この岩窟は横穴墓で山腹に1列に並ぶ様子が描かれている。また、内部は副室の横穴で入り口からのぞいた様子では、排水の溝が掘り込まれ、奥壁の天井には棟を示すラインが掘り込まれたようすが見える。横穴墓から出土したものは、はそう・つきみ・つまみのついたつきふた・金環3点・かめの口、管玉である。
 これは、上臼井の横穴墓に関する古い資料である。大正から昭和初期にかけ多くの著名な学者が調査に訪れた横穴墓だろうか、それにしても、慶応年間にこのような記録があろうとは思わなかった。筆書の挿図が何ともいえず興味をそそる。しかも、平面図に寸法が書き込まれ、斜め方向からの立面図的なものを入れている。しかも、遺構配置図的な鳥瞰図を入れており、横穴の分布状況が分かる。