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筑豊の縄文・弥生

筑豊の考古学は「立岩遺蹟」「嘉穂地方誌」先史編の2冊に凝縮されている。が、80年代以降の大規模調査成果は如何に。

過去の報告再見 何が出るかな?

2009-05-28 22:57:45 | Weblog
 過去の報告を再び見よう。何か新たな発見があるかもしれない。
 みなさん、「宇宙、それは最後の開拓地である」というフレーズから始まるスタートレックをご存知でしょう。その昔、テレビ放送で宇宙大作戦と出ていましたね。中でもスポックの「魅惑的だ」という台詞を何度も聞いたことでしょう。また、カーク船長がスポックを呼ぶ時、日本語吹替えにも関わらず「スパァック」といっていたような気がします。
 それはともかくとして、「史蹟名勝天然記念物調査報告書」を見てたら何だか興味がわいてきて、過去の文献の世界に飛び立とうという感覚になりました。魅惑的な世界が待っているように思えてなりません。

 昭和9年3月の、「史蹟名勝天然記念物調査報告書」第九輯 史蹟之部
の91ページに浮羽郡福富村西山古墳群地帯の遺蹟 宮崎勇蔵とある報告の中に、ふと目を引く縄文土器片があった。写真上段の一枚で、上下二段に土器片3点ずつ並べられている。下段3点は突帯文土器の口縁部であるが、気になるのは上段部左の1点である。右端は細かい楕円文の押型文土器で、中央はよくわからない。左端は撚糸文か、さもなくば多縄文系に見えるのだが、実物はどうなっているのやら。是非、見たいものである。吉井町辺りになろうか、興味をそそる。
 とかく、九州の撚糸文は東の影響と考えている。大体、長崎・宮崎・鹿児島と隆起線文土器があり、福井洞穴出土土器の中に線縄文土器が1点あるのを、見ている。多縄文系の土器があることを望んではいるが、なんとか、資料に出会いたいものである。
 同じ中山博士の報告に飯塚市立岩遺跡の立岩運動場(グラウンド)から発見された甕棺墓の報告がある。5基が見つかったようであるが、その2号と4号が多条突帯をもつ大型甕棺であったことから、福島(2006) 井上裕弘(2008)須玖式甕棺の胴部に3条以上の突帯が巡る多条のものについて、嘉穂地域特有の生産品という視点で指摘されているが、井上氏によれば22基が確認されており、さらに、その2基が加われば24基となる。今後ともその数は増加するだろう。
 さて、その報告に第2図として土器が4点写真で示されている。その最も左に口縁が厚ぼったく若干胴部がはるもののほとんど底部に向ってすぼまる。底部は暑くやや張り出し気味の甕がある。これは、現在も飯塚市の歴史資料館に展示してあるが、以前から後期無文土器との関連を疑っている1点である。疑無文なのか折衷なのかは定かでないが、その素性に興味がわく1点である。もう1点、昭和57年に刊行された飯塚市の「下ノ方遺跡」の報告書の土器の中に甕の口縁部小片であるが、口縁端部がくるっと円形になるものが1点示されている。下方にハケ目が見られるようであるが、断面の実測は明らかに粘土を巻き込むように円形に仕上げているのが分かる。何れ実物は見せてもらうが、極めて無文土器に近いと考える。
 おそらく、前期末に相当する時期であろうが、立岩遺跡において輝緑凝灰岩製の石庖丁が製作されだした頃に相当する。そういえば、韓国中央国立博物館で石庖丁を見たときに、1点だけ輝緑凝灰岩のような色をしたものがあったように記憶する。韓半島にも脇野亜層と同様の堆積岩が南の方に広がっているのは知っている。韓国でもその利用があった可能性はあろう。前期末になって突然輝緑凝灰岩を使用するというより、それ以前に石材の利用を知っている一部の人たちが内陸の笠置山に原材料を求めたとも考えられる。今は、砂質頁岩や縞が入る頁岩の磨製石器が弥生の古相を独占するようだが、輝緑凝灰岩の利点は韓国でもすでに知られていたと考えれば、添田の庄原にも無文土器があるし、求める価値はあろう。

 ミネルヴァという雑誌の合本を昭和61年に購入して時々読むが、喜田御大と若手山内両氏のミネルヴァ論叢は、何度読んでもいいですね。甲野 勇氏も対談で火をつけておいて誌上で対決なんて、なかなか出来ませんね。縄文土器の編年に限らず概念から縄文時代観、そして、ついには、考古学全体の方法論に至るまでけを包括する内容に拡大化していく、佐原さんだったかな、「考古学の現状として否応なしに山内レールの上を走っている。」いった様なことを書いたのは、それほどに影響力のある両氏の論争が記されている。
 
 話は、飛びます。近年、立岩製石庖丁の原産地遺跡の可能性が高い地点を発見して、1年以上が経過した。何ら進展のないままに過ごしたが、中村さんのすすめもあって資料紹介をしようと目論んでいるのだが、採集資料の実測は進まないし、夏場は寄り付けない場所でもあり、もっぱら、研究史に目を向けている。
 中山・森両先生から児島・岡崎・藤田各先生方、そして、下條先生の一連の研究につながるのだが、『立岩遺蹟』あたりを境にあまり触れられなくなった。特に、原産地である笠置山での原石採集については、森先生以来、踏査すら進んでいないように感じる。
 そこで、そのあたりから関心を持ってもらおうと、再度、この問題に触れてみたいと考えている。
 中山先生は、立岩運動場の工事で丘陵を大きくカット、甕棺5基が発見され内部から貝輪や鉄剣片が出土したのを詳細に報告、しかも、人骨の鑑定を行っている。その一方で、先生は焼ノ正と記したが、その後、下ノ方遺跡と判明、数多くの石庖丁の製品、未製品を発見、また、工事の際に採集された多くの未製品等を観察し、そこが、石庖丁の製作所であることに気付いた。これは有名な話であるが、先生は、それ以前に今山においてすでに石斧の製作所を発見され、その報告と論文を公にされていた。
 先生は、今山と立岩を調査され、石材の採集場所を明確にすること、また、今山と立岩の比較から、石材採集場所周辺に石器製作所がある今山タイプと立岩のように石器製作所近辺に石材の供給場が見当たらない場合の2タイプをすでに指摘されている。北九州の梅崎さんが弥生の石器製作遺跡で石材産地から、6キロも離れているのは、立岩だけであろうと書かれているように、今日でも明快な回答は得られていない気がする。中山先生の2つの課題は、残されたままである。
 石材産地については、戦前に森先生が川床に無数に散乱する輝緑凝灰岩の礫と山頂もしくは、山腹あたりであろうか露頭を発見したと書かれ、飯塚の地を離れて福岡に越されている。『立岩遺蹟』の中で岡崎先生が古生代の呼野層が、千石峡キャンプ地の上にあることから、そこからの転石に原石を求められた。しかし、おそらくは現地踏査を行われず、森先生の論文と地質学的な見地から導き出された回答ではなかったのかと思うのである。その後も、その影響の下に書かれた先生方は多いと考える。
 直方の牛島さんは、石鎌の未製品らしきものを採集され報告されているが、河原で採集されたのか、その後の追跡はされていない。福岡の今山は、行政発掘が繰り返され、全貌が明らかとなりつつある。一方、笠置山は、以前のまま手付かずの状態である。その差は何なのか分からないが、笠置山は開発の波が押し寄せることなく残されており、全域を調査するチャンスは大いにある。遠賀川関係者よ集まれである。
 今、改めて立岩の石庖丁に関する研究史をひっくり返しているが、中山先生が報告した焼ノ正(後に下ノ方と判明)遺跡は、市営運動場出土の甕棺を調査しているのを見学に訪れた名和さんが発見者だとはじめて知りました。市営運動場や焼ノ正あたりの包含層はかなりの厚さがあったようで、立岩丘陵の西側あたりは、丘陵にそって段丘が形成されていたのであろうか。そうすると、背後に丘陵を有する南北に長い平坦な台地が帯のように延びていたとも考えられ、そこに立岩の集落群が形成されていたのかもしれない。

 先日、直方の牛島さんから秋月藩士 江藤正澄の「秋のかり寝」という幕末に書かれた史料のコピーをいただいた。正澄が嘉麻郡の史蹟・遺物など様々な資料調査を行ったもので、慶応元年に古八丁越を利用しての見学旅行である。古八丁越については、それまで通行止めになっていた道であるが、この時は通行可能となっており、道を開くにあたり背景に小倉戦争があるようで、幕末から明治への転換期を、この峠道利用の動向から感じ取ることが出来る。
 正澄は、峠を下り千手宿駅に到着し、それから才田村・九郎原村にいたって秋穂某なる庵室を訪ねるが留守であった。これは、地誌類に登場する庵のことで現存しない。その後、陰陽石などを見学、次に、上臼井の永泉寺に立ち寄る。ここは、秋月家の位牌が納めてあり、宗 貞国の寄附状や種実の位牌を龍の巻たる掛絵があると聞いて、主僧に会わんとしたが、ちょうど安国寺学寮に行かれいた。享禄年間に
没せられたものから順にあった。寺を後にして、上臼井の小山の半腹に岩窟を見る。以前にたずねたおりに秋穂某氏が岩屋に住む人がいて日頃から隠れ家造作の窟という。岩屋の中に入ってみると、神代むかしの穴居か、岩窟の数12であるが、この1とつに遊民の老夫婦が住み着いている。内部の四方は岩壁で戸や障子の必要も無く、雨露や風などの心配も無い。この岩窟は横穴墓で山腹に1列に並ぶ様子が描かれている。また、内部は副室の横穴で入り口からのぞいた様子では、排水の溝が掘り込まれ、奥壁の天井には棟を示すラインが掘り込まれたようすが見える。横穴墓から出土したものは、はそう・つきみ・つまみのついたつきふた・金環3点・かめの口、管玉である。
 これは、上臼井の横穴墓に関する古い資料である。大正から昭和初期にかけ多くの著名な学者が調査に訪れた横穴墓だろうか、それにしても、慶応年間にこのような記録があろうとは思わなかった。筆書の挿図が何ともいえず興味をそそる。しかも、平面図に寸法が書き込まれ、斜め方向からの立面図的なものを入れている。しかも、遺構配置図的な鳥瞰図を入れており、横穴の分布状況が分かる。
 

韓国ソウルへの旅 「全谷里の旧石器をみた。」

2009-04-05 11:33:21 | Weblog
 突然ですが、韓国のソウルに2泊3日で行ってまいりました。インチョン空港からソウルへと入りましたが、ものすごい開発ラッシュに驚きました。高速の両脇は、すでに開発によって丸裸の丘陵が続いていて、紅土というかまっ赤な土の小山がどこまでも続き、トレンチを縦横に入れたあとがはっきり見えました。もちろん、発掘の最中なのか終了後なのか、遺構すら手に取るようにわかりました。

 まず感じたのが、土の色が赤色でおそらく粘質あるいは粘土層でしょう。どこもかしこも真っ赤で、粕屋の古賀や粕屋町あたりの土の色と似ている。例えば私が今住んでいる筑豊にはそのように赤い土はほとんど見れない。なにせ、花崗岩地帯であるから基盤は全て花崗岩の風化したマサ土、これはやわらかいためすぐ風化による開析が進み上にのっているロームやレス層はあまり残らない。旧石器がないのもそれが原因かな。
  さて、韓国中央博物館というとてつもなく大きな建物に向った。玄関入口と間違って最初に入ろうとしたのが、博物館への車専用入り口で警備が常に2人立っているが、そこから入ろうとすると「ノーノー、入り口あっち」とだめだしをされとぼとぼ入り口に向う。博物館は巨大な建物2つがエントランスホールで連結されたもので、その大きさは想像を超える。
 まず、入場券を手に入れようときょろきょろとその販売所を探す。ようやくそれらしき建物を発見した。隣接して食事が出来る所があるらしく、家族ずれでごったがえし、ハングルと英語の案内表字が各所にある。
 その建物の横が入場券販売所らしいのだが、誰一人並んでない。みんな、どうやって入っているのか不思議であったが、まず、自動の券売り機を探すがない。そこで思い切って売り場らしきガラス窓の、穴から顔を見せ、韓国語で「今日は」あとは英語で「いくらですか、1まい」といったら「むりょん」と聞こえた、もう一度「なんですか」とたずねると再び「むりょん」とかいってチケットをくれた。あぁー「無料」といっているのかとおもいつつ、チケットを受け取って「かむさむはむにだー」と礼をのべ、上の建物群へと階段を登っていった。もちろん私1人で行っているので、たよるものは自分だけである。
 階段を登りきると広いエントランスホールがあり、韓国語が飛び交っている。とにかく、親子・学校・大半が子ども達で、エントランスの塀に登っていた子供が警備の叔父さんから怒鳴られていた。日本で言えば「はやくおりなさい」だろうが、もっと強く叱っているように聞こえる。日本なら子ども達が「あの親父なにいってんだ、うるせー、うったえるぞ」とかなんとか言うのかもしれないが、すなおに、おりていた。
 左右巨大な建物だが、どこから入るのかさっぱりわからない。見た目は左が近代的、右が重厚な建物である。しかし、みんな、左に入っていくのでついついつられて左の建物に入る。日本人だなーと感じた瞬間だった。左は子供ばかりで全く何だかわからない。ことも専用の建物に感じた。そこで、案内板を見ると、ライブラリーの字が見え右側の建物を指していた。
 大理石の建物で、建築費用はいかばかりかなんて考えながら、ライブラリーに進むが、これも距離がある。中に入ると、突然吹き抜けの大理石の広間に入る。3階からなっているようで、ねらう考古館は1階、あとはとても回れないと感じた。チケットもぎりのおねーさんが三人くらい立っていて、奥に向って右が入口、左が出口となっているが、ほとんどオープンである。化石に興味がある人は、必ず見つけられるよ。壁、床、天井全て大理石でアイボリーかうすい茶色のものばかりであった。
 さて、考古の入り口を入ると、崖の上のポニョではないが壁面に巨大な壁面の写真が飾られている。壁面というより崖面であるが、海の動物など様々な生き物の壁画の写真である。そこを右に進むと右側の壁に埋め込まれたガラスケースに、櫛目文土器などが飾られている。「トキ、トキ」と子供がいうと、親や祖父母が何じゃかんじゃと説明する。写メとり放題、ノートにスケッチと説明を書き入れるもの、とにかく、親子、親族、学校の先生と生徒、カップルとぼう然となるくらい人がたかっている。しかも、子供に熱心に親が説明しているのがすごい。そこは、また後で書こう。

 いよいよ、旧石器展示が目に入ってきた。進行方向の左手ガラスごしに、石英製の大形で重量感あふれる石器類である。これが全谷里の石器かと覗き込むようにしていると、韓国の子ども達が数人でやってきては写メのとり放題、一歩下がって全体をみわたすと、茶褐色に色あせた6~7点の石器で、ハンドアックス・ピック・クリーバーといった、ヨーロッパのアッシュール文化に登場する名称が付されている。それにしても、石英の角礫みたいなものの側面から粗い剥離を施して仕上げている。よく見ると剥離面に横方向に石英本体にあるしま模様が見える。こいつはどこかで見たことがあるなとしばらく考えていると、糟屋町の新大間池で昔採集した石英製の石器見たいなものと全く同じである。脈石英というのだろうか、新大間は急斜面の丘陵の下方に、少し平らな部分があって、そこに、石英の破片みたいなものがかなりころがっていて、ハンドアックス状のものとルバロアのポイントによく似たものをひろって近年まで所有していたが、石器ではなく自然剥離と断定して処分した。
 うそー、そんなバナナ、いや、馬鹿な。ここで、同質の石材にあえるとは何ということであろう。違いは石器か自然石かという根本にあるが、その色や風化具合、よく似ているのだ。まてよ、似ているとまずいのか。
 石英系の風化したのは、土の色がしみこんでいるのか表面が茶系である。自然面と剥離面がよくわからないものもある。全谷里のものも本来白色系の石英であろうが長年の風化や色素の浸透により同じように茶色がかったものであった。少し気になったのは、剥離の稜線が以外にきれいにで、鋭利であった。誰かも書いていたがピックの先端に使用痕が見られないという。そこまでは気が付かなかったが、想像以上に鋭利であったこと。また、剥離面も新鮮であったことが頭に残る。
 それと、石核があった。これは、全谷里ではなく金坡里遺跡出土のもので、石英の白色に赤い筋みたいなものが見えた気がする。韓国の土はそれこそ赤く、石英の摂理にしみこんだものだろうか。上端が丸みをもっており、周囲に剥片を剥いだと思われる稜線が見えた。興味を覚えたのは、ハンドアックス系の石器は、剥離が深くおそらく剥片がバルブを有しているので、その反転で凹面をなしている。一方、石核の剥離は、目立つ凹面が見えなかった。摂理を利用して、薄く的確に剥いでいったものか、最初、上部が丸みをもった厚手の円形枕のように見えてしまった。ガラス越しには限界が多いものである。
 話変って中国の周口店の石英系石器は同なんだろうか、古いものの多くが石英で、中国・韓国ときたら、やはり、日本のしかも九州にも石英系の旧石器があっても・・・早水台?という考えが出るよねー。
 とにかく、石英製の石器はないものでしょうか、筑豊は、花崗岩地帯でけっこう石英の露頭があるんだけど、ちゃんと見ていない。馬見・屏・古処山の変成岩の下は花崗岩で、ペグマタイトが何ヶ所かあって、水晶が拾える。その周辺は石英だらけである。標高は500~600mくらいかな、高原のような地形が続いていてひょっとすると、ひょっとする。学生時代に山形の弓張平に行ったけど、やや似ている場所がある。小石原の旧石器はそれくらいの標高のところにある。今度は高いところを探してみようか。興味はつきない。
 おっと、話がそれてしまった。韓国へもどろう。
 全谷里のハンド・アックスには、側面から段階的に剥ぎ取っていかれた剥離面がきれいに残っている。横長の厚手の剥片が飛び散ったことだろう。残念ながら剥片石器は見ていない。もう一つは金坡里のハンド・アックスはさらに美しい剥離のラインを示しており、剥ぎ取られた剥片にはバルブ等がきちんと見えるのだろうと想像した。ただし、多面体の石核の剥離面は、いかにも石英らしく平面的で、薄くそぎ落とすように剥いだ感じであった。
 学生社のシンポジウム「日本旧石器時代の考古学」の中で、早水台の石英系石器や星野のチャート製石器を踏まえて、周口店の石英石器について、杉原氏と芹沢氏のやり取りが続いている。基本は剥片等にバルブ・リング・フィシャーが明らかであることが人工品ということから始まるが、芹沢氏は脈石英を割っても明確なバルブ等は見られないという。杉原氏はかなり周口店のものにはバルブが見られるという。芹沢氏は斐 文中氏等の書き物から引用しているのに対し、「実際に見てきた」という杉原氏、しかし、杉原氏はバルブがあったのは砂岩系のものかもしれないといい、チャートも石英同様バルブがわかりにくいならと、おそらく、早水台から星野へ移行した芹沢氏に対して、石英=チャートという矢を放った。ところが、石英系は斐 文中氏等も書いているように、容易にバルブ等は見られないとするが、チャートは質がよいところに当たれば、バルブは明確にわかるとした。
 周口店の石英石器を一度はじっくり観察したいと考えているが、韓国のものは、明確に石器とわかり、剥ぎ落とされた剥片にはバルブ等が見えそうな気がする。やはり、石英や水晶といった石材の石器研究を何故やらないのでしょうか。
 水晶は、自然に稲荷森の赤土の中で1点のみ大きく結晶したとは考えにくい。また、礫層はなく、人為的に持ち込まれた可能性はある。ただ、これまで確認されている水晶石器は透明のガラス状に結晶したものを使用している。旧嘉穂町でも数点出土しているがいずれも透明な良質の水晶で、今回のように煙水晶のようなものは使用されていない。最もである。
 行橋市の渡筑紫遺跡は、水晶を原材とする旧石器が確認され、石器製作所の可能性が指摘されている。水晶はやはり透明なものを選択して使っているようで、ATより下層から検出されたことで3万年前後の年代が考えられている。水晶以外には珪質岩、黒曜石、安山岩で、黒曜石以外は付近の石材を利用している点に特色がある。関東でも立川ロームの下層のものはチャートやホルンフェルスなど身近な石材を多用しているようである。
韓国の全谷里や金坡里など明らかに石英を石材として使用しており、それをうまく連続的に剥ぎ取って石器を作っており、その剥離も交互剥離である。また、核となるものとそれから剥離した剥片が共存しており、人口品であることが容易に分かるという。全谷里より金坡里のほうがもっと分かりやすく、ハンド・アックスから剥ぎ取られた剥片は、バルブ等が確認されると思わせる見事なもので、かなり硬い石材をうまく加工していたようである。ちなみに、石材は身近で手に入る石英の礫を使用しているらしい。
 中国から韓半島とくれば北部九州という道筋が出来ようが、杉原荘介先生はかつて、「杉原仮説」の中でリス氷期、ビュルム氷期前半、そして後半期に陸橋を渡って原人・旧人・新人が渡ってきたと考えるのは、いかにも話がうますぎて信じるわけにはいかないとしている。先生も自分の仮説を破って欲しいと願ってあるのだから遂行すればよいわけで、原点にもどって身近にある石材の石器群を探すこと、足元をもう一度注意することが必要と考える。それと、石英・チャート・玄武岩などの破砕礫と加工品との違い、層位など再び研究する必要を感じる。ぜひ、3~4万年の扉を開きたいものである。

 次に、色々な石材の石器が展示してあったが、その中に北九州の辻田遺跡で出土した石材とそっくりなもの、いや、同じものがあった。凝灰岩系の石材だろうか驚いてしまった。しかし、アジア大陸の東端でともに同一の陸地であった時期が長ければ同じ石が出てもいいのかと考え直す。次に、棒を削るノッチが施された石英の石器状のものがあったが、中国の東谷坨のものと似ていた、おそらく、本物ではなく石器の使用法説明のためのレプリカとも感じられたのだが。
 剥片尖頭器が6点くらい展示してあった。これが、九州の方でも出てくるやつかと見ていると、やはり、石材が違うのかレンガ色のものもあった。凝灰岩質の頁岩のような感じでながめたが、全体に短いのかなとも感じた。というのも、日本のものの中には恐ろしく長いものがあり、長刀かと考えてしまうものまでバリエーションがある。対馬と釜山の間に深い地溝帯があるという。それが、勢いよく流れていたのか、緩やかに流れていたのかは知らないが、凍結していた可能性もあろう。韓国ではそれほど出土していないようだが(古い資料より)もっと出ることを望んでいる。それと、各石器るいとの組み合わせやテクノロジーなど共通することが多いならまた面白い。
 細石器類も多く展示されていた。私には何技法とか分からないが、私の見慣れた黒曜石があまりなかったかな(あやふや)正直疲れていたため意識がうせてしまっている。新石器に入ってだろうか巨大な石鏃がいくつもあったように思えたが、儀式用、それとも石槍かもね。
 実は、今かぜをひいて微熱の中キーボードをたたいている。せっかく、フィールドに出ようと思ったのだが、無理らしい。あとは、家族サービスの日々が待っている。娘に有田の陶器市だけは勘弁してもらった。今日は息子の誕生祝で焼肉屋に行かねばならないが、それまでに完治させよう。葛根湯を飲んでね。ふー。

 韓国旅行からかなりの時間が過ぎた。インターネットを見ると全谷里のレス古土壌の問題やさらに古い石器群の発見など松藤さんを中心に研究が進められているらしい。中国でもハンドアックスが多く発見されているようで、東アジアにもアフリカ・ヨーロッパから西アジア、中央や東南アジアを経てハンドアックスの文化が流入したのだろうか、私が学生の頃はチョッパーやチョッピングトゥールの文化と記され、群馬の権現山が何か特殊的に考えられていたようだった。もっぱら研究者はチョッパーやチョッピングトゥールを追い求めていたように記憶する。特に、前者は自然破損でも見られるのに対し後者は人工品として考え、学生時代に別の研究会がさかんに前期旧石器といっていたことが懐かしい。
 国府遺跡のサヌカイト製ハンドアックスは、どうなっているのでしょうかね。喜田先生が報告された例のものですが、そのままでしょうね。

過去への旅(気になることどもの続き)

2009-03-08 01:16:24 | Weblog
 さて、八丁越、あるいは八丁坂がどれくらいさかのぼって利用されたのか。永禄10年の記載は紹介したが、はたして、古くはどこまでか。
 利用時期の確実な例としては、天正15年(1587)に豊臣秀吉とその軍勢が、大隈町の益富城から秋月の荒平城への進軍の際に通行していることや慶長5年(1600)「如水はそれより筑前に入、八町坂をこえ、秋月と言所に着給ふ。」(黒田家譜一巻 -寛文期-)とある。
 その他、慶長5年(1600)(推定)「路次之儀、道も近く候間、秋月通能候ハんと存候、但其元可然談合尤候」の史料は、肥前佐賀藩主鍋島勝茂が国許に送った書状であるが、秋月を通る(古)八丁越が最も近いと記している。
 確実なのは何れも江戸初期で、有馬、立花、細川、鍋島などの諸大名が、江戸にのぼるさいに使用していたようで、重要な道として認識、存在していた事はわかる。
 慶長5年(1600)「如水はそれより筑前に入、八町坂をこえ、秋月と言所に着給ふ。」(黒田家譜一巻 -寛文期-)とある。これは、関ヶ原合戦のあたりで、江戸時代直前に黒田が豊前から筑前、そして、筑後を目指した合戦のくだりである。これを見ると、八丁越が豊前と筑後を結ぶルートとして最短距離にあったことがわかる。
 このように頻繁に利用された峠道であり、江戸初期の江戸登城と藩との往復に使用されてきたのである。千手町は慶長期に宿場町として整備され、諸大名はじめ旅人の憩いの場とされてきた。

 その他に、可能性を示唆するものとしては、文明12年(1480)「是より守護所陶中務少輔弘詮の舘に至り・・・折ふし千手冶部少輔、杉次郎右衛門尉弘相など有て、一折あり・・・十六日、杉の弘相の知所長尾といふに行・・・」(宗祇〔筑紫道記〕- 文明期 -)がある。
 これは、大内政弘の招請により宗祇の九州下向が実現し、筑前の木屋瀬にある陶弘詮の館に宿泊、その後、杉 弘相の所領である上穂波の長尾、米山越から大宰府に入っている。コースとしては、木屋瀬→上穂波長尾→米山越→大宰府となる。ここで、陶 弘詮の館では、杉次郎右衛門尉弘相と千手冶部少輔2名の名を記している。ここで、コースとして上穂波長尾→米山越→大宰府が設定されていたことは、杉氏と宗祇とのその後の関係でも明らかであるが、嘉麻郡千手を領有する千手冶部少輔もまた同席した事から、米山越がもし通行出来なかった場合の腹案として、千手冶部少輔の千手から八丁(町)越を通り、秋月氏の秋月経由で大宰府に向かうというコース設定も考えられていたのではないか。千手と秋月は建武4年(1337)には南朝方としてともに軍事活動を行なっていた事がわかっており、大内の筑前・豊前支配時代は、ともに大内配下の筑前衆として名を連ねた国人衆で、千手から(古)八丁越で秋月コースもまた、可能な選択であったと考えられる。
 大内氏は、寛正2年(1461)の教弘の時代に、支配下の周防・長門・豊前・筑前・安芸・石見・肥前の各郡への使節の所要日数と飛脚等による返書の日数を定めており、通行路を把握していたものと考えられる。ちなみに、嘉麻郡は使節の所要日数4日、返書までに13日を要し、上座・下座は6日・17日と記され、千手と秋月をつなぐ(古)八丁越もまた主要な通行路として把握されていた可能性はあろう。
 おそらくは、秋月氏と千手氏が南北朝期から、かかわりの深い間柄であり、その連絡網として、また、内陸交通において豊前・筑前・筑後を結ぶ重要な往還であった事は間違いないだろう。
 
 それでは、もともと八丁坂・八町坂、八丁越・八町越と称された名称が、古あるいは新と呼ばれ、さらに、八丁越、八丁往還が常に新八丁越の名称となり、古八丁が間道となるいきさつとは何であろう。
 寛永7年(1630)には、秋月藩主となった黒田長興の命により「家臣足軽の司安倍惣左衛門一任に命じて、古八町の道をふさき、新に道を切開かしむ。翌年に至て其功なれり。」とあり、また、「是肥後、肥前、筑後より・・・此道を超えて、嘉麻郡千手町、大隈町をへて豊前に通る大道なり」(筑前国続風土記-元禄期-)ということから、往来は新八丁越に移ったことが分かる。
 これを期に、古八丁は間道というただの峠道に格下げとなった。しかし、新八丁越開削理由の1つである「秋月の城郭内を貫通する故」(秋月史考)という点を考慮するなら、江戸期を通じて道を消滅させなかのは何故か、しかも、険しい峠道の大半を石畳で覆い、風雨から道を保護し明治以降再び同じ道が通れるほどに管理してきたのはなぜであろう。

 正徳元年(1711)には、「古八丁の道人馬通路止と古記にあり、其頃迄は新旧共に通路とせしにや、寛永七年より正徳元年迄八十年斗なり」(望春随筆-天保期)にもあるように、江戸期半ばにして古八丁の人馬通行止めのお触れを出してまで、交通を遮断している。その後は、全く禁じられたようで、秋月の望春の記憶には通行の差し止めしかなく、さらに、地方文書には嘉麻の才田村紺屋久吉なる人物が、八丁口の番所でさんざん文句を行ったので、その先の石原口まで連れて行かれたが、再び舞い戻って文句を言ったので、取り押さえられてしまった。つまり、地元の者でも八丁口・石原口といえば新八丁コースであり、一般やある研究者達が記すように地元は古八丁を通れたという曖昧な事実はなかったものと考えられる。第一に地元と一般の旅人の違いを番所が設けられていない嘉麻郡側でチェックする事は困難である。
 それなら、いっそ道自体を消滅させれば事足りたはずである。しかし、秋月封内図をはじめとする地図にはしっかりと書き記されている。道は手入れしなければ10年以内に埋もれ、あるいは崩壊していくものであるが、古八丁は残されたままである。
 
 そもそも、古八丁と新八丁の区分とはいつ頃行なわれたのであろう。古記録を見ると以下のようになる。

 貝原益軒の筑前国続風土記 -元禄期-)には、八丁(町)越の由来を「山路の嶮き所を八町通る故、八町越といふ。」と記すとともに、「いにしえより名ある要害也。」とし、重要な古道として紹介している。
また、「四月四日 秀吉公以大隈城・・・自大隈越八丁坂入夜須郡秋月・・・種長為古所山道之案内者給、此時肥前国住人・・・八丁坂蛇渕」 (古本九州軍記十一巻 - 慶長期 -)や「如水はそれより筑前に入、八町坂をこえ、秋月と言所に着給ふ。」(黒田家譜一巻 -寛文期-) から八丁あるいは八町という両方の書き方があるとともに、八丁坂・八町坂とも称されていた事がわかる。
 それが、寛永7年(1630)には、秋月藩主となった黒田長興の命により「家臣足軽の司安倍惣左衛門一任に命じて、古八町の道をふさき、新に道を切開かしむ。翌年に至て其功なれり。」とあり、新道の開削によって古八丁と新八丁という名称が使用されることとなる。黒田長興意図することは、従来の八丁越では、大休から野鳥を通って、まともに城館にたどり着くコースの問題と、峠を秋月に下る際に城館及び城下の配置が丸見えとなること、また、古処山から連なる標高600m以上の尾根を直接越えるため、非常に旧坂となり峠を越える人々の負担を少なくするという狙いがあった。
 つまり、この新八丁開削によって、古八丁と新八丁という呼称が出来たのである。
 これに似た話が、実は大隈町の益富城にもある。それは、愛宕山の横から大隈町に下る坂道を通っていたが、後藤又兵衛の築城の際であろうが、コースを谷底に切り替えている。この話は新八丁切り替えほどには有名でないが、その名残として、太閤坂という小字が愛宕山の西斜面に残っている。

 新八丁が完成するまでに、この峠を越えた大名
 1 元和3年(1617)年 柳川藩主 田中忠政
 2 寛永3年(1626)年 立花藩主 立花宗茂
 この道を利用した大名は、肥前佐賀藩主鍋島、筑後久留米藩主有馬、筑後柳川藩主立花、肥後熊本藩主細川などである。(福岡県文化財報告書「秋月街道」より)

 新八丁越完成後も、上記の大名は度々この道を利用したようである。特に、細川は、黒田と反目していたため、筑前の黒田本藩領からよりはなれたこの道を利用している。
 正徳元年に出された「古八丁の道人馬通路止」のお触れについては、望春が記す「八十年斗」という長い年月の間に徐々に人々が通行するようになり、新八丁越開削理由の1つである「秋月の城郭内を貫通する故」(秋月史考)という点において、形骸化した古八丁越の通行差止を古事にならって再度掲げ、通行する旅人等を八丁往還(新八丁越)に集中させる手段と目される。
 新八丁越開削以来、元禄・宝永頃まで続く諸大名の参勤交代等において、新八丁越とその前後に設けられた秋月のお茶屋は、大名達の休憩あるいは宿泊の場として賑わい、宿場及びその沿線に相当のお金を落としたことであろう。したがって、古八丁なる間道を旅人が急ぎ通過しようともなんら痛手はこうむらない。まして、大休から野鳥口までに郷足軽・番所・武士団といった警護とも取れる居住地があり、やすやすと進入する風でもない。古八丁の間道越は大目に見られ始めたのであろう。それも、望春が言うように80年もの時の経過があった。

 ところが、その状況が一変する状況が生じたのである。その背景には、この時期、千手地域の大力と千手町にそれぞれ御茶屋があった、徳元年(1711)「此年御舞台・大力村茶屋等年内ニ被成御解」(秋城年譜)と「千手町御茶屋并諸御道具当分御預り」(「萬覚帳」田中家文書 )により大力は解体し、手町は閉鎖状態になったと考えられ、再び千手町に御茶屋が設けられるのは寛延4年(1751)のことであるが、明和7年(1770)千手町大火(「萬覚帳」田中家文書 )により消失し、その後の再建はなかった。
 これについては、甘木根基(天明期)の「秋月城下ヨリ久留米・柳川街道、往古西国諸大名此筋御通路、甘木御茶屋柳川 立花様御泊、宝永年中以後此筋大名通路相止、御茶屋其後引ル」とあり、宝永年間に鍋島、有馬、立花、細川といった諸大名の通行が途絶えたことによる秋月藩の財政事情から御茶屋を一旦整理したものと考えられる。
その後も、甘木においては、明和年中から細川氏がたびたび通路についてお尋ねになったが、筑前や豊前に御茶屋がないことから通行を止められたとあり、明和7年(1770)千手町大火により御茶屋が消失し再建されなかった点と一致する。
 なお、甘木御茶屋の利用について、宗官家文書の「先祖より覚書」によれば、当家は黒田忠之より御茶屋を仰せ付けられ代々甘木御茶屋守を続けている。また、「其節細川越中守様八丁通被遊、御宿被遊候節・・・立花飛騨守様ハ、毎々御泊り被遊・・・其上御通り之御大名様方御休泊御座候ニ付」に記されるように、細川氏は八丁(新八丁越)を利用していること、立花氏や甘木を通る諸大名が御茶屋を利用していた事がわかる。
 今まで相当の金額を秋月藩に落としたであろう諸大名の通行が途絶えたのである。いわば財政状況の悪化に伴う解決策が必要となったわけであり、その一つが、御茶屋をなくすこと、また、通行路を往還に絞り込むことで、一般の旅人にその代価を求めて行ったのではなかろうか。

 文化・文政よりややさかのぼる頃からかと思われるが、八丁峠(新八丁越)で興味ある事件が起っている。
 千手や秋月の助郷たちが、峠の上までやってくると座り込んで一歩も動かなくなるというのである。目的は酒代と称していかほどかの賃金をねだるというもので、これも、大名達の通行が途絶えてしまったための余波であろうか、しかも、街道警護が手薄になっているようで、八丁口の番所から人を引き上げたなんていうこともあったようだ。街道筋の治安の悪化と経済事情が比例しているようにも思える。

 餘樂日記によれば、往還筋の手入れに十分にするよう、あるいは、1月4日に毎年手入れをして怠らないよう注意し、それが、5日から日常の仕事始めにつながるとしている。特に、往還は様々な人が往来するので手入れが行き届くように命じている。

 この日記の中に興味あることが記されている。それは、文政11年の大水害が野鳥村の川筋を襲ってから、下流に大水をもたらした様子がかかれている。そこに、すぐさま石方夫が召集され、まずは道の修理を2日間行なっている。根石を居えと書かれていて、石畳が敷かれていた様子がわかる。しかも、この道は往還と書かれているが、古八丁越の大休あたりをふくめてのことと考えられる。石方夫とは、間 小四郎時代に、主に河川における石垣や石井手を構築する専門集団で、筑後方面から師をよんで修練させている。それが、文政に入ってのことであり、さっそく石方を使って道の修理を試みている。その後は、嘉麻郡からかなりの人数を招集し、野鳥の番所あたりまで道の修復を行なっている。

 八丁往還手入之事

一 八丁往還出水之節土流れ、石を洗出し、人馬之通路難渋ニ付、石工江申付、大  石ハ割除ケ、小石も取除、其上出夫ヲ以テ致手入候、猶後年折々手入之儀申談  候事

 この史料は、文政11年の大水害を踏まえてのことと考えられる。新八丁往還に関することであるが、石工とあるのは石方のことかも知れない。その後、往還の手入れはことに他国の人々も通行するので、決められた手入れはきちんとやるように、しかも、1月4日と定め、これを期に仕事始めとしている。どこか、役所の仕事始めと同じで、江戸時代以来の決め事の踏襲かとがっかり。

 
 突然ですが、韓国で石英製の旧石器を見て、中学2年のときに見つけた新大間池の丘陵先端にあった、石英製石器のようなものを採集したあの時のことがよみがえり、いてもたってもいられず日曜に行きました。37年ぶりにあの現場に足を踏み入れました。池の渕にあるという以外は全て変ってました。あの頃、ちょうど植林のため木々は伐採され、およそ低木くらいしか生えていなかった。池の渕には家があったのかなかったのかさえさだかでない。当時は数件あったかなというくらいで、狭い水田の畦道を通って山の裾野に行った記憶がある。
 全谷里遺跡の石英製石器を目の当りにして、37年前にかよった粕屋町新大間池の南東に位置する急傾斜の丘陵先端部で採集した、2点の資料を思い出した。当時、植林のため木々が伐採されていた丘陵が2つあり、奥の丘陵上にかなり盗掘された古墳を発見。手前の丘陵では、先端のかなり狭い平地から、ハンド・アックス、あるいは、尖頭状石器と思われるものとルバロアのポイントと思われる、両者ともに石英製石器(思い込み)を採集した。
 この頃、テレビでルイ・スリーキーのオルドバイ峡谷における一連の活躍を見た。また、ライフの「原始人」を必死に読んでいた頃で、ボルドー大先生による石器製作の図の中で、ルバロアの石核とポイント製作が頭に残っていた。というのも、非常に複雑な工程を経てポイントを製作するが、ポイント自体には加工を加えないという点が興味を持ったのと、星野遺跡発掘のきっかけとなるのが、ルバロア型のコアだったからである。
 数年前まで所持していたが、石器ではないという事で砕いて捨ててしまったのだが。韓国で現物を見たとたん思い出して、4月12日の日曜に新大間池の奥にある畑に立っていた。以前は水田であぜ道をいった記憶があったが、今は畑となっていた。畑を耕していた人に、奥に行ける道があるかと尋ねたら、獣道みたいなものがあるだけという返事、それでも40年近く経過した思い出の地であり、ここで引き返すわけにはいかない。一つ目の丘陵の縁を歩いていたが当時とは全く違っている。竹の子の頭がかすかに出ていて、食べごろの物がわんさと見える。そんなものには興味がない、ただ、石英の破片を見つけながら歩くと、丘陵のはしに点々と石英片が落ちている。「ここだ」と思わず声が出た。次に丘陵端部に露出していた石英の露頭を探すとすぐに見つかった。やはり、ここであった。すっかり木々に覆われていたが間違いない。
 さっそく、採集に取りかかる。10cm内外の薄くはがれた石英片が土にまみれて茶色に染まっており、縁辺は鋭いが肝心の加工痕がない。北京原人の剥片製作技法に両極打法があるというが、石英の自然崩壊がすでに手頃な鋭い剥片をしょうじさせるのである。石英の露頭に行けば崖錐堆積中に方形の鋭い刃部をもった剥片がてにはいるのである。その中には、ノッチ状のものドリルといえる先端の尖った一部を有するものというように、加工を加えることなく手に入る道具はそろっている。
 問題は、アーティーファクトと呼ばれ、現代の人間の目に明らかな石器とそうではない石器、さらに、擬石器の違いとはどこに求めるべきであろう。意外と、石英はどこにでもある石材であり、自然に剥片として存在するとするなら、まずは、手頃なそのあたりから手を付けるのが人間、もう一度、このあたりを注意しないと永遠に3万年は超える事は難しい。 
 先ずは、大陸に近い福岡で、到達した人類が何を最初に石器として求めたらよいか、そのあたりから考えてみても面白いと思う。


 5月31日日曜、宗像の田熊石田遺跡を見学に行った。

気になることどもⅣ

2008-12-16 23:06:10 | Weblog
 崖面に立つと青味がかった砂岩の厚い層が傾斜して見える。右手には一層挟んで石炭層があり、砂岩層が上に積もっていることが分かる。石炭層は沼地などに静かに堆積した植物群らしい。その上に礫層が積もっている。不整合を示しているのかもしれない。さらに、その上に砂岩層があるのだか、4~6mほどはあろうか、よく見ると生痕化石の円形に黒い輪が見えている。しかも砂岩層一面に無数に見えいる。本当に無数それが傾斜する分厚い層の全面に分布している。久々に興奮した。海の水がしかも石炭層の上にちゃんと流れ込んだ後である。九大の坂井先生が言われたことがドンぴしゃで観察できている。「少なくとも200キロくらいに広がっているでしょう。」この先生の言葉どおり、その広がりの一端をつかんだ。浅い海ならなんとかサメの歯の化石でもと、欲は限度を知らない。結局、1時間半くらい風の中で全域を回り、探し続けた。石炭層の上に薄い泥岩層(数ミリ)が幾重にも重なっているいかにもスローな堆積とわかる層を発見したが、あんのじょう木の葉の化石が炭化してブラックで印刷されたように入っている。たしか、篠栗の池ノ端で見つけた化石層によく似ている。ただし、池ノ端はカラーで、栃木県塩尻の植物化石のようであった。ふと思い出したが、篠栗に青い砂岩層があった。生痕化石は見逃したが例のサンゴに似た化石はひょっとすると巣穴の生痕化石のような気がしてきた。直方層群の大焼層なのかは分からないが、高田層というのがあるらしい。
 また、勉強じゃ。

 12月もあと一週間で休みにはいる。今度は休みが長い分表面採集に出かけるつもりである。もちろん狙いは旧石器であるが、未だに何も発見できない。碓井、桂川、筑穂、飯塚の八木山から続く丘陵群を踏査するも感触すらない。縄文のものはいくらか発見したが、獲物に当たらない。弁分から彼岸原、潤野もまわった。明日は伊岐須から蓮台寺、建花寺の丘陵にある溜池を回るつもりである。金が尽きたので握り飯と水筒持参でいこう。ぬかるみにはまらないよう気をつけるが、昔のように軽くはなく、機敏でもないのでしょうがないか。
 最近、昔に帰っているような気がする。結局は遺跡と遺物探しに帰るのか、そこがスタートだったからグランド一周してきたと思えばいいのかな。それにしても、視力がよければと度々思う。何か見逃してしまったような感じがするのだが。

 12月20日の土曜日、天気は晴れ。おにぎりを2個作り水筒にお茶を入れ出発、伊岐須に向う。脊損センター横の溜池は満水でだめ。ここは引くことがないようである。その次に西側の筒口池に回る。やや岸が見える程度に水面が下がっているが、下に降りれない。というより池畔の状態を見ると、花崗岩の純粋な風化土で赤土が見えない。おそらく直接見ると、石英や長石の砕けた粒が堆積、あるいは、岸を覆っているようだ。
 次に、弥生の散布地になっている蓮台寺小学校の裏にある池に向う。ようやく堤防を見つけて行くと、水面が下がって池畔が見える。これは行けると確信したが、まてよ、地図と大きさも形も違うのである。これは、予想に反して隣の小さな池に来てしまったようである。サギが飛んで行った。周囲を見ると、花崗岩の岩盤がむき出しになっていて、あんのじょう、石英の氷砂糖のような粗い礫が、岸を埋め尽くしている。「こりゃだめやな」と思いつつも一応、見ることにしたが、何にも落ちていない。次があると気を取り直しつつ、目的の蓮台寺小裏の池に到着、ここはやや広く、左岸に黄褐色の堆積土が見える。「これはいける。」と確信し左岸の急斜面を這うように進む。途中に何本かの木が倒れ、枯れ果てて白い骸をさらしている。その小枝の間をすり抜ける以外に進む方法はない。そこで、右足が枝に引っかかり転びそうになる。「年齢にはかなわん」と思いつつ右足のズボンの裾を見ると、見事に穴が開いていた。コーデュロイの温かいやつだが、残念であった。
 先に進むと、どの池でも同じだが、水が流れ込む小さな小さな入江みたいなのがよくあるが、ここは注意が必要である。何故なら必ずぬかるんでいる。奥を見るとわたれそうな所が見えるものの、年をとるとめんどくさくなり、近場でわたろうとしたが、その瞬間、両方の靴がぬかるみにしずんだ。幸いに、下が固く靴全体がぬかるんだだけ助かった。またまた、泥靴になってしまった。やはり、奥に進み、倒木をつたってわたりきる。それまで、氷砂糖の石英ばかりだったが、黄褐色の土が見えているし、上は平らで池に向って突出している。ここが狙い目とばかりに、探すと土器片がぱらぱら落ちている。何れも弥生土器、やや大きい壺の肩部の破片がまだ新鮮な面を残して落ちていた。ひょっとして、甕棺墓があるのかと思う。さらに進みながら、もう一つのぬかるみを倒木を2本渡して橋にしながらわたりきる。昔の感が戻ってきたようだ。
 そこは、さらに出っ張っていて弥生土器の口縁部や底部が結構大きな破片で落ちている。形状から弥生中期前半の須玖Ⅰ式新とわかるが、それにしても破片が大きい。そのうち、斜面に、つぶれてはいるが完形に近い甕が真横に埋まっている。その先にももう1基埋まっているようで、間違いなく土器棺、つまり、小児用甕棺である。それにしても、黒曜石やサヌカイトの微塵も落ちてはいないのである。墓地ならしょうがないが、せめて複合遺跡であればと望んだが全くアウトだった。
 そこを後にして、伊川に向うが何れの池も幼魚池で満杯。しかし、思うのだが、碓井・桂川・穂波・飯塚と久保白ダムや溜池回りを繰り返しながら観察するのだが、花崗岩の風化土、つまり、どこもかしこもマサ土ばかりで、肝心要の洪積世の堆積土がほとんど見られないのである。つまり、赤土が顔を見せているのは、土師地区、天神山古墳付近、北古賀の丘陵、彼岸原地区くらいかな、それも、ところどころにあって何れも薄く、マサ土ばかりが目立っている。横田の切通しで観察しても、50㎝あたりであろう。これでは、旧石器の包含層に当たるのはかなり困難と見た。芥田にも赤土の丘陵があるが、圃場整備で大部分が失われている。嘉穂盆地は赤土が少ない地域と感じる。粕屋あたりに行けばどこでも見られるのだが、どうも地質が違うのか見当たらないのである。
 結局、黒曜石の一片も拾うことなく終了した。ふと思ったのだが、すり鉢のような形状を呈する嘉穂盆地は、毛細血管のように河川が入り乱れ、それが遠賀川へと向っている。つまり、浸食作用が著しいために、旧石器の包含層がすり鉢状の底へと押し流されてしまったのではないか。また、ひょっとすると、縄文草創期以前は、湖のような状態で、湖岸に住まいした人々の痕跡が、湖の水が引くのと同時にすり鉢状の地形とって、解析が急進し全てを流したのか、何て考えたりもした。その点、田川は彦山川等の流路に沿って長い地形であり、おのずと長い丘陵が多く、赤土もよく残っている。今のところ、旧石器は田川方面に多いのは、そんな環境の関係かも知れない。
 ひとまず、溜池回りは休みにしよう。

 「きびすをかえす」という言葉があるが、握り飯を2個食べ、水筒のお茶を飲んだのが午後2時前、頭に浮かんだのが田川の夏吉にある岩屋第一鍾乳洞である。気がつくと201号線を田川に向っていた。前回訪れたときは今にも雨が降り出すような天気、鍾乳洞の中に入ることなく概観のみの観察に終わった。今回は、晴天前回にまして様子がつぶさにわかるのである。鍾乳洞はほぼ西を向いているようで、標高60mで脇に神社がある。また、入口の前には水田が開けており、圃場整備か鉱害復旧により整然と区画された水田である。比高差は2mほどだが、おそらくは、もう少し水田面が高かったと考えられる。午後の太陽光は鍾乳洞を照らし全体が明るく暖かな気分になる。
 入口は、中央にある石壁により、本来人間の鼻のように2つに分かれており、やや進むと1つになるという構造だったようである。したがって、中は概観より広く、角が丸い三角形を呈している。高さは3mほどもあろうか、底部はおそらく4~5mはあろう。床面は黒色土が固くしまった状態で堆積している。また、入口に向うほど傾斜度は高くなる。底部はどれほど深くなるのかは、わからないが、数mはろう。外部は特に向って左側に崩落した岩が重なる事から、左側に庇が延びていたもので、幅は10m近くあり、前方にも8m以上のテラスが存在したようである。
 やはり、洞窟あるいは岩陰遺跡として、試掘調査は行なうべきと考える。建指定の天然記念物ではあるが、遺跡としての確認はおこなうべきであろう。
 第二鍾乳洞は、水が流れ込む状況下にあるため遺跡とはならないと思われる。第三は未確認であることから、正月休みを利用して確認するつもりである。

 夏吉古墳の近くを間違えて通過したが、かなり広く土取りが行われており、赤土の層が奥のほうに続いていた。観察したかったが、うっかり立ち入って起こられると大変と思い。2度通過して様子を見たところである。夏吉のあたりにも洪積世の堆積物が広く分布するようで、なんだかうらやましかった。

 洞窟遺跡に興味がある方は、ぜひ、夏吉第一鍾乳洞を見学していただきたい。

 12月23日、早朝、香月先生から電話がかかった。「馬見山に雪は積もってないですか、天気は同ですか山に登れますか」というおたずねに、「少し、白くなっていますが、大丈夫じゃないでしょうか」と答えると、予定通りに登りましょうという、力強い声が返ってきた。
 馬見神社に集合したのが11時、9名の参加である。皆さん山登りの格好で登場するも、私だけ長靴に手提げバックと作業着姿という、表面採集にでも出かける姿に、先の不安を感じる。登り始めは馬見キャンプ場の上にある林道から、登山道を登る。馬見は古処山に比べてかなり険しい。

 途中ですが気になることを書きます。九州考古学83号が送付されてきた。その編集後記に、論文の査読による論文の掲載について査読(各論文2名)による審査の上に成り立つものであり、伝統ある学会の会誌としてのクオリティ維持のためとしてという納得できる内容の編集側の意見をのべられており、査読の結果、「投稿者が原稿を辞退されることもあります。」と残念な結果があッたことを記されている。
 その、残念な結果辞退した人物の1人が私「福島 日出海」である。内容は、立岩の石庖丁の原産地遺跡と仮定されている宮若市の千石峡で、輝緑凝灰岩の第1次工程、つまり、粗割段階の加工品と膨大なチップが散乱する場所を確認し、その内容を投稿したのだが、内容の不備により大幅な内容変更、あるいは、資料紹介という形での再投稿を詳細な内容で提示していただき、かえって編集の方々にご苦労とご迷惑をおかけするものと辞退した次第である。
 査読結果の内容をお知らせいただき、立岩と今山を無理に比較するような安易な内容である点等気付かせていただき感謝申しあげる。別の機会に何らかの形で報告できればと考えているところである。
 ただし、釈然としないのは、その査読内容の結果が送付され来たのが、最終しめ切り2週間前という時期、社会人として仕事をしながらもなんとか考古学にしがみついている人間にとっては、あまりに短い時間であり、しかも、5月あたりに投稿しているにもかかわらず、その時間的な対応はいかがかと感じる。投稿の締め切りを早くされるのであれば、当然、査読結果も早く知らせるべきではないかと考えるのだが。
 この件は、過去のものとし、新たに出直そうと考えていたが、編集後記でふれてあったので、あえて書いた次第である。遠賀川源流の落水の音が、九州考古学会関係者の方々のお耳に届けば幸いである。

 話をもどそう。馬見山は険しく直登は結構辛い。香月・豊福両先生ともに昭和5年生まれ、かなり厳しい山登りとなろう。それより、私がばてそうである。ゆっくりペースで登り始めたが、途中が倒木やがけ崩れのため迂回する道が出来ているのだが、何れも下を通る事は出来ないのであり、自ずと険しい上に上がることとなる。途中の伐採材を運ぶ林道で休憩、飴が配られる。一息して再び登り始める。昔登った道とはどこか景色が違う。それは、間伐のためいたって見晴らしがよくなっているからで、かえって道の痕跡がわからなくなっている。木立を抜ける一本道だったのが、その木立がすき間だらけとなれば、道と木々のコントラストが大きく変化してしまっている。私が案内人をしなくてつくづくよかったと思う。
 途中何度かの休憩を挟みながら、目指す羅漢岩に到着する。標高820m、さらっと残雪を残し、羅漢の大岩には何本ものつららがたれている。寒い、今までのぼりばかりで、少し汗ばんだ体には、立ち止まって食事をとると寒さがしみて来る。昼飯には自分でつくった2個の塩むすびのみ、それで十分に事足りており、すぐに、1人で調査に入る。私は、正面のスケッチと平面のスケッチをして必要ヶ所の寸法を記入する。やがて、他の人が幅35㎝のハサミ岩とも言うべき狭さで胸あたりまである両脇の岩の間を横になって登ってくる。私が通れたのだから他の人は軽く通るはずである。
 すき間を通りぬけると目前に半洞窟が広がる。奥行き5メートル、幅8メートルほどもあろうか、巨大な変成岩が上部に乗っていて両脇に同じ変成岩がそれを支えているという構造である。中は湿気がありもちろんかび臭い。奥の方を照らすと礫が詰まっており、ある時期までこの中を水が流れていたように見える。おそらく、大水で大量の礫が運ばれ奥を塞いでしまったのであろう。その結果、洞窟となったというところであろうか、期待される遺物等は落ちてなさそうである。今でも、大雨などの場合は水が流れ込むような感じである。
 中には昭和に入ってつくられた石仏が納められている。ただ、中に1対古そうなものがあり、馬見の庄屋の名が刻まれた碑が横になり、石仏の台座に使用されていた。これが、羅漢岩である。注意深く前庭部を掘れば何か出土するかもしれない。おそらく、古式のものは期待できないようではある。

 1月20日になった。実は市内に防災無線のアンテナが100ヶ所以上建つとあっ
て、そのうち40ヶ所ほどの立会いが始まった。本日は1日目で3ヶ所、何れも遺跡とはかけ離れた場所であるが、分布調査の大きなデータとなる。明日は1ヶ所、次は4ヶ所と毎日の仕事となるが、何かに当たりそうで心ひそかに期待している。
 そういえば、圃場整備の前に土壌調査が行なわれ、1m四方の穴が地権者の手で掘られ、それを見回りながら、遺跡の有無などを調べていたが、今回はそれを思い出させる。土壌調査の時には、掘りあげられた土の中に、青磁や弥生土器が混じり、断面にまともに遺構がひかかっていたことが時々あった。今回もやや期待しながらの予備調査である。

 最近、また、石灰岩地帯の周辺部に堆積していると思われる石灰岩の礫層や周辺より骨の残り具合によいと思われる堆積層がどうなっているのか知りたくてしょうがない。もちろん、鍾乳洞や石灰岩の裂け目に堆積した土中からの化石骨の出土はよく耳にする話であるのだが、なにせ、一般人には近づけず、危険も伴う。例えばあの広い平尾台から流れ出る河川堆積物はどうなのか、カルスト台地周辺に堆積するのであろうが、すべて酸性土になるのかどうなのか、調べた人もいないだろう。
また、洞窟内堆積物が流れ出る可能性もあろう。田川の糸田町で河川敷から見つかったナウマン像の臼歯もその手のものだろう。
 ジャワ原人の出土したトリ二―ルの地質図には、河川によって寸断されている丘陵の両方に石灰岩の長方形マークが記してあるのだが、地質的にはどうなんでしょうか、ご存知の方はいませんか。石灰岩の周囲にある堆積層は、通常より化石の保存に適した土質であれば、素人の我々でも夢が描けるのですがね。今度は、河川を歩いて見ます。数万年前の化石を含む地層が周囲にあれば探すのですがね。石灰岩採石場には法的な網がかかっていて近づけもせず、直良先生のものでも読みましょうかね。あきらめずに探しましょう。

 突然ですが、しばらく休んでおりました。というのも、現在、甘木市史料の1巻から5巻までを読んでおりますとともに、旧嘉穂町関連江戸期の古文書史料をつきあわせ、古八丁越の江戸期における利用と石畳の年代推定をこころみているわけで、老眼の身には辛いものとなっております。もちろん、古文書原本は読めませんので、読みやすくしたものをつかっております。

なんとも困難な作業で、正徳元年に古八丁人馬通行止なる文言が出てまいります。また、寛永に古八丁を塞ぎ新八丁を開削するとあり、基本古八丁は通れないとなりますが、秋月封内図等には道が記してある。ということは、完全封鎖ではない、しかし、通行記録も見当たりません。また、塞いだ道にわざわざ石畳を設けて管理する必要があったのかどうか、これが最初の疑問。
 
 しかし、読み解くうちに竹の伐採を嘉麻で行なった場合、蛇渕山など切り出した竹を大休に運んでいる。また、文政11年の大洪水のさいに、大休の上が崩れ野鳥川に流れ込み多大な被害を出しているが、即座に石方を野鳥川筋に派遣し往還の根石を居たと記されている。2日間かかり、その後に野鳥番所の上や下の川や道の普請を行なっている。往還の根石とは石畳の可能性があり、しかも、往還あつかいというのがいい感じである。この道は、古八丁に続き、一方では古処山参道で秋月の殿様も何度か参詣している。
 ちなみに、石方は川の石垣等の普請のため間 小四郎が筑後より師匠を招いて教示し、郷夫石方という専業的集団として編制している。この集団と石畳普請、あるいは定期的作道がかんれんしているのかな。

 この史料集「秋城年譜」の中の東畑記録中に面白い現象が書いてある。一つは彗星らしきものの出現、もう一つは、古処山から屏山、馬見山、江川の方へと幅180メートルほどでかなりの距離になるが木々が木っ端微塵に砕け散り、あるいは、大風で倒れたように根こそぎなぎ倒されたらしい。2日2夜振動したというが地震とは書いていないし、限定的された範囲のみそのような状態になるのもおかしいものである。当初、隕石かとも思ったが、2日間振動したとあるし光のようなものを見たとの記録もない。
 古記録の中に天狗倒しと表現される現象があるが、まさにそれかもしれない。それにしても、幅が同じで木々が砕けるような現象が起るのか、ひょっとすると竜巻かもしれないが、3月か4月頃のこと、しかも、標高6~700メートルくらいの限定箇所である。UFOかもしれませんね。馬見あたりに以前UFO騒ぎがあったらしいから、また、彗星かとしてある記載も絵が描いてあるが、これもそのてのものでは、いやーはまっちゃいましたよ。
 
 隕石で思い出しましたが、ずいぶん前のことですが、嘉麻市(当時は嘉穂町)牛隈に隕石が落ちたという話がないか確認に来た人たちがいました。ある炭鉱経営者の自宅に飾られていたもので、なんでも、隕石が落下するのをご本人が見たとのこと、炭鉱で働いていた人たちに仕事そっちのけで探させたそうです。溜池に落ちていたとかでだれかが探し出して持ってきたそうです。
 炭鉱経営者は相当の金額で買い取り応接間に飾っていたそうです。それが、流れ流れて福岡の人が所持されていました。箱には九州大学の先生による鑑定書が入っていて、隕石であり鉄隕石と何かの中間のようなもので大変珍しいものだということでした。実物はいかにも高熱で解けた感じでした。

 今、甘木史史料集を何度も読み返しては、古八丁越の利用と石畳の時期について調査している。なかなか面白いことがわかってきたのだが、決定打に欠けるのも事実である。というのも、市指定文化財に一部をしようと以前から奮闘しているのだが、なにせ、寛永年間に塞がれたとあり、正徳元年には人馬通行止となり、文久年間に開こうとしたが再び閉じられた道が古八丁、今で言う旧八丁越の道なのである。秋月街道をあつかわれた方は多いが、その利用について明確な回答をもっておられる方はいないといってよい。せいぜい、秋月封内図に道が記載してあるという理由から地元は使ったと想像されるが、その根拠は乏しい。
 当時、才田村の紺屋なる人物が八丁口の番所に文句をいったところ、その先の石原口まで送り出されたが再びもどってきて文句を言ったという地方文書の記録がある。つまり、地元でも新八丁越を使っている証拠である。それと「石畳の残りがよく」と街道のガイド本にもあるが、新八丁開削から明治頃まで通行止めの道にあのような大掛かりな石畳を敷いたのはいつのことか、はたまた何故なのか明確な証拠がないのである。
 何人もの先生方が本を書いておられるが、そこは新八丁と混同した書き方ですり抜けている。根拠がないのだからしょうがなかろう。しかし、指定して保護しようという地元にとっては事実をきちんと記していただきたいものである。
 ともあれ、こまめに史料に当たるとなかなか面白く、状況証拠ではあるがこつこつと集めている。今度、何かの機会に発表しようと思うが、秋月街道という名称も古(旧)八丁越の利用等に関しても嘆かわしいくらいな研究しかなされていないのには驚く。街道研究家と称されるみなさんしっかり研究してよ。あとが大変なんですよ、あとがね。
 
 石方郷夫・郷足軽・竹木が伐採される蛇渕山・大休・文政11年の大水害など、これらは間 小四郎関係でなかなかにいい史料を残してある。また、郷足軽の配置とその役目の一つに、夜須の津出し米の件で甘水を通る白坂越の改修に伴う史料に面白いことがのっています。これらは、間接的証拠として古八丁越の利用に関しかなりよい史料です。また、明和の殿様御郡回りの記録には、わざわざ蛇渕山を通って御帰城とあり、通常なら何も書かずに御帰城あるいは書いても八丁という文字がはいるが、明和の例は異例であったのかも知れない。もちろん、地方文書「田中大庄屋」の中の記載ではある。

 さて、これから古八丁越関連の問題に付き合っていただこう。
 まず、八丁関連の古記録で豊臣秀吉以前にさかのぼる例としてこのような資料がある。
 永禄10年(1567)に秋月・毛利の軍勢と大友の軍勢が争った「休松夜軍」では、秋月軍が大友軍に夜襲をかけ大友軍を敗走させるが、その際に「豊後勢以ての外大崩れして、芥田千手へ引もあり。甘水、長谷山を打通り」(筑前国続風土記 元禄期)同合戦を甘木根基(天明期)では、「豊後三将甘木・長谷山間七度鑓合戦」と題し「以て外ニ大崩シテ、或ハ千手・大隈ニ引クモアリ」と記し「九州記四巻ニアリ」としている。
 この記載を見ると、おそらく、(古)八丁越を命からがら逃げる大友軍の姿が浮かんでくる。面白いもので、石瀧先生は求める史料は、図らずも向こうから飛び込んでくる場合があるとか、この史料もその手のものである。
 もうすぐ、字数の限度がせまっているので、新たにコーナーを設けます。

気になることどもⅢ

2008-10-20 07:43:58 | Weblog
 10月18・19の2日間は、沖出古墳の公開日、春・秋の2回公開です。東京や大阪から来てくれてありがたい。しかし、2日間外にいるのはつらいね。テントを建てるけど日陰が段々動くもので、1日に当たっているようなもの、春も秋も日差しは強い。年齢とともにこれまた、段々と疲れてまいりますね。ちなみに、2日間で167名でした。王塚古墳は、1日1000人を越えるそうです。

 10月20日月 だるい一日のスタート、今日は前から気になっていた田川の川崎町の現場に見学に行く。情報で10cmに及ぶ茶褐色チャートのナイフ形石器というふれこみと大きな原石の茶褐色チャートも出土しているらしい。電話で、それはナイフでなく剥片尖頭器じゃないかとつげるものの現物を見ていない。そこで、現地に赴いた。当初から旧石器とふんで、いったい筑豊の旧石器の遺跡はどんな地形にあるのか、それが知りたいというのが目的である。
 車で木城川をさかのぼり狭い谷をのぼると現場が見えた。遺跡の主体は、狭い谷に延びる細い丘陵の脇で丘陵あるいは1度は水底でのたい積をへているようである。まず、原石との情報を受けたものは、珪化木であった。おそらく、石器の原材にはなってないと思われる。次に、ナイフと称された品物は縦長のフレークで稜線は1本、半分に自然面が残る断面三角形のしろもので、打面調整の剥離痕が数ヶ所に見られる。やや幅広のフレークで、両側は平行せずやや波打つ感じである。単独出土で旧石器かどうかの判断は出来ないが、石材は見た感じ硬質頁岩か珪質頁岩というもので、山形県あたりの石器に入れると区別がつかないようなものである。
 このような石材で見事な石刃状のフレークをつくる時期はと考えると、剥片尖頭器の時期か縄文後期、なんともわからない。しかし、そのような大形のフレークを剥がすにはそれなりのコアが必要であるから、大分の岩戸とか比べるといいのかもしれない。
 まずは杉原君の出番をまとう。それと、上流に洞窟があるようでそのほうが、私の興味をひいてしまった。
 フレークの出土した場所は、マサの地山の上に20~30センチの砂層(マサ土)のたい積があり、ところどころに粘土層が混じっていて、その中にあったようだ、遺構群が明確ではなく、剥片やチップの存在も確認できないところから、付近から流れ込んだ可能性もあるが、非常に鋭利でローリングはないようである。
 条痕文の縄文土器が点々と出土していて、やや厚手、全体を見たいものだが、轟あたりと踏んでいるようである。つけたりで、石英の石器みたいなものが数点ある。偶然かも知れないが石器だったら面白い。出土層は上層でせいぜい縄文かな。これも、杉原君にたずねたいものである。
 例のフレークの話に戻るが、出土地点は狭小な谷の低地に相当し、花崗岩風化土(マサ)の基盤の上にたい積した、河川堆積物中でざっと見たところ遺物はなく単独出土のようである。しかし、所々に礫群のたい積箇所と粘土がたい積した箇所が在り、それらを見極める必要があろう。ただし、それの中にチップすら見出せていないのは苦しい。
 以前から気になる縄文早期以前の遺跡立地の問題であるが、今回は狭小な谷に長く延びる丘陵の斜面につくられた段丘状の部分で、谷頭に相当しようか。
 驚いたのは、弥生後期末あたりの竪穴住居があることで、久々にこの時期の遺構を見る。こんな山間の中にもとの思いが巡る。

 ようやく、杉原君と連絡が取れる。川崎町の石刃状のフレークについて観察結果を報告する。いずれにしても現物にあたらないと何ともいえないが、石材という点では、豊前から豊後あたりからのものかもしれないし、ひょっとすると古い可能性もあるかもということで話が終了。それにしても、洞窟が気になる。土曜あたりに行ってみようか、子どもが遊び場にしていたらしい。
 
 土曜がきた。行ってみるか。早速、パンを2個購入し現地に12時前に到着する。石器が出た付近を何度と歩き回り剥片やチップを丹念に探す。再度、例の石器を見せてもらい、ルーペでなめるように観察、打点付近には調整痕があり明らかに意図した剥離で、パンチ痕のような微細な剥離がある。さて、前回「ナイフと称された品物は縦長のフレークで稜線は1本、半分に自然面が残る断面三角形のしろもので、打面調整の剥離痕が数ヶ所に見られる。やや幅広のフレークで、両側は平行せずやや波打つ感じである。単独出土で旧石器かどうかの判断は出来ないが、石材は見た感じ硬質頁岩か珪質頁岩というもので、山形県あたりの石器に入れると区別がつかないようなものである。」と書いたが、今回の観察でも石材は茶色の硬質か珪質の頁岩で、稜線が中央にあり、両側縁はほぼ平行で、末端がやや尖っている。基部から末端まで何度となく2次加工痕を探すがないようである。また、表面の反面近くがザラザラした感じで自然面と考えたが、主要剥離面にもあって真裏の位置に在ることから、石材の摂理や質的な部分と判明。少なくとも10センチ以上の長さのコアがあり、2回にわたって10センチ程度のものを剥いだ後に、稜線の中央上面にパンチをあて意図して美しい剥片、石刃といったほうがよいだろうが、このものを見事に打ち剥いでいる。周囲に同じ石材が全くないことから、素材として搬入された節がある。さらに、丘陵脇の1段高い部分からは、アカホヤがブロック状に入っており、条痕文の土器が出ている。さらに、アカホヤが混じったような黄色みの土が出てきており、早期と思われる土器片がある。
 石刃が出た部分の廃土をさがしまわり、サヌカイト・黒曜石(腰岳)、黒曜石(姫島)のチップを採集する。縄文土器出土層から出ており、おそらく、早期や前期に伴うものであろう。頁岩系の剥片は全く見ない。
 夕方になりついに杉原氏の到着である。観察結果は私とほぼ同意見、石材に関しては大平村あたりに見当をつけているようである。縄文早期に伴うものであれだけの技法を駆使した美しい石刃があるか、縄文に伴うものはサヌカイト・黒曜石(腰岳)、黒曜石(姫島)のチップで定番商品、だとすれば単独出土で砂礫層の上面ということもあって明確な層位が分からないが、可能性としてAT以前の古式な石刃ではないかと来た。おもろうなってきたでー。実は、アカホヤの下に角礫の入った層があり、その上に赤味を帯びた黄色い層が薄くのっている。そのあたりがあやしいのだ、実は、石刃が出た付近にも黄色い層がわずかにのっていて、これが鍵になりそうだ。いずれにしても、2万5千年以上の古い石器の可能性があり、何とか突きとめてもらいたい、神様・仏様である。
 
 10月29日 県の研修で福岡にやってきた。そこで、吉留さんに硬質頁岩のような石材があるか確認すると、いわゆる流紋岩の変成を受けたやつで、ホルンヘルスだという情報を得る。大野川と五ヶ瀬川上流に存在し上部の礫層中に多く含まれ、AT以前の石刃やそれを加工した石器の石材として利用され、日田や旧宝珠山で採集しており、川崎に入っている事は考えられる。しかも、製品として加工されたものが入るようで、その石材を加工したりするのは見られないという。まさに、ぴったりで、おそるべし。問題は、それにどのような石器が伴うものなのかを知る必要がある。今のままでは迷子の石刃である。

 再び杉原君と電話で話す。要は時期の問題であるが、可能性としてAT以前の古式のもの、あるいは、旧石器の終末頃の二通りが考えられるため、調べる時間が欲しいとのことであった。層位の確認が出来ない以上仕方ないこと、しかも、1点のみの出土とくれば困難きわまりないことである。よい点は古式の石器の可能性のあるものが、嘉麻市の山田近くから出土していることで、搬入ルートの推定が可能となってきている。山田の熊ヶ畑地区や上山田あたりは、全く未知の世界であり、表際を行なう必要がある。もう一つは、粕屋方面からのルートで、八木山から飯塚・穂波あたりも再調査する必要がある。なかなか、休みが取れず採集にいけないのが残念であり、年齢的に集中力が持続しないこと、腰痛、老眼と苦難の連続であるが、何とかして、旧石器の遺跡と洞窟や岩陰遺跡を探すことが今の希望である。
 笠置山の資料については、嶋田さんに見てもらったが、なかなか判断がつかないということで、藤田先生、嶋田さんはじめ仲間内で現地調査を試みるつもりである。嶋田さんによれば、飯塚側にも輝緑凝灰岩が採集できる場所があり、笠置山周囲に何ヶ所か点在する可能性もあるかもしれないということである。これも、楽しみの一つである。

 10月1日に岩宿文化賞の授与があったそうだか、なんと、諏訪間 順が取ったそうだ、要ではない諏訪間大明神である。足柄山の山中にこもること18年、旧石器に憧れ、地層から引き抜いた剥片を大事に持っていた彼は、相模野という10mにも及ぶ関東ローム層の立川層に挑むこと27年、積み上げた石は崩れることなく山をなした。もう一人仲間に香川県善通寺市の笹川がいる。横穴式石室の石材に掘り込まれた線刻文様を20年以上追い続けて、モガリ屋に到達した彼の記事が新聞の全国版に掲載された。諏訪間、笹川ともに学生時代を過ごした仲間である。みんな卒論で苦労したし、青海苔に醤油をかけ酒のつまみにしていたあの頃を思い出す。その店は、河川の再開発でなくなった。

 豊前國風土記曰 田河郡 鹿春郷在郡東北 此郷之中有河 年魚在之
其源従郡東北杉坂山出 直指正西流下 湊會眞漏川焉
此河瀬清浄 因號清河原村 今謂鹿春郷訛也
昔者 新羅國神 自度到來 住此河原 便即 名曰鹿春神
又 郷北有峯 頂有沼周卅六歩許 黄楊樹生 兼有龍骨
第二峯有銅并黄楊龍骨等
第三峯有龍骨。

(逸文 宇佐宮託宣集)
 豊前国風土記の香春岳を示した一文がある。一の岳から三の岳まで全て竜骨が出ると記されている。奈良時代のことではあるがこれは非常に重要なことで、どういう形で出土していたかは不明であるが、鍾乳洞のような中に出る可能性などがあり、調査研究する価値はおおいにありそうである。北京原人の竜骨洞を探し当てたアンダーソン、ブラック博士やワイデンライヒ、また一つ夢がつながり始めた。
 なお、一の岳の西側に絶壁があり、その下に平地がありそうである。秩父の橋立岩陰遺跡が断崖絶壁の下にあり、岩陰となっていたことを思い出す。
 吉田 格先生の関東の石器時代を購入した。絶版らしく手に入らなかった。というより学生時代からチャンスはあったが購入しなかった。実は先生に埼玉で採集した隆起線文土器の破片を見てもらったことがある。その時、石器時代の「橋立岩陰」の抜き刷りをいただいた。もうひとつ、井草と大丸両型式の縄文と撚糸文施文の違いを聞いたら、詳細は江坂君にきいてくれといわれたことを思い出す。

 飯塚市井手ヶ浦の窯跡を見に行って、藤田先生と遠賀川上流域の旧石器の話をしたが、先生も必ずあるんだろうけど何故か見つからないし、今まで出たという話は聞かないが、狭い谷あいの段丘や張り出した地形のところにあるかもしれないと言われていた。旧筑穂と嘉穂両町の穂波・遠賀両河川の上流域で狭小な場所から刺突文土器が出土していることから、あと一歩でとどくんだろうけどと須恵器の話は、その後になってしまった。
 
 香春岳の竜骨から、また、帝釈峡や清龍洞窟、小瀬ヶ沢や室谷の本を引っ張り出してきた。命の旅博物館の図書閲覧室に中国の洞窟遺跡が紹介された本があったが、カラー版で厚い本を思い出している。また、日本洞窟遺跡が復刻されているなら購入も考えよう。
 
 11月16日曇りの天気をついて洞窟遺跡探し、まず、川崎の現場に向う。今日はあんのじょう工事は休みと来ているから、山田の筑紫に抜ける道を歩こうとせっせと車で乗り付けた。一応、石刃が出ているので現場検証を行い断片でも採集できればと、工事で削り取られた場所に近づく。地面は雨でびちゃびちゃ、現場用の靴の底に容赦なく粘土がくっついてくる。しかし、ものはない。やはり、旧石器の住人の生活痕跡はないようである。
 さらに、奥の例の筑紫に抜ける道に近づくが、ここもべちゃべちゃ、再び靴底に粘土が絡む。昔、現場のおばゃんが「神宮皇后さん靴のごとなった」と言っていたが、まさにそんな感じである。さて、ようやく道に到達すると、先は草が生い茂りとてもいけたものではない。
 引き返しながら、また、神宮皇后の靴になってしまった。土をやや落として履き替え車を出していると、前方に長い通行止めのポールで何かを押さえている。一人のおばちゃんが車を止めて盛んに「殺してくださいと」わめいていた。見るとマムシである。つかまえている叔父さんの隣であんちゃんが「上のほうで赤マムシがおったばい」と言っていた。ひょっとすると、筑紫への草むらに入ったらがぶりとやられていたかもしれない。最近はそうそうマムシは見ないのだが、くわばらである。次に、香春岳に向う車で横の道を通るが、中国の桂林のようにそそりたつ岩山になす術がない。確実に案内人がいる。
 そこで、帰る前に田川市の夏吉にある岩屋の鍾乳洞に行ってみようと車を走らせた。以前に行った事があるものの鍾乳洞の位置が分からず引き返していた。
 正面にお宮があり向ってその左に第一洞窟があると説明書にあった。そこで、神社の横から行くと崖面にぽっかりと横穴が開いている。私は鍾乳洞に関心がある訳ではない。その前庭部がどうなっているのか、また、過去の庇部分がどこまでせり出していたか、それと、洞窟の入口の方向である。私はハッとした。おそらく南西か南南西を向いており、前方は平地が広がり眺望がよい。さらに、向って左手は前庭部が過去に存在し、落盤で岩海のように石があるが、明らかに前庭と庇があったと考えられる。しかも水田をぎりぎりまで近づけているため、緩やかに下っていた斜面は全く削り取られ、かなり狭くなっている。また、看板や排水の側溝を埋設する工事も行なわれていて、かなりの部分が削り取られたものと推測する。
 何の事はなかったのである。おそらく、前庭を掘れば遺物は出そうである。洞窟遺跡だと考えるが、岩屋をもっと探れば条件の良い所が必ずあると確信した。まずは、入口前方の水田の持ち主に聞き込みをする必要があろうし、何か過去に出土しているはずであるのだが。長谷川さんを通じて調べてみよう。 今から、夏吉の岩屋がよいがはじまる。
 皆さん楽しみに。
 昨夜調べたら、県指定になっているようで第一洞窟は無理のようである。第七洞窟まであるようなので、それらにもあたる必要があろう。条件の整ったものがあるかどうか疑問ではあるが。

 ※田川石炭博物館の福本君へ、第一鍾乳洞の前庭部付近に看板を建てているし、前の水田は圃場整備か鉱害復旧かは知らないが、整備されているようで、その際に前庭部を削り取っていると思われるが、その時に何か出土したものがないか、地主さんか近所の人たちに是非聞いてくれるようたのみます。また、昔、土器や石器が出たとか骨が出たとか、そんな話がないのか聞いてください。夏吉の石灰岩地帯は洞窟・岩陰遺跡が必ずあると思います。いいフィールドになるでしょう。

 旧碓井の竹生島古墳出土の土器片を杉原君に預けていたので、九歴にとりに行く。ついでに青銅製の金具をもって行って岡寺君をまじえて「なんだろう」と検討するも分からず。刀関係の金具かなということで、松浦君に再度調べてもらった方がという話になる。土器片については、形状や焼成等からかなり古式なものの可能性があるとまではいえるが、小片でありあくまで可能性でしかないという限界である。帰りの受付で西谷先生とお会いする。九歴にいくたびにお会いするのだが、例の金具を見せると、しばらく考えておられたが、おおよそこのようなものではというところで、先生と考えが同じである事は分かったが、詳細は・・・というところで時間がなくなりもどる。
 帰って、土器の実測に断面を入れていたが、どうも、上部が一部かけているものの口縁部に相当するようで、口縁部直下に刺突文あるいは押し引き文が付されているようである。しかも、土師器のような焼成や色調、器壁厚が5~6mmと薄手で繊維が入っている。あくまで可能性としてだが押引文から刺突文あたりの段階で捉えたい。願望がかなり占めているのだが。

 今、竹生島古墳の縄文遺物を書かせてもらっている。石器の実測を久々にやったが、乱視がひどくて全く剥離が見えない。石器をやっている方老眼でお困りではないですか、石器の実測を続けることこれが老眼に打ち勝つこつかもしれません。ふだんは見えないものでも、長年の経験と感で見ることが可能となる。吉留さんや平ノ内さん、もはや、心眼ですね。チャートの石鏃などほとんど見えませんね。いやー寂しいものです。まして、トレースとなると全くだめです。手は震えるし、ただ、口だけは達者になりました。中村孝三郎さんの「越後の石器」に使用されたトレース図が「縄文文化の起源をさぐる」新泉社出版に出てますが、すごいですね。ロットリング以前の職人わざですね。講談社から出版された「古代の追跡」1970を読んでいました。中学生の時に買いましたが、背表紙がなくなりバラバラになりかけたので、ガムテープで張っています。そのうち図書館に行って黒いテープでしっかり止めてもらいます。その中で、小瀬ヶ沢洞窟発見前くらいに、地元の方の家で玉ねぎのさらしたものを食べて美味しかったとありましたが、じつは、このくだりを読んで、中学の時に玉ねぎを薄切りにして、水でさらして食べたことがあります。さらしたりなかったのでしょう、辛くて食べれませんでした。そんな思い出があります。
 藤森さんの「旧石器の狩人」がまたいいですね。学生社のこげ茶の表紙のやつと全集を持っていますが、なんとなく、こげ茶色のハードカバーのやつがいいですね。1000円以内で買えましたから。

 竹生島古墳出土の横長厚手の剥片で、どう見てもフリント製のものが1点ある。チャートかと思ったが、火打石に使用する灰色のどう見てもフリントで、縄文の石器というよりは、火打石の可能性がやや高い。もちろん、近世にお宮を建立し今日に至っているので、火打石が混在しても不思議ではない。むしろ、剥片を粗く加工して長方形状に整え、握りやすくしている点に石器にはないものを見ている。はたしてどうなのか、もし、石器であれば原材料の産出地が問題となろう事は目に見えている。

 また、考古少年回顧録の続きを書き始めた。昔の世界に逃げ込む自分がいる。逃げ込む場所があるからいいのかもしれない。日々くたびれている自分がいるのは確かで、明日からくたびれる場所に戻る。乱視がひどくなりパソコン画面が辛くなる。これがまた仕事で財務会計の画面に食いつくように、夕方には離れた位置で、しかめっ面して見入っている自分がいる。結構くたびれるが、頑張りはしないし無理もしない。不思議なもので、この画面はなんとなく心地よい。時間もなければ内容の制限もない。会計から「訂正お願いします。」という女性の若い声もない。
 行革・都市計画・商工観光など他の部署からの問い合わせもなく、何だか分からない電話もない。そんな世界にいつも逃げ込む。ハリーポッターではないが、魔法の鏡が今見ている画面なのかもしれない。

 12月11日今日は千手川両岸にあるポットホールの地質学的調査に同行。久々に感動を覚える。直方層群(大焼層)の露頭がありそこに江戸時代から知られる甌穴が存在しており、河川工事の際にもその部分は特に注意を払って工事がなされた場所である。筑前国続風土記の附録に記載されており、昔から知られた名勝である。
 今回は、地質学の先生方にその分析を願った次第であるが、第三紀を専門とされる先生の細かな調査、その解説を聞きながら考古学とは異なるアプローチ法を学んだ気分であった。
 第一にその層が河川堆積かそれとも海の堆積かということから始まったわけであるが、一般に直方層群は挟炭層で石炭を産出し淡水から汽水線あたりの堆積と考えられているが、先生方の調査は詳細に及び、まずは、砂岩が花崗岩系であること、さらに、重要な点で甲殻類の巣穴の化石つまり生痕の化石を確認された。これは、水深数十センチの浅く広がる海に生息するなんとかという甲殻類の巣穴で、蜂の巣のように存在するのだが、それと、波の痕跡が残ることなどから海進が起って数百キロに及ぶ浅い海が広がったこと、しかも、短期間に起ったことなどを説明された。
 付近には、炭坑がある事から炭層の上に積もったものであろうことを突き止められた。さて、我々もその生痕化石とやらを観察したのだが、なるほど、巣穴が無数にある。これを目に焼き付けた後上流に移動し、再び地層の観察に入られた。
 状況証拠を丹念に集められている。その一つに地層の構成がほぼ均一な花崗岩系の砂であること、河川では時おり礫が混じるものの、ここの層は比較的均一である。さらに、堆積層がやや波打つように凹凸していること、これは、海で見られるが砂全体が振動したように動いていた証拠で、河川や湖、沼には見られないらしい。しかし、決め手がない。決め手がなければ下流の層との比較による一致点が明確ではない。夕方になり帰る寸前であったが、私が例の甲殻類の巣穴の生痕化石があるのを見つけた。先生は確認するとただちに写真で撮影され、下流と同じ層である事を決定された。この一連の調査は大変勉強になった。是非、見習わなければならない方法である。かなり刺激となったし、久しぶりに面白く時を過ごした感じがして満足した。

 12月14日久しぶりに旧石器探しに出かける。今日は、碓井の美術館西の池から桂川町の狩野の溜池、大分の馬敷の丘陵、久保白ダム付近の溜池を回るが全くない。遺跡の臭いすらしないのである。嘉穂盆地の地形はすり鉢で周囲の土は解析が進行し洪積世の土を全てすり鉢の底にためてしまっているようである。どこに行っても花崗岩の風化土だらけ、これでは先人の痕跡は失われても仕方ないと感じた。
 気を取り直して、田川の夏吉に向った。途中で川崎町と大任町の境あたりに大きく造成している現場がある。先日の地質学の講義で少し第三紀も面白いなと思っていたが、その前に少し立ち寄った時には、かなりの量の砂岩が重機の削岩機によって割られ運び出されており、日曜の休みをねらって見に行ったが、化石もなさそうなのでその場をすぐに離れた。遠くに、地層が見えていたのだが、石炭層が目立っていたのでなんとなく、薄くなった髪ひかれる思い出引きあげた。
 しかし、今回は少し頭が大きくなっている。早速、地層のむき出しになった斜面に近づいていく。今回はまっしぐらに進んでいった。前方ばかり見ていたものだから、久々に右足がぬかるみにはまった。靴はズボッと抜けたが真っ白に土化粧をしていた。池の中を歩くときはかなりきおつけていたのだが、こんな所でわなにはまるとはと思いつつも崖面に向った。

気になることどもⅡ

2008-07-21 09:37:35 | Weblog
 筑豊の嘉穂盆地は、甕棺分布地域の東限をなしている。そこから田川や遠賀川下流域には、何故か甕棺が導入されていない。最も田川の糸田や方城には一部に発見されている程度である。したがって、嘉穂地域の甕棺墓観察すると甕棺を導入した
かしないという点が明らかになるものと考え、以前、「遠賀川上流域における甕棺の受容と展開」と題して『考古学の諸相』Ⅱに掲載されたものがある。嘉穂地域は立岩遺跡の調査によって甕棺墓が主体となる地域として概ね考えられていた。しかし、スダレ遺跡では弥生中期前半を主にする墓群はほとんど木棺・土壙墓で占められていた。しかし、甕棺墓から貝輪を得ており、立岩周辺でも副葬品を有するのは甕棺墓であり、木棺・土壙墓に対する優位性は変わらないものと考えられていた。
 しかし、その後、周囲の遺跡が調査されることで当地域の一面が明らかとなってきたのである。
 その答えを導くには、鎌田原遺跡あるいは旧筑穂町の上穂波地域での墳墓群群の調査に加え、旧嘉穂町の原田や馬見本村、あるいは千手のアナフ遺跡の調査があったからにほかならない。
 まず、嘉穂地域にいつ頃どのようなコースで甕棺が入り、どう広がって行ったかを検証することとした。『立岩遺蹟』のなかで甕棺の編年を高島さんがやられていたので、それに、鎌田原遺跡の成果を加えると弥生中期前半の汲田式から中期末の立岩式までの変遷をたどることが出来る。
 そこで、近年の成果までを含めてその変遷と照らし合わせると、盆地に導入されたのは弥生中期前半の汲田式で、出土したのは鎌田原・上穂波・彼岸原の3地区で何れも、穂波川や遠賀川の上流にあって、甘木・朝倉・二日市地区あたりと峠越しに接している所ばかりである。それが立岩や土師地区に広がるのが中期中頃の須玖式段階、そのやや新しいタイプが旧頴田から糸田町、後半期になると方城町へと線状に延びるのであるが、それより東へは浸透していない。また、遠賀川中・下流域や田川の上流部への拡大化もみられないという特徴がある。
 拡大も一気に広がるのではなく、波紋のように1型式ごとに広がっていくのである。それは、有力な地区が一気に導入したりする事はなく徐々に拡大化している傾向が看取される。これは、導入当時甕棺が特定有力者の墓制として定着していない証拠であり、中期後半段階に至るまで待たなければならなかった。
 中期前半から中頃、後半期にいたる墓制の優位性が変化するのは、中期中頃あたりであることが、鎌田原遺跡から解釈される。それは、当初、大型木棺墓もしくは木槨墓という埋葬様式が嘉穂地方を占有していた。スダレ遺跡でも、その他の地区でもそのようである。汲田式の甕棺が導入されてすぐに中心的墓制になったわけではない。中期前半の鎌田原は、大型木棺墓があり、続いて中心主体となる長さ6m、幅4mの大型の木槨墓が造営される。それと同時期頃であるが墳丘墓の端に甕棺墓が作られている。何れも銅戈を副葬するが、墓域の占有位置に違いがあり、主体部周辺は大型木棺墓が陣取り、甕棺墓は周囲に作られるが最後まで中央部を占有する事はない。
 ただし、中期中頃を境に大型木棺墓は造営されなくなり、通常の土壙墓や木棺墓
が、実は甕棺墓群の外側に数基作られ、やがて終焉を迎える。一方、甕棺墓はその後も継続しており、鎌田原の墳丘墓が終焉するまで続く。
 この現象を見る限り、中期中頃を境に大型の木槨墓や木棺墓が中心的な墓制ではなくなり、甕棺墓に取って代わられる様相がうかがえる。立岩ではこの、変化が起った中期仲頃の新相段階から甕棺墓群が形成されているため、墓制の交代、あるいは変革期の状況がつかめない。そのあたりを目の当たりにしたのが鎌田原遺跡であった。したがって、嘉穂地域の弥生の墓制が大型の木槨墓や木棺墓→甕棺墓という変遷を遂げているのは、おそらく違いないことで、立岩周辺の特殊事例とはいえないと考える。これは、嘉穂地域に限らず他地域も同様の場合が想定される。

 話は変りますが、勝手に思い込んでいるのですが、師である井上裕弘さんの本が出るようです。皆さん是非買いましょう。発掘から報告まで一連の流れを極めた人だからこそ、疑問に思い、その答えを模索してきた結晶が磨きぬかれて活字になったと思います。退職後鎌田原の甕棺を観察し、拓本を取っていた姿が、自ずと井上流考古学のスタイルだと思います。筑豊なまりの神奈川弁、神奈川なまりの筑豊弁、どちらでもいいですが、枕元に置いて寝る前に少しずつ読みましょう。是非

 筑豊地域には、甕棺を受け入れた事実があり、それが特定地域に受け入れられるが、受け入れられない方が多いような気がする。中期前半期と後半期は別途に考える必要があるが、上から物を見ずに水平で見るべきだと思うが、確かに北部九州での甕棺の使用はすごいものであるが、受け入れなかった地域が厳然と存在し、今や宗像は甕棺を受け入れなくとも立派に成り立っているのではないか。何か中心主義的部分をもって、そこは他の地域とは異なり優れているとか先進地域とか勝手に思い込んでいるのではないのか、逆に筑豊地域のイメージをもって過去の歴史を見ずに、福岡から海岸沿いに瀬戸内へと入るコースを考える人が多いように感じるが、内陸の道を軽視しているのではなかろうか、考古学的情報が欠落しているかもしれないが、内陸の筑豊抜きに研究会等が開かれる現実がある。何故だろうか、私には理解できない。過去の人にとって峠はたいしたものではない。むしろ、季節によっては海路を断たれる事が多いと思う。むしろ、陸路が以前から発達していて様々な利用がなされていたと考えるのである。
 とかく人は現状に惑わされ、事実に目をつぶってしまうことがある。甕棺に惑わされ、産炭地筑豊のイメージに翻弄される。何度もくり返すが、田川の青銅器出土について論文に取り上げた人が何人いるのだろう。甕棺がないからといって後進地域と決め付けるのはいががなものか、逆に、中期後半から青銅器を大量に副葬する墳墓があるからといって、前半期の実態はよくわからないとか、何を基準に事象を考えるのかかいもく解らない。
 
 近年、行政における文化財専門職の肩身が狭くなってきている。それまでも経験したが、役所で教育委員会は外され、教育委員会では社会教育が外され、文化財は欠けらほどもない。どうも、市政に関係ない、なければないでいい場所に見られるようである。今度、機構改革のヒアリングがあるが、その場で、将来、文化財係をどうしたいのかたずねてみようと思う。

 8月11日福岡大学より古墳の調査のお知らせがあった。見ると篠栗町の長者の隈古墳というではないか。これは驚きである。中学生時代から何度も石室にもぐりこんだ古墳で、亡き父親も一度入ったことがあるという、篠栗では知られた古墳である。まあ、興味がある人だけかな。明治時代に金銅製馬具が発見され東京国立博物館に納められた事は以前から知っていた。前室の上から盗掘孔があいており、そこから内部に入るのだが、玄室の右側壁にいかにも綺麗な同心円が見えていた。今はどうなっているのだろう。篠栗の町史には後世のいたずらとされているが、黒っぽく薄くはなっているが、見事に二重の円形が見られた。ぜひとも、その真偽を明らかにしてもらいたいと思う。
 ぜひとも、調査には出向きたいと考えている。福岡大学の関係者の方々によろしくお願いしたいと思います。

 福岡県教委から「彼岸原遺跡」2008が発刊された。県の吉田氏が執筆された報告書である。発掘中に1度お邪魔したが、藤田 等先生が移植ゴテをもち、自ら遺構を掘られていたのには驚いた。結局、先生から現場の説明をうかがうこととなったが、弥生中期後半期の竪穴住居跡群で、立岩丘陵で明かに出来なかった集落のようすが分かること、しかも、円形プランばかりで構成され、排水の溝が住居跡からのびていることなど、ご説明いただいた。立岩丘陵で新原さんが確認した同時期頃の竪穴住居跡も、やはり、円形だった。
 土器を概観すると、広口壺が朝顔形に開くものと鋤先状の物が存在し、後者には円形浮文が附されたものも有る。甕は頚部やその直下に三角突帯を附し、口縁端部を跳ね上げとするもの、丸くおさめるものの二種類に大きく分かれる。ただし、丹塗りはほとんど鋤先で、中には跳ね上げの影響をうけたものがあるようである。その他、高杯や器台、無頚壺などひととおりの器種がそろっており、吉田氏が記されるとおり須玖Ⅱ式に相当するものと思われる。
 この時期と同様な例で、嘉麻市千手地区のアナフ遺跡という居住区と墓地が接する集落跡を調査した。そこからも、須玖Ⅱ式に相当する土器群を相当量検出したが、様相はよく似ており嘉穂盆地内の共通性を感じるのである。1~2点異なる点を挙げるとすれば、今のところ嘉麻市内では、鋤先口縁の長頚壺に幾重にも突帯が付されるものの出土例が見当たらないのである。桂川町では見たことがあるし、桂川と旧碓井の境界線である八王寺遺跡では、溝状遺構から出土しているが、それより南では今のところ検出例がない。
 それと、袋状口縁壺の出土が見られない。もっとも、後期の中頃あたりのもので、二重口縁に稜線が明確なものがあるくらいである。
 ところで、8号溝から出土した袋状口縁のカーブに稜線があり、頚部も太く短めのような気がして、遺構の切り合いも含め、須玖Ⅱ式の新相あたりかなという気がしており、その頃まで継続する集落とすると、まさに、立岩とぴったりで、輝緑凝灰岩製の石庖丁が数点あるのもいい感じである。
 竪穴住居のプランについて、嘉麻市を含めた嘉穂盆地の南側では方形プランであり、地域性あるいは居住した集団の関係を少し触れられている。私の知る限りでもその通りであり、嘉麻市あたりでは、中期前半段階で楕円や方形プランがあり、北筑後地域に類似するという印象がある。つまり、穂波地域と嘉麻(鎌)地域というのが、かなり、早い段階から大きな地域性のようなもので別れていた可能性も考えられる。
 今回の調査は、嘉穂盆地内の緩やかではあるが、古代につながる地域的差異の一部を垣間見せてくれたと内心喜んでいる。
 
 この際、嘉麻(鎌)と穂波を大枠で区分する何か根拠となるものがないか。1つは、遠賀川があるが、右岸と左岸ではなくもっと地形的に区分するなら、土師地区の丘陵から忠隈に延びる丘陵だと感じている。そこに、忠隈古墳が位置しているが、そのラインで嘉穂盆地を大きく二分したと考えている。しかし、確たる証拠はない。ただ、地域の違いとして、少なくとも弥生時代からあったように思えてならない。ある時は小地域ごとに別れ、そして、立岩の統一、再び小地域に区分されるが、基本的に二つの地域に大きく分かれていたと考えている。

 8月25日月曜 今日は発掘現場見学には絶好の日和、風涼しく秋の訪れを肌で感じた。ついに、篠栗町若杉の長者の隈古墳を見学した。最後に訪れたのは36年前になろうか、記憶によればこんもりとした丘陵の山頂部は開けていて、ヒノキの苗が植えられていたと思う。その関係で下草が刈られ地面が見えないほど敷き詰められたようになっていた。
 古墳は小さなマウンドで、玄室から羨道に向かって低くなるのに沿うように土がかぶる程度のもので、明らかに周囲は開墾で削られていると感じた。今回、福大の桃崎先生に案内していただき説明をうかがった。
 石室内では気になっていた同心円模様をさがし位置を示したが、以前より表面が白っぽく汚れていて、赤土が染み出してきたようである。良く見ると円のようなものは残っているようであるが、前のようにはっきりした二重の円には見えなかった。玄室正面の鏡石も白っぽく全体にクリーニングして、科学的調査を行えばはっきりするかと考える。
 それにしても、明治時代に掘られ出土した馬具が東京国立博物館に収められているが、写真を見せていただいたが見事なもので、朝鮮半島からの渡来品である事は確実であろう。全く驚きである。そのような素晴らしいものを出土しながら、ほとんどこの古墳について知られていない現状はなんとも残念である。桃崎先生もより多くの方々に知っていただければありがたいという信念を持っておられた。中学時代に何度も入った石室である。願わくは、調査の成功を祈りたいと思う。
 また、先生は前方後円墳説を持っておられ、これが証明されればさらに好条件がそろう。また、装飾古墳と来れば鬼に金棒であるが、そうはうまくいかないだろう。少年時代の想いが1つ開花しようとしている。応援あるのみ。

 立岩の下方遺跡の報告書を見ていたのだが、未製品の記載に気になる一文を見つけた。浜田さんが記したと思うが、調整段階で錐のような先端の鋭いもので、細かく調整を行なっているという。考えてみると、未製品と呼ばれるものの製作に関して、細かなテクニックについて言及したものがあるのだろうか。
 というのも、立岩の場合専業的に製作しており、かなり洗練されたシステムを持っていたと考えられる。粗わりから研磨に至るまでの打製段階を旧石器研究がやるように細かな分析が試みられているのかどうか、気になっている。案外、ソフトハンマーの使用や押圧剥離的な調整が施されているかも知れない。
 その辺りを、石器屋さんが観察するとどのような特徴があるのか。それとも、遠賀川下流域と大差ないのか、気になるところである。
 浜田さんが「錐のような先端の鋭いもの」と表現しているのは、器具が直接あたる箇所が、細かな半月形をなしてなくなっている特徴がある。このあたりにヒントはないのだろうか。未製品を掘り下げてみるのも面白いと思う。時間を見つけてやってみようとは思うが、さて?

 9月になって雨ばかり、古墳石室の天井石が崩落し、民家に落ちかかっている連絡を受ける。なるほど、墳丘が完全に壊され宅地化のために切り崩された崖ののり面にむき出しになった石室の一部が見える。その天井石(推定1.2t)が斜めに滑り始めていた。急いで応急措置を行なう。強い雨足の中三人で土嚢を積み上げ10本近くの杭を土嚢に打ち込み土留めを強化する。最後に、ブルーシートをかけて直接雨水の進入を防ぐことで修了。その週の土曜になって、業者による天井石の除去とのり面に植生の土嚢積みを行い作業を終了する。連絡から6日間の超スピード対応であった。
 緊急時のことで対応したが、指定文化財でもなんでもない古墳の崩落、その責任はどこにあるのだろう。管理は当然地権者であろう。そもそもこのような危険な状態を招いた原因の一つに、公害復旧工事が絡んでいる。本来なら崩落を防ぐ石垣をつくはずであろうが、古墳が出現したためそのままの状態で残すという意見が、文化財の方から述べられ、のり面むき出しのままに放置された。最も、発掘調査が出来る面積は全くなく、排土を置く場所もないし、第一複数の人間が入る余地もない。当時としては賢明な措置だと考えられる。しかし、それまで、大岩を崩落から防いでいた木々がすでに切り払われているため、将来を考えるなら何らかの対策をするべきであった。その時のつけが24年後に結果を招いた。
 運良く家屋直撃は避けられたが、家主は雨が強く降るたびに恐怖が戻るであろう。石垣はついてくれないのかという家主の要望は当然であろう。大きな権力が動き出す可能性もある。それに対応するのがまた難関である。

 8月6日土曜日は、秋月街道八丁越の視察に行く。以前から指定申請が出ておりその範囲を確認する目的があった。石畳が続くのだが各所で切られ途切れている。しかし、最もふさわしい範囲を見出すことが出来た。「おおよこい」あるいは「およこい」と称される場所があり、その前後の石畳と、なんと、石切り場がすぐ脇に見えていたのである。そのあたりで一旦途切れるのであるが、この範囲は全体の中でも景観も含め一押しの場所である。しかも、石を切り出した跡が残るとと来れば条件が揃ったと考えてもよい。

 8月9日篠栗の長者ノ隈古墳を再び訪れる。ここは、今は亡き父母を中学三年のときに連れて行った思い出深い場所でもあり、そこが調査されている事はまことに喜ばしいことであり、学術調査の対象となったことに感謝する次第である。
 中学時代に何度も石室に入ってろうそくの明かりで中を見ていたのだが、その時のすすが、まだ石室の石に残っているとは信じられない光景だった。また、その頃植えられたヒノキが大きくなり、当時のようすはすっかり変ってしまった。第一に夏みかんが1本もない。若杉といえば夏みかん、甘夏、はっさくとどこでも見られたのだが、長者ノ隈には見られなかった。36年の歳月とはこのようなものかと思った。
 現場に県の小池さんが来ていたので、色々話をしていたが、私が同心円文を石室内で見たという話が伝わっていたらしい。中学の頃に確かに綺麗な二重の円は見た。落書きにしては見事に円文だったことを覚えている。しかし、右側に1ヶ所確認しただけで後は見えなかった。今は、さらに見えなくなっている。また、当時、長者ノ隈に接する池の付近で採集した、片刃石斧を持っていった。桃崎先生応援しています。

 9月9日に九州考古学会から査読結果が届いた。笠置山山麓で石庖丁の石材産地を確認したという内容から、書き上げた論文のつもりだったが、結果は散々であった。合併してから今日まで、あせりを感じながら、着実な路線を逸脱してしまったようだ。
 まずは、発見したら的確な判断を下せる方を案内して実見していただき、確実な標本採集とともに、立岩の採集品との比較研究という道をすっ飛ばしてしまった結果と反省、学会には今回の原稿を取り下げていただくよう連絡した。
 ここ数年、何かに追われるように原稿を書いてみたのだが、ひどいものである。もう少し涼しくなったら、藤田先生を千石峡に案内しようと考えている。それから、立岩の石材採取に絞ってゆっくりと考え、まとまったら、再度、学会事務局の方々にお世話になるつもりである。
 それにしても、何か突き上げてくるあせり、ジレンマ、何ともいえない心境、有頂天、表現しようもないが、長者ノ隈古墳の調査を偶然にも36年目に目の当たりにしたのだから、初心に帰るべき時と思う。やはり、私は幸運である。50の節目として心に刻んでおこう。

 ようやく、榎町遺跡で発掘されていた東部瀬戸内系土器の実測をやったが、本物を見たこともなく、断片資料であるため、傾きなど分からずに苦労する。しかも、壺なのか甕なのか、中には高杯の口縁部が外側にのびる資料があるようだが、はっきりしない。とりあえず実測したものを誰かに見せなければならないが、はたして誰に見せてよいのやら迷う。
 また、共伴資料が全く出土していない状況も不思議といえば不思議である。当時、整理をやってくれたのは、九歴の岩瀬さんで、中期の遺物(須玖式)は全くないし、前期のものか、後期後半から終末以降のものばかりであった。
 ただし、凹線文については特殊遺物として抜き出していてくれたのだ。当時は、九州に来て初めての発掘調査であり、もちろん、凹線文土器には全く気付かずに来てしまった。何かに資料紹介をしなければならない。

 9月17日 梓書院から井上裕弘さんが書かれた『北部九州弥生・古墳社会の展開』が届いた。早速、目次に目を通し「筑豊地方における大型甕棺の導入と展開」を最初に読ませてもらった。というのも、2006年に「福岡県遠賀川上流における甕棺の受容と展開」という拙文を『坂詰秀一先生古希記念論文集』に掲載していた関係から、井上さんの論考を楽しみにしていた。
 最初は導入時期の時期と分布であるが、中期前半の橋口編年でいうところのKⅡbで、福岡・春日と夜須・甘木の両地域からの搬入の可能性を胎土に含まれる赤鉄鉱の粒子からわりだしている。つまり、穂波川流域と嘉麻川(遠賀川)流域で時期は同じであるが、別の地域から導入された可能性を示している。
私は、福岡・二日市・甘木方面からと大まかに指摘したが、さすがである。導入地域が当初から異なるところで、後の鎌・穂波につながる嘉穂地域の大まかな区分けが出来そうで、ちなみに、立岩の立地は、穂波川と嘉麻川(遠賀川)が合流する嘉穂地域の中央付近である。
 胴部三条突帯の甕棺については、短く嘉穂地域の地場産と記していたが、ここではさらにアプローチされており、嘉穂地域三大拠点と位置づけてある立岩・十三塚・鎌田原(馬見)の中で、立岩・十三塚と鎌田原(馬見)に大きく分かれる点を指摘、筑豊独自の甕棺として存在が筑豊弥生人の好みとして理解され、その製作には福岡平野の工人集団の影響と渡り工人の関与という考えを示されている。
そこまで、深くは考えなかったが、福岡平野で須玖式甕棺の口縁下突帯一条が二条に増えるという現象も踏まえ、須玖Ⅱ式の古段階で生活用の土器や祭祀用土器が、突帯を多条化する傾向も考慮する必要があろう。特に、遠賀川以東の影響は見過ごせない。

 10月になり、久々に千石峡に向う。九州歴史資料館で西谷先生と久々にお会いし、たまたま持参していた輝緑凝灰岩の破片を見ていただく。先生はとても興味をもたれたようで、すごいですねを連発されると同時に、はっきりしたら是非九州考古学に投稿してくださいと肩を押していただいた。実は、九州考古学への投稿は査読で落とされたとはとてもいえなかった。しかし、この問題をそのままにすることはできない。よって、再度、未製品探しに赴いたというわけである。
 再び訪れると、チップの量の多さに先ずは驚嘆した。さらに、剥片が散乱し、割とられたような原石も点在する。おそらく、露頭から塊で剥ぎ取るのだろうが、それらのおびただしい量に、おそらく、戦中戦後と畑の開墾も出来なかったと考えられる。土よりチップが多いのであるから。
 その中から20点以上を採集し、藤田先生宅に無理やりお邪魔して見ていただく。先生曰く「千石峡は石材産地ながら誰も調査していない。君が採集したものは粗割工程の第一次剥片でこれを立岩に運んだんだろうね。」と同意していただいた。そして、時期を見計らって現地踏査することにした。
 10月11日飯塚歴史資料館の嶋田さんに見せるべく訪れるが、伊藤邸の案内の助っ人で留守。かわりに樋口君に預けて後日嶋田さんに見てもらうこととした。収穫は、焼ノ正や下方の未製品を拝見し、全く違和感がないことを確認する。私が千石峡で採集したものをどちらかの遺跡の中に入れておいても誰もわからないだろう。まさしく、第一工程で企画的にあったものを大量に立岩に運び込んだものであろう。そこが、今山の2キロ以上もある硬い石材と違うところで、輝緑凝灰岩はかなり扱いやすい。藤田先生もおっしゃっていたが、川の礫は硬くて加工しにくいが、露頭のものは板状に簡単に剥れるからものの5分もあれば、ある程度の形に加工することが出来る。全く同感である。川の転石は柔らかい部分が失われ、さらに、摂理が分からなくなっていて加工しにくい。その点、露頭の新鮮なものは板状で簡単に薄く剥れていくのである。
 段々面白くなってきた。興味がある人この指とまれで、立岩の石庖丁生産もなかなか緻密な加工ラインが作られていたらしい。
 さらにいうなら、立岩が石庖丁製作遺跡として認識されて以来、様々な採集や発掘が行なわれてきたが、原石が発見されたとはついぞ聞かないのである。そこが、遠賀川下流域あたりと異なるのではないだろうか。単なる集落単位の消費に終わらない立岩の存在がクローズアップされることになろう。実に楽しみである。

気になることども

2008-05-25 21:35:45 | Weblog
 5月24日付けの夕刊で宗像から飯塚に延びる西山断層(活断層)がさらに、嘉麻市から東峰村へ続く可能性が出てきたという。九大の下山先生は、80キロの長さの断層がおこす地震エネルギーはM8という。四川の大地震なみではないか。1万から2000年前に動いたと観察されている。確か警固断層も平行して走っているいるな。これから調査が開始されるというが、最後に動いたのがいつかがはっきりしないと不安だね。2000年前は、弥生中期末から後期初頭、この時期、北部九州を含め広範な地域で遺跡の減少化、集住現象が見られるという特殊な時期に相当する。この時期、両方の断層が一緒に動いた可能性はないのか。
 概要を見ると、弥生中期前半の遺構に影響が及んでないという見解が示されている。遺跡数からすれば前期末から中期前半にかけて、最も遺跡数が多い。中期末から後期初頭、あるいは、もっと古い縄文や旧石器にどうであったのか。詳細な検討が必要と考える。
 西山断層について、インターネット上に掲載されている平成7年度~10年度の調査報告書を読んで感じた事を書いてみます。
まず、飯塚市明星寺で行われたトレンチ調査の層位と考古学的資料等による年代推定の部分についてです。土層を見ると1~7層に分けられ、6層はA、Bに区分されている。基盤は花崗岩であるが、本来、地震のため丘陵が27mほど落ち込んで上下にずれを生じ、基盤上層に堆積していた6A、B層が基盤と同じ高さとなっている。また、6Aと花崗岩基盤層が等しい高さとなるのは、地震後に風化あるいは水流によって高さが一定したものと考えられる。その後に、5層が堆積するが、河川による堆積物である砂礫層で古期段丘堆積層(6A・B層)と基盤層を不整合に覆う沖積層である。その上の1~4までの層がほぼ並行に堆積している。
考古遺物による層位の年代決定であるが、3層が龍泉窯系の青磁碗破片と口ハゲの白磁皿が出土しており13~14世紀を中心とする時期に、4層はヘラ切底の土師器が出土しており、平安の後期に位置づけられている。これらの層は粘性の砂層と砂層で比較的ゆっくりと堆積した感がある。5層は2~7㎝の礫や亜角礫を大量に含んでおり、濁流状態での堆積層で一気に流れ込んで堆積したと考えられる。その中で、弥生土器の甕底部片が出土しており、弥生中期初頭の城ノ越式ということで考えられている。
まず、土器底部であるが、やや、厚底で上げ底気味となっている。遠賀川流域の場合、城ノ越式は完全な分厚い底部で、かなりの上げ底となる。また、須玖式についてもⅡ式の古段階まではかなり残っており、私的には中期中頃あたりと考えられる。また、5層の体積状況が2~7㎝の礫や亜角礫を大量に含んでおり、濁流状態での堆積層で一気に流れ込んで堆積が伺えることから、土器の流れ込みという考えも成り立とう。1~2点の土器から層の年代を決めるのはなかなか困難と考えられ、まして、西山断層の下限を決定する重要な年代を決定するには、決め手が少ないように考える。上部層との比較からもう少し新しい年代も考慮する必要があるかと思う。
 
 2007年の福岡地方史研究45に「弥生後期前半期における弥生集落の減少と起因」という一文を掲載した。それは、北部九州においてその時期に集落数の極端な減少例が見出せるものとして、小沢佳憲氏が2000年あたりに古文化談叢に掲載したもののトレース的な文章を投稿し掲載されたのだが、糸島はむしろ弥生後期後半から本領発揮というか、三雲・井原地域を中心とした伊都国中枢部が完成するように見える。国と称される一大拠点集落についてその成り立ちを訪ねると、おおよそ、弥生前期に萌芽が見られ、中期前半にはある程度の様相が現れる。そして、中期後半段階で花が咲くのだが、伊都国はむしろ中期後半期から突然花咲く都の趣きがる。春日丘陵の奴国は中期前半期から中頃にその萌芽を見る。早良は前期末から中期初頭に花咲いてしぼんでいく、立岩は中期前半までに石庖丁製作ラインを作りあげ、中頃から後半期に花を咲かせる。伊都国は計画的に三雲の地に都を建設したのか、それ以前の様相が分からない。しかし、世々王有というくらいに後期終末まで大規模集落が根をはったように継続している。それに比べ、春日や福岡平野、早良平野、嘉穂盆地は、後期前半期に集落消滅に近い状況下に追い込まれる。奴国はハイテクの金属器生産で体制を維持するが、立岩は復帰する事はなかった。伊都国をのぞいて王が継続して存在する地域が果して存在したのか、疑問である。
 後漢鏡の分布は、嘉穂盆地では分散している。春日ではどうであろう。邪馬台国時代の北部九州は、伊都国以外に王として君臨する権力者がいたのであろうか。ちなみに、嘉穂盆地では緩やかな紐帯を基盤とする連合体というのが実情ではないか、むしろ、田川盆地の糸田地域を中心に出土した数々の青銅武器類のほうが、国としての体裁を放っていたのではないか。北部九州の弥生後期終末に邪馬台国なるものを維持する連合体が存在できたのか疑問に思うこの頃である。

 弥生中期の嘉穂盆地を概観すると、立岩を中心とする強力な勢力圏が形成され、周囲の集落はそこに飲み込まれるような感じをおぼえるのである。しかし、自然災害等の影響を持ってその結合が失われた後、つまり、後漢後期から晩期の鏡が盆地内に点在する。その何れも中期前半までに拠点集落として形成された遺跡であり、本来、素地として力を持つ集落であり、農業基盤の上に築かれた村々である。それぞれの勢力範囲は変らず、小地域を把握する集団と解釈できる。そこに、1~2面程度の後漢鏡が入ってきている。その何れもがことさらに勢力圏を広げるのでもなく、本来の領域を保持しているようである。あえて、魏志倭人伝の国に相当するならば、どう見ても、緩やかな紐帯を基盤とする連合体であり、トップが見えないのである。しいて言えば、卑弥呼のように連合体が擁立したトップレベルの存在は想像できるが、北部九州の弥生後期末あたりに中期の王と同等あるいは越える王というのが本当に存在したのであろうか疑問に思う。
 嘉穂盆地以外でも、伊都国以外の地域では、意外と後漢鏡が分散しているのに気付く。嘉麻市の原田遺跡の場合、石棺群が壊されていて、石まで抜かれていた。そんな中にあって、石蓋土壙墓と石棺から1面ずつ後漢晩期の鏡が得られたが、おそらく、もう少しあったものと想像される。それからいけば、香春町の採銅所は4面でてるのかな、石棺が横に4列に並んでいたというが、原田のB群がまさに4基並列したもので、周溝を持った墳丘墓で、周溝内から出土した土器は、西新式のように同部に刻みの入った突帯を巡らすもので、後期終末から古墳初頭くらいの時期と考えられる。採銅所と似ているといったのは高倉さんである。

 その後、西山断層の件についてなんら書かれていないがどうなっとるのかな。そういえば、旧穂波地区のあたりから明星寺にかけて集落の廃絶が中期後半期までに集中していて、やや早くにその傾向が現れるように見える。『福岡地方史研究45』「弥生後期前半規における弥生集落の減少と起因」より、旧筑穂町は中期前半でそういう現象が現れるのだが、早くに集落減少あるいは廃絶が見られるのは何故だろう。地震災害等も含めて再度考えなければならない。

 話は、後期初頭から前半にほぼ廃絶状態の集落遺跡が、後期中頃から後半期にかけて、再び増加傾向に転換するのだが、地域によって再進出の格差は大きい。嘉穂盆地で言えば、立岩近辺にその現象を見出すことは出来ないが、馬見台地一帯を中心に典型的な増加現象をうかがうことが出来る。しかも、原田遺跡には5箇所に墳丘墓が並び、銅鏡や鉄製武器を副葬している。時期的におそらく後期後半から末頃の時期であり、それから古墳時代へとスムーズに移っているのである。ただし、今のところ前方後円墳は見当たらないが、古墳初頭の居館跡までが穴江・塚田で検出されている。しかし、そこには土器様式の大きな変化があるものの、大乱的な要素を今のところ見出せない。
 また後漢鏡の分布は盆地内の過去からの拠点地域に分散所有されており、伊都国の平原のような一極集中は見受けられない。魏の使いが国としたの中に中期後半の王的存在がこの時期にどのようにありえたのか、伊都はいいとして、奴国はどうであろう。後漢晩期の鏡を大量に保有するような墳墓があるのだろうか、不爾国が糟屋群としてはたして後漢晩期の鏡がどれくらい集中して出土しているのであろう。宇美町の光正寺古墳が不爾国と関係するとの説があるが、少なくとも後漢晩期の鏡を確実に保有する墳墓は、墳丘墓であり何故宇美町だけが前方後円墳なのか分からない。平原だって周溝をもつ墳丘墓と考えられるし、粕屋町大隈の大型石棺なんかは、原田に何ヶ所か存在するし、田川でも採銅所や公文原遺跡で出土している。むしろ、大形石棺は、嘉穂や田川、北九州といった内陸部から東部に多い。大隈の大型石棺等はそんな地域の影響下にあるとも考えられる。福岡平野や糸島平野で見ることが可能なのか疑問である。光正寺古墳に関しては、土器様式で西新式というが、案外周辺部ではやや長く材地形時の使用があるのでは、それが突然畿内や山陰系の土師器と交代するように見えるが、案外、在地の土器を使い続けていた可能性はあろう。再度、墳丘等から得られた土器資料も検討すべきであろう。

 意外と後期終末に後漢鏡を所有するような有力地域に、畿内系の初期前方後円墳は、入ったのだろうか。在地勢力が強い中に直接入り込むより、案外、それほど勢力がないような場所に入り込むというのが最初かな。いきなり、親分同士が何じゃというわけではなく外堀から埋めていく、石塚山ふくめ北部九州後期末の勢力分布範囲と初期の畿内型前方後円墳の在り方についてどうでしょう。
 嘉穂盆地で見る忠隈古墳は円墳だが、立派な竪穴式石室と三角縁神獣鏡を持つが、その位置は私が考えている後の鎌・穂波の中間にあって周辺には後漢鏡を有する墳墓は、まだ見つかっていない。原田遺跡は後漢鏡2面があり、石棺群が荒されてなければ、まだ、存在した可能性はあるし、鎌田原の地蔵堂付近には巨大な石棺が複数あって、さらに、副葬品が出土する可能性がある。古墳初頭の集落もいたるところにあって、その繁栄ぶりはすごいものを感じるが、前方後円墳がない。穴江・塚田で方形居館が検出されているにもかかわらず、ないのである。何故だろうと考えるのである。

 また、東北で地震が発生した。活断層のことを書いていたが、四川では太古の断層が動いたという。今回も、岩手から宮城にかけての断層らしいが、活断層ではない可能性が高いというが、断層はそこここに走っている。これが周囲のエネルギーによって動くとなれば、大変なことである。現在の河川はおおよそ過去の断層運動によって引き裂かれ、多きくずれ落ちた谷地形を流れている場合が多い。また、河川跡でも断層があり、私が居住している場所も古い断層が走っている。また、西山断層とその後活断層として発見されたものが連続していれば、宗像から飯塚の明星寺をつなぎ、その延長線上に線を引き東峰村まで持っていくと、どうも、遠賀川沿いの現居住地を通っている可能性が考えられる。もう一つの可能性は、山田川沿いとなり、ここも古い断層が走っている。さて、どちらでも問題である。
 西山断層の最終が弥生中期以前として把握されいるが、遠賀川沿いにおける遺跡で、まだ地震を示す具体的な例がない。可能性としては、弥生後期前半期における集落減少期、あるいは、さかのぼって縄文中期か早期以前の旧石器時代と考えられるが、証拠にかける。
 もう少し、地域ごとにトレンチ調査を実施し、より確実な年代探るべきと考える。国庫補助でも県費でもいいわけで、ぜひやるべきであり、各自治体の考古の連中も協力して行なうべきと考える。それと、過去の遺跡発掘調査例を再検討すべき問題でもある。それには、報告書使用外の写真も含め調査時点の記録や記憶をたどり、発掘調査面でどのような特徴が見られるのか、久留米の松村さんあたりにご教示いただきたい。我々はもっと地質を勉強すべきと考え、九大の下山先生に詳しく現地で説明を受けたいとも考えている。
 観光や学校教育との連携、体験学習も推進しなければならないが、頻繁に起る昨今の地震を考える時、直接にしかも住民の生命に係る仕事としての可能性も追求すべきと思う。

 宗像の安部ちゃんから久々に青銅製武器の複数出土のニュースを聞いた。土壙墓か木棺墓、あるいは、木槨墓かよくわからないという。一基の墓壙から複数出土するのは、かなり珍しい。吉武・高木(木棺墓)、古賀市は甕棺墓かな、前期末~中期初頭あたり、それと、宗像の例になるのかな。あとは、1~2本がせいぜいか。杉原先生が宇木汲田で1棺に1本という宇木型は、ある意味で階層をあらわすもので、実は、数本の青銅器あるいは吉武・高木のように多鈕細文鏡が加わるものがあり、海岸部での大量副葬はありうるのであろう。
 しかし、中期後半から末頃に大量の前漢鏡を伴うかというと、今の所、伊都・奴・それに立岩と来るが、後は1面のみの副葬である。

 夕刊に出た。銅剣4本が固まっているように見える。また、上部のほうは銅戈だろうか、他にヒスイの勾玉かな管玉も出ているようで、吉武・高木に近いのだろうか。しかし、銅矛は出ないのだろうか。鎌田原は銅戈であったが、糟屋のほうは銅剣が多いようだが、以前、小田先生が北筑後や筑豊あたりは以前から銅戈がよく出土しますねと言われたことがあった。細形から中細の古式の段階あたりから、筑紫野近辺から北筑後、筑豊周辺は銅戈が多いように見えるし、糟屋から北側は銅剣のように見える。福岡平野はその中間で銅矛を含む。3器種プラス鏡(鈕細文鏡)に玉類がそろうのは、吉武・高木とすれば、もう一度、たんねんに調査すれば、青銅器の拡散が一定ではなく、器種ごとの何かがあったのか、下條さんが書いていたように思うが。背景に何かがあるのでしょう。

 阿部ちゃんと電話で記者発表前に話したのだが、木棺か土壙墓か判断できないが一段目の墓壙は広いといっていた。このような場合、木槨墓という可能性も生じる。また、土器片が出土したかについては聞かずじまいだし、周溝や盛土の一部でもなかったか聞いとくべきであった。次の機会に聞くことにするが、なんかありそうな気がしてならない。

 西山断層の続きを書くが、宗像から飯塚の明星寺までほぼ一直線に来ている断層は、穂波川あたりで消えていることになっている。穂波川自体が古い断層に沿って流れておりそれにT字形に接するようにして消えていると考えられるのだが、もし、これがさらに続くとしたらどこを通るのかを、地図上で延長させると久保白ダム付近から桂川の寿命、都井、旧碓井の飯田付近、琴平山北側から竹生島、旧嘉穂町の上西郷、下益、中益、宮吉、桑野、東峰村に達するラインが怪しい。特に、西郷、上西郷、下益、中益あたりの丘陵の東側は直線的になっていて、河川による開析というよりは、断層崖的な雰囲気がある。遠賀川を挟んだ東側は完全に断層で、かなり古い時代に大きくずれていることが分かっている。その断層に沿って遠賀川が流れているようで、飯塚市街のほうへ続いている。
 さて、西山断層が続くとするなら、中位段丘や高位段丘に影響をあたえているはずである。今考えているのは、飯田の五穀神社や竹生島が独立丘陵になっている状況、あるいは、桂川の土師を通る県道があるが、その付近も丘陵が切断されている。特に、竹生島は、西側の丘陵から延びていたと考えられるが、いつの頃かに切断され、今では円形状の独立丘陵である。仮にこの切断が、断層によるもので、そこを河川が一時期流れたとすれば、なんとか説明は付く。
 竹生島は赤化し琴平山の噴火によって生じた火砕流の塊みたいな大形で粘性の礫を大量に含む。地元の人によれば基盤までその赤土が続くらしい。標高は50m余りで山頂から出土するものは、縄文早期の土器や石器に始まる。丘陵の形成は、間氷期のいずれか暖かい時期と考えられ、10万年以上前の段丘堆積層で、それが断層で分断され、河川が低い位置を流れると共に浸食されて現況を作ったと想像している。その後、五穀神は中位段丘であるがやはり独立丘陵となっている。何れのライン上も低位段丘が形成されており、そこに遺跡がのっているわけで、数万年前に大きな地震が起きて以来、2度目は未確認のようである。したがって、次の予測が難しいと考えられるが、先ず西山断層につながるのかが問題で、全く新たな断層かもしれない。早期に調査してもらいたいものである。我々考古学関係者は協力は惜しまないので、考古学的な資料提供はすぐにでも出来る。
 今のところ、県道中益線沿いが断層ラインと踏んでいるが全く異なるかもしれない。情報が欲しいものである。

 6月28日(土)福岡旧石器研究会に宇美町の資料館に出かけた。12時30分頃到着、早い時間なので誰も来ていない。事務室に行って研究会はありますかと尋ねると全く分からない、聞いていませんとの返事、結構ですといいながら展示物を見て回る。その時、研究会のみなさんに見ていただこうと、竹生島古墳調査の際に出土した、石鏃(鍬型)、剥片、黒曜石の原石、サヌカイトのスクレーパー?と押型文2片、無文の土器片、最後に、繊維を含み土師器のような色調、で表面に1~2ヶ所の押引あるいは刺突文があって、私はかなり古いものと予感しているのだが、決定打がない。
 その内、1時30分になったので、もう一度事務室で聞いたが、やはり、何も聞いてないということで、帰ったのだが、一点気になることがあった。光正寺古墳の第一主体部に伴うという甕である。底部は平底気味で形態は西新式の甕に似ているが、口縁部は畿内系の布留式に見られる口唇部内面に段が付くもので、外面の調整は細かいハケ目である。内面はナデだと思うがガラス越しではない。焼成や色調からして、土師器であり布留式の変形か折衷タイプに見える。そうすると、先ず布留式があって、その後に起る変形や折衷と考える必要があろう。
 著名な先生方による慎重な審議の結果と思われるが、三世紀半ばから後半期の時期に位置付けるのは如何と思った次第である。平ノ内さんすいません。ただ、どうしても畿内の初期古墳と同年代には思えませんでした。C14で確認したらどうでしょうか。

 話は、押引文あるいは刺突文らしき土器にもどるが、今までになく小さな穴で、押引スタイルなのか穴の周囲が盛り上がっている。この穴は間違いなく文様として考えられるが、問題はもう一つの穴である。確かに周囲の面が若干盛り上がるが、砂粒が抜けた跡の穴とも取れる。問題は繊維を含むということと、焼成と色調が土師器に似ているという点である。ただ、この資料は表採であるため単独で共伴資料を欠いているためなんともいえないが、出土している石器類は、細石器らしきものはなく、縄文早期の範疇でおさまっている。
 
 7月13日(日)古文化研究会で発表するが、実証性のなさと思いつきのままに書いた内容で、悪戦苦闘、というより全くだめな内容になってしまった。せっかくお呼びいただいた小田先生と宇野さんにご迷惑をおかけした。最近たて続けに原稿を書いては掲載していただいているのだが、正直何かあせりを感じて十分な検証等が出来ていないことがはっきりわかりました。昔から地に付いた研究をしたことがなく、時々の思いつきで書いているのが、見えなくなっていた。しかし、これは性分で今から変えるのも難しい、ただ、フィールドは嘉穂地域というのは変わらない。古文化談叢59集に掲載していただいたものも、墓地関係はまあまあであるが、集落関係は危ないと感じている。したがって、これもアウトのジャッジを受けそうである。九州考古学に投稿しているのは、笠置山での石庖丁原石採取の件であるが、先走り傾向にある。しかし、考えようでそれが切っ掛けで新たな道も開ける可能性があり、ひとまず、それにかけようと思う。間違もあるさと自分に言い聞かせている最中である。
 
 宗像市田熊石畑遺跡のニュースが以前夕刊に掲載されたが、その後、宗像の安部ちゃんと会う機会があり、その後の話を聞くとなんと、5本が15本に増えたという。これはすごいと思っていたら、7月18日の夕刊にそのニュースが紹介されている。その中に気になる箇所があった。6基の墳墓から最高5本もの青銅武器を副葬し、しかも、剣・矛・戈の三種類がそろっており、その上装飾品も出土している。なぜ、今の世にそれほど話題とならないのか、吉武高木なみの墳墓群群には間違いない多丑細文鏡がともなっていないためなのか、意外と地元もマスコミも冷静に見ている。これも、捏造事件の影響なのかな。
 記事の中に、甕棺の及ばない北部九州を非先進地域と確定している。これは非常に危ない見解である。特に、今回のような中期初頭から前半期にかけては、複雑な様相を呈していて、簡単に甕棺に軍配を上げることは出来ない。というのも、早良の吉武高木の中心的墳墓は、大型木棺墓である。鳥栖で以前見つかったものも木棺もしくは木槨墓で中心をなしていて、何れも周囲に甕棺墓があるのだ。嘉麻市の鎌田原遺跡は、典型的で墳丘墓の中心を木槨墓や大形の木棺簿が占有し、周囲に甕棺墓が点在する。今日まで常識とされてきた甕棺墓が墓制として優位にあると考えられるのは、中期後半の世界で、三雲南小路や須玖岡本、立岩の掘田遺跡などが甕棺墓であることは中期後半期である点、また、古賀市の遺跡や佐賀に古い甕棺から複数の青銅器が出土している事などから、そう考えられがちであるが、単純ではない。中期前半の汲田式甕棺は、広範囲に広がりそれまでの土壙墓・木棺墓社会に入り込んでくるのだが、その交代劇が中期前半から中頃に行なわれるようで、それまでは、甕棺と土壙墓・木棺墓は対等もしくは土壙墓・木棺墓が優位な地域がある。朝鮮半島を考えるなら、土壙墓・木棺墓(木槨墓を含む)が優位である事は疑いない。特に、糟屋郡から宗像、北九州から遠賀川流域(中・下流域)田川を含めた豊前地域は、基本的に甕棺を受け入れていない。しかし、後進地域とは言えない。嘉穂地域は、中期前半に甕棺が導入されるが、鎌田原でも観察できるが、優位なのは木槨墓か大型木棺墓で、中期中頃から優位性が逆転し、後半から末頃ついには甕棺に変る。その変った時期に立岩の堀田遺跡は形成されるわけで、宗像のように甕棺を受け入れなくとも、勢力を持った集団はあちこちに出現したのが中期前半で、それらがある意味整理された段階が中期後半の王墓といわれる段階と考えれば、甕棺イコール先進地域という福岡中心主義は瓦解すると思うがいかがであろう。
 北部九州は甕棺とそれ以外の墓制で成り立っていることを忘れてはならない。

北部九州の縄文・撚糸文

2007-12-06 00:32:19 | Weblog
前篇に何度か書いたが、投稿できず。続きはここから書くことにするが、せっかく書いたのが、2度消えてしまったので今日はやめにするが、柏原遺跡のE地点で、気になるものがある。17回縄文研究会の九州における縄文早期前葉の土器相2007の91ページ11の口縁部破片に残る何とも言い難い文様について考えてみたい。
 乱れた条は無節のように見え、さらにね絡まるように反撚の感じを残している。解説には撚糸とも縄文とも記されてないが、どちらかであることには間違いない。一ついうと、通常の撚糸文には見られない特徴がある。それは、施文端部、すなわち施文の最初が連結していてV字を逆にしたようなつながりがあることで、おそらく、撚糸文には見られないものと考えられる。そこで、1段の縄文の端部(二つに折った撚始め)の跡が見えるのか、しかし、条の乱れは如何ともしがたい。では、反撚の縄文の横位回転押捺か、はたまた、反撚の結節(日本先史土器の縄紋の図版前編24の中央にある結節)か、全く異なるものか、再度、観察し解き明かす必要があろう。近年、福岡市を中心に撚糸文を主とする土器群が検出され始めたが、縄文を観察し研究する必要性を痛感する。出来れば、東日本との関連について明らかにすべきとと考えるが、西日本の状況が分からない現状では如何ともしがたい。ただ、全く別個に出現するとは思えないので、その辺を考えてみては如何か。

撚糸文は、最初のほうで触れたようだから、縄文をさらに進めてみることにする。それは、右撚と左撚を撚あわせる際に見られるもので、LとRをどちらに撚合せるかで一方は安定した撚になるが、もう一方は撚がほどけた所謂反撚となる。ただし、実例としては2段のLRとRLをRに撚るかLに撚るかで、3段の段階とな
る。LとRをRに撚ればRLは安定した撚で節が出来るが、RRは反撚となって撚がもどり2条の平行線となる。それが節の間に2本の平行線として現れる。Lに撚れば全く同じ現象として節の向きが反対になるが、節と節の間に2条の1段撚の縄が登場することとなる。しかし、どんなに複雑でも、条に対する節の傾きは変化なく現れることから、どちらに方向に何を撚っているかが分かることとなる。これらを合の撚という。これに、途中反撚が加わるとまた面白い文様が出来上がる。
おそらく九州の縄文土器には複雑な縄文はみられないが、こうしてみると縄文とは様々な種類が分かる。
 山内先生の「斜行縄文に関する二三の観察」という論文があるが、これは、縄文の正体が回転押捺ということが分かる以前に書かれたものである。その観察はまさに寸前まで迫っているのだが、そこに描かれている縄文は、撚った原体の観察と単節斜縄文が描かれている。右撚は時計回り、左撚は反時計回りとが示され、右に節が立っている図とやや斜めに寝ている斜行縄文が描かれ後に回転方向の違いと分かるのだが、当然、条の方向は縦回転と横回転では逆となるが、それを圧痕によって見分けている。つまり、原体を押し付けた場合、上から見た場合と圧痕では反対になることを知り、土器に描き出されたのと同じように粘土に連続平行させて押し付けていって復元されたようである。したがって、説明には(圧痕)と記されている。そして、単節から複節、無節、異節、異条とが説明されている。
 次に、斜行縄文の原体の末端として説明されているが、単節斜縄文の末端として6種類の図が描かれている。その(4)に2条が連結したものがあるが、柏原遺跡群E出土土器で、本稿でも触れた17回縄文研究会の九州における縄文早期前葉の土器相2007の91ページ11の口縁部破片の文様解読のヒントにならないだろうか。無説のようでもあるので、1段の撚で末端が強く残るような押捺方法を試してみては如何だろうか。
 また、条痕文の中にも直線的に稜線が平行するものと、波打つようなものがあり注意を要する。長崎県茶園遺跡の早期資料の中に結節沈線と表現されたものがあるが、自分にはよくわからないが、特徴として類似しているようにも思える。
 さて、施文はどのようにして行なわれたのか、施文具はいったいなんであるのか、茶園遺跡では微波状を呈したものが存在していて、草創期の押引文の系譜下にあるとしている。ちなみに、沈線文の間隔が狭いものと広いものがあり、広いものは直線的で関東の田戸下層式を思わせるが、問題は幅が狭く等間隔で何条も施されているものである。しかも、微隆起線状のものや押引文を思わせるものがあるという。実物を見ないで何とも言いようがないが、櫛歯条の施文工具がありそれを押引状に施すのか、あるいは、0段の撚糸を絡状体として、回転させずに表面を押引状にするのか、それとも、0段の撚糸を絡状体として回転押捺させるか、また、動物の腱といったものを絡状体とすることも考えられよう。いずれにしても、撚糸文土器群との関連を考慮する必要はあろうかと思う。
久々に書きます。今思いつきましたが、絡状体の半回転あるいは、一部回転とかが存在するようで、その方面にも探りをいれると面白いでしょう。
 
 また、縄文について書くことにしよう。せっかくだから、北部九州で草創期から早期前葉にかけて縄文系が出土することを念頭において進めていこう。撚糸文が出土するのだからた縄文があってもいいと思う。案外、日本海沿岸から直接北部九州に入っている可能性もあろう。

さて、縄文草創期の隆起線文土器が北部九州に入ってないかという話からはじめよう。かつて、古文化談叢52集2005に、生意気にも隆起線文土器として旧嘉穂町の小野谷に所在する巻原遺跡出土の土器片を、観察の結果、細隆起線文土器の可能性ありとして報告し、さらに、過去、轟B式として報告された様々な資料中に、隆起線文土器が混在していないだろうかという事を記してみた。何ら感触はなかったがすっぽり抜けた福岡県内において爪形文まで出ているのに、まして、長崎にそのような草創期の資料が多々発見されているのなら、福岡県内にもその可能性はあろうかと考える。遠賀川下流域では、柳又式の有舌尖頭器が出土し、立岩では神子柴系の局部磨製石斧も出土している。さて、土器はどうしたのかな。
 報告した、巻原より若干下流域の低段丘から刺突文、条痕文、格子目の押型文の破片が得られている。おそらく、その一帯は少なくとも縄文早期前葉には集落の進出があった事は明白である。その中に、逸早く隆起線文土器あたりから居住が開始されているとしたらどうだろう。しかし、古い石器は確認されていない。見落としとも思えないが、今一度石鏃あたりから探してみようと思っている。その前に、刺突文土器等の資料紹介を考えているが、なかなか暇がない。ただ、面白いのは、巻原遺跡出土の刺突文土器の表面を飾っている格子状の条痕文が、勘高遺跡出土の条痕文の文様となっていて、そこに共通点が見出せることである。東九州の条痕文土器に格子状に重なる類例はないだろうか、早期初頭に登場するとすれば、刺突文も含めて、草創期の押引文あたりに突入できたらと考えている。

勘高遺跡で思い出したが、黄褐色系のシルトのような層が広がっていた。原田遺跡でもその層は存在した。おそらく、洪積世の堆積物と判断したが、勘高遺跡ではそんなことは微塵も考えられなかった。今考えるとレスと呼ばれる黄土の堆積層ではなかったかと、後悔している。勘高遺跡に近い藤右ェ門畑遺跡(段丘堆積層)の上層から押型文や塞ノ神式がオレンジ色の火山灰土(アカホヤ層)から検出されたが、その下層は礫層でレスの堆積は見られなかった。もしかして、礫層の下に隠れていたかもしれないが、そこまでの掘り下げはしなかった。

 過去から近年、最近まで目に触れた本や論文等から、私なりに感じたこと、思ったこと等をささやくように記したいと思います。
 
 石井浩幸氏の「山形県西川町月山沢遺跡出土石器群の検討」山形県埋蔵文化財センター紀要第3号 2005を読んで。
 1980年に山形県教育委員会によって発掘調査が成された槍先形尖頭器と細石器が出土した当遺跡を重要視され、石器群の出土状況と組成について検討を加えられいる。当遺跡の発掘調査は、私が大学2年の夏休みで初めて参加した旧石器の遺跡であり(当時は先土器時代と言ってたかもしれない。)、調査期間は10日から2週間くらいだったと記憶する。
 1日目は機材搬入と雨の中の草刈で、地元から三人くらい作業員のおじさん達が来ていた。2日目からベンチマークの移動とグリッドの杭打ち作業で、三日目から発掘に入ったと記憶する。後にJ遺跡とされる地点が最も高い位置にあって、調査区候補となるが、墓地であったと言うことでかく乱があり、短期間調査ではよりプライマリーな状態であるやや低くなった平坦地が中心となった。グリッドを開けていきながら、遺物集中地点を探し、拡大化していく方法で、時間節約のためグリッドも『のように全体の3/4を開けて確認していった。確か、私が一番に槍先形尖頭器に当ったと思うのだが、それが、Bブロック第5図12で、一部にアスファルトが付着していたと思う。当然、その周囲から拡大化していくという方法をとった。
 ついに、Bブロックに槍先形尖頭器が集中して出土することとなる。石井氏は第11図に出土状況の写真より復元された石器の配置状況を示され、デポの可能性を指摘されている。当時、確かに集中して出土したがデポという意識は誰も持ち合わせてなかったと思う。また、出土した位置や方向に対する考えも固まっておらず、出来るだけ出土した状況を押さえればという平凡な考えである。実は、せっかく石井氏が復元された石器集中状況であるが、石器はおじさんが掘り出したもので、現場経験がある人は分かるであろうが、通常、初心者は掘り上げてしまうもので、スタンプを残してという考えはない。石井氏には申し訳ないが、石器類の方向性については、あまり信用できない。ただ、写真5の大形石槍手前に角の丸い石があるが、台石ではないかと疑ったものである。
当時、元位置論盛んなりしころで、様々な細かい作業が関東の旧石器現場で行なわれていたようだが、地方はその比にあらず。極めて短期間の調査では、そこまで厳密な作業は行ない難し。また、初心者の作業員さん達とあってはなおさら困難である。その辺りご注意願いたい。
 次に、槍先形尖頭器と細石器の共伴問題であるが、自分達が掘っていて、伴出するとは考えていなかった。薄い包含層の中では確認は出来ない。これは、石井氏の記されている通りで、表土の下にソフトローム状の漸移層がありその下にハードローム層があるがね遺物は、全てソフトロームに含まれていたと思う。黄褐色の柔らかい層が終わり表面がやや明るく硬くなるとその下には何もない状況であった。それから、分布からすると槍先形尖頭器と細石器関係は、範囲を異にしていると考えていた。母岩の同一が見受けられないのは、そのようなところではないか、我々は若干の時期差をもって最後まで発掘を続けた記憶がある。Dブロック辺りから細石刃1片を掘り出したのは私である。出土直後から長さ的に裁断により短くなっている。あるいは、折れたものであったが、稜線と両脇のラインが平行で、細石刃と直感した。また、その辺りから三戸式?当時は田戸下層式と言っていたが、その土器片も出土している。D~Bブロックの間くらい、細石刃が出土した辺りから下方東側に急激に落ちていく地点であり、石片が多く混在するかく乱状の地点があった。時間が許せる限り掘ったが、まだ下に落ちていた。その中に細石刃が隠れていたかもしれないが、槍先はなかった。個人的に、デポという意見には、賛成しがたい。槍先形尖頭器と細石器の同時性は、月山沢では確認できないと考える。
 ちょうど、その頃県教委の阿部さんが山大の学生と弓張平を調査していた。その時は縄文が主に発見されていたと記憶する。いずれにしても、懐かしい思い出である。その後、加藤 稔先生や小田静夫さんが遺物を見に来ている。
 もし、石井氏もしくは彼と知り合いの方がこれを読んだら、知らせてください。


最近、アフリカにおける人類学バトルともいうべき、人類の祖先を求める壮絶な学者の戦いを描いたアン・ギボンズ著 河合信和訳の「最初のヒト」新書館2007を読んだところである。私はかつてルイス・リーキーのジンジャントロプス発見のドキュメントを中学時代に見て、また、ライフの「原始人」を読んで興味を覚えた。その後、アフリカの人類祖先探しの本は読まずにいたが、以前、ルーシーを読み再びアフリカに興味を持ち出した。自分は考古学だから石器類には興味を持っていたが、リーキーの時代石器と人骨との関係についてつぶさに調査がなされ、ホモ・ハビリスという石器を使用したであろう、現生人類に直結する人骨の発見まで発見されたというところで終わっていた。ところが、石器は200万年を越えず、人類はそれ以前から枝分かれしており、その証拠がアフリカ各地で発見されているという。また、遺伝子レベルからの捜索により分子時計ともいうべきタイムスケールから、現生人類に最も近い類人猿はチンパンジーで、それと枝分かれしたのが500~600万年という。私の記憶では180万年ほどであったのが、3倍ほども遡っているようで、名称もアウストラロピテクスからアルディピテクスやサヘラントロプス、オロリンといった耳慣れない名称が並んでいる。年代は500~600万年に近づいている。しかも、各国の大学や研究所、地元の博物館も加わって、それこそ、人骨戦争ともいうべき状況である。
 私の夢の一つに、旧石器の人骨探しというのが入っている。日本の風土気候からかなり困難ではあろうが、いつか、とんでもないところから発見される可能性がある。恐竜の化石がそれである。私の学生時代に日本から陸上恐竜の化石は発見されないであろうというのが大方の意見であったが、熊本の御船層から肉食竜の歯が発見されるや否や、全国に飛び火し、今や日本は様々な恐竜化石が発見されることで世界でも知られるようになって来た。何気ない発見が切っ掛けとなる事は多い。さしずめ岩宿はその典型例であろう。人骨はローム層で無理だろう。したがって、砂礫層や石灰岩洞窟やその近辺の土壌、つまり、酸性が強くない土質に期待するほかないであろう。これは、アマチュアに頼ったほうがよい。一度発見されれば、次々と見つかる事は予想がつく。やはり、動物化石がよく発見される地層を求める、これからスタートか。

 実は、旧嘉穂町鎌田原弥生墳墓群(県指定)から出土した中期前半の汲田式甕棺であるが、中細の最も古式の銅戈を副葬していたが、その下甕の口唇部に凹線文のような2条の窪んだ平行線があった。須玖式の古段階相当であるから、第Ⅲ様式に平行するのであろうが、注意すべき点と考える。他に甕棺の口縁部にそのような跡が見られるのか、単なる偶然か、興味あるところである。

 嘉穂地域に於ける弥生中期後半~末頃にかけて、立岩丘陵とその周囲に集住現象が見られるようである。その辺りを、今度、古文化談叢書いてみましたが、実証性にかけたものとなり、論文と言うより物語となってしまいました。5月頃の発刊だそうで、初稿を終了し明日送付します。

久々に書き込みます。下山先生の書かれた「北部九州における第四紀後期の地質とその形成環境」九州旧石器研究11号九州旧石器研究会2007を基本に、地形を読み取ろうと考えています。特に、段丘の高位・中位・低位を見分け、花崗岩台地とは異なる河川堆積から成立する地形を地図に書き込もうと思います。地質図とも言うべきものでしょうが、あくまで旧石器を見つけるための1歩です。
 当地は盆地であり、先生の書かれた内容では、福岡平野と筑後平野を題材とされていまして、当地は今ひとつ分からない。しかし、内容を見ていると福岡の糟屋方面との関連が見られる。あるいは、筑後との関係も見られ、ちょうど両者から借りてくればいいのかなという浅はかな考えを持っております。
 現在、調査された旧碓井の竹生島古墳の乗った独立丘陵は、まさに、高位段丘で標高56mほど、地元の人によればずっと下方まで赤土を主とするようで、予想は下方部がマサ土で上層に段丘堆積物があると考えていたが、それは外れたようである。赤土の礫層の上に赤色の土が堆積しているが、これは鳥栖ロームと考えられる。もちろん粘性があって礫等は一切含んでいない。その上に黄褐色のレス層があればよかったのだが、見当たらずじまいである。
 旧嘉穂町の下益にASO4が風化もせず暗灰色のまま3~4mの厚さで堆積しており、そこの標高が、やはり56m前後であり、ASO4が堆積した頃には、段丘がつながっていた可能性が考えられる。現在、下益付近では沖積地との比高差4m程で竹生島では10m以上となり、その西側に存在する低位段丘とは6~8メートルである。竹生島が独立丘となったのは、低位段丘形成の前段での河川浸食が原因と考えられるが、いつ頃と考えたらよいのか、それが判明すると、嘉穂盆地の低位段丘形成の時期がおおよそ判明するはずである。
 現在、ASO4が確認される場所をプロットしていくと、高位段丘形成時の様相が判明してこよう。確実なのは旧筑穂町の北古賀丘陵である。

3/1 新聞で長野の柳沢遺跡出土の銅戈と銅鐸の記事が記載してあったが、大阪湾型と九州型として紀元前2世紀に製作、紀元前後に埋納とあった。これは、新年代で記してあるのか、鎌田原遺跡出土の細形と中細は汲田式の甕棺に納まっていたが、それでは、汲田式はいつ頃になるのだろう。それと同時期のものが、鎌田原の木槨墓で、楽浪郡が紀元前108年、そこに存在する木槨墓の影響と朝鮮半島系の青銅武器の所持から紀元前1世紀頃と検討付けたのだが、何処まで古くなるのだろう。そうすると、中国からの直接的影響下による木槨墓となるが、どう考えればいいのかな。新しいC14の年代を見てみよう。

最近、中村修身さんから石庖丁に関するレポートの抜き刷りをいただいた。中村さんは、一貫して立岩石の庖丁製作所址とその製品の配布、あるいは分配に対して異論を唱えておられる。特に、遠賀川以東の北九州地域における各村々による製作を強調されている。ご存知の通り白亜紀後期の火山活動活発なりし頃の状況を示す下関亜層群に相当する火山系の岩石で、小豆色の凝灰岩を素材とする石庖丁等の石器が、飯塚市立岩遺跡群で専業的に生産され、北部九州のあちこちに搬出されたという、学会の定説的見解に対する反論である。

 この下関亜層群の分布は、遠賀川以東地域で福岡平野や筑後方面には見られないようであり、小豆色の石庖丁がその地域等で出土すれば、立岩製品かとおもわれるほどである。近年、遠賀川流域の各遺跡から石庖丁の未製品等が点々と出土しており、立岩オンリーでない事は、どうも真実らしい。しかし、点在する北九州地域での未製品が自村消費かそれ以上に製作し他地域へ搬出しているのかは見極めねばならない。

 中村氏のレポートで立岩を含め北九州域で出土した石庖丁等の未製品の一覧が掲載されているが、残念ながら点数が分からない。かつて、中村氏は地域相研究1991年版の中で飯塚市立岩地域出土石包丁と未製品の数を数えて1500点ほどの点数を示してある。ここに提示されているのはほとんどが採集品であり、正式に発掘されたものは極めて少ない。にもかかわらず大量の製品・未製品・欠損品である。とするなら、立岩遺跡群と呼ばれる範囲を完全に包括する前面調査すればどれだけの資料が得られたであろうか。どうも、弥生中期に集住という周辺集落からの移動であろうか、大拠点集落の形成が明らかとなりつつある。この立岩もそうであり、嘉穂地域各所の遺跡数減少に反して川島の川床の遺跡も含め、立岩丘陵一帯が一大拠点となったようで、その中心に石庖丁等の製作があると考えている。

 ちなみに、旧嘉穂町で相当弥生集落は発掘したが、未製品は1~2点くらいか、おそらく嘉穂地域は農業主体で、鎌田原や原田といった青銅器出土遺跡間で存在するが、石庖丁は作ってない。むしろ、北と南の筑後方面における小豆色の石庖丁に注目されよう。何故なら、遠賀川流域や北九州地域とは比べようもない広い平野を有しており、立岩の目がどちらを向いていたかである。ちなみに、甕棺は北筑後辺りから入ってきており、これが大きな交易の道と考えている。甕棺の分布から見ても嘉穂地域が東限であり、北九州や遠賀川下流域とは一線を画している。商売相手は、石庖丁を手に入れたくとも入らないが、裕福な耕地を有している地域を対象としなければ儲からない。財力を蓄積するには欲しい相手と取引しなければ意味がない。下関亜層群の分布地域との取引は懸命ではないと考える。
 立岩地区で注目しているのが、中期の石庖丁等の未製品等が採集される地点が、丘陵から丘陵下の下ノ方、さらに、川島の殿ヶ浦遺跡に見られる点である。もっとも、下ノ方等は中山平次郎氏から以降、十分に知られている。特に、中期の須玖Ⅱ式段階における遺跡群の拡充は目を見張るところがある。その辺りの嘉穂地域における遺跡数をグラフにすると遺跡数はかなり減少するが、立岩一帯は増加傾向にある。これを私は、石器専業体制確立とともに周辺から人々が集まる集住現象と推定した。
 笠置山周辺で原材料採集の状況は見られないとし、おそらく、川床の転石を採集したと考えられているが、つぶさに探したとは聞いたことがない。化石採集で山麓の平地に分け入ると頁岩の破片の山がある。そういったところを丹念に探す必要があろう。マムシと猪にはご注意。専業体制になると荒割り加工所があってもよいと考える。輝緑凝灰岩も質の良不良があろう。転石より露頭採集が効果的ではないだろうか。一度、そういう目で現地を訪れたいものである。 

 

九州の縄文・撚糸文

2007-11-04 09:42:27 | Weblog
 九州の縄文・撚糸文

 田川の添田で、撚糸文土器を見たがおよそ東日本のものとはかけ離れていた。しかし、突然に降って湧いたように撚糸による施文方法が出てきたはずもない。福岡市松木田遺跡では大量の撚糸文土器が検出されているようであり、柏原遺跡では刺突文土器とともに縄文早期の古層として把握されて来た。
 その中で、気になる点がいくつかあるが、まず、口唇部に絡状体圧痕を施すものが結構指摘されている。つまり、撚糸文の原体を口唇に押し当てていることになる。結果として、口唇には刻み目状の凹凸が生じることとなるが、この場合、口唇とそれ以下に施す施文とに意図的なものがあるのかどうかである。また、押し当てているのか、回転させているのかを見極める必要があろう。関東の井草式は口唇部が肥圧しそこに縄文を回転させている。大丸式は撚糸文でやはり口唇部に回転させて施文している。つまり、松木田の場合施文面が少なく原隊を押し当てたのか、回転させたかの判断は難しいと考える。また、原体を回転させると撚が中々見えないが、狭い面積の口唇に確実に施文するとしたら、片方の手で土器内面から固定させ指先で原隊を少し回転させると確実に、綺麗に施すことが出来る。その場合、撚糸の撚り明確に分かるように、以下にも押し当てたように見える。
 私が述べたいのは、絡状体圧痕と記載すれば、多縄文系のものと混同する恐れがあり、確実に押圧しているのか、それとも少し回転させているのかそのあたりよく検討していただければと思う。口唇の狭い場所に確実に施文しようとするなら、絡状体を押し当てて口縁部に乱れを生じさせるよりは、回転押捺によるほうが確実で綺麗な痕跡を作ることが可能である。
 柏原や松木田で思うのは、撚糸の間が実に密接している点と撚がよく見えないほど直線化している点である。おそらく、軸に密に巻く際に撚が戻るため節がかなり間延びしているのではなかろうか、しかも、コイル状というよりは、直線状に巻かれているため、斜方向へと条が走るなら斜位に回転させているのであろう。
 田川の添田で見た撚糸文はいかにも太い条で思わず撚縄文かと思ったくらいである。押型文土器と一緒のようで、器壁を両者が飾るものもある。福岡の縄文早期前半期の型式整理は、もう少し時間を要するだろう。

 古文化談叢52集2005に投稿した資料紹介の中で、撚糸文土器を1例挙げているがこれは条の中に縦に間延びする節が明確に観察できたため、1段のLを短軸絡状体として施文したものと考えている。撚が見えない場合lやrつまり0段のものをそのまま絡状体にとして施文する場合も想定されよう。
 17回九州縄文研究会 「福岡大会の九州における縄文時代早期前葉の土器相」という資料集を見ているが、福岡市柏原E遺跡(P91)の11と13は撚糸の末端がループ状につながっているように見えるが、どうであろう。しばしば、縄文の折り返しの部分が器面に接触するとユーターンするような連続性が見られる場合がある。最も、11は口縁部であるから、施文の連続でそのような文様になったのかもしれない。また、縄文もあるようで撚糸文より比較的薄い器壁のようで、口縁部内面に施されるものもあるようだ。表裏縄文との関係はどうであろう。
 続いて松木田(p72)の8は、1回の施文スパーンが短く不連続的で、他のものとは異なるような感じである。撚糸文は縄文に比べ軸があって回転させやすく、比較的長いスパーンの施文を可能としている。しかし、縄文は指先からせいぜい第2関節くらいのスパーンで、それをまんべんなくくり返すことで全体に施している。それと、条の乱れがもう一つ気に成っている。各条は一見撚糸文に見えるが、幅といい条間に見られる細い条など反撚の縄文を想起させるがどうであろうか。
 さて、北部九州の撚糸文の系譜は何処にあるのだろうか。近年、九州でも縄文晩期の大洞式がちらほら出土しているようで、かつて、近畿までといわれた東北系の土器は、今や九州に至っている。近い将来、関東の撚糸文土器群との関連が明確になってこよう。ひにくにも大規模開発のお陰であろう。
 
 縄文中期の船元式という型式の土器が筑豊でもちらほら出土する。話では撚の緩い縄文を回転押捺するという。しかし、中には、節がよく見えるものがあり1段撚のものというのは解るが、節の特徴に注意するものがあるようだ、それは節が細長く詰まった感じのもので、両端が尖っているように見えるものである。この場合、0段のものを2本以上の複数を撚るという、つまり、多縄文ということにならないだろうか、得てして条の幅が大きく感じるが、撚り合わせる0段のものの太さより、多条にするために自ずと縄が太くなるように思える。いかがであろうか。
 
 縄文を撚るには、ティッシュを裂いて使うのだが、早い話コヨリを作ればlかrが出来上がる。その時、コヨリを目先から正面、つのまり、横にして朝顔のつるが巻き登っていくように左から右に斜めに上がりながら回転していくのを時計回りのrその反対に右下から左斜め上に巻き上がっていくのがlである。rを二つに折って折り曲げた箇所をL方向に撚る。その時、撚りがほどけながら絡み合う。得てして巻が弱い撚りが完成するので、右手指先で2本のrを強く締めながらL方向に撚って行くと安定した1段Lの縄が誕生する。これはちょっとしたテクニックが必要であるが、中々に面白い。
 1段のLが出来たら観察する。反時計回りに植物のつるが巻くように上に登るのが分かる。そこで気をつける事は、縄の状態ではなく土器の表面に押し付けてあったり、転がしてあったりするところで、つまり、押圧すると縄の裏面が常に押し付けられることから、縄の見た目の節が左上がりででも圧痕は右上がりとなる。逆にRは見た目右上がりだが、圧痕は節が左上がりとなる。それを見るには、LとRの縄を鏡にうつせば、圧痕の招待がつかめよう。
 さて、このLとRを回転押捺させるとややこしくなってくる。押圧縄文の節は回転押捺によって条となる。1段の場合、節が転がってつくる条には節がない。無節縄文というものになる。しかし、条の中を観察すると繊維の縦線が見える。この繊維は、LとRに撚り合わされる前のrとlが出現しているのである。条の平行線に対して、繊維の方向がやや左上がりでであればL、右上がりであればRとなる。また、状の方向でも見ることが可能である。ただし、横に転がした場合と縦に転がした場合は、条の方向が変ってくるのでご用心。
 縦か横かは、条の中の節や繊維の状態で分かる。横の場合条に対して繊維の方向や節の出かたがたっている。縦に転がすと条に対して繊維の方向や節が寝ている。私の場合、回転方向を節などの状態で把握して、縦回転に方向を変えてみる。そうすると、Lは左上から右下に条が流れ、節や繊維はその方向にやや左上がりとなっている。Rは右上から左下に条が流れ、節や繊維は条に対してやや右上がりとなっている。これは、縄文を見るときの大前提となるので覚えていて欲しい。これが2段、3段となっても基本である。
 Lは二つ折りにして撚ると2段のRLとなる。その場合、圧痕は縄を見た目は、節が右上がりで、節の中に左上がりの小さな節が2つ団子みたいに入れ子となっている。横回転させると条は右上から左下に流れ、その中に節が出来る。節は1段のLが現れているのである。節の方向は条に対してやや右上がり、その節の中にはさらに繊維の方向が分かり、それはrが現れているのである。LRの場合は条が左上から右下に流れ、節は条に対してやや左上がりとなる。
 再度、気をつける事は縄文は回転方向によって条の流れが左右に変化するので、条と節の関係を確実に捉えることが基本となる。ちなみに、条が横に流れる場合は、斜度45度くらいで回転させている。

 多縄文
 通常、lやrを折り曲げて2本で撚るものが多いが、時として、lやrを3~4本撚り合せて一段の縄にする場合がある。また、一段のLやRを3~4本撚り合わせるものがある。この場合の特徴としては、節が詰まっていて細長く整然としている。LRでRがlを3本を寄り合わせたものとすれば、圧痕は右から左に細長い節が見られ、その節の中にRがあるが、通常2本の撚り合わせでは節の中2~3の入れ子化した小さな節が見られるが、多縄文の場合6個程度が見られる。さらに回転押捺させると左上から右下に流れる条の中に左上がりの細長く詰まった美しい節が見られるのが特徴である。この場合、何本のlを撚っているかは、条の中の節に何本かおきに同じ形の節が現れるので、特徴在る節から次に出現する同様の節の手前までを数えればその数が分かる。同じLRでもRが何本か撚られる場合は、条に特徴あるものがあるので、先の節と同様に数えれば何本のRを撚り合わせたかが分かる。
 それで気になるのは、筑豊でも出土する船元式の縄文に多条と思われるものがある。戸田哲也氏は、「縄文文化の研究」縄文土器Ⅲの「縄文」の中で、反撚りによる多縄文を原体としているものとして、船元Ⅳ式を示されている。確かに、節が細長く詰まったもので、節の両端が鋭利なものがある。これは要注意である。また、緩く撚った縄文を回転させたとするものがあるが、節がよく観察できないものである。しかし、粘土の乾燥状況により湿りすぎると節が流れてしまったり、逆に乾燥しすぎると節の表面だけが押捺され条と条の間隔が広く見えるものもあるので注意が必要である。
 
 反撚り
 反撚りという言葉が出てきたので、その説明に入る。これは、通常、LRLR、あるいはその反対にRLRLとくり返していくのが、縄文の正の撚りである。ところが、中にRRとかLLといったように同じ方向に2回撚ることがある。その場合、当然整然としてた縄にはならず、節が崩れたものとなる。しかし、以外に綺麗な文様を出現させ、原体は見事にしまって硬いものとなる。多い例としてはRRとかLLといった2段目の撚りの際に再び同じ方向に撚るものが多いようで、東北南部の大木式の中に円筒上層系の土器があって、上半部に施されたものを実測したことがある。反撚りを完全にすると、撚りが戻って前段の撚りがコイル状に巻き上がる形になる。しかし、実際はどこかに撚りが残っていて、長い節といったらいいのか、どこかに、撚りが現れてくる。RRとかLLは直前段反撚りと山内先生は記している。3段になるとRRLとかLLR、RLL、LRRということになるが、現れ方はそれぞれである。直前段反撚りの場合、節は1段目が状の中に出現するが細長く非常に斜めになっている。また、撚りのもどりが大きいほどその節は間延びして、条自体がねじれたように見える。その圧痕は多条文のように節の中に4つくらいの節が見られる。縦の回転押捺はLLの場合、条は左上から右下に流れるが、節は非常に立っていて、横回転に見える。RRはその反対に右上から左下に流れるがやはり、節は立っている。両者ともに条が明確ではなく、条の脇から別の条が現れる監事である。RRLとかLLR場合は、条が乱れて分からず、RLやLRがそれぞれ短い錠のうに見える。何か、芋虫の大群が這っているようにもみえ、面白い。
それに対してRLL、LRRは、条が明確で節は詰まった上体で美しく現れ、まるで、多縄文と見間違うようである。しかし、よく見ると多縄文より節が粗くそろっていない。また、RLLは右上から左下に条が流れ、LRRはその逆であるが、節が条に対してほとんど直角で正の撚りのような傾きが見られない特徴がある。
 戸田哲也氏は「縄文」『縄文文化の研究』5縄文土器Ⅲ 雄山閣1983の中で、1段の反撚りを2段目で正による縄文を関東の加曾利E式の末期に検出され、記載されている。実は、この本が出た頃に私も1段反撚りの縄文について書いた事がある。山形県埋蔵文化財調査報告書75集「水木田遺跡」1984の31ページである。この文章を書いていた頃に戸田氏のものを読み、あわてて、註として書き込んだ記憶がある。この報告書で縄文土器のほとんどを実測させてもらい、その時に、縄文の撚り方の手ほどきを受けたのであるが、九州に来てほとんど役には立っていないが、そのうち、撚糸文も含めてみんなで論議することがあろう。楽しみである。

 みなさんは、山内清男先生の「日本先史土器の縄紋」1979をご存知だろうか。実は、一度、東京の中野で行なわれた学会の場で販売されたことがあった。限定商品で当時1万円だったと記憶する。私の友人は購入したが、私は買わなかった。その時の後悔は山形県埋蔵文化財調査報告書75集「水木田遺跡」1984の整理作業でもろに現れた。私は、購入した人から借りては大学ノートに書き写した。コピーはもちろん使用することが出来たが、それでは頭に入らないと、毎日、少しずつ書き写したものが手元にある。その後、全集とともに文献も手に入れたが、この書き写したノートはある意味、私のちょっとした自信となっている。
 文様帯系統論という言葉をご存知かと思うが、わたしは、ゲジゲジとカエルとヘビとの関係を例え話として拝聴したことがある。食物連鎖のようにゲジゲジが最初に文様帯に登場する。それをカエルが食べてしまいカエルの世界になったかと思うとヘビが現れてカエルを食べてしまう。食べ終わったヘビは食べ物がなくなり、再びゲジゲジが出現しカエル、ヘビという繰り返しだというのである。未だに理解できないが縄文をやっている人だと解るかな。