大正12年12月27日は、虎ノ門事件が起きた日ですが犯人の難波大助は、元は、愛国青年で天皇主義者だった父親も国会議員と言う裕福な家の子供だったんですが共産主義にかぶれて摂政宮裕仁皇太子(廸宮裕仁)後の昭和天皇裕仁陛下が国会に出席する為に移動中を襲い白昼堂々皇太子を殺害しようとして大逆罪で処刑で父親が遺体の引き取り拒否した事件ですね。
此処で大逆罪(現在条文のみ残っているが削除と去れている)の概要を説明すると天皇 皇后 皇太后 皇太子 天皇の親王 皇太子の親王 天皇の弟 天皇の叔父(先帝の親王)と其の親王又は、王 天皇の内親王と皇族の夫を殺害したり殺害しようとした時に発動去れる刑罰で判決は、死刑のみ現行犯逮捕なので形式上裁判は、去れたが有罪です。
犯人の難波ですが死刑に成る迄ソ連共産党万歳とか無政府論を唱えていたと言うつまり混乱に託けてソ連に日本実質占領させよう日本を共産化させようとしたんですが単独犯と去れていますが摂政宮裕仁皇太子を暗殺出来ても直ぐに弟宮の惇宮雍仁親王(秩父宮雍仁親王)が皇太子と摂政宮に成りますので無駄だな。
何故愛国青年が共産主義にかぶれたのか不明瞭ですが共産主義の表向きの思想平等や融和に惹かれたのかは、不明瞭ですが実際ソ連共産党て共産主義利用した独裁国家で何処が共産主義だと共産主義唱えた学者等が絶叫する状態だったとかですが其れを知らないで皇太子襲撃大正天皇嘉仁陛下が執務不可状態で皇太子の裕仁殿下が職務代行していたが裕仁殿下も当時満年齢で22歳と言う状態だった為天皇の親王は、まだ若くて皇太子に繰り上げ去れても摂政職が出来無いので日本に混乱起こそうて言う事だったんですが大正12年関東大震災の年ですので政治も混乱状態摂政宮の皇太子が襲撃去れれば政治的混乱が物凄く起きる状態だったんですね。
裏にソ連共産党や全世界共産主義革命聯合が居た事が疑われています。
全世界共産主義革命聯合て戦後赤軍活動していた連中です。