幸希子の『あのね』

小学生のとき『先生、あのね』という冊子を担任の先生とやり取りした記憶があります。『あのね』で始まる気づきを綴ります。

自分の本当の願いを知る

2024年01月19日 | つぶやき
 普段、これと言って思い当たることがなくても
なんとなく心がどんよりして落ち込んでいる気持ちになったり
面白いことがあったりテレビでおかしい場面をみていると大声で笑えるのに
自分だけの時間や空間に一人でいると、無性に孤独感にさいなまれることってないでしょうか。

 そんなときは、まず、自分の心のモヤモヤをいくつか挙げてみる。
言葉に出してもいいし書いてもいい。思い出すだけでもいい。
そのとき、自分の気持ちはどんなだったか?

 すごく非力に感じた
 誰かと比べて落ち込んだ
 一方的に責められたようで腹が立った
 努力が足りないと自分を責めた
 エトセトラ・・・
そんな負の感情は、なにか自分が本当に願っていることにきづくための「お知らせ」なのかも。

 私がいま日常生活でモヤモヤしていることの一つに
もうすぐ80代半ばになる父の言動に、なにかしら「イラッ」とすることがあります。
足腰が弱くなっているから立ち上がる時にフラフラする父に
   「家の中だけでも体重を支えてくれる杖を利用したら?」
と助言したら、年寄扱いしないでくれ!放ってほいてほしいと返事が来るし
硬いものが噛めなくなってきているから
   「あらかじめお湯に浸してやわらかくしてから食べるといいんじゃない?」
と提案しても、いつもの味と変わってまずい、でも硬いと歯がかけそうで困る!!
…そんな感じで 平行線になり、結果「もう何にも言わんとこ」「知らんわ」に
なってしまいます。

 あるとき、そういう父の言動はどこからくるのかな、そして私はなぜ父に逐一言葉をかけてしまうのかな
と考えてみました。
私の中に若い時の父の姿が固定化されていて、どこかで「こんな年老いてあれもこれもできないという父をみたくない」という思いがあると気づきました。
 また、父を思って提案したり声掛けしているつもりが、いつのまにか「批判」になっていて
おそらく父自身も自分がなにかと若いころと同じように出来なくなっていることにガックリきているのに
娘からせっつかれるように「あーしろ、こーしろ」と言われて、自信喪失しているのではないかと思い至りました。
 父が私に直接迷惑をかけたわけでもないのに、勝手に「家の外で父が周りの人から迷惑がられたり疎まれたり
老人扱いされたら気の毒だから」って私目線で決めて、あれこれ言いすぎていたとわかりました。

 このエピソードは、逆もしかりなのです。
私も家族や友人、外で出会う見知らぬ人も含めた誰かから「~~したらどう?」「そこは遠慮してほしい」など
少しでも自分の考えと一致しない言葉をかけられると敏感に反応し、
人の何倍も落ち込んだり自分を卑下したりする癖がありました。
でも実は違くて、周りからの声掛けは私に良かれと思っていってくれることの方が多いのです。

 どこかで勝手に「私は周りから迷惑がられている」とか「いない方がいいのかな」って
思い込んでいたこともあったのですが、よくよく深堀りしてみると
私は自分の感じていることや価値観、良かれと思ってやっている行動の裏にある「やさしさ」に気づいてもらいたい
そういう共感を得たかったから、モヤモヤしていたみたいです。
本当の願いは「共感してほしい」「お互いに思いやっているんだよ」に気づいてほしい でした。



♡♡♡『あのね』♡♡♡

周りのみんなが いつも自分と同じ気持ちとは限らないよね
受け入れてもらえないって思ったときは なんでかなって
自分を悪者にしないで 相手の方の気持ちや立場になってみたらどうかな
そして なんで 自分はその人に「受け入れてもらえなかったこと」を望んだのか
立ち止まって自分の心にきいてみよう
意外と 単純な答えが 自分自身の中にあって
それに気づけたら かなり心が楽になれるかもしれないよ 


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