タクさん 歯科技工士 31歳 右105dB 左100dB 補聴器装用 (幼児期は90dB)
※ この記事は、NO.4でご紹介したzoom交流会のTさんについて再度詳しくご紹介するものです。
タクさんは、現在歯科技工士として活躍している。インタビュー時31歳、1児の父だ。高度難聴だが、療育開始は3歳ころだった。もっと早くから病院には相談していたが、診断にいたるのに時間がかかってしまった。1990年代はまだそういうことが珍しくなかった。高度難聴で療育の開始が3歳というのは、かなり苦しいスタートだ。3歳までというのは、母語の基礎を習得するためのかけがえのない3年間だ。お母さんは、看護師として活躍していたが、次男タクさんの難聴がわかって、仕事をやめ、療育に専念することにした。
そして私たちの療育施設に通うようになったが、納得しないと先に進めないタクさんに辛抱強く付き合うお母さんの姿を私たちはよく覚えている。タクさんは、従順なタイプではなく、主張がはっきりした子だった。
タクさんが大人になって、歯科技工士になって、歯型彫刻コンテストで優勝したとか、日本一になったとかの噂は、風の便りにきいていた。彼は、どんな風に成長して、どんな風に大人になり、どのように社会人になったのだろうか。タクさんは、お願いすると、インタビューを快く引き受けてくれた。今回久しぶりの再会で話をきくことができた。
【 タクさんのストーリー 】
<療育施設時代>
療育施設は友だちがたくさんいて、楽しくて楽しくて仕方なかった。夏祭りとか、キャンプ、和太鼓など行事も楽しかった。併行して通っていた保育園は、あまり配慮がなかったためか、楽しめなかった。療育施設の友だちとは、今でもたまに会う関係が続いている。
住んでいる地域の子供会にも入っており、母の根回しもあり、地域にも友だちがいて、みな幼児期から耳のことをわかってくれていた。
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療育施設時代には、私たちの記憶にも残っているエピソードがある。施設には、定期的に補聴器店の業者さんが出入りしていた。そして、子どもたちの成長につれて大きさが合わなくなってしまう、イヤーモールドというオーダーメイドの耳栓の型取りもしてくれていた。
小さいタクさんは、これにいたく興味を示し、業者さんが子どもの耳に注射器のようなもので、印象材を注入し、耳型を作る作業を毎回穴のあくほど見つめていた。ちょうど給食の時間だったが、食べるのも忘れて見入っていた。お母さんも、「給食の時間だから」とそれを制止することもなく、かれの興味を尊重していた。
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<小学校時代>
小学校は、一学年3クラスくらいの規模だった。地域の友だちと一緒に入学したので、耳のことをわかってくれる友だちに恵まれていた。入学前に母の働きかけで、小学校の全学年全クラスの椅子にテニスボールをつけてもらった。(難聴耳には、椅子が引きずられる音がうるさく感じる)
1年生から3年生くらいまでFM補聴器を装用していたが、先生の声だけきこえるモードを他のモードに切り替えるのが結構厄介で、段々使わなくなった。学習面は、わからないところは、家で母や兄に教えてもらった。幼児ポピーみたいな学習教材も利用していた。友達関係で悩むことはほぼなかった。
小4から地域のミニバスケットを始めて、そこの友達の中にも、耳のことをよくわかってくれる友達がいた。コーチも理解者だった。ことばの教室も通っていた。毎日日記を書いたりして文章の指導などをしてもらって、よかったと思う。
<中学校時代>
中学校は、小学校から一緒に入学する友達が多かった。全クラスに難聴の理解授業をしてもらったと思う。しかし、友達同士の会話の内容が段々難しくなって、会話についていけないもどかしさを感じるようになった。自分は耳が悪いから友達の輪に入れないんだなーと思うようになった。ついていけなくてわかったふりをすることもあったが、そうすると、トラブルの元になったりもするので、できるだけさっきなんて言ったの?とかなんの話をしてたの?と聞くようにはしていた。部活(バスケ)があるので、ことばの教室は行かなくなった。
授業は、どんどん内容が難しくなっていった。大学生のノートテイクやPC要約筆記などの支援を受けた。多分母が頼んだのだと思う。1年生の時は、特別扱いが嫌だったので、断っていたが、2年生になると、そうも言っていられなくなった。英語は本当に難しくてついていけなかったので、英語の先生に自分で相談し、放課後に個別に指導してもらったりした。
中学3年の時は、マンツーマンの塾に通って、受験はなんとか乗り越えた。バスケットボールで、声がかかった高校に入学が決まった。
<高校>
高校は、知っている友達は誰もいない状況でスタート。ほとんどバスケ部の友達とだけつきあっていた。バスケ部の中に耳のことをわかってくれる友だちがいた。
バスケットボール自体もきこえないことでやりにくい面も多々あった。きこえないことで、ゲーム中のまわりの状況の把握というものに制約があったのだ。
勉強面は、追試になると部活に参加させてもらえなかったので、追試にならないように必死だった。授業は情報保障は全くなく、よくできる友達に教えてもらって必死にテスト勉強をした。バスケと追試対策の両方をひたすらがんばった。
そして、進路を考えるに当たって、物作りをする仕事に就きたいと思った。物を作ることが好きで小さい頃は、大工さんになりたいと思っていた。知り合いがいた関係で歯医者さんに紹介してもらって歯科技工士の仕事場に見学に行ったり、義肢装具の仕事も視野に入れて検討した。結局興味を持った歯科技工士を目指すことになった。
専門学校も考えたが、情報保障がしっかりしている聴覚障害学生のための筑波技術大学の専攻科を選んだ。
<歯科技工士を目指して>
筑波技術大学の専攻科で3年間歯科技工の勉強をした。クラスの仲間は8人だった。口話と手話の人もいれば手話だけの人もいた。そこで、手話だけを使う友だちと会話するために、手話も覚えた。それまで手話には興味がなかったが、手話を使えるようになって始めてコミュニケーションが楽しいと感じた。口話では、30〜40パーセントしか話がわからなかったが、手話だと100%わかって、やりとりが楽しいと思えた。卒業後はさらに勉強がしたかったので、鶴見大学の歯科技巧科研究科へ進み、そこで2年勉強した。そして歯科技工士として就職した。今勤続8年になる。これまで、歯型彫刻のコンテストで2回日本一になったこともある。
タクさんは、インタビュー時に自分で作成したパワーポイントで仕事内容やチェックシートの説明をしてくれた。
<歯科技工士として働いて 〜チェックシートで確実なやりとりを〜 >
就職して3年くらいは、職場でのコミュニケーションに悩んだ。上司の指示を聞き間違えることもあった。皆マスクをしていて、マスクをされると、話が読み取れなかった。復唱するやり方は、やはり何度も聞き直しが必要だったし、書く方法は上司に大きな負担がかかった。
上司の指示を聞き間違うことで、やり直しになり、時間を無駄にするという失敗経験を通して、どうにかしたいと思った。そこで、自分でチェックシートを作成し、上司がそこにチェックを入れることで指示を正確に自分に伝えられるようにした。上司にとっても負担なく、指示が楽に正確に自分に伝えられるようになったし、自分も聞き間違えることによる労力の無駄もなくなった。今では、スムーズに仕事ができている。
同僚との日常の会話では、スマートホンのワード機能で会話を文字変換して、コミュニケーションに役立てている。無料だし、変換も比較的正確なので、自分はこれが気に入っている。
専攻科時代からデフバスケをしているが、今は、その試合で出会ったデフバスケ選手の奥さんと2歳の男の子の子育て中だ。お子さんをとても可愛がっていて、子煩悩ぶりを発揮している。
<インタビュー後のオンライン交流会で>
タクさんのインタビューの動画を公開後、ライカブリッジの話し合いで、たまには、直接質問する会があってもいいねということになり、タクさんと話す交流会をオンラインで設けた。当事者や保護者、支援者から質問があった。そこでのやり取りを紹介する。このブログのNO.4でも紹介済みだが、もう一度載せておきたい。
【質問】 自分のきこえについて自分で説明する力はどのようにしてついたのですか?(保護者、教員)
(タクさん) 小さい頃から母に「きこえないことを自分で説明しなさい」とずっと言われて育った。しかし成長するにつれ、母に反抗するようになり、うるさいから口出ししないでくれと言うようになった。中学校くらいから、母は何も言わなくなった。何も言わないので、逆にやばいと思って、自分でどうにかするしかないと思った。
きこえたフリをしても自分のためにならないと思い、できる限り自分で説明した。初対面の人には、自分で補聴器を見せ、「自分はこれがないとほぼきこえない」ことと、「補聴器をしていても聞き間違うことがあるからよろしく」と説明した。聞き取れない時は何度も聞き返したりした。
聞き間違えて、笑われた時は嫌だったが、そこで引っ込まず、もう一回、もう一回と聞き直した。
【質問】 我が子はろう学校に行っている。外では、どうしても母が通訳してしまう。我が子は自分のことを人に説明する機会がないなと改めて思った。(保護者)
(タクさん)困るのは自分だという認識が大事だと思う。あと、コミュニケーション手段はいくらでもある。手話だ、口話だという前に、相手に通じるように工夫する気持ちがあれば通じることを学んでほしい。
【質問】 小さい時に好きだった「もの作り」が職業に活かせたことは素晴らしい。(保護者、支援者)
(タクさん)自分は、負けず嫌い。自分の強みを生かしてがんばれるのは何かと考えた。事務関連の仕事は好きになれず、自分の武器はなんだろうと考えた結果、歯科技工士の仕事を見つけた。歯型を作成することにとても興味があった。好きなもの作りが生かせる仕事だった。
【質問】 タクさんの子育てについて(支援者)
(タクさん)息子はもうすぐ3歳で、70dBくらいの難聴がある。家族の中では、全員手話と口話を使っている。来春からは、都内の特別支援学校幼稚部に通う。色々見学したが、手話と口話を両方使うところを選んだ。自分は、3人兄弟の真ん中だったが、自分以外の家族はきこえていて、口話で話すが、自分だけききとれない状況に劣等感を感じていたので、それは、自分の息子には味合わせたくないと考えている。家族の中のコミュニケーションを大事にしたい。そして、将来的には、きこえる人と一緒に働けるようになってほしい。
交流会はいつも行っているわけではないが、このようにみんなで質問させてもらうことで、より深掘りできるメリットがあるなと感じた。また、タクさんは、交流会に参加していた大学生の当事者Kくんにも、声をかけてくれて、終わった後もラインで繋ぐことも承知してくれて、さまざまな助言もしてくれたようだ。まさにLike a bridgeな仕事ができたなと思い、うれしかった。
<あとがき>
タクさんは、自分だけききとれないという劣等感を感じながらも、その中で自分の強みは何か?を真剣に問い、これだと思う物を見つけたら、そこで努力し、さらに腕を磨き、とうとう自分の強みをフルに活かしている。
聞き間違いを笑われながらも、何度も聞き返し、就職すると職場では、自分でチェックシートを編み出して、自ら職場環境を改善している。
昔家族の中で感じた疎外感を息子には味合わせたくないと、家庭の中の家族のコミュニケーションを大事にする道を選んでいる。100%わかる手話の大事さを痛感している彼の選択は意義深い。どれをとっても、一つ一つの経験をプラスに活かす前向きな姿勢を感じ、胸を打たれる思いだ。
しかし、やはり思い出すのは、幼児期のお母さんの一生懸命な姿だ。高度難聴で発見が遅れたといのは、初めは誰でもかなり苦しい思いをする。ことばの発達も少し難航していた記憶がある。しかし、自分の興味にまっしぐらな子にじっくり付き合い、彼の思いを尊重して子育てしていた。地域の中でも小学校でもまわりがわかってくれるように根回ししたのだろうと思う。タクさんが、中学校でお母さんうるさいから口出すなと反抗したのは、彼が真っ当に成長していた証だった気がする。詳しくはわからないが、お母さんは、思春期の彼の主張も尊重し、少しずつ手を離していったのだろうと推測する。
母には、本当に感謝していると、タクさんは、少しはにかみながら言っていた。
最後に、タクさんが5歳の時に書いたお母さんの手記の一部をご紹介する。(療育施設の保護者の文集「でんごんばん」より引用)
「・・・そのころの私は、仕事も充実していて、家事も育児もそれなりに両立できているつもりでいました。でも息子の難聴発見が遅れたことにより、親としての未熟さ、至らなさと今置かれている事の重大さに胸が引き裂かれる思いでした。・・・・しかし、納得しなければ前に進めない息子との付き合いに悪戦苦闘しながらも、療育の中で、色々な経験を親子で共有しているうちに、私自身が子どもとの毎日の生活を楽しむようになってきました。『難聴』を抜きにした、純粋な子どもの目、思い、そして成長につながる変化に子育てってなんて面白いんだろうと心から思えるようになっていたのです。・・・」
当時全身全霊でタクさんの育児に向き合ったお母さんの姿勢に改めて敬意を表したい。今タクさんが一生懸命子育てしている姿と重なるとしみじみ思う。