難聴のある人生を応援します @ライカブリッジ 

難聴のあるお子さん、保護者、支援者の方々に先輩社会人のロールモデル等をご紹介します。様々な選択肢、生き方があります。

社会人難聴者に学ぶ 〜みんなのヒストリー〜

 このブログの主な内容は、難聴児療育に長年携わっていた筆者が、成長して社会で社会人として活躍している難聴者についてご紹介するものです。乳幼児期に出会ったお子さんが大人になり、社会で経験してきたことについて知ることは、筆者にとって大きな学びのあるものです。難聴のわかりにくさを改めて感じることもしばしばあります。話を聞かせていただくうち、これは是非多くの方に知っていただいて、彼らの貴重な経験を活かしたいと思うようになりました。
 そして、これから成長して、学校に通い、自分の将来を考えようとする若い難聴の方々だけでなく、すでに社会で働いている方にも読んでいただき、難聴ならではの苦労だけでなく、生き方の色んな可能性についても知っていただければうれしいです。
 できるだけたくさんの生き方、働き方、考え方をご紹介することで、同じ悩みを発見するかもしれませんし、勇気を得ることも、共感できて励みになることもあるかもしれません。
   筆者は、ライカブリッジという任意団体で活動しています。ライカブリッジは、「like a bridge」(橋のように)難聴のある方々同士又は関係者同士を橋渡ししたいという気持ちで活動する任意団体です。筆者と難聴のあるお子さんを育てる保護者有志で活動しています。
2021年春から活動を始め、これまで12人の難聴のある社会人のインタビューを行い、それを録画し、zoomで共有したり、YouTubeの期間限定の配信をしたりしました。共有や配信の対象は、難聴のある小中高大生、保護者、支援者です。宣伝ややり方のアイディア、情報保障についてはライカブリッジの仲間と力を合わせてやってきました。
 <これまでのインタビュー> 
 これまで10人の社会人を紹介してきました。筆者がが幼児期に療育施設で出会った方々です。皆さん快くインタビューに応じてくださり、忙しい中、後輩たちの力になれればと協力してくださいました。
 1  37歳 看護師(中等度難聴)
 2  28歳 作業療法士(高度難聴)
 3  30歳 ウェブ制作 フリーランス(重度難聴)
 4  31歳 ろう学校教員(重度難聴)
 5  27歳 公務員(中等度〜高度難聴)
 6  28歳 劇団員(高度難聴)
 7  29歳 鉄道会社社員(高度難聴)
 8  39歳 会社員(重度難聴)
 9  31歳 歯科技工士(高度難聴)
 10 31歳 証券会社社員(中等度難聴→高度難聴) 
 11 29歳 保育園勤務経験8年 (重度難聴)
 12 46歳 手話講座講師 (高音急墜型難聴→重度難聴)

 今後もこのインタビューは続けますし、このブログにも紹介していくつもりです。社会人の紹介の他にも、たまに日々の思いなども綴りたいと思っています。
 今後、もっともっと社会に「難聴」についての理解が広がり、きこえにくさにちゃんと配慮できる仕組みが整っていくように願っています。
※ PC版では、左側に「メッセージを送る」があります。そこから筆者に個人的にメッセージが送れます。インタビュー動画がご覧になりたい場合は、メッセージから申し込んでいただければ、本人の了解を得て、申込者のアドレスに動画のURLをお送りします。どの動画か、また視聴希望の理由とアドレスを送ってください。ただし、視聴は、期間限定です。拡散せず、ご本人のみでご視聴ください。

NO.19 Kouさんの大学生活から

2024年12月08日 | 記事

 先々日、大学生のKouさんからラインをもらった。彼とは、幼児期の出会いだが、今も時々、zoomを使って構音などの相談にのったりしている。高度難聴と視覚障害の二重障がいがあり、補聴器と人工内耳を装用している。

 ラインには、彼が通う大学のWeb上の大学新聞の「障がい学生支援センター 誰もが学びやすいキャンパスを目指して」というタイトルの記事のURLが送られてきていた。記事を見ると、ドーンと写真が載っていて、なんと彼は写真のど真ん中で、サポーターの女子学生に挟まれて、ややはにかんで微笑んでいる。後ろにいるのは、大学教授や支援コーディネーターの先生だ。記事は、大学の障がい学生支援センターの紹介と障がいのある学生とサポートする学生のクロストークの紹介だった。

 クロストークで、Kouさんが障がい学生の代表として、サポーターの学生とやりとりする姿は、支援される側とする側が、にこやかに、かつ対等な感じで話していて、いい雰囲気が伝わってきた。

 もちろん大学側の宣伝的な役割も大きいのだろうが、Kouさんが、ポジティブな姿勢で支援を受け、意欲的にキャンパスライフを送っている様子が垣間見えて、うれしくなった。

 

 Kouさんは、難聴に加えて、年齢が上がるにつれ、徐々に視覚障害を併発している。最初にそれをきいた時は、ドキっとしたが、実際に大学生になった彼と話してみると、案外ケロッとしており、むしろこれからの大学でのゼミでの学びが楽しみで、興味津々といった感じで、その前向きな姿勢に感動さえした。

 大学の見学者に大学を案内するというボランティアも進んでおこなっていたし、大学学園祭では、学科の出し物の実行委員長も引き受けた。バイトもマックでがんばっている。どれも難聴があるだけで、尻込みしがちな活動だ。

 それでもやはり、見えにくいことは、あまり友達に言えなかった時期もあったそうだ。幼児期に一緒に療育施設に通った友達は、みな難聴単独だったこともあるだろう。彼が中学生の時、野球をしていて、ちょうど彼が守備していたところに、フライが飛んできたことがあった。しかし、彼の視野には、ボールが目に入らず、そのボールを受けることができなかったそうだ。ボールがきているのに、ただ突っ立っていた彼は、周りの友達にめちゃくちゃブーイングされたという。その時、やはりきこえにくさばかりでなく、見えにくさについても、ちゃんと周りにわかってもらわないとダメだなと思ったということだ。

 そういう出来事からちゃんと学ぶことを学び、よりよい方向に自己修正できるのが、Kouさんのすごいところだなと思う。今後は、大学のゼミで障がい者をサポートするテクノロジーの研究について学ぶことも楽しみにしているそうだ。私までワクワクする。

 

 きこえについても、全くきこえないわけではないがきこえないことも少なくない。視覚についても全く見えないわけでもないけど見える範囲が狭いという、なかなか説明が難しい状態でも、何かあるたびに大学支援センターと相談できるシステムは、非常に心強いことだろう。

 今の時代でも、支援が行き届かない大学もあるという。また、むしろ中学高校での障がいのある生徒への支援も未整備なところが少なくない。また、大学を出た後の社会での理解やサポートは、まだまだ十分とは言えないが、大学での経験が、サポートの必要性を訴えてゆく力になるといいなと思う。

 彼の活躍をずっと応援したい。

 

 興味のある方は、彼の記事ものぞいてみてください。

 

「AGU NEWS 特集  障がい学生支援センター

   誰もが学びやすいキャンパスを目指して」

https://agu-news.a01.aoyama.ac.jp/feature/302?utm_source=haihaimail&utm_medium=email&utm_content=mailid-419&hm_ct=0066de6af7b4ef70424c062001773290&hm_cv=e6d3f82a5918174e476263ade47cc07d&hm_cs=183053239764e45e8f0c29f5.45308491&hm_mid=m77j2&hm_id=m77j2&hm_h=a16.hm-f.jp


NO.18 あつさんの記事への感想をいただきました。

2024年11月09日 | 記事

 あつさんの記事は、あつさんが子育て談義の会でたくさんの難聴児保護者と交流があったこともあり、大勢の人が読んでくださり、また感想を寄せてくれた方々も長文で送ってくれたりした。

 中には、なぜあつさんが補聴器の装用を中止したのか、なぜあつさんが声を出さなくなったのかについて、そうだったんだ〜となぞが解けたような心持ちになった方もいたし、その生きる姿勢を選択した経緯に感動もしたという人も少なくなかった。

 保護者と当事者の感想の一部をぜひご紹介したいと思う。

 

[あつさんと子育て談義の会で交流した保護者(難聴社会人の母)より]

 

 こんばんは。

 ブログ、何度も読みました。なんだか胸がいっぱいになってしまって・・・。

 初めて療育施設であつさんに会った時のことを思い出しました。

 これから(難聴の息子を)どうやって育てていけばいいのかすごく不安な中で、たくさん質問してしまって、それでも嫌な顔をせずに丁寧に答えてくれたことを覚えています。家がすごく近いことを知り、お互いの家を行き来したり、個人的な話もたくさんして、私にとっては心の支えになっていました。

 難聴を正しく理解し、この子にあったやり方を工夫していけばなんとか育てられるかも、と前向きになれたのは、あつさんとの出会いがあったからだと思っています。

 子どもが大きくなり、会う機会も段々少なくなって、たまに会ってもなんか思うところがあるのかなと感じてはいましたが、完全に声を出さない生活になっていたとは知らなかったので、正直驚きました。

 私もあつさんに負担をかけてしまっていた一人かもと思うと、申し訳ない思いです。

 そして難聴というのは、本当に理解してもらうのが難しいのだと改めて思いました。頑張って努力して上手く振る舞えば振る舞うほど、相手には大丈夫と思われて配慮がなくなってしまう。せっかく流暢に話せるのに、そのせいで自分が苦しくなってしまうなんて、どうすればいいの?と思ってしまいます。

 そんな中で、声を封印して手話の世界で生きると決めたことを、すごいな、かっこいいなと思いました。

 我が息子も話せてしまうことで聞こえていると誤解されて、会社の中で辛い思いをすることもあるようです。それでも自分は話せてよかったと今は言っています。

 これから更にいろいろな経験をして、自分の聴こえとどう向き合っていくのか、どんな選択をしても応援していきたいと思いました。

 貴重なお話をありがとうございました。

 

[高度難聴大学生の母より]

 

 今回の難聴ヒストリー、拝見させていただきました。

 あつさんがとても大変な思いをしてきて、その中で様々な選択をして今に至るという過程、様子がよく分かりました。

 締めくくりにもありましたが、インタビューをお母様が読んでくださったらどんなに良かったでしょう。でもきっと天国からあつさんの様子を微笑んで見ていらっしゃると思います。

 難聴児教育については素人で何も意見できませんが、何を選択してどう教育するかで生き方まで変わってしまうということ、親と子の考えが変わってきた場合にどういう選択をするべきなのかを改めて考えさせられました。

 大学生にもなると親の出番?も少なくなりますが、しばらくは子供の様子をしっかり見ながらいつでも相談に乗れる存在でありたいと思います。そしてどんな選択をしてもいつでもそれを応援していける存在でいたいと思っています。

 今回も貴重なお話しをありがとうございました。

            

[年長難聴児の母より]

 

  あつさんのインタビュー記事を拝読しました。ありがとうございました。

 わが子も100dB近い聴力の高度難聴で、人工内耳適応のギリギリのところ・・。今はほぼ音声での生活を送っています。母としては、お友達の話が分かるように、みんなに自分の話を分かってもらえるように、つい発音をきびしめにチェックしてしまいます。しかし母といえど、子どもの聞こえ方や集音の苦労を実感として分かってあげられるわけではないので、いつも正しい、適切な育て方は何なんだろうと考えてしまいます。答えはひとつではないですが、あつさんの体験談のように、こんな風に感じていたというお話しを伺えることはとても参考になり、本当にありがたいです。

 わたしは今、家庭内では音声と手話の両方を使うよう心がけてはいますが、がんばれば聞こえる・しゃべれるので、発音の矯正等にうるさくなりすぎかもしれません。

 今回は、本当に大切なことは何か考えるとても良い機会になりました。いつか本人があつさんのように、自分で心地よい環境を選べるよう、サポートできたらいいなと思います。音声の世界も手話の世界も身近に感じられるよう育て、どちらをどのように選んでもいいのだと思ってもらえたらいいなと思いました。

 

[難聴中学生の母より(デフバスケットであつさんに世話になった中学生の母)]

 

 何度も読ませて頂きました。

 先日、優しくて面白い素敵な方と(デフバスケットで)出逢えたと家族みんなで喜んでいたのですが、辛い過去を乗り越えた今があるのだと改めて気付いて、胸が痛くなりました。だからこそ、強くて格好いい人なんだと家族で言い合いました。

 ペンドレット症候群と言う言葉も初めて聞いたので、参考になります。我が子も、めまいがあるので情報としても有難いです。

 20代半ばから補聴器装用中止。30代半ばからは声も中止。この決断をした背景は想像も出来ません。

 親として、我が子がこの決断をしたらと思うと又、胸が痛くなります。必死に関わって来た今までを否定された気になるかもしれません。

 それでも、自分の生き方は自分で決めるべきだと言う部分では共感しますし、素の自分で居られる世界が発見できて良かったです。

 我が子にも、認められている自分・存在意義を感じられる場所が見つかればいいなぁ。

 これから、高校・社会人と進んで行く我が子。周りの配慮が無く、コミュニケーションがとれずにやるべき事がわからずに苦労する場面が出てくるのは目に見えて居るので、そこにどう対処して行くのか、今後の知識や経験から、学んでいって欲しいと思います。

 『家族で、ママだけが分からないと言う状況が無い様に手話の配慮』という部分を読んで、最近我が子に対しての配慮に欠けて居たなぁと気づきました。雑談の様な会話の時は我が子は会話に入れずにシーンとしていたなぁと。それが家族の中で当たり前の光景になっていました。反省です。

 先日のデフバスケでは、初めての場所で緊張していた我が子にたくさん声をかけてくださり、優しくて面白いお姉さんのイメージでしたが、沢山のことを乗り越えた今なんだなぁと、益々、大好きになりました。

 デフバスケも又参加させて頂きたいです。

 ありがとうございました。

 

[子育て中難聴当事者(お子さんを療育施設に通わせている難聴当事者)]

 

 あつさんの内容を読みとても私にとっても感慨深い内容となりました。

 確かに音声で楽な部分や聞こえる相手には話すには音声で合わせやすいといった所はあります。けど、それに慣れちゃうと、相手もそれに慣れてしまってずっとそのままになってしまい、その先もずっと疲れるのは自分です。

 ろう者と出会うと自然と声出さなくて手話だけになる自分もやはりどこかにいます。それは安心と楽しさも心のどこかに感じているなと薄々思っていました。

 このあつさんのブログを読んでやっぱり私もそうなんだと気付かされました。子の通う幼稚園でも、療育園でも、聞こえる親が中心は当たり前です。そのコミュニケーションの輪にスムーズに入れるかといったらそうでもなく、気を遣いながら自然と気を合う人見つけては話しやすい聞きやすい人と一緒にいたりします。なので、ろう学校の乳幼児相談へ行くと自然と話せて変な気を遣わない自分もいて、聞こえない人同士で話すとすごく気が楽な場所となり、やはり大人になった今もそのような場所やコミュニティーは必要だなと思います。そのような居場所をやはり子供のうちから作ってあげて知っていくことでいろんな道も開かれ、手段も増え、アイディンティが様々につくられていくことの大事さを身にしみています。

 

 今回のあつさんのヒストリー内容も面白かったです。家族たちがとてもあったかいなあと。私たちも同じ聴覚障害を持ったファミリーだけど聞こえ方もコミュニケーション方法もバラバラ。けどやっぱり共通できるものは手話✨また次回も楽しみにしています。

 

[あつさんと仲の良い友達の当事者(デフアスリート)]

 

 インタビュー記事読ませてもらいましたよ!

 もう・・・

 途中まで私の生き方を見てるんじゃないかってくらいに、自分の事のように読んでいました。

 

 K先生が、子どもたちが上手に話せるようになるのにやりがいを感じていたけど、子どもたちが聞こえにくさに困る場面への想像力が足りなかったと反省したように、私の母も育て方について悩んだこともあっただろうなぁと読みながら自分の過去の出来事を回顧していました。

 私はやはり完璧に発音ができるわけでもなければ、手話も完璧にできるわけじゃなくて。口話ができればすごい!と褒められて結局は配慮方法を間違われることも度々あって、一時期なんでこんな中途半端な子に育てたの?って母に対して思ったこともありましたし、母にぶつけたこともありました。しかし、成長するにつれて色んな事情を理解するようになってからは口には出せないと、自分の中で消化しようとする場面が増えてすごい苦しんだことを特に思い出していました。

 口話も結局は、誤解されるから初めから口話だけでなく手話を併用してきこえないアピールを分かりやすくしようとしますが、そのような事を日々色々と考えるのも疲れるよなぁと。

 けれども、これまでの自分の生き方を後悔したこともないし、口話ができることで、きこえる人に歩み寄りやすいので、良かったと思います。母は私のしたい事や選択を尊重してくれましたし、今では一番の良き理解者です。私の障がいを理解して仲良くしてくれる友達も近くにいたので、私は恵まれていたのだとも思います。

 

 手話もできる限り使うようにしたいと思い、聾者が出ている動画を見たり、テレビを見たり、デフコミニュティに積極的に入ったりなど自分なりに表現力を磨く努力をするようになりました。これも、20歳の時にデフリンピックの日本代表に選出されたのがキッカケです。以前は手話をすると、これまで聴こえる人に負けないように育てられ、努力してきた自分を否定することになると思っていましたので、手話は自分に必要のないものと思っていた当時に比べたら、断然肯定的に捉えられるようになってきています。

 

 今の時代は幸いにも、難聴者に対する理解も進んできて何も言わなくても、分かってくれる場面が少しずつではあるけれど、私の中では昔に比べたら増えてきたなぁと思っています。

 

 これも、自分だけの努力ではなくて、あつさんのようなお姉さんたちが苦しんだ分の、恩恵を受けていると思います。

 私も後輩たちが少しでも生きやすいように、これからも何故?と疑問に思ったことは放置せず口に出していきたいですし、デフアスリートとして活動している今、社会に向けて聴覚障がいへの理解が進むように、私の障がいに対する向き合い方等を発信し続けていきたいとも思っています。

 

 また、デフに関する様々なアイデンティティが混在するデフスポーツの世界では尚更、全てのデフアスリートや関係者にとって、デフスポーツコミュニティが拠り所でいられるようにしておきたいなとも思います。 

*************   *************  ***************

 

 他にも支援者の方々からの感想もいただいたが、今回は、保護者さんと当事者さんのをご紹介した。感想は、みなあつさんにも読んでもらった。彼女は、感想を読んで、インタビューを受けて本当によかったと思ったと連絡をくれた。彼女にとってもこのような形で半生を振り返ることができてよかったとのことだ。

 しばらく連絡がとだえていた人も彼女と連絡が再開したりして、当事者同士、子育ての仲間同士、色んな方々の橋渡しができて、私自身とても嬉しい気持ちになった。

  聴者、難聴者、ろう者の3種類の生き方があるのではなく、それぞれに様々な生き方がある。そして、それぞれの生き方に到達したそれぞれの歴史がある。お互いにお互いの歴史や違いを理解するのは、容易ではない。でもこれからも、一人一人の生き方を尊重し、それぞれがお互いの生き方を尊重できるような姿勢を持ち続けたいし、そういうことができるきっかけを提供できたらいいなと思う。

 

 

 


NO.17 私の難聴ヒストリー⑫ (手話講座講師 あつさんの場合)

2024年10月19日 | 記事

あつさん 手話講座講師、紆余曲折ありの半生、きこえる旦那さんときこえる娘さん、息子さんとの4人家族、46歳

  現在は左右ともに100dBスケールアウト。(幼児期は500Hzまでの低音は、中等度並みの残聴があり、高音域1000Hz以上は高度難聴並みの高音急墜型の難聴だった。)。3歳から補聴器装用。 小学校4年生時に大幅に聴力悪化。20代で補聴器装用を中止。手話を自分のコミュニケーション手段とした。たびたびめまいに悩まされてきた。大人になってからペンドレッド症候群であることが判明。聴力低下やめまいの原因が分かった。

 

少し前置きが長くなる。

 私が難聴児の療育施設(当時の難聴児通園施設)に入職した時、あつさんは、丁度療育施設を修了し、小学校に入学していた。従って、彼女と私はすれ違いだった。療育施設の診療所の耳鼻科の定期受診の時に会っていたので、顔と名前は知っていたくらいの関係だった。その後あつさんが高校生くらいの時、療育施設の保護者勉強会で経験談を話してくれたことなどがきっかけで、話をするようになった。

 彼女は1980年代の「聴覚の最大限の活用」「インテグレーション(障害のある子どもがきこえる子どもと一緒に教育を受ける)」が難聴児療育の大きな目標だった時代に幼児期、学童期を過ごした。

 まだ「情報保障」とか、「障害理解」とか「合理的配慮」などの、環境整備の発想は乏しい時代だったし、増してや、本人のアイデンティティについての配慮もほとんどなく、「先生の顔をみて」「先生の話をよくきいて」などの、とにかく「きこえる友だちに負けず、よくきいて」という、どちらかというと本人個人の努力を鼓舞する雰囲気が強かった。

 補聴器もまだアナログ補聴器で、彼女のような高音急墜型の聴力へのフィッティングには限界があった。高音急墜型の聴力は、平均聴力にした数字(500Hz+1000Hz×2+4000Hzを4で割ったもの)では、きこえの実際のところはわからない。主に高周波数が担う子音の情報が乏しいので、音への反応は良くて、呼べばすぐ振り向いても、ことばの聞き分けは難しいことが多い。

 あの時代に苦労した子どもたちの話をきくことは、私には実は少々つらい。私もまた、あの頃、「よくきいて」と鼓舞した療育者の一人であったことは間違いないからだ。

 

 あつさんは、20代半ばから補聴器装用を中止し、人とコミュニケーションを取る時は、基本手話を使用している。30代半ばからは、人と話す時は、声の使用もやめている。私は、深い話を手話のみでやりとりするほど手話に堪能ではない。それもあって、彼女のことは気になりながらも、インタビューの申し込みは、躊躇していた。しかし、ラインが使えるようになってからは、時々お互いの子育てのことや、友だちと会ったこと、ろう者の考え方などについてやりとりしていた。ラインでは、文字によって自由にやりとりできた。しかし、インタビューする自信はなかった。

 今年の夏休みに、彼女が参加しているデフバスケットボールチームに、ある難聴の中学生男子を紹介したことがきっかけで、彼女に私のこのブログのことを紹介し、彼女のインタビューを打診した。彼女は、快く承諾してくれた。このブログにも興味を示してくれて、全部読んでくれたようだ。

 それで、私が心配していたインタビュー方法について話し合った結果、いつものようなzoomでのインタビューを録画しての公開は、しないことになった。「直接会ってインタビューする」「1対1で」「動画は公開しない」「ブログで公開」という条件で、それならインタビュー時に「声」を使ってもいいよと言ってくれた。

 あつさんは、現在、社会生活では、「ろう者」として手話のみでコミュニケーションを取るが、家庭(夫、娘、息子はきこえる)では、音声でも話す。それは、家族はあつさんは「話せる」が、「きこえない」ことをちゃんと理解しているからだ。家族はもちろん手話もできる。今回、家族以外の私に「特別に」音声を使ってくれることになり、正直に言うと、それは本当にありがたく、助かった。

 私は、知っている限りの拙い手話でがんばり、時々筆談し、口の動きも見せた。しかし、さすが手話の講師、彼女は、私の言わんとすることをよく読み取ってくれて、それも助かった。間違った手話も訂正してくれたりした。そして、雑談を挟んではいたが、密度の濃い4時間近くにも及ぶロングインタビューとなった。協力してくれた彼女にとても感謝している。

 

 

 

【 あつさんのストーリー 】

 

< 幼児期 >

 3歳で難聴が分かった。低音域が比較的きこえていたので、音への反応自体はよく、難聴の発見が遅れたようだ。4歳から療育施設に通った。療育施設の個別指導はあまり面白くなかったのだが、みんなで給食を食べたり、廊下を楽しく走り回ってよく叱られたという記憶はある。幼稚園にも通った。幼稚園のことは、ほとんど覚えていない。しかし、母の記録では、友だちはつけていない補聴器を、自分だけつけるのは嫌だと言って、幼稚園バスに乗るのを拒否して、母を随分と困らせたらしい。

 

< 小学校 >

 地域の小学校に入学した。小学校入学にあたり、何か配慮があったかというと特にはない。ただ、座席だけは、前から3番目と決まっていた。席替えは皆と同じようにしたかったが、一度も参加させてもらえなかった。外で遊ぶ鬼ごっこは、逃げ回っているうちにいつの間にか終わっていて、いつ終わったか誰も教えてくれなかった。だるまさんがころんだなども、きこえていないことが多く、多分うまくは、やれていなかった。そんなもどかしい感じの経験が多かったように思う。

 小学校4年生の時、めまいと共に聴力が大きく低下した。最悪の時には130dB(おそらく高音域)だったが、最終的には110dBになった。3ヶ月ステロイド治療した。めまいが治らず、学校を半年も休んだ。結局聴力が低下したまま、小学校生活が再開された。

 初めは、自分が色々なことをきこえずにいることをそこまではっきりと認識していなかったかもしれない。授業も自分だけがわからないとは思っていなかった。しかし、順番に音読が回ってくるような場面では、どこを読んでいるかがわからず、ん?みんなはわかるのか?といぶかしく思っていた。自分が話すとくすくす笑う子がいて、なぜ笑うのかわからなかった。今思えば発音が多少、人と違っていたことで笑われたのかなと思う。勉強は、成績優秀な8歳上の姉に教えてもらっていたが、姉妹では遠慮がなく、よく喧嘩していた。

 テレビの「8時だよ!全員集合」は、話していることは全然わからなかったが、動きだけで面白く、楽しめた。「ドラえもん」はちゃんと見ていたが、ドラえもんが、ポケットから色々な道具を取り出すことは、わかっていたし、それなりに面白いと思っていた。登場人物の動きを目で追うことで、なんとなく想像して分かったつもりになっていた。しかし、ある時、学校で友だちが、ドラえもんのストーリーについての話で盛り上がっているのに気づき、ドラえもんにストーリーがあったんだ!!と知り、心底驚いたことがある。その時の衝撃は、今でも覚えている。そのようなことがあって、小学校中学年頃には、段々と、もしかして私って、自分が思っているよりきこえてないの?と思うようになった。

 小学校時代は、友だちはほとんどいなかった。先生が「二人組になりましょう」と言った時は、必ず私が一人あぶれた。友だちの会話から単語を拾って会話に参加してみても、なんか通じなくて、変なやつという目で見られていたと思う。話しかけても無視されることも少なくなかった。自分でもきこえないことは、ネガティブに捉えていたので、補聴器は髪の毛でずっと隠していた。5、6年生の時は、学年女子で一番足が早かったので、それでみんなに注目されていた。リレーの時は期待の星だった。それでかろうじて、「認められている自分」「自分の存在意義」を感じていた。

 ことばの教室は、縦のつながりが強く、劇発表会などで上下の友だちと共に過ごす時間がとても楽しみだった。難聴児を持つ親の会のキャンプ、スキー合宿でも、ことばの教室の友だちと楽しく過ごした。ただ、ことばの教室の個別指導の先生(6年間担当)が厳しい先生で、とてもこわかった。指導内容は、50音の発音の練習をしたり、絵を見てことばで説明するというようなことだったことを覚えている。その先生がこわくて、指導中にトイレに行くと言って、ことばの教室の職員室に逃げこんだこともあった。職員室にいる先生たちは、とてもやさしくて、心の拠り所になっていた。

< 中学校 >

 中学は、クラス替えの時の最初の自己紹介の時だけは、自分から「きこえないので、ゆっくり話してください」とお願いした。しかし、それ以外の配慮を求めるようなことはしなかった。部活は、バスケットボール部に入り、中1からレギュラーだった。バスケ部では、一人、周りの状況を教えてくれる友だちができた。口を大きく開けて話してくれた。そんな友だちとは、1対1では、なんとか会話ができたが、チームでの話し合いでは、その子もすべてを伝えることはできず、やはりついていけなかった。すべて口話だけだから限界があった。書いてもらうということは、その頃は思いつかなかった。

 その頃、中学校はひどく荒れていて、特に同級生は大荒れだった。毎日どこかの窓ガラスが割れ、他校とのけんかがあり、給食の配膳台が2階から落とされたこともあった。その頃の私は、家では母親が厳しく、学校では人とコミュニケーションが取れず、かなりストレスがたまっていた。そのようなタイミングで校内の先輩の不良に声をかけられたのだった。集団の中で、はみ出して孤立している私の様子を見て、声をかけてきたのだと思う。その先輩たちは、特に難しい会話をしてくるわけでもなく、私をすんなり仲間に入れて、かわいがってくれた。授業に出ずにベランダで過ごしたり、たばこを吸ったり、バイクに乗せてもらったりした。一時でも「受け入れられている」という心の拠り所となった。

 本来なら、保護者に連絡がいくはずだったが、先生の手が回らないのか、私が不良とつるんでいることを母親が知っている感じはなかった。ある日、その先輩たちが、夜の10時にバイクをブルンブルン鳴らして、「これから遊びに行こうぜー」と誘いに来た。母は、私の腕を掴み、きっぱりと「やめなさい」と止めた。そこで、私はハッとして、もうやめようと思った。母は、厳しかったが、やはり母の愛情は感じていた。その後先輩たちに深追いされることもなく、一緒に行動することはなくなっていった。

 学校での友だちとのコミュニケーションがうまくいかず、疲れ果てて、高校はろう学校に行きたいと親にお願いした。しかし、それは受け入れてもらえなかた。両親には、音声の世界にいることを強く求められた。多分私の「将来のために」だったのだろう。公立高校は受けられるところがなかったので、私立の高校に入学した。

 

< 高校時代 >

 入学した高校の先輩に、小学校時代、ことばの教室で一緒だった先輩がいた。次の年には、下の学年にことばの教室の後輩も入ってきて、心強かった。中学校の時は、補聴器を髪の毛で隠し、友だちにきこえないことをいちいち伝えていなかったが、それは、結局自分の首を絞めることになったので、高校では、その姿勢をリセットして、自分からきこえないことを言おうと思った。そして、ちょうどその頃、テレビで「愛していると言ってくれ」というドラマが流行り、手話ブームが起こっていた。高校でも手話が流行り、手話や指文字を覚えてくれる友人もできて、会話がちょっと見えるようになり、段々楽しくなってきたのだった。

 自分でも埼玉県の「難聴者・中途失聴者手話講習会」に参加して、一人で手話を学び始めた。週1回、1年間通った。とても楽しかった。初めてコミュニケーションが楽しいと思った。それでも、その頃はまだ、自分が手話に逃げているというという一種の後ろめたさを感じていた。「きこえる人たちの中できこえる人たちと同じように」という呪縛からは、なかなか解き放たれなかった。

 

< 予備校・母の死・就職 >

 高校時代もめまいと聴力の変動が頻繁に繰り返されていたので、国立身体障害者リハビリテーションセンターの耳鼻科によくかかっていた。そのセンターで理学療法士が訓練室で訓練する姿をよく見かけて、かっこいいな、将来あんな仕事がやってみたいなと思っていた。そこで、高校卒業後に理学療法士の専門学校に入るための予備校に入った。

 その予備校で今の夫に出会ったのだった。遅くまで残って一緒に勉強をしているうちに、付き合うようになった。彼の存在が心の支えになった。

 その予備校に通った年に母が病気であることがわかった。そして、病気が見つかって10ヶ月で帰らぬ人となった。あっという間のできごとだった。母が51歳、私が19歳の時だった。予備校と病院に通ったが、その頃のことは、断片的にしか覚えていない。それほど、衝撃的な突然の出来事だった。母本人が一番悔しかっただろうなと思う。

 予備校では、病院体験というものがあった。その体験で、そこの患者さんとコミュニケーションを取ることが、絶望的に全くできなかった。まわりの人たちは、楽しそうにコミュニケーションを取っていた。自分も話すことはできたが、高齢者の言っていることが全くわからなかったのだ。どうにもならなかった。そのことがあって、理学療法士への夢は、諦めざるをえないと悟った。

 次の道をさがすことになった。母が以前、建築関係の仕事をしていたので、その影響で、建築関係の専門学校に行くことになった。2年間、何の情報保障もない中で勉強した。そして、障害者雇用というものも全く知らずに、一般雇用で建築関係の仕事についた。その頃、就職に障害枠というものがあることや、障害者年金のことを知らなかったのだ。きこえる人の中で、きこえる人と同じように過ごすことが当たり前という流れできていた。

 仕事の内容は、具体的にいうとCADオペレレーターという仕事だったのだが、会社がブラック企業だった。残業続きの忙しさの中で、まわりの人たちも常に締め切りに追われて余裕がなく、コミュニケーションもうまく取れなかった。やるべき仕事の内容の説明がわからなくて苦労した。そして、1年半くらい勤めたところで、まためまいの発作を起こし、救急搬送となった。そしてそのまま入院し、そのまま仕事は退職となったのだった。

 その入院で全介助を受けた経験から、介護職に興味を持つようになった。コミュニケーションに支障があるのに、自分の中では、人と関わる仕事がしたいという思いが強かった。介護職にチャレンジしようと思った。体調がよくなってから、まず介護施設でボランティアを始めた。50人くらいの入所者のいる介護施設だった。入所者は、言語障害がある方、脳性麻痺の方など、主に話すことに障害のある方々だった。表情や様子を読み取ることは、自分の得意なことだった。初めは、施設長は、難聴があるということで、私を雇うことには、消極的だった。私は、そこでボランティアをたくさんやり、認めてもらえるようにがんばった。スタッフは、私のために手話を覚えてくれた。人間関係に恵まれた。

 そこでなんとか認められて、2年間介護の仕事をした。スタッフは、難聴を理解してくれた。たとえばみんなでごはんを食べに行った時、私から離れたところで、会話している人同士も手話を使ってくれた。私が会話に参加していないのに、なんで手話を使っているの?ときくと、ここで何の会話をしているかが見てわかるでしょ?と言われた。それには感動した。そういう配慮をしてもらうのは、本当に「初めての!」ことだった。

 

< 結婚と子育て >

  予備校時代に出会った彼と23歳で結婚し、介護施設に2年勤めたところで、妊娠がわかり、退職した。夫とは、19歳で出会ってから、コミュニケーションのことで何度もけんかした。きこえる彼には、結局わかってもらえないんだと思って、別れを切り出したこともあった。彼は、きこえるきこえないということと関係なく、「私という人柄」が好きなんだと言ってくれたが、私は、きこえないところは、私の一部だから、それも含めて、「きこえない私」をちゃんと受け止めてほしいと思っていた。結局彼は20歳の時に手話講座に通って、手話を学んでくれた。

 今でも、夫とは、コミュニケーション上のすれ違いがないことはないし、けんかもあるが、長い歴史を経て、色々なことを一緒に乗り越えてきた。それが今の信頼関係に至っていると思う。夫も、娘も息子も私の理解者でいてくれる。

 子育てでは、親子のやりとりで、手話を中心にやりとりが形成されるようにがんばった。

 子どもたちは、きこえる子たちなので、自然と音声言語を学ぶだろうが、母親との関係では、「見る力」を育てるために手話でのやり取りを大切にした。音声で働きかけると音声で返ってきてしまうので、5、6年生になるまでは、母親が手話じゃないとわからない人だと教えるために手話で育てた。

 例えば、今、家族4人で食事をしている時は、全員が手話を使う。子どもたち同士の会話、子どもと夫の会話は、普通に音声で可能だが、私がいる時は、私にもわかるように手話で会話する。口話も混じるが、私だけわからないという状況がないようにしてくれている。トイレに行く時も、きこえる人だったら、音でトイレに行ったなということがわかるが、私にはきこえないので、娘などもいちいちトイレにいくねと伝えてから行く。

 時代の変化もあるのか、授業参観や保護者懇談会で母親が手話通訳をつけても、子どもたちが友だちから偏見を持たれることもなく、むしろ「手話ができるのすごい」と言われたようだ。大人になってから、きこえない母親であることを恥ずかしく思ったことはあったかと尋ねたが、あまりそう思うことはなかったそうだ。

 そして今、娘も息子も大人と言われる年齢に達したが、母である私にすごく話しかけてくる。特に娘は話したいことがたくさんあるようだ。よい関係が築けていると思っている。私自身、子供の頃に家族のコミュニケーションには入りきれず、寂しい思いをしているので、とても気をつけている。また、子どもの自主性を尊重して育てている。これもまた、子ども時代に、不本意ながら母の指令に従っていたつらい思いの裏返しだと思う。(母が「私のため」を思ってくれていたのは、承知しているが。)

 

< デフバスケットボールのこと・アイデンティティのこと >

 少し話が前後するが、19歳の時デフバスケットボールを知り、そのチームに入り、たくさんのろう者と出会うようになった。そこで、人とのコミュニティを広げていくのなら、手話によって広げることが自分には一番いいのだと気づいた。23歳ころには、段々と「ろう」というアイデンティティが形成されていった。23歳の時、補聴器をはずして生活することを決めた。

 手話で意思疎通がはかれることが増え、楽なコミュニケーションが増えた。小さい時から分からないことを悟られないようにしてきたため、性格もトゲトゲしていたが、だんだん丸くなったように思う。手話の世界では、素の自分でいられる気がした。肩の力が抜けて、楽になった。音声の世界ではずっと自分が無理をしてきたことに気づいた。ずっとそうしなければならないと思っていた。35歳くらい以降は、声を使うと口話で返ってくるのが、わずらわしくなり、家庭の外では、手話のみで過ごすようになった。

 

< 子育て談義の会 >

 娘と息子の子育て中、育児仲間が欲しかったのと、自分の経験を活かしたいという気持ちもあって、子どものころに通った療育施設の難聴のお子さんを育てているお母さんたちと子育て談義の会を作って、定期的に集まって色々な悩みなどを話し合った。私にとっても子育てのあれこれを話すよい機会になったし、お母さんたちも、私のような大人になった難聴者の話をききたいと思ってくれていたようだ。

 この会には、9年くらい参加した。手話をつかってくれるお母さんもいたし、私もまだ声を使っていた。しかし、徐々に人の口話を読み取ることに疲れてきた。私の話は声を使えば、十分に楽に相手に通じたが、それに比べて、口話で話す人の話を私が読み取る苦労は、かなりの労力だった。エネルギーが違いすぎて、不均衡なコミュニケーションだと感じるようになった。子育ても一段落したのもあり、段々と参加しなくなった。子育て中は、とてもお世話になったし助けていただいたと思っている。この会は、現在もまだ続いているようだが、私が声を使わない手話のみの人になってからは、自然と付き合いが減っていってしまった。もちろん今でも会えば懐かしい仲間であるが。

 きこえる人たちとの付き合いが減ることは残念だったが、自然と楽な方を選ぶようになった。素の自分でいることが心地よく、無理をするエネルギーもなくなっていった。

                                                                                          

< 再就職 >

 上の娘が中学生、下の弟が小学校高学年になった頃、社会福祉協議会の臨時職員としてろう者の相談員を始めた。なかなか大変な仕事だったが、それなりにやりがいを感じてやっていた。6年続けたが、責任もある仕事で、めまいも時々生じた。上司の女性は、きこえる方だったが、日本手話の上手な人だった。仕事上の指導も日本手話で行われた。日本手話は、ろう者の伝統的手話だが、その人の日本手話は、すっと映像が浮かんできて理解しやすかった。注意や指導を受ける時も「わかる」ことはうれしかった。自分でもオンラインなどで日本手話を勉強した。

 そして、今は、その仕事もやめて、手話講座の講師をしている。需要があれば応ずる感じで、今くらいの仕事量が身体にとってもちょうどよいと感じている。めまいも減った。子育ても一段落し、生活することが楽になってきたと感じる。ただ、まだ子どもたちの学費もあるので、もう少し仕事を探そうかと考えている。

 

< 後輩の方々に伝えたいこと >

  自分がどういう状態でいることが、一番自分らしく、生きやすいかを自分に問いかけながら生き方を探してほしい。私の場合は、つければ少しはきこえる補聴器を外した。声を出せば周りが楽かもしれないけど、その分自分の労力や負担が大きく、声を使わないという選択に行き着いた。手話第一で生活することが自分にとって一番生きやすいと知った。周りから見ればなぜ?と思うような選択でも、これが私の選択と胸を張って選択すればよい。自分の軸をしっかり持って人生を歩んでほしい。自分の生き方は、人に評価されたりして、決めるものではない。

 これまで、たくさん悩み、苦しみ、もがいたおかげで周りの人たちも、私の生き方を受け入れ、肯定してくれるようになった。そして、自分も人に対して、その人が持つ考えや、感情を肯定的に受け止められるようになった。そのことが、自分が一番人として成長した点だと思っている。

 

 

< あとがき 〜インタビューを終えて〜 >

 

 インタビュー時の彼女の発話は、以前と同様、特に力みもなく、自然でクリアで分かりやすかった。長年、耳を使っていないと、発話は徐々に歪みが出てくるものだが、彼女は驚異的に流暢な発話を保持している。それゆえ、ずっと話していると、やっぱり途中で彼女が全くきこえないことをふと忘れそうになった。そりゃあ、分かりにくいよね、と思った。流暢に話す人と会話していて、その人には「目から」しか話が入らないことを忘れないようにするのは難しい。きこえる私たちは、話かけられたら、反射的に声で反応する。それは、ほとんど反射レベルと言ってよい。

 彼女が「話す」ところを公開したくない気持ちに至ったことは、彼女のこれまでの半生の中で、流暢に話すことで、どれだけ誤解され、どれだけ疲弊してきたかを物語っているのだと思う。彼女は音声でのやりとりは、社会的には封印したのだ。その決断は、たやすくできたわけではなく、悩み、苦しんだ挙句に「コミュニケーションでこんなにも苦労するのは不当だ」「手話でのコミュニケーションは楽で楽しいと思える」「だから私は堂々と手話で生きてゆくことを選んでいい」と思い至ったのだろう。そういう彼女の決断を私は、今は尊重できるし、彼女の経験した大変すぎるコミュニケーションを思うと、申し訳なくいたたまれない気持ちにさえなる。しかし、白状すると、私も10年前くらいまでは、え?何で話せるのに話さないの?なんで声出せるのに出さないの?小さい時に親御さんが苦労して身につけてくれた力なのに?なんで?私たち療育者の苦労はなんだったの?と思っていた。

 あつさんが子育て談義の会をやめたころ、「もう口話を読み取るのに疲れた」といい、話すこともやめると伝えてきた。音声を使わない生活がすごく楽だと気づいたそうだ。それまで驚異的に読話できる彼女にいつも感嘆していたが、確かにそれは、彼女の聴力を考えると、しんどかっただろうなと改めて思った。

 特にあつさんは、初めは、特に低音域は比較的よくきこえていて、聴覚から言語を習得したが、途中で重度難聴となった。一気に聴力が低音域が90dB前後、高音域が110dB程度に悪化しても、いきなり発話の様子が変わるわけではなかった。ここのところが難聴の難しいところなのだ。つまり、「そこそこきこえていて、上手に話ができる」状態から「上手に話ができるがきこえはかなり厳しい」状態に大きく変化したのだ。小学校中学年で、彼女が抱えることになったコミュニケーション上の大きな困難さは、なかなか急には家族や周りに理解されにくかったのだろうと推測する。加えて彼女は読話力(口を読む力)が人並み以上に優れていた。それで精一杯きこえをカバーしてきたのだ。

  さらに、当時は、将来、きこえる人の社会に参加するのだから、少しでもきこえる人に近づけるように努力させるのが子どものためという考え方が主流だった。少なくとも「耳が使えるなら」「話せるならば」そうすべきだという考え方が圧倒的に優勢だった。

  かくいう私も、初めはそう考えていた。が、成長する子どもたちの様子を見るにつけ、その考え方を徐々に修正していった歴史がある。初めは、高度難聴でも、補聴効果がそこそこあれば、しっかり指導して、音声言語を身につけ、お話も上手にできるように育てることが言語聴覚士としての腕の見せ所だと思っていたが、途中でそれはちょっと違うなと思うようになった。難聴児療育の目標は、「言語力を育てる」ことは外せない。しかし、特に読話に大きく頼らざるを得ないくらいのきこえの場合は、読話の力をほめている場合ではない。不十分なきこえを読話で補うことの労力に思いを馳せ、その人が参加する集団生活の中で楽しい楽なコミュニケーションが保障されるにはどうすればよいか、どんな方法があるかを考えなくてはならないのだ。

 上手に話せても、わいわいがやがやの楽しい雑談には参加できず、つい、わかったふりもしてしまい、分からないことを悟られないように無理している場合が多いのだ。そのことに気づき、彼らが集団生活の中でも居心地よく過ごせるためにはどうすればよいかという問題にも向き合わないと、難聴児療育・教育は、完全に片手落ちだと思うようになった。

 私たちは、「きこえるか」「きこえないか」ではなく、「楽にきこえるか」「きくことが大変なのか」「きくことに努力を要するのか」または、「どうすれば楽にきけるか」「どうすれば、楽に情報を得られるか」「どうすれば、周りの理解を得られるか」「その人の楽しいコミュニケーションとはどのようなものか」という観点を常にもたなければいけないのだと思う。

 

 2000年以降、人工内耳がどんどん普及してきて、現在では、高度難聴で補聴器で聴覚口話法でがんばるというケースは激減している。あつさんのように途中で聴力が悪化しても、その時点で人工内耳という選択肢が示されるようになってきた。また、同時に手話も、今はもっともっと自由に選べ、自由に学べる時代になってきている。初めから口話も手話もと両方に目を向ける親御さんも増えてきている。

 これからも時代は、絶え間なく変化してゆくのだろう。私たち療育者は、子どもたちの何を育ててゆくのか、どう育ててゆくのかについて、大切なことを見失わないようにしていかなくてはならないと、改めて思う。

 

 大人になってから、あつさんに人工内耳を装用してみる気はないかと尋ねたことがある。

 彼女の答えは、きっぱりとNOだった。完全にきこえるわけではないなら、もう中途半端にきこえる苦労は、二度としたくないと。私は手話で生きるのが楽しいからよいと。

 

 自分の半生について、真摯に語ってくれたあつさんに深くお礼を言いたい。

 このインタビュー記事をあつさんのお母さんにも読んでもらいたかったなと思う。彼女がちゃんと自分の生き方を自分で選択し、幸せな家庭を築き、しっかりと社会生活をしているところを見て、安心していただけたら、こんなにうれしいことはないのにと思う。


NO.16 わたしの難聴ヒストリー ⑪ (保育園勤務経験8年 りいさんの場合)

2024年09月03日 | 記事

りいさん 企業勤務→保育園勤務 29歳 右110dB 左113dB 右耳人工内耳装用

 

 りいさんとは、0歳代からの付き合いである。お姉さんも難聴だったので、ご両親がはじめからきこえを心配されていた。そして難聴とわかり、聴力はお姉さんとほぼ同じ、110dB程度であることがわかった。0歳代で両耳に補聴器を装用して、個別指導を開始したが、様子を見ながら療育を進めて、とうとう就学まで担当した。(お姉さんは、幼児期のうちにろう学校での指導を勧めた。聴力的には、通常は聴覚よりも視覚を重視することが多い。)  

 彼女は、聴覚も最大限使っていたが、読話も有効だった。言語力も育てることができた。しかし、補聴器での補聴には限界があり、1対1で、口形をしっかり見せての会話であればなんとか通じる状態だった。発音も慣れた人ならわかるという母音が中心の不明瞭なものだった。

 就学にあたり、ご両親は地域の小学校への入学を希望されたが、その選択をする場合、きこえる友だちとのコミュニケーションには、かなりの困難が予測された。そこで、まさにその頃幼児にも普及してきた人工内耳の装用を検討することとなった。そして、就学直前に人工内耳の手術を受けることになったのだ。

 その後、時々会って、様子を見せてもらったが、元々の聴力や6歳という手術年齢のこともあり、人工内耳のきこえを活用できるようになるには、何ヶ月もかかった。さらに何年かかかって、発音も徐々に明瞭になっていった。

 彼女の補聴器から人工内耳への変化に伴うさまざまな変化は、当時の私にとっても大いに学びとなった。しかし、人工内耳の装用効果とか、語音の聞き取りとか発音の変化などはわかっても、その後どんな生活を過ごしたかについては、断片的にしか知らなかった。今回のインタビューで初めてしっかりと教えてもらった気がしている。

 

【 りいさんのストーリー 】

 

<療育施設、幼稚園時代>

 

 療育施設には、0歳代(8ヶ月)から通った。友だちと楽しく遊んだこと、劇ごっこ、キャンプなど楽しい思い出がたくさんある。年中組から併行して通った幼稚園は、それなりに楽しんだが、劇、歌など難しいことが多く、ほとんど状況判断でついていっていたのだと思う。がんばりたいという意欲はあった。

 9歳上の姉が難聴だったので、自分が補聴器をつけていることは自然なことで、特に特別感は、なかった。姉は優しい、内気な性格だったが、私は、真逆のどちらかというと負けず嫌いの、強気の性格だった。

 就学直前に人工内耳の手術を行った。人工内耳の音が活用できるようになったのは、小学校1年生の2学期からだった。(片方の補聴器は、現在ははずしている。)

 

<小学校時代>

 1年生のはじめは、一番前の席で、FMを使っていたが、先生の声だけではなく、周りの友だちの声もききたくて、FMは使わなくなった。2年生からは、席替えも皆と一緒にさせてもらった。コミュニケーションも困ってはいなかった。しかし、今考えると、それは、母親がみんなに私の難聴について理解してもらうために、きこえについての説明のプリントを配ったりしてくれていたおかげかもしれない。母は、それだけでなく、手話のイベントを開催したりしていた。母のおかげで、私のまわりは、みなよくわかってくれる人ばかりだったような気がする。とてもまわりに助けられていたのだと思う。

 小学校時代は、楽しかった。友だちと遊ぶことがとにかく楽しかった。放課後は、団地の中で待ち合わせをして、みんなで遊びにいった。ことばの教室も100%わかる環境で、特にグループの時間(1年生から6年生の10人のメンバーがいた。)が楽しくて、楽しみにしていた。

 

<中学校時代>

 中学校(1学年4クラス)では、半分くらいは、別の小学校から来た生徒達だった。はじめに担任の先生が、「Oさんは、難聴があるから大きめの声で話してください」と紹介してくれた程度だった。同じ小学校から来た子たちは、ちゃんと続けて配慮してくれて、新しく出会った友だちに関しては、話しにくい感じはあった。新しい友だちは、普通にべらべらとしゃべるので、初めて友だちの話がわかんないなーと実感した。小学校時代のようなお母さんの手助けは、自分から、やらなくていいと断ったのだと思う。

 結局、説明しなくても、わかってくれる子たちと一緒にいたので、特に困る状況はなかった。別に全員にわかってもらわなくても構わなかった。でも基本、誰とでも仲良くする方だった。

 授業で苦手だったのは音楽だった。音楽の先生は、全く理解してくれなくて、反抗した。その先生の授業には出なかった。特に自分から説明もしなかったので、さぼっていると思われていたと思う。皆んなの前に出て歌うのは嫌だし、ソプラノとかアルトとかはわからないし、ピアノに合わせてと言われてもわからなかった。本当はちゃんと説明すればよかったのかもしれないが、年頃だったこともあり、反抗的な態度を取っていた。給食や体育はほとんど参加したが、気に入らない授業は出ないという勝手な行動をしていた。部活は卓球部で県大会にも出た。内申(高校受験での)のためにも部活は参加していた。

 中3になって担任になったのが新しい音楽の先生だった。その先生は、無理強いしないタイプで、「とりあえずやってみれば」と言ってくれた。それで、仕方がないので、みんなの輪に入って、本当に小さい声で口ずさむ感じで歌った。するとその先生は、「大丈夫だよ、音程も取れてるし、歌えてるよ」と言ってくれて、点数も普通にいい成績をつけてくれた。

 中3になって、この成績では高校受験で受けられる高校がないという状況になった。それで、個別の塾に行き始め、後半は、毎日学校へ通った。高校へは行かなくてはならないと思っていた。

 ろう学校は、選択肢にはなかった。クラスの人数が少ない状況は、嫌だったし、地域の友だちが好きだった。地域の友だちとは、今でも子連れで集まるくらい仲がいい関係が続いている。

 

<高校時代>

 それで、公立高校を受験して、無事合格したのだった。その高校を選んだ理由は、国語、数学、英語の主要科目が30分授業で、15人の少人数の成績別のクラス分けだったことだ。通常のクラスは40人くらいいたが、主要科目だけ少人数編成でやった。それと、文系、理系、スポーツ、保育、家庭とコースが細かく分かれていて、やりたいことを選ぶことができたことが魅力だった。そこで、保育に興味があったので、保育コースを選んだ。保育コースは折り紙とか、ピアノとか保育に専門的な内容で、楽しく学ぶことができた。

 主要科目の30分授業もわかりやすく、初めて勉強が楽しいと思った。今までわからなかったから勉強が嫌いだったんだなと思った。そこからちゃんと勉強するようになった。インフルエンザで休んだ以外、3年間無遅刻無欠席だった。単位が取れないと卒業できないと思って3年間がんばった。

 高校は、誰も耳のことを知っている友だちはいなかったわけだが、はじめ一人か二人にだけ、耳のことを伝えたら、多分その友だちが、みんなに伝えてくれたのだと思う。それは、とても助かった。

 部活は入らなかったが、アルバイトはいくつかやった。3年生の時は、スーパーのオープニングのバイトを1年間した。惣菜やで、惣菜を詰めたり、並べたりしていた。スタッフみんな仲がよくて、みんなが助けてくれて、そこもコミュニケーションには困らなかった。

 2年生の時はマックでアルバイトをした。やはり特に問題はなかったが、遠かったのでやめた。マックは、今はよりデジタル化していて、文字情報が多くなっているので、もっとやりやすくなっていると思う。

 進路を考える時期になっても、特にやりたいことはなかった。保育園で保育士として働きたかったが、その頃は、きこえないと雇ってもらえない時代だった。(保育士養成学校の)オープンキャンパスにも行ったが、受験はできるけど、就職は難しいと言われて、資格を持っても仕事ができないなら意味がないと思った。障害者雇用という情報も全く知らなかった。地域の高校だと、そういう障害者雇用に関する情報が不足していた。ろう学校にも相談に行ったが、当事者や先輩の話をきくことはできなかった。

 

<就職>

 結局、高校の先生が障害枠で探してくれた会社を受けて、内定をもらったのだった。その会社がどういう会社かという理解もなく、自分のやりたいこともわからないまま、就職してしまった。会社での仕事は、基本事務仕事だったが、そこで、社会人になって、初めての挫折を味わった。自分がどこまできこえていて、どのくらいきこえないか、何ができて、何ができないかが、自分でもわかっていなかったことに気づいた。友だちとワイワイするコミュニケーションと、仕事でのやりとりは、違うものだった。ここで、初めて自分はきこえないんだなというのを実感した。耳からの理解が難しく、仕事の内容への理解も難しかった。自分にできることが何一つ伝えられなかった。初めての大きな挫折を経験したのだった。

 私は、しゃべっているけど、仕事の説明はうまく理解できないというのを、向こうもわかっていなかったのだと思う。会社の方も聴覚障害者の雇用は初めてだったし、高卒の雇用も初めてだったようだった。ここにいても、時間の無駄だなと思って、会社は、1年3ヶ月で退職してしまった。

 退職後、ハローワークに行って、障害者雇用で仕事を探した。やはりわかってくれるところがいいなと思った。どういう仕事ならできるのかということで、さすがに悩んだが、母も協力して一緒に探してくれた。そして母が、保育園の求人を見つけてくれた。そして、「やってみれば?」と背中を押してくれた。ハローワークの方から電話してくれて、保育園が「面接しましょう」と言ってくれた。保育士免許は持っていなかったので、保育士補助としての採用面接をした。小さな保育園で、園長がとてもフランクな人だった。あまり障害のことにこだわらず、「やってみれば?」という感じで話を進めてくれた。そして、お試し期間1週間で、採用が決まったのだった。

 

<保育園での仕事>

 保育園での初めの1年は、やはりコミュニケーションに課題があった。事務仕事とは違い、現場の仕事なので、コミュニケーションを取りながらの仕事だった。騒がしい職場だから名前を呼ばれてもわからないし、ミーティングもうるさい場所でのミーティングで聞き取れないし、何々だから行くよ、みたいな指示もわからなかった。なんでこの子はできないの?なんでやらないの?とまわりには、「仕事ができない子」と見られた。

 仕事ができないんじゃなくて、きこえなくてわからないんだと自分では思っていたが、1年間は、ちゃんと自分のきこえのことを説明しないままやっていた。でも、その仕事をなぜ辞めなかったかというと、その仕事が楽しかったし、自分に合っていると思ったからだ。

 就職して1年くらい経ったある日、同僚の一人に時間をもらって、話してみた。初めて自分の難聴について説明してみた。きこえてはいるけど、細かい部分はきこえていない。マスクしたまま話されるとわからない。話しかけるなら前に来て話してほしい。大事なことは紙に書いてほしい。ピアノはひけないし、リズムもわからないから、みんなの前でやりたくない。など、自分のできないことを初めて伝えた。

 すると、その話をした人が周りの人に伝えてくれて、少しずつ周りの理解が出てきたのだった。段々と周りの態度や接し方が変わって、会話ができるようになり、よりよく仕事ができるようになった。新しい先生が来た時も、自分から説明することもあるし、周りが説明してくれることもあるようになった。社会でのコミュニケーションってこういうことかと思った。プライドなんていらないと思った。

 説明すれば、周りの人はわかってくれる。そしてその前に「自分が自分のことをわかっていなければならない」ということをこの経験を通して学んだ。

 保育という仕事そのものについては、楽しかった。子どもは、それぞれ言いたいことやしたいことを、表情やことば、全身で表現して、それを見ているのがとても楽しかったし、かわいいと思った。子どもたちは、通じないとどうにかして伝えようとしてくるところが素晴らしい。だから子どもとのコミュニケーションには困らなかった。

 結局保育園は8年勤めたが、デフフットサルで知り合った人と結婚した。結婚して、子どもができて、退職した。夫は、小さい頃は6級くらいの聴力だったが、今は高度難聴で、口話も手話も両方できる。フットサルの選手をしている。家庭では、夫婦の会話は口話が中心で、補助的に手話や指文字を使っている。家の外だと、周りもうるさいし、お互い手話を使うことが多い。声も手話も読話もその時その時で使い分けている。

 自分は地域の学校育ちだが、夫は、幼稚部、小、中、高とろう学校で、大学も聴覚障害者のための大学だった。夫は、電話もできるのだが、目だけでフットサルをすることも、目だけで車の運転もできる。自分はと言えば、きこえない状態での運転は怖くてできない。人工内耳をはずすと距離感もわからなくなる。普段でも、人工内耳の電池が切れるとパニックになってしまうくらいだ。自分はかなり音に頼って生活しているなと思う。目や耳の使い方はそれぞれ違う。デフフットサルなどで、いろんな人と出会って、聴覚障害と言っても多様な人たちがいることを学んだ。

 今は子育てに専念している。二人の娘は、難聴で、一人ずつ療育に連れて行っているが、二人の性格がそれぞれ違って、面白い。今になって母が自分を一生懸命育ててくれたことが、よくわかる。母はすごかったんだなと思う。

 

<あとがき>

 りいさんは、赤ちゃんの時から、強気のお顔をしていて、お転婆で負けん気の強い子だった。お母さんの大きな愛に包まれて、すくすく成長したが、幼児期の成長を見ながら、私は、「気の強さは、エネルギーにもなるだろうが、もしまわりがきこえる子ばかりだったら、心が折れることもあるかもしれないな」と少々心配に思ったこともあった。

 人工内耳を装用の上で地域の小学校に上がった時も、会うと、「あのね帳」というのをいつも見せてくれて、自分がクラスで一番たくさん書いていると自慢していたのを覚えている。思春期には、先生に反抗したり、親御さんの介入を拒否したりしていたようだが、それは、彼女らしいなと思っていた。

 学校生活で耳のことで困ってることない?と会った時よく尋ねたが、「困ってない。全然大丈夫」というのがお決まりの返事だった。今回のインタビューで、初めて就職のことや仕事のことを詳しくきいたが、保育園での仕事を続けるために、自分の弱みー苦手なことを開示し、周りの理解を求め、「プライドなんていらないと思った」という言葉をきいた時、彼女の人としての成長の物語をきいた気がして、感動を覚えた。誰でも自尊心があり、それを大切にして生きている。彼女は、自分の弱みに気づき、それを隠すことではなく、正しく相手に伝えることで、本当の強さを手に入れたのではないかなと思った。ボキっと折れないで、好きな仕事を続けられる道を手に入れたのだ。

 また、「困ってない」というのは、まわりが「受け入れてくれている」、または本人が「気にならない」ということで、必ずしも、全く問題がないということではないと改めて思う。そして、特に社会では、本当の意味でまわりに受け入れられ、自分の思うように仕事ができるためには、まず自分の状況を自分が知り、それをまわりに自分で説明できることが大切なのだろうと思う。

 そして今、お子さんの療育に専念し、かつてお母さんが自分にしてくれたことに改めて気づき、感謝し、我が子をどう育ててゆくかを模索中なのだと思う。子育てすることで、新たに「生き方」に向き合っているのだと思う。きっと豊かな子育てをしてゆくことと、信じている。

インタビュー動画の視聴者の方々から感想を寄せていただいたが、それを匿名で彼女にも送ると、こんなメッセージが返ってきた。

 「感想ありがとうございます。拝見しました。言いたい事が伝わるか、言葉が足りなかったかなどと、不安でしたが、少しでも視聴者の方々に伝わったようでよかったです。このような素敵な機会をありがとうございます。

 自分が難聴児として育ったことと、難聴児を育てることは全く違います。難聴児を育てる機会がなければ、自分の育ちや、きこえ方、聴覚障害者というものにフォーカスして考えることはなかったと思います。・・・ライカブリッジはあるべき存在だと思います。インスタにも多くの難聴児ママが溢れていて、同じ悩みや不安を吐き出しています。なにかSNSを活用しながら発信ができればいいなあとふと思いました。・・ブログもまた楽しみにしています。」

 まだまだ30歳になったばかり、これからの彼女の人生を大いに楽しみにしているし、応援している。お子さんたちの健やかな成長と旦那さんのデフフットサルでの活躍も楽しみだ。

 

りいさんのインタビュー動画への感想(要約)

<当事者>

  • どの仕事をするにあたっても、必要に応じて、ある程度障がいの自己開示が必要だと改めて感じた。
  • 小学校の時、ペーパーを配布したことはよかったと思う。当事者としては、同級生への配布は個々人の希望ででもいいと思うが、教職員への配布はあってもいいと思う。(一人一人聞こえ方が違うため)

<保護者>

  • 娘も音楽の授業が嫌だったと言っていた。中学は、教科ごとの先生なので、なかなか理解してもらえないようだ。
  • 好きな仕事があるというのはいいなと思った。
  • りいさん、とても明るくて笑顔が素敵な方だなと思った。
  • やはり社会に出てから苦労されたとのこと。セルフアドボカシーの大切さ、その必要性を感じた。
  • 同じ難聴児を育てる母親としては、お子様の環境を整えるためにプリントを作成したお母様の努力が素晴らしいなと思う。周囲の難聴理解を深めるために、私も先輩方に倣ってした いと思う。
  • 親として、言葉を育てることに注力しているが、言葉だけではなく、集団の中での子供の様子もしっかり見ていこうと思った。
  • 考えさせられたのは、親はいつくらいまで学校生活に口出しするのが適切なのか。本人の気持ちが一番大切だし、思春期に話したがらなくなるのは仕方ないこと。でも、聞こえの説明の補助はなるべく長く助けてあげたい。サポートの仕方について深く考えさせられた。
  • 難聴の当事者の方の話を聞く機会があまりないのだが、動画をみて、親が干渉しなくても子はしっかり自分の人生を歩んでいけるんだなと。むしろ親の心配をよそに、自分の居場所を自分で作っていくことができるんだな、と感じた。
  • 娘も人工内耳で聞こえが悪くないのでここ最近めっきり周囲に説明するということがなくなってしまった。・・・改めて自分の事を理解しまわりの方に知ってもらうという大切さを再確認した。
  • お母様が、りいさんの成長に合わせてしっかりサポートされていたこともよくわかったし、思春期の時の学校生活についてのこと(先生によって対応が違ったり、またそれで学校生活も変わるということ)も、共感できることがたくさんあった。

<支援者>

  • 「初めて出来ないことを伝えられた」社会に出てからのこのことばがとても印象に残っている。りいさんが、まず出来ないことを受け入れたこと、そして、勇気をもって伝えたことは大きかったのではないかと思った。
  • やはり、社会でのコミュニケーションは違うのだと感じた。・・・自分で伝えることの重要性に気付いて行動したところが、りいさんの逞しさだ。自己理解、セルフアドボカシーが大事だと感じた。

NO.15 「マッキーズ」のこと

2024年08月10日 | 記事

「マッキーズ」のこと

 

 ライカブリッジの活動の一環とも言えるのだが、月に一回土曜日の夜8時から9時、ろう者のマッキーさんに先生になってもらって、オンラインで手話のおしゃべり会を設けている。その月にあったことを手話で伝え合う楽しいひとときだ。

 マッキーさんは、昔私のいた療育施設に、保護者として高度難聴のお子さん二人と共に通っていた方である。お子さんのお兄さんの方は、このブログでも「劇団員ひでさん」(NO.10)として登場しているので、詳しくは、ヒデさんのストーリーを見ていただければと思う。妹さんは、いずれインタビューしたいと思っているが、企業に勤めた後、海外の大学に留学し、帰国して、今日本の大学の大学院で勉強している。

 

 マッキーズは、手話に興味のある誰でも参加できるが、最近は、難聴のあるお子さんを育て上げた保護者さんの割合が多い。

 保護者さんたちは、口話(音声言語)でお子さんを育ててきた。しかし、特に高度難聴のお子さんたちは、成長して大人になり、その過程で自分には手話が必要だと気づくことが多かった。自分で手話を習得したり、また、手話ユーザーのパートナーと結婚したりしている人も少なくない。その場合、夫婦の間では、手話が大切なコミュニケーション手段であることが多い。

 我が子とは口話で会話できても、我が子のパートナーとは、手話がわからなくて会話ができないのは、なんとも残念なことである。少しでも我が子のパートナーと会話したい。そういうモチベーションがあると、継続して参加してくれるような気がしている。

 

 実は、最初は、きこえる人たちの中で生活していて、なんらかの疎外感を感じている難聴のある人たちに、手話が役に立たないかなという気持ちもあった。しかし、手話どう?と誘っても、なかなか手話が切り札にならない場合も多い。なぜならば、生活の中で手話を使う機会がなければ、意味がないからだ。意味がないというのが言い過ぎだとしても、上達はしない。デフスポーツに参加して、手話が必要になって、定期的に仲間と手話でコミュニケーションをとるようになると、手話って楽しいな、100%通じるって気持ちいいなと実感する。それは、仲間とのコミュニケーションが深まる経験をするからだ。でもそういう場合は、仲間同士で教え合って、どんどん上手になる。

 

マッキーズ参加者の中で異色なのは、ライカ補聴器相談室という補聴器やさんを開業しているSさんだ。補聴器を売る仕事で、手話を学ぶ人は多くはない。Sさんは、先日手話通訳の試験も突破し、手話通訳者としてデビューしたばかりだ。通訳者として派遣されて、ドキドキの経験をしている話は毎回おもしろい。手話ユーザーとしては、手話のわかる補聴器屋さんのがいるというのは、心強いことに違いない。

 

 私はと言えば、それこそ、昔出会った子どもたちが、成長する過程で、今度は私に手話を教えてくれた。特に教室には通っていないので、教え子たちに教わった手話と言える。が、日常的に使っているわけではないので、すぐに忘れる。マッキーさんには、いつも、また忘れたのか!とあきれられている。それでも、何とか簡単な会話はできる。わからない時は、指文字が役にたつ。「熱中症って手話でどうやるの?」なんていう質問ができるからだ。

 あとは、「ごめんなさい、私手話へたで。すぐ忘れちゃうんですよ〜。」とか「ゆっくりお願いします」「もう一度お願いします」などは、ちゃんと手話でできる。このように、私は悪知恵で乗り切ろうとしているところがある。だから進歩が遅いんだろうな。

 

ということで、マッキーズは、同い年のマッキーさんと私(あと数年で古希なんです!)を筆頭に、少々平均年齢が高めのメンバーでなかなか楽しくがんばっている。