あつさん 手話講座講師、紆余曲折ありの半生、きこえる旦那さんときこえる娘さん、息子さんとの4人家族、46歳
現在は左右ともに100dBスケールアウト。(幼児期は500Hzまでの低音は、中等度並みの残聴があり、高音域1000Hz以上は高度難聴並みの高音急墜型の難聴だった。)。3歳から補聴器装用。 小学校4年生時に大幅に聴力悪化。20代で補聴器装用を中止。手話を自分のコミュニケーション手段とした。たびたびめまいに悩まされてきた。大人になってからペンドレッド症候群であることが判明。聴力低下やめまいの原因が分かった。
少し前置きが長くなる。
私が難聴児の療育施設(当時の難聴児通園施設)に入職した時、あつさんは、丁度療育施設を修了し、小学校に入学していた。従って、彼女と私はすれ違いだった。療育施設の診療所の耳鼻科の定期受診の時に会っていたので、顔と名前は知っていたくらいの関係だった。その後あつさんが高校生くらいの時、療育施設の保護者勉強会で経験談を話してくれたことなどがきっかけで、話をするようになった。
彼女は1980年代の「聴覚の最大限の活用」「インテグレーション(障害のある子どもがきこえる子どもと一緒に教育を受ける)」が難聴児療育の大きな目標だった時代に幼児期、学童期を過ごした。
まだ「情報保障」とか、「障害理解」とか「合理的配慮」などの、環境整備の発想は乏しい時代だったし、増してや、本人のアイデンティティについての配慮もほとんどなく、「先生の顔をみて」「先生の話をよくきいて」などの、とにかく「きこえる友だちに負けず、よくきいて」という、どちらかというと本人個人の努力を鼓舞する雰囲気が強かった。
補聴器もまだアナログ補聴器で、彼女のような高音急墜型の聴力へのフィッティングには限界があった。高音急墜型の聴力は、平均聴力にした数字(500Hz+1000Hz×2+4000Hzを4で割ったもの)では、きこえの実際のところはわからない。主に高周波数が担う子音の情報が乏しいので、音への反応は良くて、呼べばすぐ振り向いても、ことばの聞き分けは難しいことが多い。
あの時代に苦労した子どもたちの話をきくことは、私には実は少々つらい。私もまた、あの頃、「よくきいて」と鼓舞した療育者の一人であったことは間違いないからだ。
あつさんは、20代半ばから補聴器装用を中止し、人とコミュニケーションを取る時は、基本手話を使用している。30代半ばからは、人と話す時は、声の使用もやめている。私は、深い話を手話のみでやりとりするほど手話に堪能ではない。それもあって、彼女のことは気になりながらも、インタビューの申し込みは、躊躇していた。しかし、ラインが使えるようになってからは、時々お互いの子育てのことや、友だちと会ったこと、ろう者の考え方などについてやりとりしていた。ラインでは、文字によって自由にやりとりできた。しかし、インタビューする自信はなかった。
今年の夏休みに、彼女が参加しているデフバスケットボールチームに、ある難聴の中学生男子を紹介したことがきっかけで、彼女に私のこのブログのことを紹介し、彼女のインタビューを打診した。彼女は、快く承諾してくれた。このブログにも興味を示してくれて、全部読んでくれたようだ。
それで、私が心配していたインタビュー方法について話し合った結果、いつものようなzoomでのインタビューを録画しての公開は、しないことになった。「直接会ってインタビューする」「1対1で」「動画は公開しない」「ブログで公開」という条件で、それならインタビュー時に「声」を使ってもいいよと言ってくれた。
あつさんは、現在、社会生活では、「ろう者」として手話のみでコミュニケーションを取るが、家庭(夫、娘、息子はきこえる)では、音声でも話す。それは、家族はあつさんは「話せる」が、「きこえない」ことをちゃんと理解しているからだ。家族はもちろん手話もできる。今回、家族以外の私に「特別に」音声を使ってくれることになり、正直に言うと、それは本当にありがたく、助かった。
私は、知っている限りの拙い手話でがんばり、時々筆談し、口の動きも見せた。しかし、さすが手話の講師、彼女は、私の言わんとすることをよく読み取ってくれて、それも助かった。間違った手話も訂正してくれたりした。そして、雑談を挟んではいたが、密度の濃い4時間近くにも及ぶロングインタビューとなった。協力してくれた彼女にとても感謝している。
【 あつさんのストーリー 】
< 幼児期 >
3歳で難聴が分かった。低音域が比較的きこえていたので、音への反応自体はよく、難聴の発見が遅れたようだ。4歳から療育施設に通った。療育施設の個別指導はあまり面白くなかったのだが、みんなで給食を食べたり、廊下を楽しく走り回ってよく叱られたという記憶はある。幼稚園にも通った。幼稚園のことは、ほとんど覚えていない。しかし、母の記録では、友だちはつけていない補聴器を、自分だけつけるのは嫌だと言って、幼稚園バスに乗るのを拒否して、母を随分と困らせたらしい。
< 小学校 >
地域の小学校に入学した。小学校入学にあたり、何か配慮があったかというと特にはない。ただ、座席だけは、前から3番目と決まっていた。席替えは皆と同じようにしたかったが、一度も参加させてもらえなかった。外で遊ぶ鬼ごっこは、逃げ回っているうちにいつの間にか終わっていて、いつ終わったか誰も教えてくれなかった。だるまさんがころんだなども、きこえていないことが多く、多分うまくは、やれていなかった。そんなもどかしい感じの経験が多かったように思う。
小学校4年生の時、めまいと共に聴力が大きく低下した。最悪の時には130dB(おそらく高音域)だったが、最終的には110dBになった。3ヶ月ステロイド治療した。めまいが治らず、学校を半年も休んだ。結局聴力が低下したまま、小学校生活が再開された。
初めは、自分が色々なことをきこえずにいることをそこまではっきりと認識していなかったかもしれない。授業も自分だけがわからないとは思っていなかった。しかし、順番に音読が回ってくるような場面では、どこを読んでいるかがわからず、ん?みんなはわかるのか?といぶかしく思っていた。自分が話すとくすくす笑う子がいて、なぜ笑うのかわからなかった。今思えば発音が多少、人と違っていたことで笑われたのかなと思う。勉強は、成績優秀な8歳上の姉に教えてもらっていたが、姉妹では遠慮がなく、よく喧嘩していた。
テレビの「8時だよ!全員集合」は、話していることは全然わからなかったが、動きだけで面白く、楽しめた。「ドラえもん」はちゃんと見ていたが、ドラえもんが、ポケットから色々な道具を取り出すことは、わかっていたし、それなりに面白いと思っていた。登場人物の動きを目で追うことで、なんとなく想像して分かったつもりになっていた。しかし、ある時、学校で友だちが、ドラえもんのストーリーについての話で盛り上がっているのに気づき、ドラえもんにストーリーがあったんだ!!と知り、心底驚いたことがある。その時の衝撃は、今でも覚えている。そのようなことがあって、小学校中学年頃には、段々と、もしかして私って、自分が思っているよりきこえてないの?と思うようになった。
小学校時代は、友だちはほとんどいなかった。先生が「二人組になりましょう」と言った時は、必ず私が一人あぶれた。友だちの会話から単語を拾って会話に参加してみても、なんか通じなくて、変なやつという目で見られていたと思う。話しかけても無視されることも少なくなかった。自分でもきこえないことは、ネガティブに捉えていたので、補聴器は髪の毛でずっと隠していた。5、6年生の時は、学年女子で一番足が早かったので、それでみんなに注目されていた。リレーの時は期待の星だった。それでかろうじて、「認められている自分」「自分の存在意義」を感じていた。
ことばの教室は、縦のつながりが強く、劇発表会などで上下の友だちと共に過ごす時間がとても楽しみだった。難聴児を持つ親の会のキャンプ、スキー合宿でも、ことばの教室の友だちと楽しく過ごした。ただ、ことばの教室の個別指導の先生(6年間担当)が厳しい先生で、とてもこわかった。指導内容は、50音の発音の練習をしたり、絵を見てことばで説明するというようなことだったことを覚えている。その先生がこわくて、指導中にトイレに行くと言って、ことばの教室の職員室に逃げこんだこともあった。職員室にいる先生たちは、とてもやさしくて、心の拠り所になっていた。
< 中学校 >
中学は、クラス替えの時の最初の自己紹介の時だけは、自分から「きこえないので、ゆっくり話してください」とお願いした。しかし、それ以外の配慮を求めるようなことはしなかった。部活は、バスケットボール部に入り、中1からレギュラーだった。バスケ部では、一人、周りの状況を教えてくれる友だちができた。口を大きく開けて話してくれた。そんな友だちとは、1対1では、なんとか会話ができたが、チームでの話し合いでは、その子もすべてを伝えることはできず、やはりついていけなかった。すべて口話だけだから限界があった。書いてもらうということは、その頃は思いつかなかった。
その頃、中学校はひどく荒れていて、特に同級生は大荒れだった。毎日どこかの窓ガラスが割れ、他校とのけんかがあり、給食の配膳台が2階から落とされたこともあった。その頃の私は、家では母親が厳しく、学校では人とコミュニケーションが取れず、かなりストレスがたまっていた。そのようなタイミングで校内の先輩の不良に声をかけられたのだった。集団の中で、はみ出して孤立している私の様子を見て、声をかけてきたのだと思う。その先輩たちは、特に難しい会話をしてくるわけでもなく、私をすんなり仲間に入れて、かわいがってくれた。授業に出ずにベランダで過ごしたり、たばこを吸ったり、バイクに乗せてもらったりした。一時でも「受け入れられている」という心の拠り所となった。
本来なら、保護者に連絡がいくはずだったが、先生の手が回らないのか、私が不良とつるんでいることを母親が知っている感じはなかった。ある日、その先輩たちが、夜の10時にバイクをブルンブルン鳴らして、「これから遊びに行こうぜー」と誘いに来た。母は、私の腕を掴み、きっぱりと「やめなさい」と止めた。そこで、私はハッとして、もうやめようと思った。母は、厳しかったが、やはり母の愛情は感じていた。その後先輩たちに深追いされることもなく、一緒に行動することはなくなっていった。
学校での友だちとのコミュニケーションがうまくいかず、疲れ果てて、高校はろう学校に行きたいと親にお願いした。しかし、それは受け入れてもらえなかた。両親には、音声の世界にいることを強く求められた。多分私の「将来のために」だったのだろう。公立高校は受けられるところがなかったので、私立の高校に入学した。
< 高校時代 >
入学した高校の先輩に、小学校時代、ことばの教室で一緒だった先輩がいた。次の年には、下の学年にことばの教室の後輩も入ってきて、心強かった。中学校の時は、補聴器を髪の毛で隠し、友だちにきこえないことをいちいち伝えていなかったが、それは、結局自分の首を絞めることになったので、高校では、その姿勢をリセットして、自分からきこえないことを言おうと思った。そして、ちょうどその頃、テレビで「愛していると言ってくれ」というドラマが流行り、手話ブームが起こっていた。高校でも手話が流行り、手話や指文字を覚えてくれる友人もできて、会話がちょっと見えるようになり、段々楽しくなってきたのだった。
自分でも埼玉県の「難聴者・中途失聴者手話講習会」に参加して、一人で手話を学び始めた。週1回、1年間通った。とても楽しかった。初めてコミュニケーションが楽しいと思った。それでも、その頃はまだ、自分が手話に逃げているというという一種の後ろめたさを感じていた。「きこえる人たちの中できこえる人たちと同じように」という呪縛からは、なかなか解き放たれなかった。
< 予備校・母の死・就職 >
高校時代もめまいと聴力の変動が頻繁に繰り返されていたので、国立身体障害者リハビリテーションセンターの耳鼻科によくかかっていた。そのセンターで理学療法士が訓練室で訓練する姿をよく見かけて、かっこいいな、将来あんな仕事がやってみたいなと思っていた。そこで、高校卒業後に理学療法士の専門学校に入るための予備校に入った。
その予備校で今の夫に出会ったのだった。遅くまで残って一緒に勉強をしているうちに、付き合うようになった。彼の存在が心の支えになった。
その予備校に通った年に母が病気であることがわかった。そして、病気が見つかって10ヶ月で帰らぬ人となった。あっという間のできごとだった。母が51歳、私が19歳の時だった。予備校と病院に通ったが、その頃のことは、断片的にしか覚えていない。それほど、衝撃的な突然の出来事だった。母本人が一番悔しかっただろうなと思う。
予備校では、病院体験というものがあった。その体験で、そこの患者さんとコミュニケーションを取ることが、絶望的に全くできなかった。まわりの人たちは、楽しそうにコミュニケーションを取っていた。自分も話すことはできたが、高齢者の言っていることが全くわからなかったのだ。どうにもならなかった。そのことがあって、理学療法士への夢は、諦めざるをえないと悟った。
次の道をさがすことになった。母が以前、建築関係の仕事をしていたので、その影響で、建築関係の専門学校に行くことになった。2年間、何の情報保障もない中で勉強した。そして、障害者雇用というものも全く知らずに、一般雇用で建築関係の仕事についた。その頃、就職に障害枠というものがあることや、障害者年金のことを知らなかったのだ。きこえる人の中で、きこえる人と同じように過ごすことが当たり前という流れできていた。
仕事の内容は、具体的にいうとCADオペレレーターという仕事だったのだが、会社がブラック企業だった。残業続きの忙しさの中で、まわりの人たちも常に締め切りに追われて余裕がなく、コミュニケーションもうまく取れなかった。やるべき仕事の内容の説明がわからなくて苦労した。そして、1年半くらい勤めたところで、まためまいの発作を起こし、救急搬送となった。そしてそのまま入院し、そのまま仕事は退職となったのだった。
その入院で全介助を受けた経験から、介護職に興味を持つようになった。コミュニケーションに支障があるのに、自分の中では、人と関わる仕事がしたいという思いが強かった。介護職にチャレンジしようと思った。体調がよくなってから、まず介護施設でボランティアを始めた。50人くらいの入所者のいる介護施設だった。入所者は、言語障害がある方、脳性麻痺の方など、主に話すことに障害のある方々だった。表情や様子を読み取ることは、自分の得意なことだった。初めは、施設長は、難聴があるということで、私を雇うことには、消極的だった。私は、そこでボランティアをたくさんやり、認めてもらえるようにがんばった。スタッフは、私のために手話を覚えてくれた。人間関係に恵まれた。
そこでなんとか認められて、2年間介護の仕事をした。スタッフは、難聴を理解してくれた。たとえばみんなでごはんを食べに行った時、私から離れたところで、会話している人同士も手話を使ってくれた。私が会話に参加していないのに、なんで手話を使っているの?ときくと、ここで何の会話をしているかが見てわかるでしょ?と言われた。それには感動した。そういう配慮をしてもらうのは、本当に「初めての!」ことだった。
< 結婚と子育て >
予備校時代に出会った彼と23歳で結婚し、介護施設に2年勤めたところで、妊娠がわかり、退職した。夫とは、19歳で出会ってから、コミュニケーションのことで何度もけんかした。きこえる彼には、結局わかってもらえないんだと思って、別れを切り出したこともあった。彼は、きこえるきこえないということと関係なく、「私という人柄」が好きなんだと言ってくれたが、私は、きこえないところは、私の一部だから、それも含めて、「きこえない私」をちゃんと受け止めてほしいと思っていた。結局彼は20歳の時に手話講座に通って、手話を学んでくれた。
今でも、夫とは、コミュニケーション上のすれ違いがないことはないし、けんかもあるが、長い歴史を経て、色々なことを一緒に乗り越えてきた。それが今の信頼関係に至っていると思う。夫も、娘も息子も私の理解者でいてくれる。
子育てでは、親子のやりとりで、手話を中心にやりとりが形成されるようにがんばった。
子どもたちは、きこえる子たちなので、自然と音声言語を学ぶだろうが、母親との関係では、「見る力」を育てるために手話でのやり取りを大切にした。音声で働きかけると音声で返ってきてしまうので、5、6年生になるまでは、母親が手話じゃないとわからない人だと教えるために手話で育てた。
例えば、今、家族4人で食事をしている時は、全員が手話を使う。子どもたち同士の会話、子どもと夫の会話は、普通に音声で可能だが、私がいる時は、私にもわかるように手話で会話する。口話も混じるが、私だけわからないという状況がないようにしてくれている。トイレに行く時も、きこえる人だったら、音でトイレに行ったなということがわかるが、私にはきこえないので、娘などもいちいちトイレにいくねと伝えてから行く。
時代の変化もあるのか、授業参観や保護者懇談会で母親が手話通訳をつけても、子どもたちが友だちから偏見を持たれることもなく、むしろ「手話ができるのすごい」と言われたようだ。大人になってから、きこえない母親であることを恥ずかしく思ったことはあったかと尋ねたが、あまりそう思うことはなかったそうだ。
そして今、娘も息子も大人と言われる年齢に達したが、母である私にすごく話しかけてくる。特に娘は話したいことがたくさんあるようだ。よい関係が築けていると思っている。私自身、子供の頃に家族のコミュニケーションには入りきれず、寂しい思いをしているので、とても気をつけている。また、子どもの自主性を尊重して育てている。これもまた、子ども時代に、不本意ながら母の指令に従っていたつらい思いの裏返しだと思う。(母が「私のため」を思ってくれていたのは、承知しているが。)
< デフバスケットボールのこと・アイデンティティのこと >
少し話が前後するが、19歳の時デフバスケットボールを知り、そのチームに入り、たくさんのろう者と出会うようになった。そこで、人とのコミュニティを広げていくのなら、手話によって広げることが自分には一番いいのだと気づいた。23歳ころには、段々と「ろう」というアイデンティティが形成されていった。23歳の時、補聴器をはずして生活することを決めた。
手話で意思疎通がはかれることが増え、楽なコミュニケーションが増えた。小さい時から分からないことを悟られないようにしてきたため、性格もトゲトゲしていたが、だんだん丸くなったように思う。手話の世界では、素の自分でいられる気がした。肩の力が抜けて、楽になった。音声の世界ではずっと自分が無理をしてきたことに気づいた。ずっとそうしなければならないと思っていた。35歳くらい以降は、声を使うと口話で返ってくるのが、わずらわしくなり、家庭の外では、手話のみで過ごすようになった。
< 子育て談義の会 >
娘と息子の子育て中、育児仲間が欲しかったのと、自分の経験を活かしたいという気持ちもあって、子どものころに通った療育施設の難聴のお子さんを育てているお母さんたちと子育て談義の会を作って、定期的に集まって色々な悩みなどを話し合った。私にとっても子育てのあれこれを話すよい機会になったし、お母さんたちも、私のような大人になった難聴者の話をききたいと思ってくれていたようだ。
この会には、9年くらい参加した。手話をつかってくれるお母さんもいたし、私もまだ声を使っていた。しかし、徐々に人の口話を読み取ることに疲れてきた。私の話は声を使えば、十分に楽に相手に通じたが、それに比べて、口話で話す人の話を私が読み取る苦労は、かなりの労力だった。エネルギーが違いすぎて、不均衡なコミュニケーションだと感じるようになった。子育ても一段落したのもあり、段々と参加しなくなった。子育て中は、とてもお世話になったし助けていただいたと思っている。この会は、現在もまだ続いているようだが、私が声を使わない手話のみの人になってからは、自然と付き合いが減っていってしまった。もちろん今でも会えば懐かしい仲間であるが。
きこえる人たちとの付き合いが減ることは残念だったが、自然と楽な方を選ぶようになった。素の自分でいることが心地よく、無理をするエネルギーもなくなっていった。
< 再就職 >
上の娘が中学生、下の弟が小学校高学年になった頃、社会福祉協議会の臨時職員としてろう者の相談員を始めた。なかなか大変な仕事だったが、それなりにやりがいを感じてやっていた。6年続けたが、責任もある仕事で、めまいも時々生じた。上司の女性は、きこえる方だったが、日本手話の上手な人だった。仕事上の指導も日本手話で行われた。日本手話は、ろう者の伝統的手話だが、その人の日本手話は、すっと映像が浮かんできて理解しやすかった。注意や指導を受ける時も「わかる」ことはうれしかった。自分でもオンラインなどで日本手話を勉強した。
そして、今は、その仕事もやめて、手話講座の講師をしている。需要があれば応ずる感じで、今くらいの仕事量が身体にとってもちょうどよいと感じている。めまいも減った。子育ても一段落し、生活することが楽になってきたと感じる。ただ、まだ子どもたちの学費もあるので、もう少し仕事を探そうかと考えている。
< 後輩の方々に伝えたいこと >
自分がどういう状態でいることが、一番自分らしく、生きやすいかを自分に問いかけながら生き方を探してほしい。私の場合は、つければ少しはきこえる補聴器を外した。声を出せば周りが楽かもしれないけど、その分自分の労力や負担が大きく、声を使わないという選択に行き着いた。手話第一で生活することが自分にとって一番生きやすいと知った。周りから見ればなぜ?と思うような選択でも、これが私の選択と胸を張って選択すればよい。自分の軸をしっかり持って人生を歩んでほしい。自分の生き方は、人に評価されたりして、決めるものではない。
これまで、たくさん悩み、苦しみ、もがいたおかげで周りの人たちも、私の生き方を受け入れ、肯定してくれるようになった。そして、自分も人に対して、その人が持つ考えや、感情を肯定的に受け止められるようになった。そのことが、自分が一番人として成長した点だと思っている。
< あとがき 〜インタビューを終えて〜 >
インタビュー時の彼女の発話は、以前と同様、特に力みもなく、自然でクリアで分かりやすかった。長年、耳を使っていないと、発話は徐々に歪みが出てくるものだが、彼女は驚異的に流暢な発話を保持している。それゆえ、ずっと話していると、やっぱり途中で彼女が全くきこえないことをふと忘れそうになった。そりゃあ、分かりにくいよね、と思った。流暢に話す人と会話していて、その人には「目から」しか話が入らないことを忘れないようにするのは難しい。きこえる私たちは、話かけられたら、反射的に声で反応する。それは、ほとんど反射レベルと言ってよい。
彼女が「話す」ところを公開したくない気持ちに至ったことは、彼女のこれまでの半生の中で、流暢に話すことで、どれだけ誤解され、どれだけ疲弊してきたかを物語っているのだと思う。彼女は音声でのやりとりは、社会的には封印したのだ。その決断は、たやすくできたわけではなく、悩み、苦しんだ挙句に「コミュニケーションでこんなにも苦労するのは不当だ」「手話でのコミュニケーションは楽で楽しいと思える」「だから私は堂々と手話で生きてゆくことを選んでいい」と思い至ったのだろう。そういう彼女の決断を私は、今は尊重できるし、彼女の経験した大変すぎるコミュニケーションを思うと、申し訳なくいたたまれない気持ちにさえなる。しかし、白状すると、私も10年前くらいまでは、え?何で話せるのに話さないの?なんで声出せるのに出さないの?小さい時に親御さんが苦労して身につけてくれた力なのに?なんで?私たち療育者の苦労はなんだったの?と思っていた。
あつさんが子育て談義の会をやめたころ、「もう口話を読み取るのに疲れた」といい、話すこともやめると伝えてきた。音声を使わない生活がすごく楽だと気づいたそうだ。それまで驚異的に読話できる彼女にいつも感嘆していたが、確かにそれは、彼女の聴力を考えると、しんどかっただろうなと改めて思った。
特にあつさんは、初めは、特に低音域は比較的よくきこえていて、聴覚から言語を習得したが、途中で重度難聴となった。一気に聴力が低音域が90dB前後、高音域が110dB程度に悪化しても、いきなり発話の様子が変わるわけではなかった。ここのところが難聴の難しいところなのだ。つまり、「そこそこきこえていて、上手に話ができる」状態から「上手に話ができるがきこえはかなり厳しい」状態に大きく変化したのだ。小学校中学年で、彼女が抱えることになったコミュニケーション上の大きな困難さは、なかなか急には家族や周りに理解されにくかったのだろうと推測する。加えて彼女は読話力(口を読む力)が人並み以上に優れていた。それで精一杯きこえをカバーしてきたのだ。
さらに、当時は、将来、きこえる人の社会に参加するのだから、少しでもきこえる人に近づけるように努力させるのが子どものためという考え方が主流だった。少なくとも「耳が使えるなら」「話せるならば」そうすべきだという考え方が圧倒的に優勢だった。
かくいう私も、初めはそう考えていた。が、成長する子どもたちの様子を見るにつけ、その考え方を徐々に修正していった歴史がある。初めは、高度難聴でも、補聴効果がそこそこあれば、しっかり指導して、音声言語を身につけ、お話も上手にできるように育てることが言語聴覚士としての腕の見せ所だと思っていたが、途中でそれはちょっと違うなと思うようになった。難聴児療育の目標は、「言語力を育てる」ことは外せない。しかし、特に読話に大きく頼らざるを得ないくらいのきこえの場合は、読話の力をほめている場合ではない。不十分なきこえを読話で補うことの労力に思いを馳せ、その人が参加する集団生活の中で楽しい楽なコミュニケーションが保障されるにはどうすればよいか、どんな方法があるかを考えなくてはならないのだ。
上手に話せても、わいわいがやがやの楽しい雑談には参加できず、つい、わかったふりもしてしまい、分からないことを悟られないように無理している場合が多いのだ。そのことに気づき、彼らが集団生活の中でも居心地よく過ごせるためにはどうすればよいかという問題にも向き合わないと、難聴児療育・教育は、完全に片手落ちだと思うようになった。
私たちは、「きこえるか」「きこえないか」ではなく、「楽にきこえるか」「きくことが大変なのか」「きくことに努力を要するのか」または、「どうすれば楽にきけるか」「どうすれば、楽に情報を得られるか」「どうすれば、周りの理解を得られるか」「その人の楽しいコミュニケーションとはどのようなものか」という観点を常にもたなければいけないのだと思う。
2000年以降、人工内耳がどんどん普及してきて、現在では、高度難聴で補聴器で聴覚口話法でがんばるというケースは激減している。あつさんのように途中で聴力が悪化しても、その時点で人工内耳という選択肢が示されるようになってきた。また、同時に手話も、今はもっともっと自由に選べ、自由に学べる時代になってきている。初めから口話も手話もと両方に目を向ける親御さんも増えてきている。
これからも時代は、絶え間なく変化してゆくのだろう。私たち療育者は、子どもたちの何を育ててゆくのか、どう育ててゆくのかについて、大切なことを見失わないようにしていかなくてはならないと、改めて思う。
大人になってから、あつさんに人工内耳を装用してみる気はないかと尋ねたことがある。
彼女の答えは、きっぱりとNOだった。完全にきこえるわけではないなら、もう中途半端にきこえる苦労は、二度としたくないと。私は手話で生きるのが楽しいからよいと。
自分の半生について、真摯に語ってくれたあつさんに深くお礼を言いたい。
このインタビュー記事をあつさんのお母さんにも読んでもらいたかったなと思う。彼女がちゃんと自分の生き方を自分で選択し、幸せな家庭を築き、しっかりと社会生活をしているところを見て、安心していただけたら、こんなにうれしいことはないのにと思う。