りいさん 企業勤務→保育園勤務 29歳 右110dB 左113dB 右耳人工内耳装用
りいさんとは、0歳代からの付き合いである。お姉さんも難聴だったので、ご両親がはじめからきこえを心配されていた。そして難聴とわかり、聴力はお姉さんとほぼ同じ、110dB程度であることがわかった。0歳代で両耳に補聴器を装用して、個別指導を開始したが、様子を見ながら療育を進めて、とうとう就学まで担当した。(お姉さんは、幼児期のうちにろう学校での指導を勧めた。聴力的には、通常は聴覚よりも視覚を重視することが多い。)
彼女は、聴覚も最大限使っていたが、読話も有効だった。言語力も育てることができた。しかし、補聴器での補聴には限界があり、1対1で、口形をしっかり見せての会話であればなんとか通じる状態だった。発音も慣れた人ならわかるという母音が中心の不明瞭なものだった。
就学にあたり、ご両親は地域の小学校への入学を希望されたが、その選択をする場合、きこえる友だちとのコミュニケーションには、かなりの困難が予測された。そこで、まさにその頃幼児にも普及してきた人工内耳の装用を検討することとなった。そして、就学直前に人工内耳の手術を受けることになったのだ。
その後、時々会って、様子を見せてもらったが、元々の聴力や6歳という手術年齢のこともあり、人工内耳のきこえを活用できるようになるには、何ヶ月もかかった。さらに何年かかかって、発音も徐々に明瞭になっていった。
彼女の補聴器から人工内耳への変化に伴うさまざまな変化は、当時の私にとっても大いに学びとなった。しかし、人工内耳の装用効果とか、語音の聞き取りとか発音の変化などはわかっても、その後どんな生活を過ごしたかについては、断片的にしか知らなかった。今回のインタビューで初めてしっかりと教えてもらった気がしている。
【 りいさんのストーリー 】
<療育施設、幼稚園時代>
療育施設には、0歳代(8ヶ月)から通った。友だちと楽しく遊んだこと、劇ごっこ、キャンプなど楽しい思い出がたくさんある。年中組から併行して通った幼稚園は、それなりに楽しんだが、劇、歌など難しいことが多く、ほとんど状況判断でついていっていたのだと思う。がんばりたいという意欲はあった。
9歳上の姉が難聴だったので、自分が補聴器をつけていることは自然なことで、特に特別感は、なかった。姉は優しい、内気な性格だったが、私は、真逆のどちらかというと負けず嫌いの、強気の性格だった。
就学直前に人工内耳の手術を行った。人工内耳の音が活用できるようになったのは、小学校1年生の2学期からだった。(片方の補聴器は、現在ははずしている。)
<小学校時代>
1年生のはじめは、一番前の席で、FMを使っていたが、先生の声だけではなく、周りの友だちの声もききたくて、FMは使わなくなった。2年生からは、席替えも皆と一緒にさせてもらった。コミュニケーションも困ってはいなかった。しかし、今考えると、それは、母親がみんなに私の難聴について理解してもらうために、きこえについての説明のプリントを配ったりしてくれていたおかげかもしれない。母は、それだけでなく、手話のイベントを開催したりしていた。母のおかげで、私のまわりは、みなよくわかってくれる人ばかりだったような気がする。とてもまわりに助けられていたのだと思う。
小学校時代は、楽しかった。友だちと遊ぶことがとにかく楽しかった。放課後は、団地の中で待ち合わせをして、みんなで遊びにいった。ことばの教室も100%わかる環境で、特にグループの時間(1年生から6年生の10人のメンバーがいた。)が楽しくて、楽しみにしていた。
<中学校時代>
中学校(1学年4クラス)では、半分くらいは、別の小学校から来た生徒達だった。はじめに担任の先生が、「Oさんは、難聴があるから大きめの声で話してください」と紹介してくれた程度だった。同じ小学校から来た子たちは、ちゃんと続けて配慮してくれて、新しく出会った友だちに関しては、話しにくい感じはあった。新しい友だちは、普通にべらべらとしゃべるので、初めて友だちの話がわかんないなーと実感した。小学校時代のようなお母さんの手助けは、自分から、やらなくていいと断ったのだと思う。
結局、説明しなくても、わかってくれる子たちと一緒にいたので、特に困る状況はなかった。別に全員にわかってもらわなくても構わなかった。でも基本、誰とでも仲良くする方だった。
授業で苦手だったのは音楽だった。音楽の先生は、全く理解してくれなくて、反抗した。その先生の授業には出なかった。特に自分から説明もしなかったので、さぼっていると思われていたと思う。皆んなの前に出て歌うのは嫌だし、ソプラノとかアルトとかはわからないし、ピアノに合わせてと言われてもわからなかった。本当はちゃんと説明すればよかったのかもしれないが、年頃だったこともあり、反抗的な態度を取っていた。給食や体育はほとんど参加したが、気に入らない授業は出ないという勝手な行動をしていた。部活は卓球部で県大会にも出た。内申(高校受験での)のためにも部活は参加していた。
中3になって担任になったのが新しい音楽の先生だった。その先生は、無理強いしないタイプで、「とりあえずやってみれば」と言ってくれた。それで、仕方がないので、みんなの輪に入って、本当に小さい声で口ずさむ感じで歌った。するとその先生は、「大丈夫だよ、音程も取れてるし、歌えてるよ」と言ってくれて、点数も普通にいい成績をつけてくれた。
中3になって、この成績では高校受験で受けられる高校がないという状況になった。それで、個別の塾に行き始め、後半は、毎日学校へ通った。高校へは行かなくてはならないと思っていた。
ろう学校は、選択肢にはなかった。クラスの人数が少ない状況は、嫌だったし、地域の友だちが好きだった。地域の友だちとは、今でも子連れで集まるくらい仲がいい関係が続いている。
<高校時代>
それで、公立高校を受験して、無事合格したのだった。その高校を選んだ理由は、国語、数学、英語の主要科目が30分授業で、15人の少人数の成績別のクラス分けだったことだ。通常のクラスは40人くらいいたが、主要科目だけ少人数編成でやった。それと、文系、理系、スポーツ、保育、家庭とコースが細かく分かれていて、やりたいことを選ぶことができたことが魅力だった。そこで、保育に興味があったので、保育コースを選んだ。保育コースは折り紙とか、ピアノとか保育に専門的な内容で、楽しく学ぶことができた。
主要科目の30分授業もわかりやすく、初めて勉強が楽しいと思った。今までわからなかったから勉強が嫌いだったんだなと思った。そこからちゃんと勉強するようになった。インフルエンザで休んだ以外、3年間無遅刻無欠席だった。単位が取れないと卒業できないと思って3年間がんばった。
高校は、誰も耳のことを知っている友だちはいなかったわけだが、はじめ一人か二人にだけ、耳のことを伝えたら、多分その友だちが、みんなに伝えてくれたのだと思う。それは、とても助かった。
部活は入らなかったが、アルバイトはいくつかやった。3年生の時は、スーパーのオープニングのバイトを1年間した。惣菜やで、惣菜を詰めたり、並べたりしていた。スタッフみんな仲がよくて、みんなが助けてくれて、そこもコミュニケーションには困らなかった。
2年生の時はマックでアルバイトをした。やはり特に問題はなかったが、遠かったのでやめた。マックは、今はよりデジタル化していて、文字情報が多くなっているので、もっとやりやすくなっていると思う。
進路を考える時期になっても、特にやりたいことはなかった。保育園で保育士として働きたかったが、その頃は、きこえないと雇ってもらえない時代だった。(保育士養成学校の)オープンキャンパスにも行ったが、受験はできるけど、就職は難しいと言われて、資格を持っても仕事ができないなら意味がないと思った。障害者雇用という情報も全く知らなかった。地域の高校だと、そういう障害者雇用に関する情報が不足していた。ろう学校にも相談に行ったが、当事者や先輩の話をきくことはできなかった。
<就職>
結局、高校の先生が障害枠で探してくれた会社を受けて、内定をもらったのだった。その会社がどういう会社かという理解もなく、自分のやりたいこともわからないまま、就職してしまった。会社での仕事は、基本事務仕事だったが、そこで、社会人になって、初めての挫折を味わった。自分がどこまできこえていて、どのくらいきこえないか、何ができて、何ができないかが、自分でもわかっていなかったことに気づいた。友だちとワイワイするコミュニケーションと、仕事でのやりとりは、違うものだった。ここで、初めて自分はきこえないんだなというのを実感した。耳からの理解が難しく、仕事の内容への理解も難しかった。自分にできることが何一つ伝えられなかった。初めての大きな挫折を経験したのだった。
私は、しゃべっているけど、仕事の説明はうまく理解できないというのを、向こうもわかっていなかったのだと思う。会社の方も聴覚障害者の雇用は初めてだったし、高卒の雇用も初めてだったようだった。ここにいても、時間の無駄だなと思って、会社は、1年3ヶ月で退職してしまった。
退職後、ハローワークに行って、障害者雇用で仕事を探した。やはりわかってくれるところがいいなと思った。どういう仕事ならできるのかということで、さすがに悩んだが、母も協力して一緒に探してくれた。そして母が、保育園の求人を見つけてくれた。そして、「やってみれば?」と背中を押してくれた。ハローワークの方から電話してくれて、保育園が「面接しましょう」と言ってくれた。保育士免許は持っていなかったので、保育士補助としての採用面接をした。小さな保育園で、園長がとてもフランクな人だった。あまり障害のことにこだわらず、「やってみれば?」という感じで話を進めてくれた。そして、お試し期間1週間で、採用が決まったのだった。
<保育園での仕事>
保育園での初めの1年は、やはりコミュニケーションに課題があった。事務仕事とは違い、現場の仕事なので、コミュニケーションを取りながらの仕事だった。騒がしい職場だから名前を呼ばれてもわからないし、ミーティングもうるさい場所でのミーティングで聞き取れないし、何々だから行くよ、みたいな指示もわからなかった。なんでこの子はできないの?なんでやらないの?とまわりには、「仕事ができない子」と見られた。
仕事ができないんじゃなくて、きこえなくてわからないんだと自分では思っていたが、1年間は、ちゃんと自分のきこえのことを説明しないままやっていた。でも、その仕事をなぜ辞めなかったかというと、その仕事が楽しかったし、自分に合っていると思ったからだ。
就職して1年くらい経ったある日、同僚の一人に時間をもらって、話してみた。初めて自分の難聴について説明してみた。きこえてはいるけど、細かい部分はきこえていない。マスクしたまま話されるとわからない。話しかけるなら前に来て話してほしい。大事なことは紙に書いてほしい。ピアノはひけないし、リズムもわからないから、みんなの前でやりたくない。など、自分のできないことを初めて伝えた。
すると、その話をした人が周りの人に伝えてくれて、少しずつ周りの理解が出てきたのだった。段々と周りの態度や接し方が変わって、会話ができるようになり、よりよく仕事ができるようになった。新しい先生が来た時も、自分から説明することもあるし、周りが説明してくれることもあるようになった。社会でのコミュニケーションってこういうことかと思った。プライドなんていらないと思った。
説明すれば、周りの人はわかってくれる。そしてその前に「自分が自分のことをわかっていなければならない」ということをこの経験を通して学んだ。
保育という仕事そのものについては、楽しかった。子どもは、それぞれ言いたいことやしたいことを、表情やことば、全身で表現して、それを見ているのがとても楽しかったし、かわいいと思った。子どもたちは、通じないとどうにかして伝えようとしてくるところが素晴らしい。だから子どもとのコミュニケーションには困らなかった。
結局保育園は8年勤めたが、デフフットサルで知り合った人と結婚した。結婚して、子どもができて、退職した。夫は、小さい頃は6級くらいの聴力だったが、今は高度難聴で、口話も手話も両方できる。フットサルの選手をしている。家庭では、夫婦の会話は口話が中心で、補助的に手話や指文字を使っている。家の外だと、周りもうるさいし、お互い手話を使うことが多い。声も手話も読話もその時その時で使い分けている。
自分は地域の学校育ちだが、夫は、幼稚部、小、中、高とろう学校で、大学も聴覚障害者のための大学だった。夫は、電話もできるのだが、目だけでフットサルをすることも、目だけで車の運転もできる。自分はと言えば、きこえない状態での運転は怖くてできない。人工内耳をはずすと距離感もわからなくなる。普段でも、人工内耳の電池が切れるとパニックになってしまうくらいだ。自分はかなり音に頼って生活しているなと思う。目や耳の使い方はそれぞれ違う。デフフットサルなどで、いろんな人と出会って、聴覚障害と言っても多様な人たちがいることを学んだ。
今は子育てに専念している。二人の娘は、難聴で、一人ずつ療育に連れて行っているが、二人の性格がそれぞれ違って、面白い。今になって母が自分を一生懸命育ててくれたことが、よくわかる。母はすごかったんだなと思う。
<あとがき>
りいさんは、赤ちゃんの時から、強気のお顔をしていて、お転婆で負けん気の強い子だった。お母さんの大きな愛に包まれて、すくすく成長したが、幼児期の成長を見ながら、私は、「気の強さは、エネルギーにもなるだろうが、もしまわりがきこえる子ばかりだったら、心が折れることもあるかもしれないな」と少々心配に思ったこともあった。
人工内耳を装用の上で地域の小学校に上がった時も、会うと、「あのね帳」というのをいつも見せてくれて、自分がクラスで一番たくさん書いていると自慢していたのを覚えている。思春期には、先生に反抗したり、親御さんの介入を拒否したりしていたようだが、それは、彼女らしいなと思っていた。
学校生活で耳のことで困ってることない?と会った時よく尋ねたが、「困ってない。全然大丈夫」というのがお決まりの返事だった。今回のインタビューで、初めて就職のことや仕事のことを詳しくきいたが、保育園での仕事を続けるために、自分の弱みー苦手なことを開示し、周りの理解を求め、「プライドなんていらないと思った」という言葉をきいた時、彼女の人としての成長の物語をきいた気がして、感動を覚えた。誰でも自尊心があり、それを大切にして生きている。彼女は、自分の弱みに気づき、それを隠すことではなく、正しく相手に伝えることで、本当の強さを手に入れたのではないかなと思った。ボキっと折れないで、好きな仕事を続けられる道を手に入れたのだ。
また、「困ってない」というのは、まわりが「受け入れてくれている」、または本人が「気にならない」ということで、必ずしも、全く問題がないということではないと改めて思う。そして、特に社会では、本当の意味でまわりに受け入れられ、自分の思うように仕事ができるためには、まず自分の状況を自分が知り、それをまわりに自分で説明できることが大切なのだろうと思う。
そして今、お子さんの療育に専念し、かつてお母さんが自分にしてくれたことに改めて気づき、感謝し、我が子をどう育ててゆくかを模索中なのだと思う。子育てすることで、新たに「生き方」に向き合っているのだと思う。きっと豊かな子育てをしてゆくことと、信じている。
インタビュー動画の視聴者の方々から感想を寄せていただいたが、それを匿名で彼女にも送ると、こんなメッセージが返ってきた。
「感想ありがとうございます。拝見しました。言いたい事が伝わるか、言葉が足りなかったかなどと、不安でしたが、少しでも視聴者の方々に伝わったようでよかったです。このような素敵な機会をありがとうございます。
自分が難聴児として育ったことと、難聴児を育てることは全く違います。難聴児を育てる機会がなければ、自分の育ちや、きこえ方、聴覚障害者というものにフォーカスして考えることはなかったと思います。・・・ライカブリッジはあるべき存在だと思います。インスタにも多くの難聴児ママが溢れていて、同じ悩みや不安を吐き出しています。なにかSNSを活用しながら発信ができればいいなあとふと思いました。・・ブログもまた楽しみにしています。」
まだまだ30歳になったばかり、これからの彼女の人生を大いに楽しみにしているし、応援している。お子さんたちの健やかな成長と旦那さんのデフフットサルでの活躍も楽しみだ。
りいさんのインタビュー動画への感想(要約)
<当事者>
- どの仕事をするにあたっても、必要に応じて、ある程度障がいの自己開示が必要だと改めて感じた。
- 小学校の時、ペーパーを配布したことはよかったと思う。当事者としては、同級生への配布は個々人の希望ででもいいと思うが、教職員への配布はあってもいいと思う。(一人一人聞こえ方が違うため)
<保護者>
- 娘も音楽の授業が嫌だったと言っていた。中学は、教科ごとの先生なので、なかなか理解してもらえないようだ。
- 好きな仕事があるというのはいいなと思った。
- りいさん、とても明るくて笑顔が素敵な方だなと思った。
- やはり社会に出てから苦労されたとのこと。セルフアドボカシーの大切さ、その必要性を感じた。
- 同じ難聴児を育てる母親としては、お子様の環境を整えるためにプリントを作成したお母様の努力が素晴らしいなと思う。周囲の難聴理解を深めるために、私も先輩方に倣ってした いと思う。
- 親として、言葉を育てることに注力しているが、言葉だけではなく、集団の中での子供の様子もしっかり見ていこうと思った。
- 考えさせられたのは、親はいつくらいまで学校生活に口出しするのが適切なのか。本人の気持ちが一番大切だし、思春期に話したがらなくなるのは仕方ないこと。でも、聞こえの説明の補助はなるべく長く助けてあげたい。サポートの仕方について深く考えさせられた。
- 難聴の当事者の方の話を聞く機会があまりないのだが、動画をみて、親が干渉しなくても子はしっかり自分の人生を歩んでいけるんだなと。むしろ親の心配をよそに、自分の居場所を自分で作っていくことができるんだな、と感じた。
- 娘も人工内耳で聞こえが悪くないのでここ最近めっきり周囲に説明するということがなくなってしまった。・・・改めて自分の事を理解しまわりの方に知ってもらうという大切さを再確認した。
- お母様が、りいさんの成長に合わせてしっかりサポートされていたこともよくわかったし、思春期の時の学校生活についてのこと(先生によって対応が違ったり、またそれで学校生活も変わるということ)も、共感できることがたくさんあった。
<支援者>
- 「初めて出来ないことを伝えられた」社会に出てからのこのことばがとても印象に残っている。りいさんが、まず出来ないことを受け入れたこと、そして、勇気をもって伝えたことは大きかったのではないかと思った。
- やはり、社会でのコミュニケーションは違うのだと感じた。・・・自分で伝えることの重要性に気付いて行動したところが、りいさんの逞しさだ。自己理解、セルフアドボカシーが大事だと感じた。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます