看護師はるさん 37歳 右100dB 左60dB (混合性難聴)補聴器装用
はるさんにインタビューをしたのは、はるさんが37歳の時である。はるさんは、左は60dB程度、右は100dB超の聴力で混合性難聴で両耳に補聴器を装用している。難聴児の療育施設にきたのが2、3歳のころで、補聴器もその頃からの装用だ。
お目々がくりくりっとした大人しい男の子だった。お母さんの隣に大人しく座り、周りの様子を静かに見ていた。後ろから笛をピッと吹くとさっと振り向いたことを覚えている。活発なわんぱく坊主というよりは、やさしい男の子のイメージだった。補聴器の効果は良好で、就学は地域の小学校に行った。そのはるさんが看護師をしているときき、是非これまでの道のりと仕事の話をききたいと思ってインタビューを申し込んだ。
難聴者の医療職
聴覚障害者に法的に医療職が認められるようになったのは、今世紀に入ってからである。2001年に、聴覚障害は絶対的欠格事項から相対的欠格事項になった。つまり「聴覚障害があると医療職になれない」から「なれないことがある」という法律に変わったのだ。はるさんが看護師の道を目指して歩み始めたちょうどその頃、日本で聴覚障害者にその門戸が開かれたことになる。そのようなはるさんの先駆け的な看護師への歩みを是非知っていただければと思う。
【 はるさんのストーリー 】
<幼児期の記憶>
はるさんの難聴児療育施設の記憶は、餅つき大会とか、運動会とか楽しいものばかりだったという。個別指導とグループ指導があり、個別指導では、D先生が色々と教えてくれたのを記憶している。同じ年齢のクラスには、はるさんの他に3人の友だちがいてそのうち一人とは今も時々連絡を取っている。並行して通っていた幼稚園での思い出は、泥だんごの思い出がメインで、友だちとうまくコミュニケーションが取れなかったせいか、泥だんご作りに専念していた。泥だんごをカチカチにして、ピカピカに磨くのに夢中になっていた。当時(1980年代)はボックス型の補聴器で、その着脱が煩わしかったのも記憶している。
<小学校時代 〜低学年でいじめに〜 >
1〜2年生の時は、クラスの何人か(ガキ大将とその手下)にいじめられた。くつに画びょうを入れられたり、教科書をのりで貼られたりした。おしくらまんじゅうのときにはるさんだけ異様に強く押されたりした。補聴器をしていることや、多少の発音の歪み、そして外見のことなどがからかいの対象となったようだ。子どもの世界は時に残酷だ。
家で母親に訴えて、母親から担任の先生に言ってもらったけど、当時は今日ほどいじめに対しての学校の対応はなく、よくいえば大らかにほとんど放置されていた。それで、いじめは続いたのだ。学校に行きたくないと泣いて訴えたこともあったが、はるさんがいじめを理由に休むことはなかったと言う。
2年生の時、はるさんは、いじめから逃れる方法として、死ぬことをちょっと考えた。包丁でお腹をさせば死ねるかもしれないと思った。そこで、かわいがってくれていたおばあちゃんに「死んだらどうなるか」を尋ねた。するとおばあちゃんは、人の罪の中で、自分で死ぬことが一番重い罪なんだよと教えてくれたのだった。自分で死んだら閻魔様にすごくしごかれて、地獄でものすごく辛い目にあうんだよとおばあちゃんは教えてくれた。ちいさいはるさんは、驚き、そして恐れおののいた。そして、そのような目に合うのは嫌だと思い、死ぬことを考えるのはやめることにしたのである。
小さいかわいい孫に「死んだらどうなるか」と尋ねられたおばあちゃんは、その時どんな気持ちだったのだろう。死にたいと思うほどつらい気持ちを抱えていた孫をどんな思いで見守っていたのだろうと思うと胸が痛む。おばあちゃんは、「自分で死ぬことは、人間の罪の中で一番重い罪」と教えた。この教えは、死にたいほどの悲しみがあっても、生きながら解決しなければならないという、ある意味厳しい教えとも取れる。または死ぬことは解決にならないという教えとも言える。しかし、がんばって生きなさいと言われるよりもストレートにはるさんを逃げないで生きることに向かわせたのかもしれない。
その頃、はるさんは、ジャッキーチェーンみたいな強い人に憧れた。ドラゴンボールの孫悟空みたいに強くなりたいとも思っていた。そこで、はるさんはお母さんにお願いして空手を習い始めたのだった。ところが、空手の先生は、なんとものすごく怖い先生だった。パンチパーマの先生ですごみがあって、片手には竹刀を持っていた。でもはるさんは、強くなりたかったので、がんばった。道場には5、6年生のお兄さんたちもいた。空手教室では、誰も耳のことをからかったりしなかった。
はるさんが空手を習ううちに、次第に学校でのいじめはなくなっていった。やられてばかりではないはるさんの雰囲気が変わったのだろうか。小学校の高学年になると学校では、バスケットを楽しむようになった。たまに耳のことをからかわれることもあったが、「しょうがねえじゃん」と言い返したりした。いじめで悩むことはほとんどなくなった。
<中学校時代>
中学校では、部活はバスケットボール部に入り、バスケに夢中になった。中学校ではいじめもなかった。
小、中と座席はきこえに配慮してもらって、前の方に座った。しかし、係などを決める話し合いでは、よく話し合いについていけなかった。授業も振り返ってみると6〜7割くらいしかきこえていなかったようだ。しかし、仕方ないと思っていた。今のように補聴援助システムが当たり前ではなかった時代で、個人の努力にまかされていた。
しかし、中学校では、友だちは小学校からの友だちも多く、補聴器をしているはるさんを自然に受け入れてくれていて、居心地は悪くなかった。
<高校時代 〜隠せてしまう程度の難聴だった〜>
高校は、市内の公立高校に進んだ。小中と比べると、今度ははるさんの耳のことを知らない人ばかりの環境になったのだった。はるさんは、思春期の真っ只中でもあり、友だちに耳のことを言う勇気が持てず、髪の毛を長くして耳を隠していた。クラス全体が部活に入らない雰囲気だったので、はるさんも部活に入らなかった。
まわりにきこえのことを説明していなかったので、友だちに話しかけられて、正確にききとれなくても、多分こんなことだろうと想像して受け答えしていた。それで、受け答えが見当違いなことがあったためか、なんか変なやつと思われることも少なくなかったのだろうとSさんは今振り返って思う。
はるさんは、面とむかっての会話ならほぼきき取れるし、話すことにも支障はなかったので、「隠せてしまう聴力の難聴」だったのだ。でも隠すことで誤解が生じ、よい関係を作ることができないことも少なからずあったのだ。そんなことで、高校には最後まで馴染むことができなかった。
後で、はるさんは、せめて部活に入っていれば、もっと友だち関係を深めることができただろうと、後悔した。自分を開示しないで、内に閉じこもっていては、何も始まらないということを高校時代に学んだ。
はるさんは、混合性難聴だったので、伝音器官(外耳、中耳など)に手術の適応があった。就学前、小3、高3と手術のための入院歴がある。手術はうまくいかなかったのだが、高3の時に、病院で優しく接してくれる看護師さんの姿を見て、看護師という職業に興味を持つようになった。実際出会った看護師に自分でもなれるかどうか相談すると、きっとなれると励ましてくれた。
それまでは、とりあえずどこかの大学に行こうとだけ思っていたが、看護師になるという目標を持つようになったのだ。ちょうどその頃、聴覚障害があると医療職に就けないという法律から「なれないことがある」という表現のものに変わり、事実上、看護師資格取得が可能になったという変化の時期でもあった。これについては、お母さんが国(厚労省)に電話をして調べてくれたのだった。
さて、それから、自分を受け入れてくれる専門学校を探すのが大変だった。難聴があるというと、多くの専門学校に受け入れを断られた。つまりほとんど門前払いだったのだ。現在では、聴覚障害という理由で入学拒否をしてはいけないことになっているが、当時はまだそんな時代だった。聴診器がきこえないからだめだとも言われた。ただ1箇所、T大の付属の専門学校で、校長先生が直接応対してくれて、聴診器は、電子聴診器があるから大丈夫ではないかと言ってくれた。それで、その専門学校に入学することになったのだ。学費ははるさんのおばあちゃんが貸してくれたという。また、お母さんも当時非常に高価だった電子聴診器をアメリカから取り寄せてくれたという。
<専門学校時代 〜人生で一番勉強した〜 >
この看護学校時代は、はるさんの人生で一番勉強した時代となった。はるさんは、大変な思いで、学校を探し、やっと学校を見つけ、おばあちゃんに借金して学費を手に入れ、やっとの思いで入学したのだ。多分はるさんの覚悟はまわりの人たちとはちょっと違っていただろう。とにかく必死に勉強した。はるさんのノートは完璧だったので、みんながはるさんのノートを見せてもらいにきたという。
高校時代の反省からはるさんは医学部と合同のバスケット部にも入った。夕方5時に授業が終わり、そこから9時までバスケットをし、みんなで夕飯を食べ、12時に帰宅してそこからまた勉強した。部活の先輩から、過去問などを教えてもらい、それを友人にも教えてあげて、みんなで勉強した。夏休みも学校に行き、お昼の1時間以外は、午前も午後もずっと勉強していた。実習でも指導者に厳しくされたが、とにかくクリアするために必死だった。
<大学病院への勤務 〜最初の関門〜 >
そして、晴れてはるさんは、国家試験に合格し、本当に看護師となり、大学病院に勤務することになった。耳鼻科の看護師だったので、自分と同じような経験をする子どもたちの力になってあげられればという思いもあった。看護師の先輩はよくしてくれた。きこえなかったら、きいていいよ、なんでもきいてねと言ってくれた。
ところが、現実は厳しいものだった。仕事の申し送りは、早口だ。また、皆マスクをしての仕事である。慌ただしい職場でのペースの速い看護師同士のコミュニケーションでは、フレーズを丸ごと聞き漏らすことも多く、そういう場合は、何を聞き漏らしたかがわからず、聞き返すこともできなかった。「きこえなかったら、きくんだよっていったでしょ。」と何度も言われた。聞き漏らしていること自体に気づけず、何をどうきいたらよいかがわからないということまでは、理解してもらえなかった。
ある時、夜勤で、指示されていた点滴をし損なったことがあった。指示されていたことにきづかなかったようだ。幸い、それは命に関わるものではなく、ドクターも許してくれた。しかし、はるさんは、自分の限界を感じ、就職したその年の暮れに大学病院を退職したのだった。
<老人保健施設 〜これまでの経験を活かして〜 >
はるさんは、今度は特別擁護老人ホームに看護師として勤め始めた。大学病院とは違って、仕事の内容は、割合ルーティンが決まっていて緊急に対応することは少ないところだ。緊急性があるとすれば、誤嚥による窒息への対応で、それも慣れれば対応可能だという。
職員も比較的心に余裕があり、働きやすい環境である。会議がある時は、準備の時に机を自分で小さくくっつけて、メンバーの話をできるだけ近くできけるように工夫した。このような環境の中で、はるさんは、のびのび働くようになった。そしておばあちゃんに借りた学費もちゃんと自分で全部返済した。
25歳を過ぎたころから、はるさんは、自分のきこえにくさについて、自分からまわりに説明しないとダメだと思い、新しくきた人には、ちゃんと説明するようになった。ここまできて、やっと自分が難聴だということを自分で「受け入れられた」とはるさんは感じている。それまでは、どこか難聴であることにひけめを感じていて、難聴である自分が嫌でどこか取り繕うところがあったけど、難聴であることを含めて自分を丸ごと受け入れられるようになったというのだ。
現在は、職場で知り合った女性と結婚し、一人の息子さんにも恵まれている。職場では、ベテランとして活躍している。数人の会議の時は、小さい輪になってもらって、できるだけ近い距離で話を聞けるように工夫しているし、初対面の人には、必ずきこえのことを説明しているそうだ。
<あとがき>
一言で「障害を受け入れる」とか「障害に向き合う」と言っても、それぞれにその人なりの歴史があり、その過程でその人なりの学びがあることが分かる。小学校時代にいじめっ子に揶揄されても「しょうがねえじゃん」と言い返すだけの力が育ったこと、高校時代にきこえのことを開示せず、内に閉じこもっているだけでは、何も始まらないと学んだこと、大学病院では、聞き漏らしたことに自分で気づいていないことがあることに気づいたこと、等々の経験を積み重ね、看護師としてのキャリアを積む中で、徐々に自分に自信と誇りを持つに至ったはるさんのヒストリーには、大変感銘を受ける。
勿論、今後の世の中では、大学病院のようなところでも、聴覚障害のスタッフへの情報保障が進むことを強く望む。はるさんのような「説明が難しい難聴」の場合も理解が広がってほしいと思う。
特に聞き漏らしていることに本人自身が気づけていない場合があることは、難聴者支援の難しいところであると思われ、支援者にも理解が深まっていくことを切に望む。