難聴のある人生を応援します @ライカブリッジ 

難聴のあるお子さん、保護者、支援者の方々に先輩社会人のロールモデル等をご紹介します。様々な選択肢、生き方があります。

社会人難聴者に学ぶ 〜みんなのヒストリー〜

 このブログの主な内容は、難聴児療育に長年携わっていた筆者が、成長して社会で社会人として活躍している難聴者についてご紹介するものです。乳幼児期に出会ったお子さんが大人になり、社会で経験してきたことについて知ることは、筆者にとって大きな学びのあるものです。難聴のわかりにくさを改めて感じることもしばしばあります。話を聞かせていただくうち、これは是非多くの方に知っていただいて、彼らの貴重な経験を活かしたいと思うようになりました。
 そして、これから成長して、学校に通い、自分の将来を考えようとする若い難聴の方々だけでなく、すでに社会で働いている方にも読んでいただき、難聴ならではの苦労だけでなく、生き方の色んな可能性についても知っていただければうれしいです。
 できるだけたくさんの生き方、働き方、考え方をご紹介することで、同じ悩みを発見するかもしれませんし、勇気を得ることも、共感できて励みになることもあるかもしれません。
   筆者は、ライカブリッジという任意団体で活動しています。ライカブリッジは、「like a bridge」(橋のように)難聴のある方々同士又は関係者同士を橋渡ししたいという気持ちで活動する任意団体です。筆者と難聴のあるお子さんを育てる保護者有志で活動しています。
2021年春から活動を始め、これまで12人の難聴のある社会人のインタビューを行い、それを録画し、zoomで共有したり、YouTubeの期間限定の配信をしたりしました。共有や配信の対象は、難聴のある小中高大生、保護者、支援者です。宣伝ややり方のアイディア、情報保障についてはライカブリッジの仲間と力を合わせてやってきました。
 <これまでのインタビュー> 
 これまで10人の社会人を紹介してきました。筆者がが幼児期に療育施設で出会った方々です。皆さん快くインタビューに応じてくださり、忙しい中、後輩たちの力になれればと協力してくださいました。
 1  37歳 看護師(中等度難聴)
 2  28歳 作業療法士(高度難聴)
 3  30歳 ウェブ制作 フリーランス(重度難聴)
 4  31歳 ろう学校教員(重度難聴)
 5  27歳 公務員(中等度〜高度難聴)
 6  28歳 劇団員(高度難聴)
 7  29歳 鉄道会社社員(高度難聴)
 8  39歳 会社員(重度難聴)
 9  31歳 歯科技工士(高度難聴)
 10 31歳 証券会社社員(中等度難聴→高度難聴) 
 11 29歳 保育園勤務経験8年 (重度難聴)
 12 46歳 手話講座講師 (高音急墜型難聴→重度難聴)

 今後もこのインタビューは続けますし、このブログにも紹介していくつもりです。社会人の紹介の他にも、たまに日々の思いなども綴りたいと思っています。
 今後、もっともっと社会に「難聴」についての理解が広がり、きこえにくさにちゃんと配慮できる仕組みが整っていくように願っています。
※ PC版では、左側に「メッセージを送る」があります。そこから筆者に個人的にメッセージが送れます。インタビュー動画がご覧になりたい場合は、メッセージから申し込んでいただければ、本人の了解を得て、申込者のアドレスに動画のURLをお送りします。どの動画か、また視聴希望の理由とアドレスを送ってください。ただし、視聴は、期間限定です。拡散せず、ご本人のみでご視聴ください。

NO.7 わたしの難聴ヒストリー③ (web制作の仕事 フリーランス ゆうさんの場合)

2024年02月22日 | 記事

ゆうさん web制作(フリーランス) 30歳 幼児期55dB   その後95dB 補聴器装用

 ゆうさんが幼児期に療育施設に通うようになったのは、3歳児クラスからだった。その頃、中等度難聴だと発見がこのくらいの時期になることは少なくなかった。同齢にわんぱくな男の子がたくさんいて、ゆうさんもやんちゃな男の子だった。賑やかなグループだったと記憶している。

 大分時が経ってから、ひょんなことから、私の職場の看護師さんが、「私の甥が幼児期にお世話になりました。」と話しかけてくれたのがきっかけで、本人とオンライン上(zoom)ではあるが再会することになった。30歳でのインタビューが実現した。

 聴力が幼児期の時より随分と低下しているとのことだったので、初めにコミュニケーション方法についてたずねると、「今は、ろうの友達と話す時は、ばりばり手話で会話している。しかし口話もできる。相手によって使い分けている。」ということだった。

 Zoomで1対1の手話まじりの口話での会話はほぼ問題なかったが、随所で手話が役に立った。ただし、私の手話がつたないこともあり、特に読み取りがついていけず、細かいところでの私の聞き間違いがあった。そこで、動画に字幕をつけたあとで、本人に修正してもらった。例えば、「情報システム解析学科」を私が「総合システム解析学科」と聞き間違ったりした。「ジョウホウ」と「ソウゴウ」のように母音や口形が同じで、文脈によっても判別がつかない場合は、お互いに、その場ではそのディスコミュニケーションに気づかない。彼は「情報」と言いながらちゃんと手話でも「情報」と表現してくれていたのに、私はその手話が読み取れていなかった。後で動画に字幕をつけた時に彼の方で気づいてくれたのだった。そういう意味で、彼との正確なやりとりには、指文字や手話や文字は必要だった。

 

【 ゆうさんのストーリー 】

<幼児期>

 幼児期は両耳共に55〜60dBの中等度難聴だった。療育施設には3歳児クラスから通った。卒園の頃、つまり就学直前に聴力が落ちた。それからあまり変化はない。大学生までは両耳に補聴器を装用していたが、社会人になってからは、右は外している。今、左は95dBくらい。右は100dBは越えてると思う。右はあまり聞こえなくなって、はずした方が楽だった。

 療育施設では、やんちゃな男の子だったと自分でも思う。同年齢の男子が多かったので、一緒に楽しく遊んでいたと記憶している。負けず嫌いで、負けると泣いたという記憶がある。今も負けず嫌いだと思う。

 個別指導の担当はS先生で、聴力検査をやってもらったりした。

 保育園の記憶はあんまりない。療育施設は週に2回。月曜日と金曜日に通った。ことばというよりは、行動で示すことが多かったイメージがある。

<小学校時代>

 小学校に通うため、両親は、実家近くでことばの訓練ができるところを探した。ことばの教室のあるO小学校に入学した。それに合わせて引っ越しもした。ことばの教室でサポートをしてもらった。授業はみんなと一緒で、終わったあとで2時間くらいきこえの練習や宿題をみてもらったりした。コミュニケーションは行動で示すことが多かった。やんちゃだったと思う。席は前の方にしてもらった。隣の友達に色々と教えてもらったが、算数は得意で、友達に教えてあげたりしていた。つまり助けてもらうばかりでなく、ギブアンドテイクの関係だった。

 幼児期から公文に行っていて、算数が得意だった。いじめは一時的にはあったが、大きないじめはなかった。ことばの使い方や発音には苦労した。国語は嫌いだった。あと、空手を習っていた。空手を習うことで、落ち着いて相手の話をきいたりする力や集中力が身についたと思う。聞く力を育てることは大事だなと思っている。

<中学校時代>

 中学校に入るにあたり、はじめろう学校か地域の学校か迷った。両親は、普通の学校でもまれてほしいと願っていたが、自分はどっちでも構わなかった。負けずぎらいなこともあって、地域の学校で色々学ぶこともあるんじゃないかと思った。それで、地域の中学校に進んだ。授業はわからないところは、授業が終わってから、先生にききに行った。わからないところは納得いくまできいた。塾も行っていた。

 小学校の時の友だちがたくさん中学校にもいて、きこえのことはわかってくれた。わかりやすく話かけてくれた。中学校でいろんな友達とも付き合ったことで、健聴者との付き合い方も学べたと思っている。

<高校時代>

 高校は、他県にあるN大学附属高校(共学)に進んだ。片道2時間半、3年間通った。今から考えるとよく通ったなと思う。塾の先生からの情報があり、その高校に魅力を感じていた。教育方針がしっかりしていた。

 難聴のことは、高校の先生はわかってくれた。学習面でわからないことをきくと教えてくれた。授業はみんなと同じように受けた。黒板に書くことを見て、理解するという力を小中学校時代に身につけていたので、先生の話がよく聞こえなくても黒板の板書で理解した。

 高校は新しい環境だったが、友達とのコミュニケーションへの不安より、ワクワク感が大きかった。きこえないことを隠さないで、説明した。きこえないから、ゆっくり話してほしいと伝えて、わかってもらうようにした。そのようにして人間関係を築いていった。また、自分が言っていることが相手に伝わっているかどうかをちゃんと見るようにしていた。これは伝わったけど、これは伝わらなかった。その伝わらなかったことは言い方を変えてみてまた伝わるかをみた。複数人数の会話は難しかったけど、1対1の会話を大事にした。特にテニス部の部活の友達とは、仲良くなり、今でも時々会っている。

  高校の時は数学の成績がクラスで1番か2番だったので、そのまま推薦でN大学に入学した。「数学のできるやつ」として一目おかれる存在でもあった。

<大学時代>

 N大学文理学部 情報システム解析学科に入学。

 大学生活が学校生活の中で一番楽しかった。サークルは、テニスと手話に入った。手話サークルで初めて手話の世界やろうの世界を知って、ろうの友達と手話でコミュニケーションを取る楽しさを知った。

 1年生の時、幼児期に出会った療育施設の友達に飲み会に誘われた。ろう学校に行った友達がそこで手話で楽しそうにコミュニケーションを取っているのを見て、楽しそうでいいなと思った。自分も学ぼうと思った。それで大学の手話サークルに入り、学んだのだった。小さい時から手話というものがあることは知っていたが、あまり関心がなかった。だからと言って、子供の時から手話を学べばよかったとも特に思わない。しかし、今は手話での方が楽しいと感じる。口話は発音のせいで伝わったり伝わらなかったりするから。

<就職>

 R社の特例子会社に障害枠で入った。5年と少し勤めて、ウェブ制作の会社に変わった。そこに1年半勤めて、スキルを身につけて、ウェブ制作のフリーランスになった。

 初めの会社は、色んな業務を請け負っていた。自分は広告の仕事をしていて、ホームページを作ったりした。ホームページの仕事が楽しかったので、会社に行きながら、ホームページを作る学校にも通った。会社の仕事は、浅く広くだったが、やりたい仕事を思う存分やりたかった。自分の可能性を試したい、とことんやってみたいという気持ちがあった。そこで、初めの会社をやめて、ウェブデザインの会社に転職した。そこに1年半勤めてスキルを磨いた後、今はフリーランスになって仕事をしている。おかげさまで忙しくしている。一番うれしかったのは、レプロ東京というろう者と健聴者の混合のサッカーチームのホームページ制作の仕事を依頼されてやったことだ。聴覚障害の自分が聴覚障害者の役に立てたのは格別うれしかった。

<両親、友達>

 両親は、自分がやりたいことを好きにやらせてくれた。感謝している。フリーランスになる時も、どう思う?ときいたら、やってみればと背中を押してくれた。特に他に影響を受けた人というのはない。

 今はろうの友人も難聴の友人もいる。アイデンティティは、特にこだわりはなく、どっちでもよいと思っている。口話でも手話でも相手に合わせてコミュニケーションを取っている。

 

<あとがき 〜ゆうさんのストーリーについて〜>

 後に障害者の就職に詳しい人と話した時に、特例子会社で働いた後に、そこを退職し、フリーランスで仕事をしている人がいると話したら、大変驚かれたことがある。滅多にないことだということだった。私の勉強不足で特例子会社についてよく知らなかったのだが、そこから自立して自分の力で仕事を始めるというのは、大したことに違いない。

 彼に幼いころから数学的才能があったことは確かだろうし、それが彼の身を助けることになった面もあるだろう。高度難聴がありながら、高校時代に数学でクラスで1、2番の成績というのは、やはり彼の自信や誇りそして拠り所となったに違いない。しかし、それを武器としてポジティブに真っ直ぐに努力した力は、心の強さも感じさせる。

 コミュニケーションでは、大学で初めて手話サークルに入り、手話で会話する楽しさを知った。今では、手話の方が楽しいという。しかし、だからと言って、それまでの会話の苦労に対する恨み言は一切聞かれなかった。生来の負けず嫌いからくるものもあるかもしれないが、なんともポジティブな姿勢に心打たれる思いもする。

 後で少しだけお母さんに話をきく機会があったが、中学校の時にはイライラを示す時期もあったとか。本人からは、一切そこでの嫌な経験とかつらい気持ちだったとかはきかれなかったが、実際にはそうはいいことばかりではなかったと想像する。しかし、振り返ってみて、本人は「中学校で健聴者との付き合い方を学べた」と中学校生活もあくまでもポジティブに語った。嫌な思いをしたこともあっただろうと思うが、負けず嫌いだけでなく、何でも自分の力に変えてゆく力を感じた。そして彼を信じ、支えたご両親の力も大きかったのだろうと思う。彼のお母さんもまた、はっきりとした、クヨクヨしない性格の方だったと記憶している。そして、もちろん、いい友達、いい先生にも恵まれたのだろう。

 自分のことを誰も知らない高校生活も「ワクワクした」と語ったのについては、真っ直ぐに自分を開示し、周りの理解を得ようとする姿勢の素晴らしさを感じた。自分の言ったことがちゃんと相手に伝わっているか見届けるようにし、伝わっていないと感じたら、伝え方を変えたりしたのは、自己流のコミュニケーション上の工夫だったといえる。大学生活についても、まだ支援室もない時代だったが、自分の力で友達関係を構築して、大学生活が「一番楽しかった」というのも素晴らしいと思う。

 やりたい仕事で自分を試したかったとフリーランスの心意気を語ったが、自分の可能性を信じる力に感動さえした。今後、彼の仕事が末長く発展的に続くことを心から願っているし、活躍を楽しみにしている。

 


NO.6 わたしの難聴ヒストリー② (作業療法士ゆりさんの場合)

2024年02月08日 | 記事

ゆりさん   作業療法士    28歳 低音域40dB程度、2kHz以上は90dBの高音急墜型難聴 補聴器装用

 ゆりさんは、3歳9ヶ月で難聴診断を受け、実際に難聴児の療育施設に通い始めたのは、4歳直前だった。聴力型は高音急墜型といって、低音に残聴があるが、高音域で急にきこえなくなるような難聴であった。左耳は低音が40dB程度あるが2kHzからは一気に90dBに下がった。右耳は左より全体に悪く、高音域は、ほとんど聞こえなかった。音(特に低音域)にはよく反応するが、言葉が遅れるというわかりにくい難聴である。難聴が発見されるまでことばが遅いのは発達の遅れのためと診断されていた。まだ新生児聴覚スクリーニングが普及していなかった1990年代にはありがちなことだった。

 4歳のころは、比較的発音もきれいで日常会話も成立するので、問題の所在がわかりにくかったが、極端に語彙が不足していて、同年齢の友達との会話も長続きしない状態だった。しかし、外交的な明るい性格で、何よりもコミュニケーションに積極的だった。ご両親も非常に熱心で、ゆりさんのために引っ越しもして熱心に療育に通ったと記憶している。

 

【 ゆりさんのストーリー 】

<幼児期、小学校時代 〜少しずつきこえのことを自覚するように〜 >

 療育施設に通い始めるころ、療育施設やことばの教室があるO市に引っ越しをした。その頃妹が生まれた。生まれたばかりの妹を抱え、父母も一生懸命だった。

 ゆりさん本人には、それほど悲壮感はなく、小学校に上がっても、割といい加減で、補聴器をつけ忘れて学校に行ってしまったり、電池を忘れたり、補聴器をつけたままお風呂に入ってしまったりしていたとのこと。実際小学校の低学年のうちは、そこまでコミュニケーションに困ることはなかった。が、母から言われて「自分はきこえが悪いのだからがんばらなくちゃ」という思いはあった。人前に出るのもあまり厭わない方で、クラスがうるさい時には、教壇に立って、「うるさいよ〜静かにして〜」などど訴えたりもするような子だった。

 3年生の時のエピソードでこんなことがあった。学校の校内放送は何を言っているかわからなかった。自分だけがそれをきこえないでいることさえ、よくわかっていなかった。しかし、一度放送で指示されたことをやってなかったことで先生に叱られた。頭ごなしに叱られて、ショックだった。多分先生も自分が放送の話は聞き取れないことは、全く理解していなかったのだと思う。(卒業する時、その先生には、「あの時は悪かったね、ごめんねー」謝られた。)

 そんな経験をしながら、自分は聞き取れていないことがあるということを徐々に自覚するようになっていった。5、6年生になると、友達の会話の内容が難しくなり、ついていけなくなった。友達はテレビのドラマやお笑い番組の話をするようになったが、その頃はまだテレビに字幕もなく、自分がテレビから得られる情報は乏しかった。「友達は何の話をしているんだろう」と思いながら、その場にただいるだけというのは少ししんどかった。そういう意味で友達関係に悩んだ。

 しかし、それを母に訴えると、母は、「気にしなくて大丈夫。自分が思っているほど、周りはいじめようとは思ってないんだよ。」と言ってくれた。母やことばの教室の先生はわかってくれていたことは救いだった。

 自分のきこえのことは、友達にわかってもらうことは、難しかった。一人だけ、同じマンションの女の子は、一緒にいて居心地のよい友達だった。押し付けがましいお世話もなく、「一緒にいたいからいる」という感じでうれしかった。

<中学生 〜きこえたフリがいじめの原因?〜 >

 中高一貫校を受験した。都内の学校で片道1時間半かけて通った。6年間という長い付き合いの方が関係が深まるのではないかと両親が考えたのだった。

 しかし、中学校1年生、入学してすぐにいじめにあった。席の近くの子たちがしゃべってくれないという状態が続いた。席の遠い子たちとは仲良くなった。今考えると「きこえるフリ」をしていたことが、いじめられた原因だったかもしれない。その子たちは、先生に「知らないのに知っているふりをする」と自分のことを言いつけたという。先生から母にその話があった。

 しかしゆりさんは、「自分をいじめるような友達はいらない」と考え、無理にそういう友達と仲良くなろうとは思わなかった。そういう「強さ」があったのかもしれない。

<高校時代>

 高校時代に、友人に「きこえないなら、聞き返して。通じてないのは、私が嫌だ」と言われたことがあった。ゆりさんは、「空気を乱したくない」「聞き返すと嫌がられる」と、適当に理解して適当に返す習慣がついていたのかもしれない。それまでは、自分のきこえについてまわりに理解してもらおうという努力はあまりしなかったが、少しずつそういうことを友達に伝えていいんだと思うようになった。こういうことの積み重ねがあって、後に大学での卒論は「難聴者の集団コミュニティ」をテーマにし、自分の体験をまとめ、社会人になってからの行動の指針の提案を行ったのだった。

 進路については、割合のんびり考えていた。母が看護師だったので、漠然と自分も医療系の仕事に就きたいと思っていた。看護師も考えたが、命にかかわる仕事だし、夜勤もあるので、迷った。高校3年生の時に作業療法士という仕事を知った。とりあえず作業療法士を目指すことにした。B大学作業療法学科に入学した。

 大学1年の時に医師だった父が脳血管障害で倒れ、片麻痺になった。作業療法士を目指すことは、父の役にも立つと思った。大学の作業療法の養成課程では、自分が難聴であっても大らかに受け入れてくれたが、何か特別なサポートがあったわけではなかった。が、担当してくれた先生方は、自分に合った実習先などを一生懸命考えてくれた。

 実習では、精神科での実習で苦労した。ある意味深い話までしなければならなかったので、実習場面でどのようなことが話されているかを聞き取って学ぶのが大変だった。どうしてもうまくできなかった感がある。

<就職 〜一般雇用から障害枠雇用へ〜 >

 実習も通り、無事に国家試験もパスし、いよいよ都内の病院に作業療法士として就職した。新人の時は指導してくれる先輩が厳しかった。その先輩や上司に自分を理解してもらうために、大学生の時の卒論「難聴者の集団コミュニティ」を読んでもらったりした。そうすることで、難聴のある自分の環境整備を考えてもらったりした。作業療法士だからこその理解があったということも言えるかもしれない。

 初めは、一般雇用で入ったが、2年目からは障害枠になった。「配慮が必要」ということを自分もまわりも認識したのだと思う。特に作業療法士のトップがよく理解を示してくれて、なんとか今もがんばっている。

 初め回復期病棟にいて、その時は1対1のコミュニケーションが多くやりやすかった。しかし、今はデイサービスに関わっていて、40人の利用者をOT、PT二人でみる体制なので、コミュニケーションでは、辛い場面が増えた。家族の情報を得るために、電話も使用するが、大きめの声で言ってもらえば、わかる。どうしても聞き取れない時だけ、周りの人に代わってもらっている。

 上司が理解してくれるだけでなく、自分が周りにも味方を作る努力をすることも必要だと思うわかってもらう努力をし、分かってもらった時は、それに対して感謝するということが大切だと思っている。

<補足的あとがき>

 ゆりさんのインタビューの話はここまでだが、少し補足したい。ゆりさんが社会人2年目の時に「難聴児を持つ親の会」の定期刊行物「親の会通信」に投稿した「わたしの体験談」では、次のように書かれている。

「・・・高校になると『聞き返すと嫌がられる』と段々諦めを増やしながら過ごしていました。『なんだか寂しい』漠然とした感情は、常につきまとっていたように思います。難聴だからこそ感じるストレスを家族にぶつけることも度々でしたし、反抗期も長く激しかったです。・・・・そんな中で徐々に『まあいいや』と強くなることを植え付けられ、人と関わることをやめられなかったのは、『世の中コンナモン』だからこそ『ポジティブ』に過ごせと発言の陰から伝えてくる母親、しんみり話を聞いておきながら『ふふふーん』と笑い飛ばす父親、普段冷たいのに辛い時を見計らって優しくしてくる妹の存在が大きかったです。」

 ゆりさんは、このような家族が味方になってくれたことに大きく背中を押され、ポジティブに前進してきたようである。

 また、次のようにも言っている。「・・自分自身の特徴(例えば難聴であること)を把握して言葉巧みに伝える能力を身につけておくと、非常に過ごしやすくなることも追加しておきます。但し、これが難解で一番答えが欲しいところでもありました。」

 補聴器をしていることは、開示したとしても、それが具体的にコミュニケーションにどういう影響があるかについて、周りに説明する難しさを常に感じていたようである。ゆりさん自身も子どものころは、よく分かっておらず、なんとなく周りに合わせてしまいがちであったが、周りの友人もそれに違和感を示すことも出てきて、それにどう対処するかを考えたのが、卒業論文に結実したのだろう。

 作業療法士は何らかの困り感を持っている人に対して、どのように環境整備するか、どのように支援するかを考える職業でもある。Aさんの上司が理解を示してくれたことは、さすがだと言う気がするが、ゆりさんの自分で自分の道を切り開く努力もさすがと言える。

 しかし、個人の努力だけでなく、「難聴」についての理解が社会に行き届いていないのも事実で、そこがもう少し変化してほしいところだとも思われる。確かに「自分の特徴を伝える」説明力はかなり難易度は高いだろう。通常の会話のテンポだと、ふと聞き漏らした途端、テンポが噛み合わなくなる。その違和感はAさんの友人たちが感じたものなのだと思う。それで「変な子」「知ったかぶりの子」と退けるのは、あまりにも残念な無理解だ。分かってくれないような友達はいらない、分かってくれる友達を大事にしていくと強気で進むのもひとつの力だが、どうすれば分かってもらえるかも追求していきたいところである。

 このインタビューが終わったところで、ゆりさんが使っていなかったデジタル補聴援助システムの使用を勧めた。これは、マイクに入った声が補聴器にストレートに入るものだが、ゆりさんは、すぐにこれを試し、購入し、そして日常のコミュニケーション場面に活用した。

 特に職場でのケース会議では、以前より内容がよく聞き取れるようになり、大変効果的だったようだ。プライベートでも電車内の騒音下の会話で相手にマイクに話しかけてもらうなど、活用しているという。

 デジタル補聴援助システムは、学校に通う子どもたちの間では、当たり前になってきつつあるが、このように社会人難聴者は却って、最近のテクノロジーを知らずにいることもある。音声文字化の技術もかなりのスピードで進歩している。使えるテクノロジーを使いこなしてゆくのも大切である。だから、難聴者同士のつながりを大事にし、大切な情報を広めてゆくことの重要性も改めて感じたところである。

 


NO.5 わたしの難聴ヒストリー①(看護師はるさんの場合)

2024年02月05日 | 記事

看護師はるさん 37歳 右100dB  左60dB (混合性難聴)補聴器装用 

 はるさんにインタビューをしたのは、はるさんが37歳の時である。はるさんは、左は60dB程度、右は100dB超の聴力で混合性難聴で両耳に補聴器を装用している。難聴児の療育施設にきたのが2、3歳のころで、補聴器もその頃からの装用だ。

 お目々がくりくりっとした大人しい男の子だった。お母さんの隣に大人しく座り、周りの様子を静かに見ていた。後ろから笛をピッと吹くとさっと振り向いたことを覚えている。活発なわんぱく坊主というよりは、やさしい男の子のイメージだった。補聴器の効果は良好で、就学は地域の小学校に行った。そのはるさんが看護師をしているときき、是非これまでの道のりと仕事の話をききたいと思ってインタビューを申し込んだ。

難聴者の医療職

 聴覚障害者に法的に医療職が認められるようになったのは、今世紀に入ってからである。2001年に、聴覚障害は絶対的欠格事項から相対的欠格事項になった。つまり「聴覚障害があると医療職になれない」から「なれないことがある」という法律に変わったのだ。はるさんが看護師の道を目指して歩み始めたちょうどその頃、日本で聴覚障害者にその門戸が開かれたことになる。そのようなはるさんの先駆け的な看護師への歩みを是非知っていただければと思う。

【 はるさんのストーリー 】

<幼児期の記憶>

 はるさんの難聴児療育施設の記憶は、餅つき大会とか、運動会とか楽しいものばかりだったという。個別指導とグループ指導があり、個別指導では、D先生が色々と教えてくれたのを記憶している。同じ年齢のクラスには、はるさんの他に3人の友だちがいてそのうち一人とは今も時々連絡を取っている。並行して通っていた幼稚園での思い出は、泥だんごの思い出がメインで、友だちとうまくコミュニケーションが取れなかったせいか、泥だんご作りに専念していた。泥だんごをカチカチにして、ピカピカに磨くのに夢中になっていた。当時(1980年代)はボックス型の補聴器で、その着脱が煩わしかったのも記憶している。

<小学校時代 〜低学年でいじめに〜 >

 1〜2年生の時は、クラスの何人か(ガキ大将とその手下)にいじめられた。くつに画びょうを入れられたり、教科書をのりで貼られたりした。おしくらまんじゅうのときにはるさんだけ異様に強く押されたりした。補聴器をしていることや、多少の発音の歪み、そして外見のことなどがからかいの対象となったようだ。子どもの世界は時に残酷だ。

 家で母親に訴えて、母親から担任の先生に言ってもらったけど、当時は今日ほどいじめに対しての学校の対応はなく、よくいえば大らかにほとんど放置されていた。それで、いじめは続いたのだ。学校に行きたくないと泣いて訴えたこともあったが、はるさんがいじめを理由に休むことはなかったと言う。

 2年生の時、はるさんは、いじめから逃れる方法として、死ぬことをちょっと考えた。包丁でお腹をさせば死ねるかもしれないと思った。そこで、かわいがってくれていたおばあちゃんに「死んだらどうなるか」を尋ねた。するとおばあちゃんは、人の罪の中で、自分で死ぬことが一番重い罪なんだよと教えてくれたのだった。自分で死んだら閻魔様にすごくしごかれて、地獄でものすごく辛い目にあうんだよとおばあちゃんは教えてくれた。ちいさいはるさんは、驚き、そして恐れおののいた。そして、そのような目に合うのは嫌だと思い、死ぬことを考えるのはやめることにしたのである。

 小さいかわいい孫に「死んだらどうなるか」と尋ねられたおばあちゃんは、その時どんな気持ちだったのだろう。死にたいと思うほどつらい気持ちを抱えていた孫をどんな思いで見守っていたのだろうと思うと胸が痛む。おばあちゃんは、「自分で死ぬことは、人間の罪の中で一番重い罪」と教えた。この教えは、死にたいほどの悲しみがあっても、生きながら解決しなければならないという、ある意味厳しい教えとも取れる。または死ぬことは解決にならないという教えとも言える。しかし、がんばって生きなさいと言われるよりもストレートにはるさんを逃げないで生きることに向かわせたのかもしれない。

 その頃、はるさんは、ジャッキーチェーンみたいな強い人に憧れた。ドラゴンボールの孫悟空みたいに強くなりたいとも思っていた。そこで、はるさんはお母さんにお願いして空手を習い始めたのだった。ところが、空手の先生は、なんとものすごく怖い先生だった。パンチパーマの先生ですごみがあって、片手には竹刀を持っていた。でもはるさんは、強くなりたかったので、がんばった。道場には5、6年生のお兄さんたちもいた。空手教室では、誰も耳のことをからかったりしなかった。

 はるさんが空手を習ううちに、次第に学校でのいじめはなくなっていった。やられてばかりではないはるさんの雰囲気が変わったのだろうか。小学校の高学年になると学校では、バスケットを楽しむようになった。たまに耳のことをからかわれることもあったが、「しょうがねえじゃん」と言い返したりした。いじめで悩むことはほとんどなくなった。

<中学校時代>

 中学校では、部活はバスケットボール部に入り、バスケに夢中になった。中学校ではいじめもなかった。

 小、中と座席はきこえに配慮してもらって、前の方に座った。しかし、係などを決める話し合いでは、よく話し合いについていけなかった。授業も振り返ってみると6〜7割くらいしかきこえていなかったようだ。しかし、仕方ないと思っていた。今のように補聴援助システムが当たり前ではなかった時代で、個人の努力にまかされていた。

 しかし、中学校では、友だちは小学校からの友だちも多く、補聴器をしているはるさんを自然に受け入れてくれていて、居心地は悪くなかった。

<高校時代 〜隠せてしまう程度の難聴だった〜>

 高校は、市内の公立高校に進んだ。小中と比べると、今度ははるさんの耳のことを知らない人ばかりの環境になったのだった。はるさんは、思春期の真っ只中でもあり、友だちに耳のことを言う勇気が持てず、髪の毛を長くして耳を隠していた。クラス全体が部活に入らない雰囲気だったので、はるさんも部活に入らなかった。

 まわりにきこえのことを説明していなかったので、友だちに話しかけられて、正確にききとれなくても、多分こんなことだろうと想像して受け答えしていた。それで、受け答えが見当違いなことがあったためか、なんか変なやつと思われることも少なくなかったのだろうとSさんは今振り返って思う。

 はるさんは、面とむかっての会話ならほぼきき取れるし、話すことにも支障はなかったので、「隠せてしまう聴力の難聴」だったのだ。でも隠すことで誤解が生じ、よい関係を作ることができないことも少なからずあったのだ。そんなことで、高校には最後まで馴染むことができなかった。

 後で、はるさんは、せめて部活に入っていれば、もっと友だち関係を深めることができただろうと、後悔した。自分を開示しないで、内に閉じこもっていては、何も始まらないということを高校時代に学んだ。

 はるさんは、混合性難聴だったので、伝音器官(外耳、中耳など)に手術の適応があった。就学前、小3、高3と手術のための入院歴がある。手術はうまくいかなかったのだが、高3の時に、病院で優しく接してくれる看護師さんの姿を見て、看護師という職業に興味を持つようになった。実際出会った看護師に自分でもなれるかどうか相談すると、きっとなれると励ましてくれた。

 それまでは、とりあえずどこかの大学に行こうとだけ思っていたが、看護師になるという目標を持つようになったのだ。ちょうどその頃、聴覚障害があると医療職に就けないという法律から「なれないことがある」という表現のものに変わり、事実上、看護師資格取得が可能になったという変化の時期でもあった。これについては、お母さんが国(厚労省)に電話をして調べてくれたのだった。

 さて、それから、自分を受け入れてくれる専門学校を探すのが大変だった。難聴があるというと、多くの専門学校に受け入れを断られた。つまりほとんど門前払いだったのだ。現在では、聴覚障害という理由で入学拒否をしてはいけないことになっているが、当時はまだそんな時代だった。聴診器がきこえないからだめだとも言われた。ただ1箇所、T大の付属の専門学校で、校長先生が直接応対してくれて、聴診器は、電子聴診器があるから大丈夫ではないかと言ってくれた。それで、その専門学校に入学することになったのだ。学費ははるさんのおばあちゃんが貸してくれたという。また、お母さんも当時非常に高価だった電子聴診器をアメリカから取り寄せてくれたという。

<専門学校時代 〜人生で一番勉強した〜 >

 この看護学校時代は、はるさんの人生で一番勉強した時代となった。はるさんは、大変な思いで、学校を探し、やっと学校を見つけ、おばあちゃんに借金して学費を手に入れ、やっとの思いで入学したのだ。多分はるさんの覚悟はまわりの人たちとはちょっと違っていただろう。とにかく必死に勉強した。はるさんのノートは完璧だったので、みんながはるさんのノートを見せてもらいにきたという。

 高校時代の反省からはるさんは医学部と合同のバスケット部にも入った。夕方5時に授業が終わり、そこから9時までバスケットをし、みんなで夕飯を食べ、12時に帰宅してそこからまた勉強した。部活の先輩から、過去問などを教えてもらい、それを友人にも教えてあげて、みんなで勉強した。夏休みも学校に行き、お昼の1時間以外は、午前も午後もずっと勉強していた。実習でも指導者に厳しくされたが、とにかくクリアするために必死だった。

<大学病院への勤務 〜最初の関門〜 >

 そして、晴れてはるさんは、国家試験に合格し、本当に看護師となり、大学病院に勤務することになった。耳鼻科の看護師だったので、自分と同じような経験をする子どもたちの力になってあげられればという思いもあった。看護師の先輩はよくしてくれた。きこえなかったら、きいていいよ、なんでもきいてねと言ってくれた。  

 ところが、現実は厳しいものだった。仕事の申し送りは、早口だ。また、皆マスクをしての仕事である。慌ただしい職場でのペースの速い看護師同士のコミュニケーションでは、フレーズを丸ごと聞き漏らすことも多く、そういう場合は、何を聞き漏らしたかがわからず、聞き返すこともできなかった。「きこえなかったら、きくんだよっていったでしょ。」と何度も言われた。聞き漏らしていること自体に気づけず、何をどうきいたらよいかがわからないということまでは、理解してもらえなかった。

 ある時、夜勤で、指示されていた点滴をし損なったことがあった。指示されていたことにきづかなかったようだ。幸い、それは命に関わるものではなく、ドクターも許してくれた。しかし、はるさんは、自分の限界を感じ、就職したその年の暮れに大学病院を退職したのだった。

<老人保健施設 〜これまでの経験を活かして〜 >

 はるさんは、今度は特別擁護老人ホームに看護師として勤め始めた。大学病院とは違って、仕事の内容は、割合ルーティンが決まっていて緊急に対応することは少ないところだ。緊急性があるとすれば、誤嚥による窒息への対応で、それも慣れれば対応可能だという。

 職員も比較的心に余裕があり、働きやすい環境である。会議がある時は、準備の時に机を自分で小さくくっつけて、メンバーの話をできるだけ近くできけるように工夫した。このような環境の中で、はるさんは、のびのび働くようになった。そしておばあちゃんに借りた学費もちゃんと自分で全部返済した。

 25歳を過ぎたころから、はるさんは、自分のきこえにくさについて、自分からまわりに説明しないとダメだと思い、新しくきた人には、ちゃんと説明するようになった。ここまできて、やっと自分が難聴だということを自分で「受け入れられた」とはるさんは感じている。それまでは、どこか難聴であることにひけめを感じていて、難聴である自分が嫌でどこか取り繕うところがあったけど、難聴であることを含めて自分を丸ごと受け入れられるようになったというのだ。

 現在は、職場で知り合った女性と結婚し、一人の息子さんにも恵まれている。職場では、ベテランとして活躍している。数人の会議の時は、小さい輪になってもらって、できるだけ近い距離で話を聞けるように工夫しているし、初対面の人には、必ずきこえのことを説明しているそうだ。

 

<あとがき>

 一言で「障害を受け入れる」とか「障害に向き合う」と言っても、それぞれにその人なりの歴史があり、その過程でその人なりの学びがあることが分かる。小学校時代にいじめっ子に揶揄されても「しょうがねえじゃん」と言い返すだけの力が育ったこと、高校時代にきこえのことを開示せず、内に閉じこもっているだけでは、何も始まらないと学んだこと、大学病院では、聞き漏らしたことに自分で気づいていないことがあることに気づいたこと、等々の経験を積み重ね、看護師としてのキャリアを積む中で、徐々に自分に自信と誇りを持つに至ったはるさんのヒストリーには、大変感銘を受ける。

 勿論、今後の世の中では、大学病院のようなところでも、聴覚障害のスタッフへの情報保障が進むことを強く望む。はるさんのような「説明が難しい難聴」の場合も理解が広がってほしいと思う。

 特に聞き漏らしていることに本人自身が気づけていない場合があることは、難聴者支援の難しいところであると思われ、支援者にも理解が深まっていくことを切に望む。