難聴のある人生を応援します @ライカブリッジ 

難聴のあるお子さん、保護者、支援者の方々に先輩社会人のロールモデル等をご紹介します。様々な選択肢、生き方があります。

社会人難聴者に学ぶ 〜みんなのヒストリー〜

 このブログの主な内容は、難聴児療育に長年携わっていた筆者が、成長して社会で社会人として活躍している難聴者についてご紹介するものです。乳幼児期に出会ったお子さんが大人になり、社会で経験してきたことについて知ることは、筆者にとって大きな学びのあるものです。難聴のわかりにくさを改めて感じることもしばしばあります。話を聞かせていただくうち、これは是非多くの方に知っていただいて、彼らの貴重な経験を活かしたいと思うようになりました。
 そして、これから成長して、学校に通い、自分の将来を考えようとする若い難聴の方々だけでなく、すでに社会で働いている方にも読んでいただき、難聴ならではの苦労だけでなく、生き方の色んな可能性についても知っていただければうれしいです。
 できるだけたくさんの生き方、働き方、考え方をご紹介することで、同じ悩みを発見するかもしれませんし、勇気を得ることも、共感できて励みになることもあるかもしれません。
   筆者は、ライカブリッジという任意団体で活動しています。ライカブリッジは、「like a bridge」(橋のように)難聴のある方々同士又は関係者同士を橋渡ししたいという気持ちで活動する任意団体です。筆者と難聴のあるお子さんを育てる保護者有志で活動しています。
2021年春から活動を始め、これまで12人の難聴のある社会人のインタビューを行い、それを録画し、zoomで共有したり、YouTubeの期間限定の配信をしたりしました。共有や配信の対象は、難聴のある小中高大生、保護者、支援者です。宣伝ややり方のアイディア、情報保障についてはライカブリッジの仲間と力を合わせてやってきました。
 <これまでのインタビュー> 
 これまで10人の社会人を紹介してきました。筆者がが幼児期に療育施設で出会った方々です。皆さん快くインタビューに応じてくださり、忙しい中、後輩たちの力になれればと協力してくださいました。
 1  37歳 看護師(中等度難聴)
 2  28歳 作業療法士(高度難聴)
 3  30歳 ウェブ制作 フリーランス(重度難聴)
 4  31歳 ろう学校教員(重度難聴)
 5  27歳 公務員(中等度〜高度難聴)
 6  28歳 劇団員(高度難聴)
 7  29歳 鉄道会社社員(高度難聴)
 8  39歳 会社員(重度難聴)
 9  31歳 歯科技工士(高度難聴)
 10 31歳 証券会社社員(中等度難聴→高度難聴) 
 11 29歳 保育園勤務経験8年 (重度難聴)
 12 46歳 手話講座講師 (高音急墜型難聴→重度難聴)

 今後もこのインタビューは続けますし、このブログにも紹介していくつもりです。社会人の紹介の他にも、たまに日々の思いなども綴りたいと思っています。
 今後、もっともっと社会に「難聴」についての理解が広がり、きこえにくさにちゃんと配慮できる仕組みが整っていくように願っています。
※ PC版では、左側に「メッセージを送る」があります。そこから筆者に個人的にメッセージが送れます。インタビュー動画がご覧になりたい場合は、メッセージから申し込んでいただければ、本人の了解を得て、申込者のアドレスに動画のURLをお送りします。どの動画か、また視聴希望の理由とアドレスを送ってください。ただし、視聴は、期間限定です。拡散せず、ご本人のみでご視聴ください。

NO.14 わたしの難聴ヒストリー ⑩ (証券会社勤務かなさんの場合)

2024年07月14日 | 記事

かなさん 証券会社勤務 31歳 右93dB 左96dB 補聴器装用(幼児期は中等度難聴 徐々に進行)

 かなさんは、幼児期は中等度難聴で発見も遅かった。療育施設は、4歳児クラスからの入園だった。初めて会った時は、日常会話はできるし、難聴には見えなかったし、一見どこに問題があるかわかりにくかった。しかし、いざ療育を進めると語彙の不十分さだけでなく、小グループの中でも学ぶことはたくさんあり、2年間しっかりと療育できて本当によかったと思った記憶がある。初め硬かった表情も就学する頃には、やわらかくなり、明るくなった。自信もついたように思う。

 

【 かなさんのヒストリー 】

<療育施設、幼稚園時代>

 保育園の先生にことばの遅れを指摘されて、難聴発見につながった。療育施設には、4歳児クラスから入った。療育施設の記憶はあまりないが、真っ暗な観察室で本物のほたるを見たこと、トイレに補聴器を落としてしまったことなどを覚えている。補聴器を装用すれば、かなりきこえていたようで、母親同士の会話も結構きいていて、「地獄耳」と言われたりした。

幼稚園は、多分自由保育の私立の幼稚園で、自主性を重んずる幼稚園だった。(公立の幼稚園は断られた)一斉に鍵盤ハーモニカをやらされるようなこともなく、嫌な思いをしたことはなかった。

 

<小学校時代>

 FM補聴器を使用していたが、人と違うことをするのが面倒に感じた。小学校4年生のころに徐々に聴力が下がっていった。友達よりも何かとできることが多かったので、友達には一目おかれていて、いじめに会うようなことはなかった。友達関係は、広く、浅くという感じだった。

 ことばの教室は、別の学校にあり、そこに通ったが、そこの友達と会うのは楽しみにしていた。今でも連絡を取り合っている。ことばの教室は、マンツーマンで先生と会話ができる贅沢な時間だった。

 

<中学校時代>

 中学校は、地元の中学校で、半分が同じ小学校の友達の持ち上がりだった。初めの自己紹介の時は、自分が難聴であることを自分で伝えた。そうするように母に言われていたし、初めに一回言えばいいと思っていた。

 部活はバドミントンで、センスがなかったし、楽しくなかったが、内申のためにやめなかった。中学生時代のの女子のグループは煩わしかった。

ことばの教室は他校に通ったが、そこの友達は、小学校時代からの友達でもあり、ほっとできる楽しい仲間だった。

 小5から通っていた塾に継続して通った。塾では、北辰テストは満点を取れと言われていた。塾は15人くらいのクラスで勉強した。テキストに沿って進むので、わかりやすかった。学校より静かで集中できた。そこでは、先取りの勉強をしたので、学校の授業は簡単だった。自分が苦手なのは、台本のないディスカッションで、塾にはそういうのはなかった。

 テレビは、字幕が必要だった。当時テレビで「学校へいこう」という番組が流行っていて、学校でも山手線ゲームなどをやったが、その頃は、今より聞こえていて、きこえなくて困ったという記憶はない。テレビドラマでは、「野ブタ。をプロデュース」などの青春アニメが話題になっていたが、そもそもドラマに興味がなかった。そもそもテレビはほとんど見なかった。興味がないから見ないのか、見てもわからないから興味が持てないのかは、自分でもわからない。

 友達の雑談のテーマは、大体決まっていて(大体が恋愛話)、内容がわかるので、特に困ることはなかった。ほとんど、聞く側で、率先して会話に入ることはなかった。受験が近づくと、勉強のことで皆に質問されることが多く、いつも勉強を教える側でいたので、友達との会話に困った経験はほぼない。

どうしようもなかったことは、混声四部合唱だった。歌うと「違うよ」と直されるし、歌わないと何か言われそうで困った。自分には「音程がわからないこと」がわからなかった。どう説明したらよいかわからなかった。

<高校時代>

 高校は私立で、初めから「一切配慮はしません」と言われた。クラスでの初めの自己紹介では、自分で難聴があることを話した。授業は、何も配慮がなかったが、教科書をベースにしているので、何を言っているのかはわかった。

 英語のスピーキングは、嫌いだった。教室で騒がしい中で先生と英語でやりとりするのは、難しかった。それでも高校1年の時に英検2級を取った。ヒヤリングはテロップで行った。

 高校のクラスは、成績のよい方の人たちが多かったので、自分を持っている人が多く、一人一人が自分で行動する感じで楽だった。変ないじめもなく、よい高校だった。

 部活では、他のクラスの人もいるので、耳のことを知らない人もいて、カラオケに誘われたりした。断ると、「なんか嫌なことした?」ときかれて、ちゃんと聞こえないことを説明しないとダメだなと思った。流行歌はあまり知らなかった。

 

<大学時代>

 叔母に就職の時に潰しがきくのは、法学部、経済学部、経営だよと言われ、経営学部を選んだ。経営学部でマーケッティングを学んだ。先生がファッションマーケッティングが専門の先生だったので、ディオールとかビトンの歴史、ブランド戦略の話などは、面白かった。

 大学生活そのものは、それほど楽しくはなかったが、ゼミでプレゼン資料を作成したりしたのは、今仕事にも活かせている。

 サークルには入らなかった。週に4日大学に行って、あとは、好きにしていた。引っ越しのアルバイトは、がんばった。単純にものを運ぶ作業ではあるが、頭を使うのが大事と教わった。引っ越しのアルバイトでは、お客様とのコミュニケーションは、困らなかったが、スタッフ同士のやりとりの中で怒られたりはあった。しかし、やるべきことをしっかりこなす中で、信頼してもくれるようになった。

<就職>

 大学3年生の時に、短期のインターンシップを色々やった。また、大学の(障害学生の)支援室で先輩を紹介してもらって、話をしたりして、少しずつ情報収集した。安定していて土日休みの、金融機関がいいかなと漠然と思っていた。

そして、障害者のマイナビのような「クローバー」や「サーナ」のセミナー会場に行き、そこのブースで今の証券会社の人事の人に出会った。一般的な人事の人だと、大抵何ができて、何ができないんですか、どれくらいきこえるんですか、というような事務的な話になるが、その人は、「何か興味のあることは?」とか、「バブルの時は儲けたんだよ」などの雑談をしてきた。そして、今度またセミナーあるから来てとグイグイきた。

 また、他の会社だと、給料については、障害枠雇用は「ちょっと違います」くらいの説明しかなかったが、そこは、障害枠雇用でも給料は同じでスタート、その後、給料が上がるかどうかは、本人の頑張り次第と言われた。それもいいなと思った。結局そこに決めた。

 

<証券会社に勤めて>

 今就職して9年目である。初め、営業店の総務課で働いていた。コロナ前は毎日出勤していた。コロナの時にテレワークをして、家で仕事をした方が週末に耳の後ろが痛くならないことに気づいた。職場では、結構靴音とか咳の音などが気になって、集中を妨げられていた。   

 5年目に営業部をサポートする業務部というところに異動になった。業務内容は、費用の管理、予算の配分で、学校法人、医療法人、教育法人などの公益法人をお客様にする部署である。「公益」という情報誌のインタビュー原稿の作成やレイアウトをしたりもしている。今いる部署は、業務が属人化しているので、テレワークしやすい。

 そこで、産業医と相談して、週2日は、テレワークすることを認めてもらった。会社としては、月に一度のテレワークを推奨していて、部署によっては、週に1回か2回程度取得ができる。今いる部署では週に1回しか認められないが、お子さんがいる人や事情がある人に2回は認められている。今は、週2回テレワークして、週3日は、会社に出勤している。

 会社の人とのコミュニケーションは、あまり積極的にはしていない。話さなくて済むならラッキーという感じ。話しかけてくれる人とは、おしゃべりするが、いい人かどうかよりも聞き取りやすい人の方が話しやすい。同僚は、私のきこえについては、どのようなきこえかについては、あまりわかっていないのではないかと思う。きこえのことは、自分からどんどん説明するというよりは、きかれたら言う感じでやっている。初めての自己紹介の時は、難聴ですとは言っている。

 朝会などの会議では、ロジャーを使っている。テレビドラマ「サイレント」の影響で病院でもUDトークを使っているところがあるようだが、金融機関であり、個人情報のこともあり、うちではUDトークは禁止されている。私もUDトークより、話してしまった方が早いと感じる。

 電話は、最初営業店にいる時は、「なんで取らないの?」と言われて取っていた。内部の人たちの連絡で、私が難聴とわかった上での電話だったのでなんとかなった。今の部署に異動してからは、社外の電話を取ると、相手の会社名が聞き取れなかったりした。アルファベットの長い名前だと、3回聞き直してもわからない。部長に相談したら、電話にモジュールを設置して、どこ宛の電話かがランプの点滅でわかるようになった。またFMC設定で、会社にかかってきた電話を内線転送できるようにもなり、自分にかかってきた電話だけをとればいいし、スマートホンで受信するので、Bluetooth接続できて聞きやすくなった。

 しかし、基本的には、メールでのやり取りを基本にしている。社内の電話帳に「難聴なのでメール」と書いて、極力メールでの連絡にしてもらっている。

 会社には、全国で10人くらいの聴覚障害の人たちがいる。パラアスリートに力を入れているので、アスリート雇用の人が何人かいる。

 テレワークのことも電話のことも、自分で欲しいものを取りにいくような姿勢がないと、環境は改善されないと思う。

 

<あとがき>

 幼児期の聴力は中等度だったが、今の聴力で補聴器だと、きこえる人たちの中で働く時に、さまざまな困難が予想できる。しかし、結果的に現在は、週3日出勤して、週2日はテレワークで仕事をし、電話に関しては、FMCによって、携帯電話に内線も転送できるようになっていて、Bluetooth接続でよりクリアに聞くことができるようになっている。社内の連絡はできるだけメールでお願いしていて、朝の会議では、ロジャーを使用している。

 いずれも何かあるたびに彼女自身が上司や産業医に相談して、環境を整えてきたと言える。同僚全員が難聴のことをわかっているとは言い難いようだが、少なくとも自分の仕事をするに当たり、障害になることを一つずつ取り除いてきたのだろう。「自分で取りにいく」姿勢は、大したものだと感心する。

 昨今、セルフアドボカシー(自分で自分に必要な支援を求める力)を育てることの重要性がよく言われるようになってきたが、それは、実際には、個々の具体的場面でどうすればよいかという実現可能性のある提案や交渉力が必要とされるのだと思う。かなさんは、仕事を着実にこなす中で会社の信頼を得て、機会をとらえては、どう配慮して欲しいかを提案してきたと言える。今後も働き方のモデルを見せて欲しいなと思う。

 学校時代の話に戻るが、かなさんが苦手だったのは、歌うこと、英語の聞く話す、台本のないディスカッションだった。これは、難聴のある子どもなら皆共通の関門だ。混声四部合唱はどうすればよいのか?「口パク」で乗り切ったという話はよく聞くが?音程がわからないことをどうわかってもらうか?参加しない方法は避けたいが、実際どうすればよいか考えさせられた。昨今小学校でも英語会話が取り入れられていて、皆苦労していると聞く。台本のないディスカッションについては、前情報をもらうとか、しっかり情報保障するとか方法はあると思う。ひとつひとつ知恵を絞っていきたいところだ。放置してはいけないところだ。

 

 

<参考までに  動画の感想を紹介>

 動画の限定公開に申し込んでくださった方々の感想を少しまとめたので最後にご紹介する。

 

<かなさんの生き方で印象に残ったところ>

  • 「自分の軸があって、自分で考えて行動している」「自分らしさを保ちつつ、周りと関わる」「幼いころから培った自己肯定感、心の安定を感じる」(40代支援者、40代保護者、30代当事者)
  • 「主張するところと、ここはいいやと割り切るバランス感覚がある」「無理せず。できないことはできないと伝え、できることはしっかり責任を持ってやることで、信頼を得ているのではないか」(40代支援者、その他)

<きこえに関して>

  • 「時々あった面倒臭いということばは、きこえに関して色々とあるが、いちいち周りのことは気にしない、細かいことは気にしてもしょうがないという処世術が現れているのでは?」(50代支援者)
  • 強気で乗り越えてきたイメージだが、それでも悩みながら、模索しながら解決法を模索してきたと感じさせるところがあった。(50代保護者)
  • 実際には、自分に必要な配慮について、ちゃんと声をあげて、よりよい環境を作っていく強さと能力がある。(30代保護者)
  • 具体的な場面で、自分の要望を的確に相手に伝えられる。「話すときに口の動きを見せてほしい」「話合いのときに、前情報を伝えて欲しい」「台本のないディスカションが苦手」(支援者)
  • 一人でいる方が楽と言っていたが、元々の他者に迎合しないという性格もあるかもしれないが、きこえのことも無関係ではないかもしれない。中学校の時に他校のことばの教室の友だちの存在が大事だったということもある。自分の思いを伝え合え、お互い尊重し合える仲間とはやはり出会ってほしい。(40代支援者、50代?支援者)

<就職活動について>

  • 障害者雇用のこと、給料は同じで合理的配慮も求められることを知った。(40代?支援者)
  • 障害学生専門の就職サイト「サーナ」の話はためになった。(40代保護者、4、50代?保護者)
  • 今の会社の人事の人が「できる、できない」の話ではなく、何に興味があるかなどを話題にしてくれたことが印象に残った。その人事の人が「障がい」ではなく、「人」をみてくれようとしたような気がする。そういう時ちゃんと自己アピールできることが大事なのかもしれない。(40代保護者、支援者)

 

 最後に少し補足する。かなさんのお母さんだが、幼い時から、彼女の思いを尊重し、きちんと受け止めて彼女を育てていらっしゃった。それは、彼女の「自己肯定感」につながっているのかもしれない。(ごめんなさい。お父さんのことはよく覚えていない。今ほどお父さんが療育施設に来所しなかった時代だったかもしれない。)

 


NO.13 わたしの難聴ヒストリー⑨ (歯科技工士 タクさんの場合)

2024年07月05日 | 記事

タクさん 歯科技工士 31歳 右105dB 左100dB 補聴器装用 (幼児期は90dB)

※ この記事は、NO.4でご紹介したzoom交流会のTさんについて再度詳しくご紹介するものです。

 タクさんは、現在歯科技工士として活躍している。インタビュー時31歳、1児の父だ。高度難聴だが、療育開始は3歳ころだった。もっと早くから病院には相談していたが、診断にいたるのに時間がかかってしまった。1990年代はまだそういうことが珍しくなかった。高度難聴で療育の開始が3歳というのは、かなり苦しいスタートだ。3歳までというのは、母語の基礎を習得するためのかけがえのない3年間だ。お母さんは、看護師として活躍していたが、次男タクさんの難聴がわかって、仕事をやめ、療育に専念することにした。

 そして私たちの療育施設に通うようになったが、納得しないと先に進めないタクさんに辛抱強く付き合うお母さんの姿を私たちはよく覚えている。タクさんは、従順なタイプではなく、主張がはっきりした子だった。

 タクさんが大人になって、歯科技工士になって、歯型彫刻コンテストで優勝したとか、日本一になったとかの噂は、風の便りにきいていた。彼は、どんな風に成長して、どんな風に大人になり、どのように社会人になったのだろうか。タクさんは、お願いすると、インタビューを快く引き受けてくれた。今回久しぶりの再会で話をきくことができた。

 

【 タクさんのストーリー 】

                                               

<療育施設時代>

 療育施設は友だちがたくさんいて、楽しくて楽しくて仕方なかった。夏祭りとか、キャンプ、和太鼓など行事も楽しかった。併行して通っていた保育園は、あまり配慮がなかったためか、楽しめなかった。療育施設の友だちとは、今でもたまに会う関係が続いている。

 住んでいる地域の子供会にも入っており、母の根回しもあり、地域にも友だちがいて、みな幼児期から耳のことをわかってくれていた。

              ************

 療育施設時代には、私たちの記憶にも残っているエピソードがある。施設には、定期的に補聴器店の業者さんが出入りしていた。そして、子どもたちの成長につれて大きさが合わなくなってしまう、イヤーモールドというオーダーメイドの耳栓の型取りもしてくれていた。

 小さいタクさんは、これにいたく興味を示し、業者さんが子どもの耳に注射器のようなもので、印象材を注入し、耳型を作る作業を毎回穴のあくほど見つめていた。ちょうど給食の時間だったが、食べるのも忘れて見入っていた。お母さんも、「給食の時間だから」とそれを制止することもなく、かれの興味を尊重していた。

              ************

<小学校時代>

 小学校は、一学年3クラスくらいの規模だった。地域の友だちと一緒に入学したので、耳のことをわかってくれる友だちに恵まれていた。入学前に母の働きかけで、小学校の全学年全クラスの椅子にテニスボールをつけてもらった。(難聴耳には、椅子が引きずられる音がうるさく感じる)

 1年生から3年生くらいまでFM補聴器を装用していたが、先生の声だけきこえるモードを他のモードに切り替えるのが結構厄介で、段々使わなくなった。学習面は、わからないところは、家で母や兄に教えてもらった。幼児ポピーみたいな学習教材も利用していた。友達関係で悩むことはほぼなかった。

 小4から地域のミニバスケットを始めて、そこの友達の中にも、耳のことをよくわかってくれる友達がいた。コーチも理解者だった。ことばの教室も通っていた。毎日日記を書いたりして文章の指導などをしてもらって、よかったと思う。

<中学校時代>

 中学校は、小学校から一緒に入学する友達が多かった。全クラスに難聴の理解授業をしてもらったと思う。しかし、友達同士の会話の内容が段々難しくなって、会話についていけないもどかしさを感じるようになった。自分は耳が悪いから友達の輪に入れないんだなーと思うようになった。ついていけなくてわかったふりをすることもあったが、そうすると、トラブルの元になったりもするので、できるだけさっきなんて言ったの?とかなんの話をしてたの?と聞くようにはしていた。部活(バスケ)があるので、ことばの教室は行かなくなった。

 授業は、どんどん内容が難しくなっていった。大学生のノートテイクやPC要約筆記などの支援を受けた。多分母が頼んだのだと思う。1年生の時は、特別扱いが嫌だったので、断っていたが、2年生になると、そうも言っていられなくなった。英語は本当に難しくてついていけなかったので、英語の先生に自分で相談し、放課後に個別に指導してもらったりした。

 中学3年の時は、マンツーマンの塾に通って、受験はなんとか乗り越えた。バスケットボールで、声がかかった高校に入学が決まった。

<高校>

 高校は、知っている友達は誰もいない状況でスタート。ほとんどバスケ部の友達とだけつきあっていた。バスケ部の中に耳のことをわかってくれる友だちがいた。

 バスケットボール自体もきこえないことでやりにくい面も多々あった。きこえないことで、ゲーム中のまわりの状況の把握というものに制約があったのだ。

 勉強面は、追試になると部活に参加させてもらえなかったので、追試にならないように必死だった。授業は情報保障は全くなく、よくできる友達に教えてもらって必死にテスト勉強をした。バスケと追試対策の両方をひたすらがんばった。

 そして、進路を考えるに当たって、物作りをする仕事に就きたいと思った。物を作ることが好きで小さい頃は、大工さんになりたいと思っていた。知り合いがいた関係で歯医者さんに紹介してもらって歯科技工士の仕事場に見学に行ったり、義肢装具の仕事も視野に入れて検討した。結局興味を持った歯科技工士を目指すことになった。

 専門学校も考えたが、情報保障がしっかりしている聴覚障害学生のための筑波技術大学の専攻科を選んだ。

<歯科技工士を目指して>

 筑波技術大学の専攻科で3年間歯科技工の勉強をした。クラスの仲間は8人だった。口話と手話の人もいれば手話だけの人もいた。そこで、手話だけを使う友だちと会話するために、手話も覚えた。それまで手話には興味がなかったが、手話を使えるようになって始めてコミュニケーションが楽しいと感じた。口話では、30〜40パーセントしか話がわからなかったが、手話だと100%わかって、やりとりが楽しいと思えた。卒業後はさらに勉強がしたかったので、鶴見大学の歯科技巧科研究科へ進み、そこで2年勉強した。そして歯科技工士として就職した。今勤続8年になる。これまで、歯型彫刻のコンテストで2回日本一になったこともある。

  タクさんは、インタビュー時に自分で作成したパワーポイントで仕事内容やチェックシートの説明をしてくれた。

<歯科技工士として働いて 〜チェックシートで確実なやりとりを〜 >

 就職して3年くらいは、職場でのコミュニケーションに悩んだ。上司の指示を聞き間違えることもあった。皆マスクをしていて、マスクをされると、話が読み取れなかった。復唱するやり方は、やはり何度も聞き直しが必要だったし、書く方法は上司に大きな負担がかかった。

 上司の指示を聞き間違うことで、やり直しになり、時間を無駄にするという失敗経験を通して、どうにかしたいと思った。そこで、自分でチェックシートを作成し、上司がそこにチェックを入れることで指示を正確に自分に伝えられるようにした。上司にとっても負担なく、指示が楽に正確に自分に伝えられるようになったし、自分も聞き間違えることによる労力の無駄もなくなった。今では、スムーズに仕事ができている。

 同僚との日常の会話では、スマートホンのワード機能で会話を文字変換して、コミュニケーションに役立てている。無料だし、変換も比較的正確なので、自分はこれが気に入っている。

 専攻科時代からデフバスケをしているが、今は、その試合で出会ったデフバスケ選手の奥さんと2歳の男の子の子育て中だ。お子さんをとても可愛がっていて、子煩悩ぶりを発揮している。

 

<インタビュー後のオンライン交流会で>

 タクさんのインタビューの動画を公開後、ライカブリッジの話し合いで、たまには、直接質問する会があってもいいねということになり、タクさんと話す交流会をオンラインで設けた。当事者や保護者、支援者から質問があった。そこでのやり取りを紹介する。このブログのNO.4でも紹介済みだが、もう一度載せておきたい。

 

【質問】 自分のきこえについて自分で説明する力はどのようにしてついたのですか?(保護者、教員)

  (タクさん) 小さい頃から母に「きこえないことを自分で説明しなさい」とずっと言われて育った。しかし成長するにつれ、母に反抗するようになり、うるさいから口出ししないでくれと言うようになった。中学校くらいから、母は何も言わなくなった。何も言わないので、逆にやばいと思って、自分でどうにかするしかないと思った。

  きこえたフリをしても自分のためにならないと思い、できる限り自分で説明した。初対面の人には、自分で補聴器を見せ、「自分はこれがないとほぼきこえない」ことと、「補聴器をしていても聞き間違うことがあるからよろしく」と説明した。聞き取れない時は何度も聞き返したりした。

  聞き間違えて、笑われた時は嫌だったが、そこで引っ込まず、もう一回、もう一回と聞き直した。

【質問】 我が子はろう学校に行っている。外では、どうしても母が通訳してしまう。我が子は自分のことを人に説明する機会がないなと改めて思った。(保護者)

  (タクさん)困るのは自分だという認識が大事だと思う。あと、コミュニケーション手段はいくらでもある。手話だ、口話だという前に、相手に通じるように工夫する気持ちがあれば通じることを学んでほしい。

【質問】 小さい時に好きだった「もの作り」が職業に活かせたことは素晴らしい。(保護者、支援者)

  (タクさん)自分は、負けず嫌い。自分の強みを生かしてがんばれるのは何かと考えた。事務関連の仕事は好きになれず、自分の武器はなんだろうと考えた結果、歯科技工士の仕事を見つけた。歯型を作成することにとても興味があった。好きなもの作りが生かせる仕事だった。

【質問】 タクさんの子育てについて(支援者)

  (タクさん)息子はもうすぐ3歳で、70dBくらいの難聴がある。家族の中では、全員手話と口話を使っている。来春からは、都内の特別支援学校幼稚部に通う。色々見学したが、手話と口話を両方使うところを選んだ。自分は、3人兄弟の真ん中だったが、自分以外の家族はきこえていて、口話で話すが、自分だけききとれない状況に劣等感を感じていたので、それは、自分の息子には味合わせたくないと考えている。家族の中のコミュニケーションを大事にしたい。そして、将来的には、きこえる人と一緒に働けるようになってほしい。

 

   交流会はいつも行っているわけではないが、このようにみんなで質問させてもらうことで、より深掘りできるメリットがあるなと感じた。また、タクさんは、交流会に参加していた大学生の当事者Kくんにも、声をかけてくれて、終わった後もラインで繋ぐことも承知してくれて、さまざまな助言もしてくれたようだ。まさにLike  a bridgeな仕事ができたなと思い、うれしかった。

 

 <あとがき>

 タクさんは、自分だけききとれないという劣等感を感じながらも、その中で自分の強みは何か?を真剣に問い、これだと思う物を見つけたら、そこで努力し、さらに腕を磨き、とうとう自分の強みをフルに活かしている。

 聞き間違いを笑われながらも、何度も聞き返し、就職すると職場では、自分でチェックシートを編み出して、自ら職場環境を改善している。

 昔家族の中で感じた疎外感を息子には味合わせたくないと、家庭の中の家族のコミュニケーションを大事にする道を選んでいる。100%わかる手話の大事さを痛感している彼の選択は意義深い。どれをとっても、一つ一つの経験をプラスに活かす前向きな姿勢を感じ、胸を打たれる思いだ。

 しかし、やはり思い出すのは、幼児期のお母さんの一生懸命な姿だ。高度難聴で発見が遅れたといのは、初めは誰でもかなり苦しい思いをする。ことばの発達も少し難航していた記憶がある。しかし、自分の興味にまっしぐらな子にじっくり付き合い、彼の思いを尊重して子育てしていた。地域の中でも小学校でもまわりがわかってくれるように根回ししたのだろうと思う。タクさんが、中学校でお母さんうるさいから口出すなと反抗したのは、彼が真っ当に成長していた証だった気がする。詳しくはわからないが、お母さんは、思春期の彼の主張も尊重し、少しずつ手を離していったのだろうと推測する。

 母には、本当に感謝していると、タクさんは、少しはにかみながら言っていた。

 

 最後に、タクさんが5歳の時に書いたお母さんの手記の一部をご紹介する。(療育施設の保護者の文集「でんごんばん」より引用)

「・・・そのころの私は、仕事も充実していて、家事も育児もそれなりに両立できているつもりでいました。でも息子の難聴発見が遅れたことにより、親としての未熟さ、至らなさと今置かれている事の重大さに胸が引き裂かれる思いでした。・・・・しかし、納得しなければ前に進めない息子との付き合いに悪戦苦闘しながらも、療育の中で、色々な経験を親子で共有しているうちに、私自身が子どもとの毎日の生活を楽しむようになってきました。『難聴』を抜きにした、純粋な子どもの目、思い、そして成長につながる変化に子育てってなんて面白いんだろうと心から思えるようになっていたのです。・・・」

 当時全身全霊でタクさんの育児に向き合ったお母さんの姿勢に改めて敬意を表したい。今タクさんが一生懸命子育てしている姿と重なるとしみじみ思う。


NO.13「わたしのきこえ」を説明すること

2024年06月15日 | 記事

「わたしのきこえ」を説明すること

   〜ひかるちゃんとほちょうきちゃん〜

 

 ライカブリッジのメンバーが、知り合いの方が難聴の我が子(保育園児)のための動画を保育園とともに作成したということで、そのURLを送ってくれた。

 今は、個人でこんな素敵な動画が作成できるんだなと感心した。お子さんは保育園の年中さんなのだが、この動画へのお友達の反応はどうだったかなどが知りたくなり、その方に連絡をとらせてもらった。

 きけば、初めは、お母さんが我が子のきこえのことを、お友だちに少しでもわかってもらうために、紙芝居を作成した。人物画は全部お母さんの自作だそうだ。補聴器と背景画はネットで拾い、一度IPadの作画アプリに取り込んで編集して仕上げた。それをラミネートして、紙芝居にして、保育園で子どもたちに読んでほしいとお願いしたのだそうだ。

 保育園は、快く引き受けてくださっただけでなく、園長先生が、これを動画にして、保育園のサイトにアップすることまで提案してくださったのこと。結局動画作成に保育園も協力して、語りは担任の保育士の先生が引き受けてくださったそうだ。

 園長先生の対応の素晴らしさに感銘を受けることしきりだった。幼児だって、何らかの事情のあるお友達に対して、自分にもできることがあることは、学べるものなのだと思う。むしろ、小さいうちから、色々な友達がいて、色々な個性があって、なにか困りごとのあるお友達もいる、そして色々な友達がいることを尊重することが大事だということを是非学んでほしいと思う。

 

 この動画の主人公は、ひかるちゃんという保育園児さんだ。聴力は右90dB台、左70dB台で補聴器を0歳から装用している。今のところ、ご両親は、きこえる子どもたちの中で育てたいと希望されているということだが、そのためには、まわりの理解を得るための努力をする覚悟をされているのだろうと思う。お母さんは、難聴全般というよりも、「ひかるちゃんのこと」を理解してもらいたいという気持ちで作成されたそうだ。そして、本人の気持ちを大事にしながら、なるべく補聴器のことをオープンにして、堂々と生活してほしいと願っている。

 

 「難聴全般のこと」よりも、「ひかるちゃんのこと」をわかってほしいという気持ちに対しては大いに共感するし、大賛成だ。大事なのは、ひかるちゃんを周りが知ることだ。ひかるちゃんとどう付き合うかがわかることだ。最近思うのだが、小学校でも「難聴理解授業」がされることがあるが、難聴自体の説明や補聴器の説明があってもよいが、一番大事なのは、そのお子さんが日常のどういう場面で、どのようなきこえにくさがあるかということを、できるだけたくさんの具体的な場面について、わかりやすく伝えることだ。その上でどんなことが助けになるかをやはり具体的に伝えることに意味がある。

 それでこそ、ああ、◯◯ちゃんには、こういう場面では、こういう困り感があるんだなという具体的な理解が進むし、どう対応するとよいかも知ってもらえるのだと思う。

 

 さて、実際に保育園で自分が主人公の紙芝居とか、動画が使われて、ご本人の反応はというと、恥ずかしがったり、嫌がったりはしないかというお母さんの心配をよそに、「ひかるのお話だ〜」と照れながらもうれしそうだったようだ。自分がかわいいイラストになるのは、結構嬉しいことに違いない。これを切れ目なく続けていってほしいなと思う。もちろん本人とよく話し合いながら。

 

 そして、まわりの反響について。保育園の友達のお母さんから、「ひかりちゃんのお耳のことは知ってたけど、じゃあどうしたらいいかって知らなかったの。動画を見て、気づかなかったら、ちょっと肩をさわればいいんだねとか、家で子どもと話したよー。」などと言ってくれたそうだ。まだ幼児なので、親御さんと一緒に見て話し合うことも大事なのだ。そういう意味でも動画を誰でも見られるようにすることには意義がある。

 また、動画を紹介した難聴の小学3年生のお子さんを持つ知人の方もお子さんと一緒に見て、その3年生のお子さんが「タオルがタルに聞こえちゃったり、自分のせいじゃないけどそう聞こえちゃうこともめっちゃわかる!小学校でもこれ流してほしい!」と言ったとか。やっぱり、わかってもらいたいのだ。

 動画の手応えは十分にあったようだ。思春期に、そういう自己開示を恥ずかしがるようになる人も少なくないのだが、全力で「恥ずかしいことじゃないこと」を小さい時から伝えてゆくことは、堂々と自己開示できるようになることにもつながるのではないかと思う。

 

  難聴は、程度の差もあるし、その人の性格とか、家庭環境とか、得意なこととか、本当に個人差が色々ある。私は、常々「私のきこえリーフレット」みたいな、その人の場合のきこえについてわかってもらうような、その個人の状況に即したリーフレットがあるといいなと考えている。

  成人のインタビューをしていても、自分のきこえについて、きこえる人たちにどうわかってもらうか、その説明はどのようにしたらよいか、結構みんな悩んでいると感じる。

 タイトルも好きなものを選んで、どう説明するかも自分に合わせて選んで、イラストも自分の好みに合わせて、自分にカスタマイズできるリーフレット作成アプリ?かなんかあったらいいなと思う。いきなりアプリ作成とまではいかなくても、好きな画像や文章を選べるようなリーフレット作成に役立つような何かを今考え中である。社会人でも使えるようなものがあるといい。

  「そうかー、テレビも字幕があると助かるんだ〜」「学校の校内放送聞き取りにくいんだね。」「グループでわいわいおしゃべりしてる時、話についていけないのね〜」など、そうだったんだ、と理解してくれ、何か自分にできることはないかと考えてくれる友達は、必ずいると思う。まわりの子どもたちにも大切な学びになるのだ。

 

  ひかるちゃんのお母さんの許可を得たので、ひかるちゃんの動画のURLをご紹介する。

 一つの参考にしていただけるといいなと思う。

 

「ひかるちゃんとほちょうきちゃん」

 https://youtu.be/F9ZbSyqL0ag?si=bJiYLoBYU3NG5mha


NO.12 わたしの難聴ヒストリー⑧ (社会インフラ関係会社社員 なおさんの場合)

2024年06月13日 | 記事

なおさん 会社員 39歳 両耳105dB   補聴器装用 

 

 なおさんは、1歳過ぎに発語がないために病院に行き、そこで専門病院を紹介され、重度難聴と診断された。すぐに療育施設を紹介されて、私たちの施設に通い始めた。また布おむつを使う人が多かった時代だった。布おむつを抱えての通園は大変だっただろうと思う。

療育施設は、なおさんと同じ年齢の子どもが多かったので、賑やかだった。なおさんは、なかなかわんぱくで、やんちゃで、けんかもたくさんした。お母さんはなおさんをとっても可愛がっていて、なおさんが泣いてお母さんのところにいくと、いつもしっかり抱きしめて慰めてくれた。なおさんは、その頃の幼馴染数人とは、ずっと長く付き合っているいるようだ。

現在なおさんが勤めている会社は、社会インフラ関係の会社で、仕事の内容は、製品の性能機能を試験する自動試験ソフトの開発や現場業務支援ツール開発、部内ホームページ管理、情報セキュリティ関連業務などだそうだ。

今回のインタビューでは、詳しくきけなかったが、デフテニスでは、10年ほど前に日本代表を務めたそうだ。

コミュニケーションは、口話も手話も両方できる。インタビューでは、手話と口話を使用した。

 

【 なおさんのヒストリー 】  

 

<療育施設のこと>

  覚えていることは、太鼓の発表会のこと、ダンボールで何か製作したこと、避難訓練をしたこと、プールで遊んだことなどである。友達から離れて、個別指導を受けるために、別室に入るのは嫌だったことも覚えている。

<地域の小学校のこと>

地元の小学校に通った。小学校の時は、自分のきこえについてあまり気にしていなかった。まわりの子全員が自分の耳がきこえないことを知っていたので、安心感があった。

<中高生の頃>

中学校になると、他の小学校からの友達も入ってきて、きこえないことを理解してくれない人も増え、またコミュニケーションの壁も見えてきた。それで、母や先生に相談したりしていた。

高校になるともっともっと大変になった。勉強の内容も難しくなり、専門用語だったり、聞き慣れないことばが増えてきた。高校に行く時にろう学校を選択しなかったのは、ろう学校の存在をよく知らなかったからだ。高2の時に筑波技術短期大学(現在の筑波技術大学)を見学に行ったのが、ろう学校を見学した初めての経験だった。今から思うとろう学校に行っていた方が、勉強面では楽なところもあったと思うが、中学、高校と友達もいたので、その友達に支えられていた面もあった。

 高校の時、コミュニケーションの壁があったので、自分で指文字を覚えて、4人くらいの友達に教えてあげた。友達と少しでもコミュニケーションを取りたいという気持ちだった。すると、友達は、近くにいる時は、通訳してくれるようになった。しかし、だんだんと友達が指文字を使うのがうまくなってきて、早くなったので、今度は自分が読み取るのが難しくなったなんていうこともあった。

 学校生活でいじめられたこともある。しかし、自分は負けず嫌いでいじめられたら、やり返した。でも揉めているうちに、結局はその子と仲の良い友達になったりした。

自分は中高と地域の学校でがんばれたのは、一つはもっと勉強したいという気持ちがあったから。それからもう一つは、理解してくれる友達がいて、助けてくれたこと。その両方があって、乗り切れたのだと思う。やはり友達を大事にすることが一番だと思う。地域の学校に行って友達ができたことは、よかったと思っている。

まわりの環境が嫌だと感じるならば、ろう学校を選択した方が良いと思う。

 

<埼玉県難聴児を持つ親の会との関わり>

 

 中高生の時は、悩みがあった時は、埼玉県の難聴児を持つ親の会の行事に参加することも心の支えになった。耳が聞こえないのはぼく一人じゃないんだということがわかって、ちょっとがんばれる気持ちになった。親の会には、幼児の時から親に連れられて、参加していた。成長してからも、毎年参加して手伝ったりした。高2からは、勉強が忙しくて参加しなくなったが、社会人になってから、また参加して、子供のころにお世話になった恩返しをした。子供達や、親御さんたちに自分の体験談を話したりした。親御さんたちは、悩みをたくさん抱えている。でも心配しすぎることはよくないと思う。自分の親もすごく心配しすぎるところがあったが、それで、心配させないようにがんばったということもある。

 

 

<大学の選択と大学生活>

 

 高校の時、大学のオープンキャンパスに母と一緒に色々回った。やはり耳がきこえないので、不安はたくさんあった。そこで、大学のろう学校みたいなところはあるかどうか調べたら、筑波技術短期大学(今の筑波技術大学)があった。そこは、大手の会社とのパイプも持っていていいなと思った。結局そこに入学することになった。

 大学に入ってから手話を覚えた。授業も全部手話で情報保障が充実していた。寮生活だったので、ずっと友達と一緒でとても楽しかった。手話は、入学後半年でマスターした。

友達は、明るく、ハイテンションで、会話もとても楽しく、それまで色々悩んだことも馬鹿馬鹿しく感じた。

 

<社会人になって>

 

 大学生活、寮生活は本当に楽しかったけど、社会に出て、またきこえる人の世界に入ることになった。今いる会社は、自分の部署には、聞こえない人がいないので、また悩みのある生活になった。

まわりが皆聴こえる人なので、どうやって、きこえのことをわかってもらったら良いかがわからなくなることがある。新しい出会いの度に、説明しなければならないので嫌になることもある。また、説明しても、どう対応してもらえるかが問題だ。

自分の職場は、部署は異なるが、まだきこえない先輩がいるので、先輩が開拓してくれた分、だんだんとわかってくれる人が増えていることもあり、マスクを取って話してくれたりすることも多くなってはいる。先輩には、悩みを相談したりする機会もあるので助かっている。だから大変だけど、僕はまだ恵まれている方かなと思う。

 また、まわりに分かってもらうには、課長とか上司には、よく相談することが大事だと思う。上司からみんなに伝えてもらうとうまくいくこともある。上司は、ゆっくり話したり、分からない時は書いてくれたりしている。僕の知り合いに、上司がよくわかってくれず、仕事をやめてしまった人もいる。

 幼馴染の難聴の友達の場合は、一緒に仕事をする人たちに聞こえない人が多いので、コミュニケーション手段は手話が中心であまり問題はないようだ。彼と同じ悩みを話し合ったことはない。つまりどういう環境で仕事をしているかによって、違ってくる。

 

 2年前に結婚した。友人に紹介されて出会った。彼女は、きこえの程度が重く、補聴器も使っていない。だからコミュニケーション手段は手話である。結婚当初は、生活スタイルの違いでなかなか大変なこともあった。今は、落ち着いて幸せだと感じている。

 

<インタビューを終えて>

 

 なおさんは、今なら人工内耳も選択肢に入る重度難聴である。なおさんの時代は、補聴器を最大限活用して、聴覚を最大限活用することが奨励されたが、それでも、彼の聴力だと、ずっと地域の学校でがんばることは、並大抵ではなかっただろう。親御さんの「地域で育てたい」という強い希望もあったろうし、学校への働きかけもされたのだと思うが、今よりもっともっと情報保障への理解がなかっただろうし、ほとんど自力で友達関係を構築したことは、改めてすごいなと思う。

 負けず嫌いで、いじめられても、そのまま引き下がることなく、やり返し、結局は、友達になったというエピソードは、彼の対人関係の底力や自尊感情の強さを感じさせるエピソードである。ではなぜ、彼にはそのような力があったのかということについてだが、元々の性格もあるが、幼児期の姿を知っている我々には、同時にお母さんや家族の深い愛情が彼を一番底の方で支えているのを感じるのである。

 友達とのコミュニケーションは決してスムーズにはいかなかったのだと思うが、自分で指文字を勉強し、友達に教え、その友達がどんどん指文字が上手になって、通訳をしてくれたというエピソードも、単純に良い友達に恵まれただけではなく、彼の友達に働きかける力もあっただろうと思う。

 地域の学校でがんばれた理由は、「もっと勉強がしたい」と「友達が助けてくれた」という二つが理由だったということだが、助けてくれる友達を作ったのは彼だったのかもしれない。今でいうセルフアドボカシー(自分に必要な支援を求める力)の力もあったのだろうという気がする。

 それから埼玉県の難聴児を持つ親の会のキャンプなどへの参加が彼には大きな支えとなったことも特筆すべきことだろう。大きくなってからも恩返しとしてお手伝いで参加続けたことも素晴らしい。

 筑波技術短大での楽しい生活で手話でのコミュニケーションの楽しさを知った彼だが、就職して社会人となり、再びきこえる人たちに囲まれて仕事をするという、なかなか大変な環境に身を置くこととなった。今の時代も聴覚障害者をめぐる情報保障はまだまだなのだなと思う。最近また彼と連絡を取ったが、社内で、聴覚障害者の社内交流会(情報交換会)があり、それをきっかけに環境がよりよい方向にいけるといいなと思うとのことだった。

 まだ30代はじめ、是非がんばってほしいと思う。


No.11 わたしの難聴ヒストリー⑦(鉄道会社社員 ゆきさんの場合)

2024年05月17日 | 記事

ゆきさん 鉄道会社勤務    29歳  右94dB   左99dB 補聴器装用

 

 ゆきさんは、2歳の時にご家族が聞こえの反応やことばの遅さで、専門機関での幼児聴力検査してもらったが、その結果、聴力に問題なしと言われてしまい、少し遠回りして、3歳で私たちの療育施設にきた。その頃は、たまにそういうことがあった。聴力は、その頃80dB台であったが、今は90dB台とのことだ。

  療育施設でのゆきさんたちのクラスは、人数が多かったので、ゆきさんはここでたくさんの友人と出会った。保護者さん同士も、お互いに支え合うよい関係だった。卒園してからも、連絡を取り合い、夏休みなどには、一緒に遊んだりしていたし、子供達が大きくなると、自分たちで会うようにもなった。社会人になった今でも、年に2回は集まって、お互いの近況などについて話合っているし、何かおめでたいことがあるとみんなでお祝いしたりしているようだ。頼んでおくと私にも集まった時の写真を送ってくれて、うれしい。

  今回、ゆきさんにインタビューをお願いすると、快諾してくれた。自分の経験が誰かの役に立つのはうれしいと言ってくれた。そういう心持ちも大変うれしい。横のつながりも縦の繋がりも応援したい。

 

【 ゆきさんのストーリー 】

<幼児期・小学校時代> 

 

 療育施設の思い出は、和太鼓を練習したことや、劇ごっこをしたことなどで、そういう行事が楽しかった。並行して幼稚園にも通っていた。

 幼稚園、療育施設を卒園した後、地元の小学校に通った。雑音防止のために教室の椅子すべてにテニスボールをつけてもらった。席も前の方にしてもらっていた。ほとんどが幼稚園からの友達で、今思うと皆自分のことをわかってくれる子ばかりだったように思う。あまりきこえのことで困った記憶がない。

 3、4年生の時、ノートテイクも希望すれば、やってもらえそうだったが、断ってしまった。今から思うとプライドがあって、他の子と同じように扱って欲しいという気持ちが強かったし、目立ちたくなかった。友達に気軽に話しかけてもらえなくなるという心配もあった。

 席替えも本当は、皆とおなじようにくじ引きで決めたかったが、それは前の方にしてほしいという母からの要望が出ていたので、諦めた。自分がみんなとは違うということを意識したのは、席替えで自分だけ、くじ引きができなかった時からだったように思っている。

 きこえなくて困った記憶はあまりないが、音楽の授業は、できないことが色々あった。鍵盤ハーモニカを真似してひくことは難しかった。

 

<中学校時代>

 

 中学校も小学校からの友達が多かった。しかし、段々勉強も難しくなっていたし、6年生の時に、地域の中学校かろう学校かどちらに進むかで少し迷った。ろう学校に見学に行ったりした。見学してみて、確かに授業はろう学校はわかりやすいと思った。

 しかし、遠いところを通わなくてはならないし、何よりもこれまでの友達と離れるのは残念だと思った。結局勉強よりも友達を優先して、地元の中学校への入学を選んだ。勉強のわからないところは、お母さんにきいたと思う。お母さんは、参考書などを買って、一緒に勉強してくれたりした。

 高校受験の時は塾で個別に教えてもらった。個人的に教えてもらうとよくわかった。高校選びの時は、選択肢にろう学校はなかった。公立の工業高校を受験した。前期の面接は難しいだろうと思って、後期の試験でがんばろうと思っていたが、前期の面接で受かってしまった。

 面接では、「お菓子のパッケージはどんなものをイメージするか」ときかれたり、「新聞は読んでいるか」きかれたりした。新聞は、こぼちゃんを読んでいたが、それは言わず、地元の出来事などのニュースのところを読んでいると答えた。政治の欄を読んでいると言うと、政治のことをきかれるかと思って、言わなかった。予想に反して、面接で受かってしまった。

 

<高校時代>

 

 工業高校だったので、聞くだけの授業の割合は多くなく、実際にものを作ったりする授業が多く、楽しかった。ただ、英語だけはいつも赤点だった。別に英語は、外国にも行かないし、使わないからいいやと思っていた。しかし、後に鉄道会社に就職してから、駅員をしていた時に、お客様にご案内する仕事をしていて、外国の人のお客様が多かったり、自分が海外旅行にはまったりしたので、勉強しておけばよかったと後悔した。 英語はレポートを提出したりして、なんとかクリアした。

 就職については、初めは地元の老舗のお菓子屋さんに就職したかったが、難聴があるということを学校の先生が伝えると、面接を受けてくれなかった。そこで、受け入れてくれるという会社を先生が教えてくれて、それが今の勤め先の鉄道会社だった。

 

<鉄道会社に勤めて>

 

 18歳で入社して、初め2ヶ月は新入社員研修をした。その研修の時、列車防護というのがあって、レールになんかあった時に大声で列車を停めるというのがあり、その大声を出すというのが苦手で難しかったと記憶している。

 研修後に各駅に配属され、自分は東京駅に配属された。初めは駅員として新幹線東京駅のホームに立った。また改札に立ったり、窓口で切符を作ったりした。ホームなどでのお客様対応は、初め大変だったが、質問のパターンが大体決まっていた。トイレはどこ?大丸はどこ?何時何分の電車は何番線?などの質問が多く、そのパターンを把握してからは、接客ってこんなに楽しいんだというのを知った。相手に喜んでもらえるのは、やりがいがあって楽しかった。 高校の時は接客なんてとんでもないと思っていたがいざやってみると、きこえる友達の中で鍛えられたおかげで何とかやれたのだと思う。

 しかし、お客様に後ろから呼ばれて、気づかなかったことも何回かあり、そのうちの1回は、なんで無視するんだ!と怒鳴られた。その時はたまたま近くにいた同期の友達が代わりに謝ってくれた。が、悔しい思いだった。その時から、周りをよく見るように努力したり、困っているお客様がいないか自分から目を配ったりするようにした。

 

 通常のコースとしては、駅員を3年やって、次に新幹線の車掌になり、車掌を5年やると、全員ではないが、今度は運転士になる。運転士になるには、厳しい訓練を受けて、さらに半年研修を受けて、その後見習いを半年やってようやく運転士になれる。女性でも運転士に成る人は、珍しくなく、例えば出産後に運転士となって復帰する人もいる。

 しかし自分は駅員としての仕事、ホーム、改札に立つ、切符を作成する窓口業務のいずれも、最後まで一人立ちができなかった。本当はどれも一人でやってみたかったが、ホームは騒がしく、きこえないと何かあった時にすぐに対応することができない。窓口での切符作成も切符を作る際に色んな質問がくるので限界があった。改札もすべてのお客様の質問がききとれるわけではないし、結構頻繁に業務での電話がかかってくるが電話も難しかった。流れてくるアナウンスをききとって案内するのも限界があった。

 結局駅員を3年やって、同期が皆車掌になっていく中で、自分は、「わかっているとは思うけど、あなたにはこのまま駅に残ってもらいます」と言われた。それで駅員として残り、結局6年間駅員をやり、そのほとんどは、新入社員の教育係をやった。

 今、同期がどんどん運転士になっているのだが、自分もきこえていたら、なっていたのかなと思う。この会社に入れたからには、やってみたかったと思う。でも1300人のお客様の命を預かると思うとやはりちょっと無理かなと思う。

 そして、5年前に今いる営業課に配属された。そこでは、団体旅行の予約の処理や、列車の変更があった時に券売機に変更をかけるシステム(マルス)の管理などをしている。コロナ対応とか、冬休みなど、新幹線の運行に変更がある時は忙しい。接客ではなく、裏方なので制服も着ていない。コロナの最中は、皆マスクをしているので、接客は難しいが、コロナが終わったら、もう一度接客はしてみたいなと思っている。

 今の営業課の仕事は、上司と先輩と自分の3人でチームを組んで行っている。上司は耳のことをよくわかってくれる人で、上司の方から「しゃべる時は、マスクをはずした方がいいよね」と配慮してくれている。先輩は、自分より後からこの部署に来た人だが、この部署に来る前に予めメールで「自分には難聴があること。マスクをしていても大きめの声ならわかるが、外してもらったほうが正確に伝わること」を伝えておいた。それで、先輩は、話す時はマスクをはずして話してくれる。しかし先輩は、他の人と話す時もマスクを外す癖がついてしまったようで、申し訳なく思っている。

 まわりの人が気持ちよく協力してくれている。まわりとの人間関係は大事だと思っていて、それを大事にすることで、気持ちよく協力してもらえると思っている。また、今後異動があった時にまた環境が変わる可能性はあるなとは思っている。

 

<友達のこと・デフフットサルチームのこと>

 幼児期に同じ療育施設に通った友人たちとはずっと付き合っている。年に2回くらい集まっている。お互い難聴同士でも、ずっと口話で話をしていたが、皆段々手話もできるようになって、自分が一番手話に関しては遅れていた。一緒に旅行に行った時は、お風呂の時など、補聴器をはずした時は会話についていけなかった。ずっと手話は覚えたいなとは思っていたが、普段使わないとなかなか身に付かない。

 3年前に療育施設の後輩に誘われて、デフフットサルチームに参加した。初めは、埼玉女子チームを立ち上げる時に誘われたが、自分には無理だと思って断っていた。しかし、その後メンバーが足りないからお試しでもいいから来てほしいと言われ、試しに手伝ってみたところ、思いの外、楽しくて、はまってしまった。

 フットサルのおかげで、友達が増えた。ろうの友達もできた。おかげで、手話ができるようになった。手話で会話する楽しさを知った。土日や、仕事帰りにもやっている。仕事だけでない楽しみもできて、充実した生活を送っている。

 

<インタビューを終えて>

 

 ゆきさんは、鉄道の駅員を経験して、ホームでの駅員業務、改札での切符作成、窓口でのお客さま対応など、自分なりに工夫し、努力し、接客の楽しさややりがいを知ったと言う。「接客は初めからあきらめることはないよ、やってみればできるし楽しいよ!」ということを後輩たちに伝えたいとインタビューをお願いした時にも言っていた。

 そういうポジティブなメッセージを第一声で伝えられるのは、改めてすごいなと思う。インタビューを進めてゆくと、同期が通常のコースを進む中で、自分だけ、駅員として残るという苦い経験もしていることがわかった。

 駅員としての接客業務は、想像以上に楽しかったのに、ホーム、改札、窓口いずれも誰かのサポートを必要とし、独り立ちできなかったことについては、その当時はきっと悔しい思いをしたのだろうと察する。

 また、後ろから話かけられて、無視するなとお客様にどなられた悔しい経験もあった。しかし、その経験を活かし、周りを自分から見回したり、自分から困っているお客様を探すようにしたという彼女の努力の姿が心に残る。へこんでいるばかりではないというのが彼女らしい。できなかったこと、させてもらえなかったことを全面に出して、困難さをアピールするというよりも、できる部分、楽しかった部分をアピールするところが、ポジティブで彼女らしいと思った。

 また、一緒に働く仲間にも、予めメールで、難聴があること、口元を見せてもらえると話がよみとりやすいことなどを伝えるなどして、理解を求めるところも、ゆきさんならではの根回しが、上手だなと思った。

 

  ゆきさんは、幼児期から芯のつよい子だった記憶がある。5歳頃だったか、療育施設で、みなでサッカーのまねごとをした時も、男の子に混じって、果敢に、強気でボールを取りにいく姿はとても印象に残っている。決して自己主張の強い目立つタイプではないが、意味なく引き下がることはなく、やりたいことはやりたいとはっきり意思表示する子だったように思う。一見おとなしそうだけど、1本筋が通っているというのが私の印象である。

 だから、大人になって、できれば同期と同じように新幹線の運転士がやってみたかったというのは、とてもゆきさんらしいと思えた。調べてみると、国の定めた法律「動力車操縦者運転免許に関する省令」では、運転士は「各耳とも5メートル以上の距離でささやく言葉を明らかに聴取できること」と決められている。聴力として何dBという基準ではないのが、ちょっと法律の古さ(昭和31年つまり1956年)を感じさせるが、乗客の安全を担う仕事として、きこえは条件の一つとなっている。

 医者、看護師、薬剤師などは、難聴があっても門戸が開かれているが、消防士、警察官、列車の運転士などは、まだハードルが高いのだろうか。命を預かるという面では、医師や看護師とて同じと思うが、少なくとも運転士などの方も、もう少し基準を今の時代に合ったものにしてほしいなという気がする。

 

 最後に、これはどちらかと言うと、私たちの、そして指導者側の課題なのだが、小学校の時、ノートテイクは、断ってしまったこと。皆と同じがよかったこと。については、小学校1年から「支援は受けるもの、受けることが当たり前」という空気を作ることも、私を含めて、大人の仕事、学校の仕事として大事だったのだろうと思う。クラスに対する理解授業なども当たり前になるといいなと思う。本人が恥ずかしくなってしまったり、目立つことが嫌になってしまう前に。支援を受けることが、当たり前で目立たないような社会になってほしいと思う。きっとクラスメートにも大切な学びとなるに違いない。