めりっとめりめり

お気楽アラサー主婦の独り言
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地震発生からこれまでの私の記録・その4

2011-03-19 | 東日本大震災関連
東北地方太平洋沖地震発生からこれまでの私の記録。
その4。

私は縁あって福島県浜通りに住んでいます。(現在埼玉に避難中)
詳しくは書きませんが、原発の屋内退避区間の外側です。

3/13(日)
夜中1時。
近くに24時間水を供給している浄水場が近くにあることが分かりました。
(twitterより情報収集)
どうせ眠れないので行ってみました。

おお、全然すいてる。
私たちは空いたペットボトルを持っていったのですが、
これではあまり多く汲めません。
周りを見てみると、かごや衣装ケースなどに新しいゴミ袋を入れて、
ゴミ袋の中に水を汲んでいました。
なるほど!!
私たちもそれにしよう。
という事でアパートと浄水場を2往復しました。

朝、夫の会社にちょっと寄ることになった。
車から町を見ると、相変わらずスーパー・ガソリンスタンド・給水所には人いっぱい。
いやいやむしろ前日より人が増えてる。
やっぱりみんな不安が大きくなってきたんだろうな。

そしてやっと夫の会社から指示が出た。
しばらく会社は休み。
どこにいるか連絡すること。
避難区域外なんだから市内を出る必要はない、出た場合は個人負担。
という考えみたいです。
今、冷静になって考えてみるとまぁ当たり前かなとは思うけど。
言い方が悪くて悪くて、その時はすごくイヤな気分になった。

それでもしばらく会社休みになったので、
私たちは夫の実家埼玉に行く事にしました。
急遽、準備をしました。

地震前の洗ってない食器がいくつかあったんですが、
断水してしまったので洗えずにいました。
夜中に汲んできた水で洗ったんですが…。
こうしてみるといつもどれだけ食器洗うのに水を大量に使っていたかよく分かる…。

やっと夕方に埼玉に向けて出発できました。
その時の様子は14日のブログに書きましたが、少し付け足し。
TVでは被害の大きかった東北地方を取り上げることが多いので、
茨城の様子は実際に通ってみるまで知りませんでした。
水戸くらいまで行ったら被害もなく普通の町なんじゃないかと勝手に思ってた。
でもいくら行けど行けど、停電で真っ暗。(夜だったので尚更)
こっちもだんだん不安になってきて。
やっと桜土浦(?)つくば(?)に入ってから普通の町になって。
この時は本当に本当にほっとしました。

こうしてみると、
TVではあまり取り上げられない地域も結構な被害を受けているんだなと思いました。
どうかそういう地域にも支援の手が差し伸べられますように。

地震発生からこれまでの私の記録・その3

2011-03-19 | 東日本大震災関連
東北地方太平洋沖地震発生からこれまでの私の記録。
その3。

私は縁あって福島県浜通りに住んでいます。(現在埼玉に避難中)
詳しくは書きませんが、原発の屋内退避区間の外側です。

3/12(土)-2
朝、近くに住む夫の会社の方が訪ねてきました。
(のちにこの方が大活躍することに)

今日、福島空港から飛行機で逃げることにした。
自分のチケットの手配はもうしてある。
Aさん(私たちの事)も逃げたほうがいいんじゃないか?

と。

それまで福島を離れることは考えてませんでした。
会社が何も言ってこないので、どう動いていいか分からなかった。
原発の事故も不安ではあるが、ここはまだ大丈夫だろうと思った。
高速道路が閉鎖されてた。
などの理由で。

この日1日、私の両親は私にメールを送り続けていたらしい。
原発が心配だから、埼玉(夫の実家)に逃げたほうがいいと。
でも電波状況が悪くて、私にはそれらのメールは届いていなかったんですが。
夜にやっと母と電話がつながり、その話を聞きました。
逃げたほうがいいと強く言われました。

それでどうするか考えて。
会社から何か指示があるかもしれないので、あと2日待ってみることにしました。

今日の状況3/19 両親からの電話

2011-03-19 | 東日本大震災関連
今日は私の両親から電話がきました。

まず父から。
今父は仕事で九州だったか…ちょっと覚えてないけどその辺にいるらしい。
なので地震は大丈夫でした。
電話の内容は次の通り。

「埼玉は物があるか?
もしないなら送るように手配するから。
お母さんと喧嘩した。
だから「死ね」ってメールしたら「今までお世話になりました」と返信がきて、
それから2~3日連絡が途絶えた。
でも昨日くらいにまた連絡きたけど。」

おい、「死ね」ってメールしたって…何考えてんの?
馬鹿じゃない。
電話では私も反論せず話聞いてたけど、
でもそんなのあんまりだと思って父にメールしました。
私が父に送ったメールの内容。

「もっとお母さんに気を使ったほうがいいよ。
地震の時の怖さや不安は地震にあった人にしかわからないから。
私も埼玉に避難してきてから、こっちの何にも分かってない人たちの言動に
ムカつくことがいっぱいある。
ましてお母さんは去年母親を亡くしたばかりだから、たぶん精神的に弱ってるんだよ。」

メール送ったけど、今だ返信なし。

そしてその後、母から電話が。
母は青森県下北在住。
父や子供も仕事などで家を出ているので、地震の時も1人で色々不安だったと思う。
母との話はお互いの今の状況とかがほとんどで、
父と喧嘩したとかそういう話はしませんでした。

あとは弟の車の話を。
弟は八戸で船に乗る仕事をしていて、地震の日も船に乗っていました。
津波も起きたけど、船的には津波の時はむしろ沖に出たほうが安全なのだそうだ。
それであの日から安全のためにずっと船に乗ったままの状態だったらしい。
やっと昨日?今日?くらいに陸に上がれた。
でも車を海の近くに止めていたので、津波に流された。
陸で探しても見つからなかったので、たぶん今は海の中かもしれない。
海から車を引き上げている業者(?)にも会ったけど、弟の車は見つからず。
たぶんもう見つからないね。
それでも命があっただけ良かったよ。

地震発生からこれまでの私の記録・その2

2011-03-19 | 東日本大震災関連
東北地方太平洋沖地震発生からこれまでの私の記録。
その2。

私は縁あって福島県浜通りに住んでいます。(現在埼玉に避難中)
詳しくは書きませんが、原発の屋内退避区間の外側です。

3/12(土)-1
今残っている食料をチェック。
長期保存がきくカップ麺やお菓子等のストックがいくらかありました。
ペットボトルのお茶やジュースも。
いざと言う時のために袋につめておく。
あと冷蔵庫にはウインナー等が残ってました。

断水してるので水がない。
水がなければカップ麺も食べられない。
トイレも流せない。
水を確保しないと。

電気は使えたのでPCでネットもつながってた。
給水所等の情報がほしかったが市のHPはダウンしている状態。
TVのテロップで給水所の情報が流れたのでそこに行ってみようかと。
外に出たらたまたま同じアパートの住人がいて、
「近くの高校でちょっとした食べ物と飲み物がもらえる。外の水道で水も汲める。」
と教えてくれました。
本当にありがたい。

高校に行ってみました。
休憩所のような所で、私と夫の分の乾パンとペットボトルの水が貰えました。
外の水道で水も汲めました。
少しの水ですが、水が手に入って安心しました。

TVのテロップで今度は開いているスーパーの情報が流れたので行ってみることに。
スーパーにはすでに行列ができていました。
すぐ食べられるおにぎりやパン、それから水はすでに売り切れの様子。
なので何が残っているのが不安になりましたが、
この次点では思ってたよりは商品はあったかな。
ここで買ったのは、飲み物類・カップ麺・お菓子・ウインナーなど。

スーパーへの道すがら、前日の地震後初めて町の様子を見ました。
給水所・ガソリンスタンド・スーパーには長蛇の列。
川で水を汲んでいる人の姿もありました。
建物に大きな損壊はありませんでしたが、あちこちの塀や屋根瓦が崩れ落ちていました。

そんな町や人々の様子を見て、私たちもちょっと焦ってしまって。
午前中に高校で少しは水を汲んだけど、足りないのではないかと思い始め。
もう1度高校に行く事にしました。
そしたら午前中は全然混んでなくてすぐに汲めたのに、午後には行列が。
しかも午前の時より水の出が悪く、なかなか水が溜まりません。
蛇口は5つくらいあったのですが、蛇口1つを独占してる人もいて。
みんな困ってるんだから、こういう時こそ譲り合いは大切だろ…と、内心思いつつ。
でも誰も言い出せない…。
私よりも大変そうな人たちがいたので、せめて私たちは汲む量を少なくしました。

この頃になってくると、だんだん地震に対する感覚がおかしくなってきました。
本当に地震で揺れてるのか、自分の体が勝手に揺れてるのか分からない。
震度が3とか4だと、「それくらいで良かった」と思うように。

地震で散らかってしまった部屋を少しずつ片付けてましたが、
だんだんやる気も起きなくなってきて。
取りあえず割れた食器とか危ないものは最初に片付けたから、まぁいいか…。