今回は、1944年に日本放送協会に入局し、翌年退局。その後1968年に処女作『永井荷風文がたみ#--ほろびし東京の歌』を執筆後、作家として大正・昭和の文壇史に始まり、平安・明治・大正の服飾史、王朝継ぎ紙、『源氏物語』関連の著作などの著作がある近藤富枝。
夢二関係では、「待てど暮らせど来ぬ人を」(1987年、講談社)、1989年「夢二暮色」(1989年、講談社)を執筆し、夢二と彦乃、お葉との物語を綿密な調査の上小説化しています。
*『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)より
(注)本文は、近藤冨枝が『きもの名人』(2012年(平成24)(河出書房新社)に掲載したものです。
竹久夢二(1884~1934)という人はイラストレーターとして一世を風靡した人気者などと思われているが、なかなかそんな単純ではなかった。画質でモデルを前に画筆を動かしているだけではまだるっこしくて、街に飛び出して店を構え、女性たちの風俗を変えようとし、それだけでは足らず、前衛的な図案社(現代の広告業)を企画したり、それが関東大震災でだめになると、「手による産業」を考えて見ん芸の普及をめざして学校の建設を企画したり、とにかく「大正の歌麿」などという評価でおさまるような人物ではなかった。昭和六年から二年間をアメリカやヨーロッパに遊ぶが、世に言う逃避ではなく、勉強家の彼が新しい仕事へのヒントや、将来の飛躍に備えての知識を得ようとしての外遊と、私は解釈している。
夢二が後輩の抒情画家たちと違うところは、文化に対して鋭敏な感覚を持ち、批判力があって絵も事業も、すべてそこから生まれているということかと思う。さらに美を守ることにも貪婪で、例えば本を買って来ても、装丁が気に入らないと自分で全部つくり直してしまう。女の耳裏の汚れを見ただけで恋心がさめる。そんな夢二がきものに対する思い入れの深さは、当然ならが普通ではなかった。
本来の好みは渋いものにあった。紬の類が大好きで、一字、夢二の周囲の女性が黄八丈を着だしたら、彼の愛人になった証拠だと言う者がいたくらいである。夢二の画中の女人たちのきものは紬系が断然多い。柄は縞(しま)、網代、市松、格子などで、特に新味はない。染柄の場合も小桜、竹、椿、梅、麻の葉、鱗(うろこ)などで古い。たぶん読者は意外の感がすると思う。しかし夢二はやはり夢二であり、それらの在来柄を使いながら彼流のコーディネートで彼のきもの感を表現しているのである。
それは帯である。無地それも黒が多い。またあるときは変わった柄であったりモダンだったり、とにかくひとひねりしたものを使っている。ということは、きもの姿をすっきりさせることを新しい時代の女性たちへプレゼントするつもりだったのである。
夢二の代表作の「黒船屋」の女性を見ると、オレンジ色に薄茶の堅縞のきものに緑色の無地の帯を締めている。黒猫を抱く蠱惑的(こわくてき)な女性の顔は永遠の恋人笠井彦乃だろう。ちょっとよけいなことをいれると、黒船屋は彼が本郷菊富士ホテルの四十番の部屋で大正八年に描いたもの。
もう一つの作例をあげると舞妓の絵である。かれが京都に住んでいた大正の二年間は、高台寺のちかくにいたので、祇園とは目と鼻で舞妓にも親しい妓がいただろう。彼はたくさんの舞妓の絵を残したが、きものや帯の柄は祇園の風俗そのままを描かなかった。きものは無地か小紋が多く、だらりの帯はというと、これがまったくの夢二流である。一例をあげると「加茂川」という絵は可憐な舞妓のうしろ姿を描いているが、帯は黒地の裾に大きくたんぽぽがポンと一株描かれているだけのもの。こんな帯を締めた舞妓は大正の祇園にいるわけはない。
というようにゴテゴテした柄、金糸銀糸の贅沢な染や織はまったくといってよいほど彼の描く女人には使わない。だいたい夢二は、女の美しさは普段着姿にあると決めているようである。その着付けも襟もたっぷりくつろげ、また帯の締め方もすべて女のまろやかな肉体の線を失わない工夫がされている。なぜかおはしょりの紐をあらわに見せ、結び目をチョンと描いているのも夢二流だ。
笠井彦乃は女子美出身で、「あじさいの女」と題する大きな絵を描いている。銀杏返しに結った若い女性が、藍と鼠の地味な棒縞のきものに黒繻子(くろじゅす)の帯(むろん無地)を締め、白い腰紐を帯下にのぞかせ、素足に黒の塗下駄、襟はほんの少し白がのぞき、薄縹(うすはなだ)のあじさいの花のあいだに立っている。両手をつつましく前にかさね、花に見入っている瞳が美しい。彦乃の自画像である。このころの彦乃は夢二の妻同様の立場で、すっかり夢二の趣味に同化しているのがいじらしくもまた驚きにも思われる。
そうである。夢二は愛する女性の自分の好みで装わせることに熱心であった。実は彼にとって日本の娘たちは全員いとしい存在だったから、大正三年には日本橋呉服町に港屋絵草紙店を開き、彼の頭のなかにつまっている美しいものを娘たちのためにつくり拡めたのだ。
半襟、帯、浴衣、手拭、風呂敷などの和装品もある。便箋、封筒、千代紙、木版画などと共に全部夢二のデザインによるものであった。半襟は刺繍の豪華を競うのが当時の風潮であったが、夢二の思いは別のところにあった。普通の人が目をつけないささやかなもの、日常的なものを柄に使おうというのだった。「しだれ花」「樫の実」「小鳥」「あかまんま」「いちょう」などが彼独特のモダンなアレンジで愛らしく、または知性的な感じにまとめられ、それを若い女性たちが競って買い、いつも品切れであった。
浴衣はアルファベットをアレンジしたものとか、片身替りにし、一方を白地に一方を黒地とする。白地には麦の穂が藍で描かれ、黒地には、
青麦の青きをわけてはるばると逢ひに来る子と思へばかなし
の歌が白抜きになっている。
夢二というのは不思議だ。ただスイスイと一筆描きのようにした麦の穂が女身のたおやぎのようであり、また字も夢二以外には書けないののびやかさである。この歌は恋の初めのころの彦乃の姿で、下町から郊外の夢二の家に父の目を盗んで通ってくるいとしさを歌っている。
帯ぐらいになると、夢二は注文主のからだに布地を巻きつけ、柄をつける位置をピンで止めると苺やどくだみや、そんな変わったデザインを描き、縫うことをも彼自身がしたそうである。また夢二は大きな行李にいっぱい衣裳を持っていて、いざ女性を描くとなると、そのなかから気に入ったものと帯と小物をつかみ出してモデルに着せた。そのために彼は街を歩く時は目を光らせて、気に入った色と柄をみつけると買い、例の行李にしまった。
夢二は日本の古い柄をこよなく愛したけれど、一方では、新しいデザインの夢二風を鼓吹したのであった。そうした彼の作品が好きで、巷には夢二流の美人がたくさん生まれた。会心の笑みを夢二は洩らしたに違いない。
古いものを大切にしながら新しい感覚を加える。これが夢二の考えた、きものへのビジョンだった。『砂がき』という随筆集に左(以下)のような文章がある。
「日のうちの洋服をぬいで、銀座の散歩に仕立おろしの中形浴衣を引つかけた十六七の娘はまるで日本キモノをアメリカ娘がつんつるてんに着たといつた恰好である。襟をぐつとあけて乳の上を帯でしめつけ腰帯は申わけに胃袋の上の肋骨のとこへバンドのやうにしめて、そこから下はどぼんとまるでスカートを引いたやうにキモノを着たところは、少しもをかしくない。発育の好い肉軆を、従来の着物が表はし得なかつた包み方で、実に新しい感覚を持つたものだ。これは洋服が表はすことの出来ない、日本のキモノが持つ美しさだと思ふ」
と書いている。たぶん大正の終わりごろの文章であろう。八十年経った今も通用する言葉ではないだろうか。女性たちの肉体が変わったのに普通どおりの約束を強いたり、普通どおりの美しさをきもの姿に要求するのはたしかにおかしい。ともすればそんな気でいる私は、夢二から一撃くらったような気分だ。
やがて彼は、右の文章そのままの娘を描くようになる。昭和六年の「青衣の女」などはその代表だろう。襟をぐっとあけ、乳の上を帯で締め付けている。そのため腰から下の線がたいそう長い。椅子に座った彼女は手を組んで断髪の頭上にのせているから、腰から下の線がいっそうくっきりと現れ、たしかにきものの新しい美と思える。夢二の美人像は目の大きな最初の妻のたまきに始まり、品よくやさしい彦乃的な女性、コケティッシュだがやはり紬の似合うお葉の時代はこの時期に終わっていた。
大正の終わりから昭和にかけて大流行を見たのが銘仙である。銀座を歩く女性の五十パーセントが銘仙を着ていたと言われる。銘仙は絹織物だが平織で安価のために震災後の東京で普及し、やがて日本中に広まった。しかもこのころ研究が進んで複雑で華やかな柄、モダンなアール・デコ風の柄まで現れ、流行した。産地は関東が多いが、夢二も足利銘仙の宣伝用の絵葉書に協力している。というのに彼はそうした超モダンな銘仙柄に反發をした。
「民衆の好む新奇をねらひ外国雑誌の図案や色調をソックリそのまま着物に利用してゐるから新し好みの人は外国人の足にする敷物やカーテンを着てゐるやうなものだ――私は思ふ、古いものの中に一番新しいものがあることを、そしてその土地のローカルカラーをガッチリ出したものが要求される時代のくることを」
と昭和六年五月に朝日新聞の群馬版に書いている。これは余計な話だが、私も戦中が娘時代だったから銘仙のお世話になった。しかしアール・デコ風の尖端的な柄は持っていなかった。矢羽根、市松、絣の類であった。学生だったし家が下町趣味だったせいだと思う。
そして夢二はというと、自分の画中の女性に外国直輸入と思えるモダン銘仙を着せなかった。芸術家として潔癖だったのである。他のイラストレーターたちにそんな配慮はない。きものもサイケデリック、羽織もサイケ、帯も似たようなものをかさねてきた時には野暮くさい姿になる。着手に美への見識がないと失敗は免れない。夢二はそのことも考えのなかにあっただろう。
一枚の着物として衣紋竹(えもんだけ)に吊るされたときのことより考えないのは、素人には許せても美の制作者たちには許されるはずがない。夢二が帯を無地にすることが多いのは、そのためだったと改めて思う。
夢二はまた、こんなことも言っている。
「これは神楽坂の紅屋で見かけたのだが、支那服に耳かくしをした少女を見たとき、これはおもしろいとおもった。なんのことはない天平時代の風俗だ。あれでもつと大どかな文様のついた布をつけたらそつくり天平だ。元来耳かくしが支那(現代の中国)あたりから西洋へ近頃いつたのが久しぶりに日本へ逆輸入したものだらう」
長い文章なのでこの辺で終わりにするが、文章の結論は外国のものを取り入れるまえに、もっと日本の古い物を、いま一度見直して工夫する必要があるというので、絣や縞を愛し、かつ天平まで遡って風俗を考えたいという彼の自論である。
白樺派の洋画家であった有島生馬は、
「後世明治大正の女性を創った画人は誰であったかという問題になると夢二以外誰を挙げ得るであろう」
と言っている。その通りで、私は「明治大正の」の後に「女性のきものを」と右の文章に手を入れたいと思っている。
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