夢二の素顔

さまざまな人の夢二像

第23回「夢二画集のことなど」(小野忠重)

2025-02-02 13:11:54 | 日記

今回は、版画家の小野 忠重の文章です。版画史や古地図、浮世絵の研究者でもあったようですが、1909年生まれなので夢二より25歳年下。夢二の通った早稲田実業学校を卒業しています。
ここでは、画家の中沢弘光と夢二と共同生活をした荒畑寒村からの聞き書きがありますが、17歳で上京したときの様子の断片がよく分かります。また、それ以降の出版物についても、印刷や装幀の面などから詳しく書いています。ここでは主要部分を抜粋しました。

本文は、特集 竹久夢二 第一集 『本の手帖』Ⅱ・1(1962.1.1)に掲載されたものです。
*『夢二美術館―春の贈りもの―』(1988.6.28)学習研究社より

(前略)

 『夢二画集』

(前略)

 さて、竹久夢二(明治十七~昭和九)のごく若い頃について、私の胸にこたえている聞き書が二つある。一つは画家中沢弘光(明治七~昭和三十九)さんの最晩年に私が訪ねた時のメモです。――「中学世界」の絵の選者だった頃、当時早実時代の夢二が投稿し、受賞したので、訪ねてきた。後には藤島(武二)に就いたようで、同門の有島(生馬)と彼は親しかった。夢二は一条成美のつぎの時代の人気を得た。夢二画集は女子学習院生のみんなが持っていた。院長の乃木大将はこれを持つなとしかったと、当時の図画教師岡野栄から聞いている。――とあり、もひとつは、平民社以来の社会主義者荒畑寒村氏(明治二十~昭和五十六)を、これまた晩年に訪ねた時のメモ、夢二との交渉は明治三十八年頃で、平民社に、なんのつてか、発送の手伝いなどで出入していた。早大文科の男(のちに「マルクス・エンゲルスを教えてくれた人」と夢二がかく岡栄二郎)と私と夢二は二、三ヶ月雑司ヶ谷鬼子母神近くの農家で自炊していた。絵をかきたかった夢二は、早実に籍をおきながら溜池の(白馬會)研究所に通ったりしていた。絵はがきの流行していた頃、画用紙をはがき大に切って絵をかき、早稲田辺の絵はがき店におろし、十日目位に集金して生活費にあてていた。一尺ぐらいに積んだ画稿を私に見せて、平民新聞に使ってくれという。これを堺利彦先生に見せたら、おもしろい、採ろう、という。しかし週間「平民新聞」は廃刊となり、後続の「直言」に出た。その「直言」も発行停止で、つづく「光」から日刊「平民新聞」時代に、これらのコマ絵や狂句、詩などが続出した(下略)――と。どうやら中沢→荒畑回想は荒畑→中沢の順で、投稿青年夢二の面影をのこすかのようです。

 だから『夢二画集 春の巻』の夢二の自序に――これ等の絵を掲載したる雑誌、女学世界、太陽、中学世界、少女世界、秀才文壇(下略)の編輯者諸子に謝す――があるのです。この稿のペンをつづける(八十五年)七月二十三日付、朝日新聞の記事、新人国記(東京都の演劇関係)にふと目がとまりました。――三橋達也の父は、木挽町の仕事場で、薄いツゲを貼った桜の台木に絵を彫っていた。自宅は銀座三丁目にあった。トッパン(凸版)技術が未熟な頃で、得意先は電通だった。ときどき朝日新聞の仕事がとび込んだ。急ぐ時は父が彫り上げた木版を持って、三橋は数寄屋橋の新聞社まで駆けて行った。製版技術が進むと、父は自宅で判子(ハンコ)を彫った――と。

私の知るかぎり、写真製版の亜鉛凸版(ふつうトッパンとよぶもの)は、明治十年代、二十年代、三十年代と試作益的なものがあらわれながら、写真版(アミ版)、原色版も成果をみせる明治末~大正期に、キリン血(drgon blood)とよぶインド海島産出の樹脂、写真製版の亜鉛凸版になによりの耐蝕剤を知るまで待つことになるのです。その間に行われる薄和紙の版下絵で彫りあげる木版の、用済みのものを夢二はもらいあるき、新z圧死の印刷所東京築作が必要となれば、工賃の安い彫師をたずねもしたのです。

投稿画青年夢二が、東光園薄幸の「ヘナブリ」誌(第二号から「ヘナブリ倶楽部」)にも関係し、みこまれて編集の責任を負い、表紙、口絵、挿絵、カットから附録の絵はがきまで受け持ち、文壇に詩・文を発表するのは明治三十八年十一月から三十九年三月までです。この雑誌の印刷所東京築地国光社の社長は、河本亀之助、夢二の自画版木収集の様子を知って、よろしい引受けた、となります。夢二最初の画集『春の巻』は、印刷所国光社かわるとことの出版社洛陽堂の開業宣言でもありました。ときに明治四十二年十二月です。

軽装(仮装)のくせに印刷効果はみごとで、そのものずばりな夢二画集の成功でしょう。四十四年九月の九版で総計九千部、四季計画の第二陣『夏の巻』が生れ(四十三年四月~四十五年三月八版)、これまた総計七千部となる。四季連刊は『秋の巻』、『冬の巻』が四十三年十月と十一月に完了するが、菊半截判または四六判で、画集『花の巻』、『旅の巻』と題したものが四十三年五月また七月に出る。四十四年二月に同じく『都会の巻』が出て、明治末樂王道の好評本夢二画集は感性となります。

 『桜さく島』から『三味線草』へ

昭和二十年三月の米軍空襲で焼け出され、私の夢二本はみんな灰となってしまい、戦後の杉並の住居で近所つきあいの画家、新海覚雄氏(明治三十七~昭和四十四)から、父君竹太郎翁の遺愛『桜さく島 春のかたはれ』を恵まれました。明治半期を思わせる絵入歌謡の和装本(十八×十二センチ)です。もっとも『桜さく島(国)』を題した画冊は、この四十五年二月本の前の、四十四年十月の『白風の巻』、またすぐつづく三月『紅桃の巻』が主宰の著編者を夢二年、自分をふくめ恩地孝四郎その他多数の筆をあつめて、「雑誌」として出ている(長田幹雄氏 竹久夢二著作目録「本の手帖」六十七年三・四月合併号)。

いま、これらと対照できないが、架蔵を見るかぎり、前後に例のない和装の単行本で――題箋(だいせん)を持つ表紙、裏表紙の間に、厚和紙二折の扉、その裏から見開き色木版「TUMABIKI」、その裏「暮れゆく春」の歌謡あり、以下コウゾ紙に歌謡(活版)と絵(木版)を満たしています。奥附の洛陽堂とならぶ印刷者名は、麹町飯田河岸の日英舎日下主計です。これは明治二十四年伊那生れで、明治の東京木版工武藤秀吉に学んだ彫師で、すぐこれにつづく洛陽堂夢二本『昼夜帯』(大正二年十二月)も手掛けている山岸主計とみられます。

もひとつ四六倍判本『桜さく国 紅桃の巻』(明治四十五年三月)の附録は『得度の日』と題した木版多色刷の二つ折ものでした。刀痕から、明治後半~大正期に洋画家の素描や水彩に迫真の彫技をふるった伊上凡骨(明治八~昭和八)の手によるものと見られます。この後まもなく開く、東京日本橋呉服橋東詰の夢二経営の絵草紙店港屋にならぶ人気商品、一枚絵の一つでした。

雑誌か単行本かまぎらわしいながら、『桜さく島(国)』の連刊は、夢二画集連刊で彼の身辺に寄った画家志望青年の集団に向けて、暫時ながら続いたのでしょう。その中で最も熱っぽい一人恩地孝四郎には、四六小判『どんたく』の表紙とカバーを案出させて、洛陽堂以外の最初の出版社、実業之日本社(同郷岡山出身の詩人有本芳水が編集長だった)から、大正に入るそうそう出します。そして『昼夜帯』(大正十二年末洛陽堂)、『草画』(大正三年四月岡村書店)、『草の実』(大正四年一月実業之日本社)、『絵入歌集』(大正四年九月植竹書院)と続き、新潮社版小唄集『三味線草』(大正四年九月初版 四六小判)が出て、厚表紙のなか、長くて八行、ほとんどは三~五行の本文活字組に凸版の絵入り、別刷はコロタイプ、巻頭の蔵書票にはじまる多色の木版(凡骨彫)あでやかに、首尾一貫夢二スタイルで、夢二装幀本のみごとな完成をみることができます。そして、夢二装幀本の珠玉中の珠玉、『山へよする』(菊半截カバー付)が生れるのは、大正八年そうそうでした。

大正三年十月呉服橋畔に開いた絵草紙店港屋は、東京の名店の人気をとりました。ここを訪れた女子美校生笠井彦乃との不幸な恋愛は、夢二に触れたどんな書物にも出ています。いわば、その結末の直前、夢二と逃避行の彦乃は病んで東京に連れもどされ、大正九年にはあの世の人となる。そのような時に書きつづられ、描きつけられた一篇の書冊が『山へよする』なのです。もとめられてもアト刷は出せなかったのでしょう。

というのは、前述の『三味線草』も大正九年十月の十三版本では、別刷が木版七点と変わり、帙(ちつ)が新装となります。そんな例は以後も多く、『夜の露台』は大正五年發月の千章館本(四六小判)で、見返木版、口絵、挿絵とも色刷六点ですが、大正八年三月に夢二本に春陽堂が加わった時、この本が選ばれ、大きさは同じ四六小判ながら、)帙入で面目一新、内容も詩が増補されます。

夢二は春陽堂が気に入ったらしく、『露地の細道』を大正八年三月、四六小判表紙木版函入本で、ここから出します。古い篇を集めていますが、この本文は朱ワクという二度刷、それに木版の挿絵が十一点です。このアト版があります。大正十五年十一月に出て、木版挿絵の十一点が全部変わります。本文中に風俗スケッチや古い仕切判(商店の領収印など)をセピア・インクで刷り込むという凝り方です。そんな風に夢二本は再版だからといって、独自な意匠が行われている。うっかりできない美術本なのです。(後略)

(注)帙(ちつ):書物を包むおおい

『直言』に掲載された夢二のコマ絵


第22回「夢二の生活を赤裸々に」(宇佐美雪江)

2025-01-12 09:11:09 | 日記

今回は、歌人として知られる宇佐美雪江の手記です。
1928年(昭和3)、体が弱く電車で医者通いをする毎日の少女・雪江は、同乗することの多かった夢二がスケッチ(今でいえば盗撮ですが)を重ね、やがて声をかけ、戸惑う片親の母親をまるめこんで少年山荘に囲われてしまいます。
小部屋に閉じ込められた雪江は夢二と自分とあまり年の違わない不二彦との生活を始めます。モデル、仮妻、使用人などの様々な役をこなしながら、夢二に次の愛人ができて少年山荘を追われるまでの1年間、人の出入りの多い少年山荘で暮らしました。

雪江には短歌で日記を書くという特技があったことから、「夢二追憶」(文藝春秋)という本が生まれました。夢二研究家の長田幹雄氏が雪江の日記を偶然手に入れ、雪江に連絡を取り、執筆を勧めたのです。雪江は自分の短歌をもとに在りし日の夢二の姿を残酷なまでに活き活きと描写しました。唯一結婚した勝気なたまきと別れ、心から愛した彦乃には死なれ、その後いつしか同居することになったお葉に去られた後の夢二のまさにこれも”夢二式”といった生活が赤裸々に描かれています。

ここでは抜粋のみ掲載しますが、ぜひ同書を読むことをお勧めします。また、日下四郎氏の著書「夢二という生涯」(22世紀アート)には同書の解説が非常にわかりやすと書かれているのでこれもお勧めです。
夢二はこのような本が出版されるとは全く予想だにしなかったでしょうが、雪江が歌人としての素質を持っていたということを見抜けなかったのでしょうか。夢二と時間をともにした人の書いたものとしては、最もリアルに夢二の生活の一端を表現していると思います。

*宇佐美雪江「夢二追憶」(1972年3月20日、㈱文芸春秋刊)から抜粋


●夢二と外出しますときなど、夢二は、わたくしの踵に紅をさし、唾でぼかすのでございます。そして、わたくしを自分より先に歩かせ、後からゆっくり従いてくることもございました。
だいたい、夢二という人は、絵を描くからと言ってモデルを坐らせるわけではなく、日ごろ描いておりますスケッチブックの中から、その時々の、女の姿態を参考にしていたのではないかと思うのでございます。
わたくしにも、描かれていると思ってはいけない、いつでもパパは描いているのだから、と申し、モデルとして夢二の前に立ったことはございません。
●郵便局にわがゆく径は茶の花のこぼれ咲く径ひとりゆく
郵便局にゆく径と申しますのは、夢二の家の裏口から、西に向って茶の木の並んだ、細い径がございました。たしか、甲州街道へ出る道ではなかったかと、思うのでございます。その当時は、いかにも田舎の街道筋のような、ものさびしい通りでした。そこに、小さなしもたやのような郵便局がありまして、そこの夢二の私書函に郵便物をとりにゆくのでございます。ときには、夢二と一緒に行くこともございました。
(編者注)しもたや:店じまいをした家の意の〈仕舞(しも)うた屋〉から変わった言葉で,商売をしていない家。
●夢二は、歌舞伎がたいへん好きだったらしく、ことに大阪の鴈治郎が「紙治」を演じます時は、二、三日続けてみにいったようでございます。そのうちのいつの日かに、わたくしもつれて行ってくれました。
わたくしが、もの珍しげに、あたりを見まわしておりますと、夢二は、「あそこに、きれいな女たちがいるよ。」と、申しまして、二階の彼方を指すのでございます。いわれて、わたくしが見上げますと、なるほど絵のように可愛らしい舞妓さんが、五、六人も並び、髪の簪がピラピラ光って、ゆれておりました。
わたくしは思わず、「とっても、きれいね。」と、感慨ぶかく申しました。すると、夢二は、「あの簪に、いまに浮名がたつのさ。」と、いって、ニヤリと笑いました。
のちに、夢二が半折に舞妓の絵を描くとき、
かんざしに立つ名のあれや初芝居
と、いう句を書き添えているのを、見たことがございます。
●着せられし黄八の着物冷たくて首すかすかとちぢめて歩く
これは、夢二の妙な好みでございまして、黄八に紅絹裏(もみうら)のついた素袷(すあわせ)を、冬でもわたくしの素肌に着せ、胴を細紐できつく自分で締めまして、眺めているのでございますが、わたくしは絹の冷たさで、首をすくめていたものでございます。
(編者注)素袷(すあわせ):長襦袢を着ないで、肌着の上に粋に袷を着ること。
●(冬)夢二は、前に申しました保ちゃんの紹介で、大阪の画商だという男と知り合いになり、その男の世話で、保ちゃんを加え、四人で箱根に行ったのでございます。(中略)夢二はその宿で、朝から晩まで絵を描いておりました。みんな半折です。五枚か、六枚描き上がると、その画商という男が、まとめて東京に持っていったようでございます。どのくらい箱根の宿に居りましたのやら、わたくしは飽き飽きして、いたずらにお風呂の湯の元の、竹の樋(とい)に手を突っこみ、大やけどをして、騒いだことがございます。
のちになって、きいたことでございますが、夢二は、そこで描いた絵で、経済的に立ち直りを考えていたとのことでございますが、不幸にして、その時の絵は全部持ち去られ、うまうまと、詐欺にかかったのだそうでございます。もし、あのとき描きあげました五、六十枚の半折で、夢二の当面の金銭上の苦悩が解消されていたならば、日本を脱出する気にはならなかったのではないかと、わたくしは思うのでございます。後年、そのときの絵を、夢二の展覧会で見ましたとき、わたくしは自分の目が信じられないほど驚きました。
●夢二の家は、戸締りということをしなかったように、思うのでございます。そのせいか、朝、わたくしが目を醒ましますと、もうサロンには、お人が来ている時もあり、たいへん賑やかだったと記憶がございます。
●夢二という人は、女のひとには、たいそう好き嫌いがあったようでございますが、青年達には、とても甘く、いつも五、六人ぐらい遊びにまいっておりました。その中のひとりの青年、というより、少年と申したほうがよく似合う、「ハダカの健坊」と呼ばれている少年がおりまして、どういうわけか、わたくしと気が合いまして、この少年がまいりますと、わたくしは、ひどくはしゃいでいたものでございます。(中略)
そして、その夜、夢二に話してみましたところ、たいへん叱られました。それから、健ちゃんは、松原へ来なくなったように思います。その代わりというのもおかしゅうございますが、夢二は、よくわたくしと遊んでくれました。もっとも、だれもいないふたりきりの時だけでございます。(中略)
そんなふうにして、よく遊んでくれたかと思うと、ふいに、遠い人のような顔をして、わたくしをアトリエから追い払うのでございます。そんなときの変わり身が、わたくしにとって一番悲しく、はぐらかされた気持ちのもってゆきばがなかったものでございます。
●夢二は、そのアトリエで、当時、宝文館から出ていた「若草」に、表紙やカットを描いておりました。赤い帽子をちょいと被り、礼服のズボンのような縞のズボンをはいて、脚を組みながら描いていた姿が浮かんでまいります。それと、わたくしの髪を切りましてから、「雪坊スケッチ」というのを作りまして、断髪の女の子のさまざまなポーズをスケッチしておりました。
●夢二は朝起きましても、顏を洗うというわけではなく、気の向くままに振舞っておりましたから、朝だから、昼だからという、時間のけじめもなく、食事もずいぶん、でたらめのようでございました。わたくしは、一日の初めに食べるのが、パンだったことしか覚えておりません。
●そんな一日の初めに、地主の親爺さんが来ることが、あるのでございます。そんなとき、夢二はとたんに不機嫌になり、さっさと、アトリエからし色紙をもってまいりまして、簡単に絵を描いて渡しておりました。わたくしが覚えておりますかぎりでは、いつも榛名の山の絵でございました。
●そのころ、夢二はお金に不自由していたものか、よく夕方から、半折を小脇に抱えて、丘を降ってゆきました。一度、三軒茶屋というところの骨董屋のようなお店に、一緒に行ったことがございます。
●夢二は、わたくしを外につれ出します時は、二階(屋根裏)のつづらの中から、わたくしに着せる着物を選び出してくるのです。(中略)出掛るときによって、着物も違いますが、どれもみんなカビ臭く、湿っていて、決して快い気分ではございませんでした。
保ちゃんの話によれば、それらの着物は、殆どお葉さんの着物だったようでございます。つづら一杯ほどの着物を残して、去って行ったお葉さんの、当時の気持が、いまは多少わかるような気がいたします。
わたくしも、女でございますから、身の廻りの必需品もあったのでごいましょうに、夢二から現金をもたされた覚えはなく、日常の買物その他、いったいどうしていたのでございましょうか。記憶もないのは、いまだに解せないことでございます。
夕食は、よく新宿の中村屋に出掛けてゆきました。
その折、女主人の黒光さんが、夢二のテーブルに挨拶に凝られ、帰りには、たくさんの支那まんじゅうを、くださったように思うのでございます。その支那まんじゅうが、二、三日の朝の食事になっていたこともあり、固くなったのを火鉢の炭火で焼きながら、夢二と二人でボソボソ食べた情景などは、いまだに目に残っております。
●「母といえば、いくたび夢二の前で怒りましたことか。(中略)本当に可哀想でございました。軍人の未亡人という自分の誇りと、父のない責任を感じてのことでございましょうか。夢二を終生憎みまして、わたくしの人生の負目として、第二の人生を踏み出しましたときも、夢二のことは固く口を閉じ、わたくしにすら語ることはございませんでした。
夢二も、母が苦手でございまして、母の姿が見えますと、どこかへ姿を隠してしまい、ときには、そのまま旅に出てしまうのでございます。松原の家に、わたくしが居りました間で、母が最も倖せに感じたのは、わたくしが病気をした時だと思います。
(1か月ほど病臥した際にその間中母が来て看病してくれた。)
●そのころ(病臥していたころ)、夢二はわたくしとの暮らしと全く関係なく、榛名山の方で、新しい計画を立てて、活動していたそうでございます。のちになって、夢二の遺作集や文献によって、知ったのでございます。
夢二にとって、わたくしはまったくの子供か、玩具のような存在だったのでございましょう。夢二自身の生きる上の相談など、ただの一度もきいたことがございません。たまに、わたくしが大人めいた顔をしておりますと、「大人になるな。」と、いって、きつく叱られたのでございます。
●ですから、松原の家に、女の方の出入りがどんなに激しくても、わたくしは無関心を装っておりました。夢二は、そんなとき、わたくしの存在を無視して行動しておりました。どうかしますと、女の方が五、六人も泊ってゆくこともあり、どうやって寝ましたものやら、そんな夜は、わたくしは早くから例の三角部屋に入っておりますので、存じないのでございます。わたくしが、朝、目を醒ますころにはもう誰もいないで、夢二もいないことがよくありました。
●その(信州への)旅から帰ってすぐ、夢二は突然、下腹部の痛みを訴え、それはもう、たいへんな苦しみようでございました。どういうふうにして、築地の池田病院に入院しましたのか、そのとき、わたくしは気も転倒しておりましたのか、はっきり覚えておりませんが、夢二のいいつけで、半折を二枚持ち、「週刊朝日」の編集長だった翁久允氏を、朝日新聞社に訪ねさせられたのでございます。今思いますと、松原に来てから、ひとりでは殆ど外出したこともなかったわたくしが、よくも朝日新聞社まで行きついたものと思います。
それはともかく、翁氏に会い、夢二の半説を渡して、封筒に入ったものを翁氏から受取り、その足で池田病院に向かったのでございます。
(病院に着くと夢二はけろりとしていてお葉と楽しそうにはなしていて、雪坊は封筒を手渡すと涙がポロポロこぼれた。しかし後でお葉は高相さんが見舞いに連れてきたことが分かった。)
●それは夢二が留守のときでございました。玄関に、たいそう立派な毛皮の衿巻をして、お供をつれた女の方が立っているのでございます。わたくしは、ただどぎまぎしておりますと、その方は、自分は夢二の妻で、不二彦の母であると仰言って、わたくしをさも軽蔑したように見下されたのです。(この後の様子はよく憶えていない。)

●だいたい、夢二のところに来る女の方は、みんな美しく、女っぽく、いつもわたくしは圧迫を感じておりました。

●あるときは、夢二のお姉さんという方が来られました。この方は、わたくしにたいへん優しく、その上、わたくしを前に置いて、女の道について懇々と説教をして下さるのです。一日も早くこの家を出ること、ちゃんと結婚して子供を産むこと、それが女の幸福というものであることなど、いいきかされました。わたくしはただ悲しく、これからの自分がどうなるのか、見当もつかなかったのでございます。

(昭和5年)

●(ある時雪坊のことが書いてある記事のある新聞を夢二がまるめて棚の中に放り込んでいたのを見たが、実は次のことが原因だと分かった。)新聞記事には、歌人の山田順子と、夢二との愛の破局が、まだ世間を騒がしているのに、早くも娘のような年若い女が、夢二の新しい情人になっていることか、今でいう週刊誌的センセイショナルな記事で、埋められていたそうでございます。
そのころ、ようやく夢二の絵が世間から倦きられ、やや下火になっていた時期でもあり、夢二にとっては、かなりのショックだったようでございます。
そんなことがありましてから間もなく、突然、夢二は、『下宿をしてみないか。パパがよい部屋を探して来たよ。』と、申すのでございます。
(下宿を初めてから)松原にいるときと違って、わたくしが中心になるものでございますから、嬉しくて、楽しくて、夢二と離れていることも、少しも苦にならず、むしろ、夢二の来ないことを願うようになりました。林芙美子と知り合ったのも、そこの下宿でございます。いつ、だれと来たのか、また、どういう女なのかも知らず、ただ勢いのよい、すごい女と思っておりました。芙美子は、わたくしが夢二とかかわりのある女だと知って、たいへん軽蔑していたようでございます。夜など、わたくしを新宿にひっぱり出して、屋台のおでん屋で、よくお酒を飲んだものでございます。
(後で知ったが)丁度、そのころ、夢二は経済的にも行き詰り、仕事の上にも苦悩があって、日本脱出を考えていたのだそうでございます。
●(2月、「雛によする」の会場に呼び出されて)夢二は、わたくしを片隅に呼び、腰のポケットからお金を出して、掌に握らせてくれました。冷たい硬貨の感触が、なにかひどく侘しく感じられました。三十七円だったと思います。
「パパは外国に行くよ。帰ってくるかどうか解らない。」と、申しました。夢二のその言葉をきいても、少しも悲しく思わず、平気な顔をしていたように思います。それからだいぶ経って、夢二から一枚の葉書がまいりました。
叱りたればすごすご小屋に入りけりルルも足らざるもののあるべし
これだけの文字でございました。これを最後として、夢二との音信は絶えたのでございます。

*参考1:保ちゃん:大岩保のこと。三重県いせ

*参考2:本の手帖の「夢二をめぐる娘たち」 福田蘭堂(青木繁の息子、本名幸彦)
……とつぜんH子という少女が現れた。ぽっちゃりとした色白の娘であった。彼女は少女雑誌の編集員であり、さし画を貰いにやつてきたのである。夢二はすぐ好きになり、彼女と会える時間をのばすために、さし画をすぐには渡さなかった。H子は黙ってそれを我慢した。その姿はいじらしかった。わたしは彼女に同情をよせた。やがてH子はわたしを慕うようになった。
(編者注1)保ちゃん:大岩保:三重県伊勢崎市出身で、画家志望の青年として大正9年に同郷の先輩岩田順一とともに菊富士ホテルに夢二を訪ね、行き来が始まる。三共製薬に入社したことから金銭面で夢二にいいように使われる一方、哀れな雪江への同情心が雪江の心を動かしたことから、夢二が雇った暴力団に襲われ、夢二との破局を迎えた。
(編者注2)H子:博文社の小池秀子




第21回「美術史の中の夢二」(森口多里)

2025-01-05 08:50:43 | 日記

今回は多彩な文筆活動で知られる評論家森口多里。「タブロー本位の美術史には夢二の占める場所はない。」としながらも、夢二の時代を写し出した画家として評価し、美術史の中でさまざまな取り上げ方をしてきました。

*『竹久夢二 大正ロマンの画家、知られざる素顔』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)より 

この文章は、『本の手帖』第二巻第六号(1962年(昭和37)(昭森社)に掲載された「美術史の中の夢二」である。

あらたまって竹久夢二または単に夢二とよんだのではなんとなく自分から遠ざかってしまうような気がするが、竹久君とよぶと急にいきいきと身近にあるようにおもわれてくる。そこでなるべく竹久君とよぶことにする。

 昭和十六年六月に東京堂から出した『明治大正の洋画』において、わたしは史的叙述のあとに個人作家として七人の画家の略伝をつけ加えた。黒田清輝・岡田三郎助・満谷国四郎・長原孝太郎・石井柏亭・竹久夢二・佐伯祐三の順であった。これについて一部の人々から、他の六人の画家に任せしめて竹久夢二をえらんだのは妥当ではないと意見された。書評にもそう書かれた。

 もっとも、この七人の略伝は、『明治大正の洋画』のために新しく書いたものではなく、雑誌やなんかに書いた旧稿があって、それを採録したのがたまたまこの七人の顔揃いになったまでのことであった。いずれにしても、竹久夢二と他の六人の画家との間に芸術的格差とでもいうべきものを感じていた人々があったので、たまたま夢二を伍せしめたことは、他の六人の芸術的地位を冒瀆したことのように思われたのであろう。あるいは竹久君自身も、有難迷惑を感じて地下で苦笑したかもしれないが、前述したように偶然この七個人が顔をならべたまでのことである。

 明治以降の美術史の表面に、つまり表街道に居ならぶ作家たちと竹久君との間に或る格差のあることは事実である。前者が楷書的存在であるとすれば、後者は草書的存在であろう。いかに庶民の間に人気があったとしても所詮日本芸術院には縁のない草書的存在である。

 明治以降の美術史を「洋画」という範囲に限って考えてみるならば、竹久君にはタブローとしての完成をめざす意欲の進行がなかったと云える。草画において一時世間から竹久君と並行して見られていた渡辺ヨヘイはタブローの上でも情熱と野心とを持ち、明治四十三年の文展に「ネルのきもの」を出して三等賞を授与された。それで、僅か二十二歳で死んだヨヘイの名前はともかくも日本の洋画史の片隅に出ることになったが、夢二の名は常に除外される。しかしそれだけの話で、なるほど「ネルのきもの」は、山下新太郎、青山龍治、小杉未醒、中村彝、平岡権八郎、八条弥吉の順位の直ぐ後に続き、矢崎千代治と真山孝治よりは上位で、三等賞を授与されただけ会って、画面に破綻が少く、東寺としては感触が新鮮でいまの言葉で云えば一種のムードのあるタブローであったが、要するに対象を手際よく緩和に写したものであった。

 竹久君はタブローでは名を成さなかった。タブローに対象を写し出すという苦労から解放されたところに個性の自由な形成の道を見つけ出したのが、竹久君の草書的な芸術であった。したがってタブロー本位の展覧会にも楷書本位の日本洋画史にも、竹久君はついに無縁の存在であった。それでよかったのである。

 竹久君の個性は、つまりは東京というとかに住んでいた田舎者の個性であった。若し竹久君が、その頃東京に多かった所謂江戸ッ子がかった通人気風に染まっていたなら、あの独自の情緒を画中の人物に与えることが出来なかっただろうと思われる。若しも春信だの歌麿だのに溺れ、あるいは江戸長女などと通がっていたならば、あの夢二独自のタイプは形成されなかっただろうと思われる。

 竹久君は人物に新しいタイプを与えた、というよりは人物の新しいタイプを創造したというべきである。これはタブローの上では期待の出来ないものであった。この創造によって、小春治兵衛も古風な丸髷の女も、やすやすと今のわれわれの感情にはいりこむセンチメンタリズムをもつ人物になった。それは決して高い人間性を与えたものとはいえないにしても、江戸系通人と現代の田舎者との間に横たわる障壁を取り除いたことは事実である。

 しかし、古い型の女を新しいセンチメンタリズムの中に生かしたというだけでは、竹久君の芸術の魅力は半減されたであろう。幸いにして竹久君の情緒力と想像性とは、まったく新しい人間のタイプを創造した。それは明治末から大正にかけてのボヘミアンライクの青年が憧憬していたものを感覚的に象徴したような人間のタイプであった。日本の伝統の美しさに定着していながら、異国的なものを自由にわがままに消化して、平俗な世間並から超越した人間のタイプであった。あるいはそれは全くの異国人として現れることもあったが、作者の感情は極めて自然に移入されて、ことごとく竹久君の世界の人間になってしまった。

 こういう人間のタイプを立体的に、しかも十分に魅力的に表現したのは、昭和五年の「雛に寄する展覧会」に出品した多くの衣装人形であった。この時の作品が一つでも残っていてくれたならと願われるが、おそらく全滅したこととおもわれる。わたしの記憶もおぼろになったが、当時書いた印象記は活字になって残っているから、その一小部分を抜萃してみよう。

  かがめる背を僕等に向けて、杖と蝙蝠傘とを力に雪路をとぼとぼと辿りゆく老人夫婦の互に扶け合う姿、――これが「国境へ」であ る。小さな創作人形によってこれほど複雑な感情を表したものを、僕は未だ曾て見たことが無い。
  追手の風に吹かれながら市場へと買い物にいそぐ露西亜婦人、低地地方(ペエイ・パー)の伝統的な白い帽子をかぶり、床机に腰を  かけて遠くの山脈を眺めている田園の娘、――彼女等の小さな姿は、直ちに僕等に「風」の存在を感触せしめ、雪の白い「山脉(さんみゃく)」の遠望を関知せしめるのである。作者の感興が更に一層アイデアリスチックの世界を逍う時、或は「青空」となり、或は「幸福をたずねて」となる。老婆は包をかかえて悄然と階段を下りてくる。その長い階段の終るところに高く吊るされた鳥籠の戸は開けられたままだ。小鳥は青空に放たれたのだ。この「青空」を見て、僕等は、その家には既に人が住んでいないことを直感するによい。
  そういう哀愁を時として作者は社会思想の立場から解釈した。そして、その場合、メランコリーは一種の告訴として僕の前に立体化されるのである。そういう例を「青是烽煙白人骨」や「煙を吐かぬ煙突」に見ることが出来る。しかしこの方面では、作者は未だ非常に遠慮ぶかい。
  作者のテーマは複雑である。「月」や「星」の如き作品にはシュルレアリスム的の幻影さえも取扱われている。作者は、この展覧会に「まいをねっと・どらまにゆく第一階(ママ)の試み」と題したが、「月」や「星」はすでに怪奇なドラマを私共の前に展開している。そうかと思うと、それに隣して、美し支那の春――桃の花咲く青野に逆立ちしている紅衣の支那少年を見る。またユーモアに浸されたるリアリズムの表現としては「信州のパパ」や「オデッサよりの紳士」や「モスカウ芸術座支配人」等がある。

 竹久君のえがく人物、わけても女人は、すべて殉情のポエジーである。そこでは封建時代の哀感も異国的の情調もローカルな風物もすべて作者の「現代」に融合していことごとく庶民的なものとなった。この殉情のポエジーがたくさんのファンをひきよせたが、それだけにやがて類型になって行き詰るべきものであった。この行き詰まりを打開する試みとして成功したのが、「雛に寄する展覧会」であった。

 昭和十一年春の第一回新帝展から工芸部に人形の出品が許され、それ以後、表現の洗練された、品格も高い人形が毎年出品されるようになったが、竹久君の人形ほどに直接わたしどもの感情に飛び込んでくる作品はまだ現われない。それは古典的完成を無視するところに生まれた人形の生命であった。

 竹久君は自分の創造した新しいタイプの適用と、その新しい打開とを、わたしの知っている限りでは、少なくとも三度計画した。一度目は大正十二年のポスターの制作機関の計画で、その披露会も催したのであったが、出資者が関東大震災で一家全滅してしまった。震災直後わたしは渡欧したので、昭和三年までの竹久君の行動は知らない。

 二度目は昭和四年で、榛名山麓に農民美術研究所を設立する計画を立て、趣旨書には私の文章も出たが、この文章を依頼してきた毛筆がきの手紙だけは、どういうわけか、赤い封筒と共に戦災を免れて残ったので、こちらに移り住んでから横額に仕立てて飾ってある。この農民美術への創作意欲も成果を見なかったようである。

 三度目が昭和五年の「雛に寄する展覧会」であった。第二回は遂に開かれないでしまった。そして同じ年に渡米したのである。

 さて「美術史の中の夢二」というテーマであるが、タブロー本位の美術史には夢二の占める場所はない。現代風俗画史が書かれても、主要なる席は展覧会に大きな画面を出品していた画家によって占められるであろう。もちろん夢二も片隅の席を与えられるであろうが、大きな画面がいかに洗練された技巧でえがかれたにしろ、要するに風俗を写したものに対して、夢二の小さな画面には人物の新しいタイプがいきいきと創造されていて、そこに時代の若々しい憧憬と感傷とが象徴されていることを誰でも感受するにちがいない。

 わたしは『美術五十年史』(昭和十八年)を書いたとき、竹久夢二の名を「明治大正の版画芸術」と「明治大正の工芸美術」の章に出した。申訳ないことに竹久君の没年を「大正九年」と誤植してしまった。戦後の増補版『美術八十年史』では訂正しておいた。またその「昭和時代」の章にも竹久夢二の名を出した。

(注)森口多里(もりぐちたり)

1892年8月7日 - 1984年5月5日。岩手県胆沢郡水沢町大町(現:奥州市)にて金物商を営む父森口伊三郎、母カネヨの次男として生まれる。一関中学校(現:岩手県立一関第一高等学校)を経て、1910年(明治43年)に早稲田大学文学部予科に入学。在学中、佐藤功一から美術品の調査を依頼される。また、日夏耿之助主宰の同人誌『假面』同人となる。1914年に早稲田大学文学部英文科を卒業。卒業後は美術評論活動を行い、『ミレー評伝(ロマン・ロラン著)』の翻訳や『恐怖のムンク』といった評論文を執筆した。森口の多彩な文筆活動は、美術史・美術評論に留まらず、戯曲、建築、そして民俗など多岐にわたり、生涯で50冊余の書作を世に送り出している。

第二次世界大戦中、岩手県和賀郡黒沢尻町(現:北上市)に疎開した森口はそのまま郷里に留まり、深沢省三や舟越保武らとともに岩手美術研究所を設立。後には岩手県立岩手工芸美術学校の初代校長を務めた。また岩手県文化財専門委員として民俗芸能や民俗資料の保存調査に尽力し、収集した蔵書や研究資料は岩手県に寄贈され、岩手県立博物館や岩手県立図書館に収蔵されている。(wikipediaより)

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「雛によする」のポスター(1930年、銀座・資生堂にて)

 

 

 


第20回「夢二の草稿を見て」(秋田雨雀)

2024-12-27 13:56:37 | 日記

今回は、劇作家・詩人・童話作家・小説家・社会運動家と多方面で活躍した秋田雨雀。雨雀は青森県南津軽郡黒石町(現黒石市)に生まれ、東京専門学校(早稲田大学の前身校)英文科に入学しました。
1908年、恩師の島村抱月の推薦により、『早稲田文学』6月号に小説「同性の恋」を発表し、小山内薫のイプセン研究会の書記をつとめ、1909年には小山内薫の自由劇場に参加。1911年「自由劇場」の第四回公演で自身の戯曲「第一の暁」が初めて上演された。

1913年には島村抱月主宰の劇団・芸術座の創設に参加したが、翌年脱退し、沢田正二郎らと美術劇場を結成しました。それ以後、芸術座、先駆座などに参加する一方で、小説、劇作、詩、童話、評論、翻訳と幅広く活躍しました。

夢二との関係では、1915年、来日したワシーリー・エロシェンコと親交を結んでエスペラントを学び、夢二とともに茨城県の水戸へ旅をしました。

これは夢二の草稿「九十九里」(1905年)を見て書いたもので、この作品は同年6月から読売新聞に房総紀行「涼しき土地」として連載されました。当時の房総の様子がよく描かれています。

*この文は、『宵待草70年の歳月』竹久夢二展(毎日新聞社主催)図録に掲載されたもの。(開催場所:千葉県船橋市船橋そごう(1981.10.16―21)・柏市柏そごう(1981.10.23―28)

 こんな草稿が何うして保存されていたか私には解らない。しかし、確かにある時代の文字に相違ない。夢二とは私は一緒に旅行したこともあるが、夢二は旅を好きであったばかりでなく、旅に酔い旅に溺れる人であった。ある意味では一生を旅で終えたといってもいいほどである。

 この草稿「九十九里」の最後が水戸の町の記事になっているが、私たちが彼と一緒に旅行したのも、水戸であった。この旅行はあの盲詩人のワシリー・エロシエンコと一緒だった。エロシエンコのことを私たちはエロさんと呼んでいたが、夢二もやっぱりエロさん、エロさんと呼んでいた。私たちは、水戸の中学や女学校や盲学校などでお話をしたり、エロさんのバラライカの唄をきかせたりしたが、夢二は唖生徒たちに上手な絵話しをしたので、唖生たちがとても喜んだのを記憶している。

 夢二は旅では普通の人が余り気のつかない事に、或はあまり興味を持たないことに妙にひきつけられることがあった。そんな時、私たちはいらいらして腹の立つことがあった。しかし、後で考えると、夢二はそんな時きっと何か収穫を得ていたようであった。夢二は旅ではよく道草を喰った。スケッチブックを持って何処かへ行っていくら待っても来ないので困らされたことは二度や三度ではなかった。夢二は一生道草をくっていたような気もするが、それにしては羨しい一生だと思う。

昭和15年7月 雑司谷にて                               雨雀

 

秋田雨雀(Wikipediaより)

 

 


第19回「夢二はさびしがり屋の人嫌い」(山崎 斌(あきら))

2024-12-21 08:57:49 | 日記

今回は、「草木染」の命名者山崎 斌の文章です。
夢二の行動、しかもあまりよくない面を赤裸々に描写しています。
昭和4年の話としていますが、この頃も、夢二は相変わらず金に困っていたようですね。昭和6年に翁久允に誘われて外遊に出る際は、友人知人が個展等により相当の金を集めたようですが、出航したら実は借金返済後極貧の状態になっていたというエピソードを翁が語っています。
経済観念がないというか、浪費家というか、そういう点では明治40年に岸たまきと電撃結婚しましたが、その時からもうその性向は出ていました。2年後の離婚の大きな要因の一つとなっています。
最後の部分は、外遊から疲弊して戻った夢二の行動の一部が分かるということでとても参考になります。ちなみにこのとき山崎が草木染の展覧会を開催していた「資生堂」は、昭和5年、外遊に出る前に夢二が初めて人形展「雛によする」を開催した場所だというのも縁深いですね。
これで夢二のイメージが大きく下落するきらいもありますが、小説家山崎 斌の鋭い観察力溢れる文章によって描かれた「夢二の素顔」の一面でもあります。

*『竹久夢二』(長田幹雄編、1975.9.1)昭森社より
本文は、「特集 竹久夢二 第一集 『本の手帖』Ⅱ・1(1962.1.1)」に掲載された山崎 斌著「青肉の印 ―竹久夢二のこと―」です。

 夢二を浅間温泉に誘ったのは昭和のはじめ、たしか、その四年の初夏だったとおもふ。
彼、御沈落の時代で、世田谷の画室に独居、蒼い顔で棲んでゐた。それでも、彼らしく、上州榛名山の方に産業美術研究所の創設を企劃して「山のあなた」を想望する様な瞳をしてゐた。
その日、どうして浅間に誘ったか――の事情は全く思ひ出せない。当時、私は例の草木染の復興といふ風なことで、信州と東京都の間をしきりに往復してゐた。それで、彼の寂しげな瞳を見てゐる内に、不図して動向をすすめて仕舞ったらしいのである。
「大に、行きたいネ」
新緑の庭にその眼を皺めて、さう言ったのを不思議に思ひ出す。
「向ふで、ニ三枚描かなければならないぜ、たぶん」
「書くよ。‥‥‥それに、いま銭(ゼニ)も少しほしいんだ。」
「さうか。では、‥‥‥」
といふことで、私は松本の所用の方へ行き、尚、そこに近い浅間温泉へ行き、ニ三の心当りに「夢二来」を言ひ、――ニ三日して彼をそこに迎へたのである。

 なにはともあれまづ一杯といふので、彼の宿にして置いたNといふ宿で、まづ歓迎の宴を張ったのだが、夢二ははじめから浮かない顔をしてゐた。ヒドク疲れてゐるナと思ったのである。ト、彼は例の一寸歪める様にした口で、
「実は、急にカネが要る。明日、コドモが取りに来るんだ。百円、ぜひこしらへて呉れないか」と言ひ出した。
 私は、「さあ、‥‥‥」と言って仕舞った。青くなったかと思ふ。
 斯様なると、彼は私の身上を知らなかったことになる。銭のアマリ無いことは知ってゐたらうが、都合はつくと思ってゐたのだろう。然し当時の壱珀円也では困った。正直の所、それからの酒は不味かった。呼んで置いた妓も来たが、ソコソコに切上げたといふのが、私は金策に立向はなければならなかったから。
 翌日には、たしか不二彦君だとおもふ。――が東京から着いた。待って貰って、それこそ親類七所借りで、漸く(ようやく)この御使者に帰京して貰ったやうなことだった。

 さて、その後が当然厄介なことになったのである。仕方ないので、夢二の言ひ出しで、「新作画会」といふのをやることになった。半折(雅仙)一口十円で、これで当時高値の風でさへあった。
(画はうまいかも知れないが、気持がよくないといふ噂だ。そんな絵はダメだ)――この地方は東京に近いので、当時の小シップも広まってゐたらしく、借金の先々でもそんなことを言はれた。
 夢二には、すでにモデルが要るといふのではなかった。頭のなかには彼一流の「女」が一杯詰まってゐた。しかし、ゼイタクには妓を傍に置きたがった。ソレに墨を磨らして描くのを好む風だった。

彼は、言って見れば((さびしがり屋の人ぎらひ))だ。で、私は朝の用事の方に出かけて仕舞ひ、昼頃から妓一人が墨すりに来てゐた。
彼は薄いシャツの胸をひろげ、宿の浴衣を肌抜きにして言ふ通りの向鉢巻(少し長めの髪の毛がバサバサ落ちかかるから)だった。…………

夕方から――私が行くと二人で一杯といふことになるのだが、「気の毒なことになったナ」といふ顔を私が見せると、彼は彼で「すまなかったネ」といふ顔をした。
それでも七八日すると、予定したニ十口が描き上がったのである。ヤレヤレであった。会場も松本城の近くの一旗亭(名も忘れたが)に決まり、地元の新聞も大きく書いて呉れたりしたが、肝心の画会の客が申し合せたやうに、サッパリ来ない。――これは後で解ったことだが、I辨護士といふ風な世話人に対しての反感もあり、彼のゴシップ禍もあり、芸者に墨を磨らせて描いたといふことまでが問題になって、急に背中を向けたといふ会員も多かったのである。
尚、彼は晩年、夢二と落款せず、もっぱら「夢生」を用いたが、――八月生と読むものさへあり、殊には「愁人山行」の四角な印章に好んで青肉を用いたが、‥‥‥青印は「不吉」だと、言ひ歩く画商までもあったのである。
言って見れば、われら不徳、彼また不運といふ仕儀であった。
後で、Y君といふ地方紙の若い記者が、Hといふ紳商を口説いて三十円也を持って来てくれ――裸婦を描いて呉れといふ話だった。
イヤだったらしいが、彼は画にかゝると元気になり)、二尺に三尺の大きい裸像が出来たのである。
(この珍しい画の行方も今は判明しない。)

 かくて、御難渋の末、十円か二十円の帰りの旅費丈で(もっとも、画家今ではかなり豪遊でもあったのだが帰京して貰った様に記憶する。夏はじめといふのに、握手した彼の手がとても冷たかったことも思ひ出す。彼はつとめて笑顔を見せてゐたが、面白くはなかったらしい。(一つには帰って行く「東京」も或は、あまり愉快な所ではなかったかも知れない。)

土つきし靴のいとしさよ鳥雲

 雅仙のレン落ちにこの句讚をした彼のうしろ姿(自画像)の絵を、記念にと言って私に呉れたが、傑作だが実にさびしいものだった。

 さう言へば、夢二は((ほんとうに「女」といふものが好き))だったらしい。いふまでもなく浴場の対象としてばかりでは無く、彼の内心の狷介な、孤独性が――女の一種の愚かしさ・・‥‥を好んだものかもしれない。(今時の「女」では、彼は一寸困るだらう。)
 ここで、浅間にゐたときの一つの挿話を書いて見る。それは、帰京前の私と一緒だったある朝の散歩で、思ひもかけず秀丸といった妓の妾宅の前に出たのである。(いまではあまいにも有名な市丸さんが、蝶々といって出てゐた頃のことで、秀丸もしばしば一緒に来てゐた)お互にのん気なもので、その家に上り込んだのはいいが(勿論、主人公不在。)それはよいのだが、新築のこの家の池袋の小襖が、まことによろしい白の鳥の子仕立――たちまち、夢二の画心が動いたから、待ったはない。硯をもて、皿をもて、まことに気が乗った風で、そこに墨絵の山水画二面が出来たのである。新凉の気を罩(こ)めた傑作だったと、いまも想起する。
 ところが、この画の運命はどうなったか。――朝の散歩で印を持ってゐない。後で、宿へ持ってくれば落款することにして帰ったのだが、――電話を掛けさせたりもしたが、遂に持って来ない。使も来ない。一寸気を悪くして夢二は帰郷したのだが、後で彼女は大に𠮟られたらしい。前記の始末で、これも夢二の悲運で、ヤキモチ喧嘩もあったのである。――新築の別宅を敢て汚した風で、画はもちろん破り捨てられ、張り替へられたらしい。
 それで、夢二と私の間も、別に気まづくなったといふでも無かったが、私は「草木染」で多忙を極めてゐる内に、夢二は渡米することになったのである。
 最後に逢ったのは昭和八年だったが、草木染の展覧会を資生堂で開いてゐた時で、飄然として這入って来て、あの横長い皮のベンチに坐った。
「しばらく、‥‥‥君の仕事いゝね。」
 彼は機嫌のいゝ顔で言った。私は、まことに突然のことで、海外でのことも、健康のことも訊ねないで、アッケなく分かれてしまった。黄味がかった褐色の――ビロードの丸い帽子(ベレーでは無く、ハンチングに近い)いささか頬の肉が硬く筋立ち、手がまたつめたかった。‥‥‥それで別れて、もう逢へなかった。彼はその翌年、富士見高原の療養所で死んだ。

 二十九年の四月十九日に銀座で回顧展が開かれて居、そこには千九百三十二年ロオザンヌにて、とある「白梅」「紅梅」「扇」の三点が出陳されてゐた。(三十二年と言へば彼と私とが信州で苦労した時からニ三年の後にあたる。) その時もさうだったが、私の一寸思ひついた誘引に、すぐ乗って、しかも相当の期待をかけて‥‥‥かけ過ぎてその結果苦労をしたのである。最後になったロオザンヌへの旅もまた、さうした結果の風だった。

   さだめなく鳥やゆくらん青山の青のさびしさかぎりなければ

 いま、榛名湖畔の歌碑にあるこの歌をおもふのである。
 さう言えば、このロオザンヌでの作品、三点が三点ともに、「愁人山行」の青肉の印章がそろって押されてあった。(「不吉」といはれた、その印である。)
 いま何とかブームと言はれて、島崎藤村も、わが竹久夢二も、大に振返へあれてゐる風である。藤村は、強さうでよわいから、遂に愛され、夢二はまた、しんからよわいから遂に愛されて。‥‥‥

(編者注1)狷介(けんかい):自分の意志をかたく守って、他と妥協しない
(編者注2)山崎 斌(やまざき あきら):1892年11月9日 ~ 1972年6月27日。小説家、染織家。「草木染め」の命名者として知られる。