夢二の素顔

さまざまな人の夢二像

第20回「夢二の草稿を見て」(秋田雨雀)

2024-12-27 13:56:37 | 日記

今回は、劇作家・詩人・童話作家・小説家・社会運動家と多方面で活躍した秋田雨雀。雨雀は青森県南津軽郡黒石町(現黒石市)に生まれ、東京専門学校(早稲田大学の前身校)英文科に入学しました。
1908年、恩師の島村抱月の推薦により、『早稲田文学』6月号に小説「同性の恋」を発表し、小山内薫のイプセン研究会の書記をつとめ、1909年には小山内薫の自由劇場に参加。1911年「自由劇場」の第四回公演で自身の戯曲「第一の暁」が初めて上演された。

1913年には島村抱月主宰の劇団・芸術座の創設に参加したが、翌年脱退し、沢田正二郎らと美術劇場を結成しました。それ以後、芸術座、先駆座などに参加する一方で、小説、劇作、詩、童話、評論、翻訳と幅広く活躍しました。

夢二との関係では、1915年、来日したワシーリー・エロシェンコと親交を結んでエスペラントを学び、夢二とともに茨城県の水戸へ旅をしました。

これは夢二の草稿「九十九里」(1905年)を見て書いたもので、この作品は同年6月から読売新聞に房総紀行「涼しき土地」として連載されました。当時の房総の様子がよく描かれています。

*この文は、『宵待草70年の歳月』竹久夢二展(毎日新聞社主催)図録に掲載されたもの。(開催場所:千葉県船橋市船橋そごう(1981.10.16―21)・柏市柏そごう(1981.10.23―28)

 こんな草稿が何うして保存されていたか私には解らない。しかし、確かにある時代の文字に相違ない。夢二とは私は一緒に旅行したこともあるが、夢二は旅を好きであったばかりでなく、旅に酔い旅に溺れる人であった。ある意味では一生を旅で終えたといってもいいほどである。

 この草稿「九十九里」の最後が水戸の町の記事になっているが、私たちが彼と一緒に旅行したのも、水戸であった。この旅行はあの盲詩人のワシリー・エロシエンコと一緒だった。エロシエンコのことを私たちはエロさんと呼んでいたが、夢二もやっぱりエロさん、エロさんと呼んでいた。私たちは、水戸の中学や女学校や盲学校などでお話をしたり、エロさんのバラライカの唄をきかせたりしたが、夢二は唖生徒たちに上手な絵話しをしたので、唖生たちがとても喜んだのを記憶している。

 夢二は旅では普通の人が余り気のつかない事に、或はあまり興味を持たないことに妙にひきつけられることがあった。そんな時、私たちはいらいらして腹の立つことがあった。しかし、後で考えると、夢二はそんな時きっと何か収穫を得ていたようであった。夢二は旅ではよく道草を喰った。スケッチブックを持って何処かへ行っていくら待っても来ないので困らされたことは二度や三度ではなかった。夢二は一生道草をくっていたような気もするが、それにしては羨しい一生だと思う。

昭和15年7月 雑司谷にて                               雨雀

 

秋田雨雀(Wikipediaより)

 

 


第19回「夢二はさびしがり屋の人嫌い」(山崎 斌(あきら))

2024-12-21 08:57:49 | 日記

今回は、「草木染」の命名者山崎 斌の文章です。
夢二の行動、しかもあまりよくない面を赤裸々に描写しています。
昭和4年の話としていますが、この頃も、夢二は相変わらず金に困っていたようですね。昭和6年に翁久允に誘われて外遊に出る際は、友人知人が個展等により相当の金を集めたようですが、出航したら実は借金返済後極貧の状態になっていたというエピソードを翁が語っています。
経済観念がないというか、浪費家というか、そういう点では明治40年に岸たまきと電撃結婚しましたが、その時からもうその性向は出ていました。2年後の離婚の大きな要因の一つとなっています。
最後の部分は、外遊から疲弊して戻った夢二の行動の一部が分かるということでとても参考になります。ちなみにこのとき山崎が草木染の展覧会を開催していた「資生堂」は、昭和5年、外遊に出る前に夢二が初めて人形展「雛によする」を開催した場所だというのも縁深いですね。
これで夢二のイメージが大きく下落するきらいもありますが、小説家山崎 斌の鋭い観察力溢れる文章によって描かれた「夢二の素顔」の一面でもあります。

*『竹久夢二』(長田幹雄編、1975.9.1)昭森社より
本文は、「特集 竹久夢二 第一集 『本の手帖』Ⅱ・1(1962.1.1)」に掲載された山崎 斌著「青肉の印 ―竹久夢二のこと―」です。

 夢二を浅間温泉に誘ったのは昭和のはじめ、たしか、その四年の初夏だったとおもふ。
彼、御沈落の時代で、世田谷の画室に独居、蒼い顔で棲んでゐた。それでも、彼らしく、上州榛名山の方に産業美術研究所の創設を企劃して「山のあなた」を想望する様な瞳をしてゐた。
その日、どうして浅間に誘ったか――の事情は全く思ひ出せない。当時、私は例の草木染の復興といふ風なことで、信州と東京都の間をしきりに往復してゐた。それで、彼の寂しげな瞳を見てゐる内に、不図して動向をすすめて仕舞ったらしいのである。
「大に、行きたいネ」
新緑の庭にその眼を皺めて、さう言ったのを不思議に思ひ出す。
「向ふで、ニ三枚描かなければならないぜ、たぶん」
「書くよ。‥‥‥それに、いま銭(ゼニ)も少しほしいんだ。」
「さうか。では、‥‥‥」
といふことで、私は松本の所用の方へ行き、尚、そこに近い浅間温泉へ行き、ニ三の心当りに「夢二来」を言ひ、――ニ三日して彼をそこに迎へたのである。

 なにはともあれまづ一杯といふので、彼の宿にして置いたNといふ宿で、まづ歓迎の宴を張ったのだが、夢二ははじめから浮かない顔をしてゐた。ヒドク疲れてゐるナと思ったのである。ト、彼は例の一寸歪める様にした口で、
「実は、急にカネが要る。明日、コドモが取りに来るんだ。百円、ぜひこしらへて呉れないか」と言ひ出した。
 私は、「さあ、‥‥‥」と言って仕舞った。青くなったかと思ふ。
 斯様なると、彼は私の身上を知らなかったことになる。銭のアマリ無いことは知ってゐたらうが、都合はつくと思ってゐたのだろう。然し当時の壱珀円也では困った。正直の所、それからの酒は不味かった。呼んで置いた妓も来たが、ソコソコに切上げたといふのが、私は金策に立向はなければならなかったから。
 翌日には、たしか不二彦君だとおもふ。――が東京から着いた。待って貰って、それこそ親類七所借りで、漸く(ようやく)この御使者に帰京して貰ったやうなことだった。

 さて、その後が当然厄介なことになったのである。仕方ないので、夢二の言ひ出しで、「新作画会」といふのをやることになった。半折(雅仙)一口十円で、これで当時高値の風でさへあった。
(画はうまいかも知れないが、気持がよくないといふ噂だ。そんな絵はダメだ)――この地方は東京に近いので、当時の小シップも広まってゐたらしく、借金の先々でもそんなことを言はれた。
 夢二には、すでにモデルが要るといふのではなかった。頭のなかには彼一流の「女」が一杯詰まってゐた。しかし、ゼイタクには妓を傍に置きたがった。ソレに墨を磨らして描くのを好む風だった。

彼は、言って見れば((さびしがり屋の人ぎらひ))だ。で、私は朝の用事の方に出かけて仕舞ひ、昼頃から妓一人が墨すりに来てゐた。
彼は薄いシャツの胸をひろげ、宿の浴衣を肌抜きにして言ふ通りの向鉢巻(少し長めの髪の毛がバサバサ落ちかかるから)だった。…………

夕方から――私が行くと二人で一杯といふことになるのだが、「気の毒なことになったナ」といふ顔を私が見せると、彼は彼で「すまなかったネ」といふ顔をした。
それでも七八日すると、予定したニ十口が描き上がったのである。ヤレヤレであった。会場も松本城の近くの一旗亭(名も忘れたが)に決まり、地元の新聞も大きく書いて呉れたりしたが、肝心の画会の客が申し合せたやうに、サッパリ来ない。――これは後で解ったことだが、I辨護士といふ風な世話人に対しての反感もあり、彼のゴシップ禍もあり、芸者に墨を磨らせて描いたといふことまでが問題になって、急に背中を向けたといふ会員も多かったのである。
尚、彼は晩年、夢二と落款せず、もっぱら「夢生」を用いたが、――八月生と読むものさへあり、殊には「愁人山行」の四角な印章に好んで青肉を用いたが、‥‥‥青印は「不吉」だと、言ひ歩く画商までもあったのである。
言って見れば、われら不徳、彼また不運といふ仕儀であった。
後で、Y君といふ地方紙の若い記者が、Hといふ紳商を口説いて三十円也を持って来てくれ――裸婦を描いて呉れといふ話だった。
イヤだったらしいが、彼は画にかゝると元気になり)、二尺に三尺の大きい裸像が出来たのである。
(この珍しい画の行方も今は判明しない。)

 かくて、御難渋の末、十円か二十円の帰りの旅費丈で(もっとも、画家今ではかなり豪遊でもあったのだが帰京して貰った様に記憶する。夏はじめといふのに、握手した彼の手がとても冷たかったことも思ひ出す。彼はつとめて笑顔を見せてゐたが、面白くはなかったらしい。(一つには帰って行く「東京」も或は、あまり愉快な所ではなかったかも知れない。)

土つきし靴のいとしさよ鳥雲

 雅仙のレン落ちにこの句讚をした彼のうしろ姿(自画像)の絵を、記念にと言って私に呉れたが、傑作だが実にさびしいものだった。

 さう言へば、夢二は((ほんとうに「女」といふものが好き))だったらしい。いふまでもなく浴場の対象としてばかりでは無く、彼の内心の狷介な、孤独性が――女の一種の愚かしさ・・‥‥を好んだものかもしれない。(今時の「女」では、彼は一寸困るだらう。)
 ここで、浅間にゐたときの一つの挿話を書いて見る。それは、帰京前の私と一緒だったある朝の散歩で、思ひもかけず秀丸といった妓の妾宅の前に出たのである。(いまではあまいにも有名な市丸さんが、蝶々といって出てゐた頃のことで、秀丸もしばしば一緒に来てゐた)お互にのん気なもので、その家に上り込んだのはいいが(勿論、主人公不在。)それはよいのだが、新築のこの家の池袋の小襖が、まことによろしい白の鳥の子仕立――たちまち、夢二の画心が動いたから、待ったはない。硯をもて、皿をもて、まことに気が乗った風で、そこに墨絵の山水画二面が出来たのである。新凉の気を罩(こ)めた傑作だったと、いまも想起する。
 ところが、この画の運命はどうなったか。――朝の散歩で印を持ってゐない。後で、宿へ持ってくれば落款することにして帰ったのだが、――電話を掛けさせたりもしたが、遂に持って来ない。使も来ない。一寸気を悪くして夢二は帰郷したのだが、後で彼女は大に𠮟られたらしい。前記の始末で、これも夢二の悲運で、ヤキモチ喧嘩もあったのである。――新築の別宅を敢て汚した風で、画はもちろん破り捨てられ、張り替へられたらしい。
 それで、夢二と私の間も、別に気まづくなったといふでも無かったが、私は「草木染」で多忙を極めてゐる内に、夢二は渡米することになったのである。
 最後に逢ったのは昭和八年だったが、草木染の展覧会を資生堂で開いてゐた時で、飄然として這入って来て、あの横長い皮のベンチに坐った。
「しばらく、‥‥‥君の仕事いゝね。」
 彼は機嫌のいゝ顔で言った。私は、まことに突然のことで、海外でのことも、健康のことも訊ねないで、アッケなく分かれてしまった。黄味がかった褐色の――ビロードの丸い帽子(ベレーでは無く、ハンチングに近い)いささか頬の肉が硬く筋立ち、手がまたつめたかった。‥‥‥それで別れて、もう逢へなかった。彼はその翌年、富士見高原の療養所で死んだ。

 二十九年の四月十九日に銀座で回顧展が開かれて居、そこには千九百三十二年ロオザンヌにて、とある「白梅」「紅梅」「扇」の三点が出陳されてゐた。(三十二年と言へば彼と私とが信州で苦労した時からニ三年の後にあたる。) その時もさうだったが、私の一寸思ひついた誘引に、すぐ乗って、しかも相当の期待をかけて‥‥‥かけ過ぎてその結果苦労をしたのである。最後になったロオザンヌへの旅もまた、さうした結果の風だった。

   さだめなく鳥やゆくらん青山の青のさびしさかぎりなければ

 いま、榛名湖畔の歌碑にあるこの歌をおもふのである。
 さう言えば、このロオザンヌでの作品、三点が三点ともに、「愁人山行」の青肉の印章がそろって押されてあった。(「不吉」といはれた、その印である。)
 いま何とかブームと言はれて、島崎藤村も、わが竹久夢二も、大に振返へあれてゐる風である。藤村は、強さうでよわいから、遂に愛され、夢二はまた、しんからよわいから遂に愛されて。‥‥‥

(編者注1)狷介(けんかい):自分の意志をかたく守って、他と妥協しない
(編者注2)山崎 斌(やまざき あきら):1892年11月9日 ~ 1972年6月27日。小説家、染織家。「草木染め」の命名者として知られる。


 


第18回「夢二を最後まで支えた画家」(有島生馬)

2024-12-14 09:46:19 | 日記

今回は画家の有島生馬です。関東大震災後に東京中を巡り歩いてスケッチし「東京災難画信」を連載した時も、榛名を旅して「榛名山美術研究所」の設立を宣言した時も、そして晩年富士見高原療養所に入院した際も、いつも夢二を支えていました。そして、東京の雑司ヶ谷墓地に埋葬される際は、「竹久夢二を埋む」と揮毫した墓石が少年山荘にあった石の上にあります。
両国にある東京都復興記念館には、関東大震災時の風景の中に夢二を含む当時の人々を描いた大きな絵が飾られています。

*『竹久夢二』(長田幹雄編、1975.9.1)昭森社より
本文は、「特集 竹久夢二 第一集 『本の手帖』Ⅱ・1」(1962.1.1)に掲載された有島生馬「夢二追憶」です。

夢二会といふものが同人の間に結ばれてゐるが、毎年九月一日の祥月命日には雑司谷の墓所に会員が集まり、香華を備へる事になってゐる。昨三十六年で二十三回、この行事の忘れられた事がない。わが物故師友の誰かれを顧みても、外にそんな例はないやうである。又集まる会員の雰囲気が実に単純で、義理や、尊敬などといふより、昨日亡くなった隣人を弔うといふほどの親しみで、誰れも夢二先生などといふものはない。夢二がどうしたとか、かういったかとかいふ、懐顧談に耽るのである。この例年の墓参は思ひ出すだけでも何んとなく心温るものがある。

墓標は僅か三尺ほどの自然石の表面だけ磨いたのに、「竹久夢二を埋む」と私が揮毫した。皆が夢二らしくっていいと云って呉れる。今日では東京都豊島区の史蹟に指定されてゐる。

九月一日といふ運命の日は不思議と夢二に深い因縁があった。大正十二年の九月一日は夢二ばかりの厄日ではなかったが、夢二には兎も角深い印象を与へたといふ事はあとに残した多数のスケッチや、詩文に徴して思ひやられる。電車も通らない東京市中をよくもあんなに方々歩きまはり昼夜となく写生出来たものと、超人的な努力に夢二のこの天変地異の感動がいかに大きかったかを推察出来る。私は十年後「大震災紀念」といふ大画布を作った時、その一部に画帖を手にする夢二の憐れっぽい姿を、豪然たる藤島先生の脇に並べてかいた。藤島先生も震災直後軽装して市内を写生してまはった。纏まった制作は出来なかったが、その意図はあったやうだ。

震災翌年の九月一日の朝、私は何を思ったか、渋谷宇田川町の寓居に夢二を訪ねて行った。一人ぽつねん、彼はいつもの渋い顔をしてゐた。去年の事などはなし、どの程度市中が復興したか見物しようと、二人連れ立って外に出、たうとう今は震災紀念堂の建つ本所被服廠跡まで行って終った。

 あちこち歩きまはったのと、この日夢二の気分がいやに沈んでゐて、黙り込んでゐるので、こっちまで酷く疲れて終った。日比谷に出た頃は夕景になったので、帝国ホテルのグリルで食事を共にし別れた。別れる時、夢二はまだ帰りたくなさ相だったが、私の方がそれ以上に夢二に突合ってゐるのが辛くなった。

都になって分ったのであるが、これが夢二にとっての第二の運命の日だった。葉子さんはこの九月一日に家出して終ったのである。家出して藤島先生の所へ身を隠したのである。

その後松沢に新居を構へたが、この少年山荘に余り心楽しむ暇もなく、伊香保に移り、外遊を思ひ立った。この辺が生涯の大転期となったやうだ。

夢二画富士見高原の療養所の独房で肺患のため、唯一人付添ひもなく寂しく死んだのが矢張り又九月一日であった。

寂しさ、これが夢二の感性と芸術とを貫いた一つの鍵で、九月一日が生涯の象徴となったかのやうである。

「画をかく仕事は横に空間を仕切って眺めることだが感性は後から先きの方へ脇目もふらずに進んでゆくやつで、ちょっと身をかはして立ちどまれば案外つまらないことを思ひつめてゐたと気がつくのだが、因果なもので、止まるところを知らない。三太郎は絵かきのくせに仕切ることを忘れて変な道へ深入りしてしまったものだ。」(夢二著、『出帆』七十七回)

これは小説中の自嗤(じちょう)である。夢二は生れながら職業的技巧を身につけてゐたといへ、それにもまして感情の激しさ深さが世俗の監修や作風を蹂躙させた。世人から誤解されることの多かったのも止むを得ない。

画のことに少し触れてみようか。彼はスタイルを持ってゐた。スタイルを持つとは簡単にいもいへるが、ここでスタイルといふのは、視覚、情緒、詰り個人的認識が根底的に異質であった事を指すのである。独自のスタイルなしでは物を観察すること、見ること、写生すること、再現することが不可能で、何をみてもかいても所謂夢二式になって終ふのである。その腕、その指、その像、その濃淡、有力な技巧がスタイルによく従属錬磨されて行ったのである。これは又彼の書、彼の詩歌文章のタッチについてもいへることで、どこでもヂェヌインなスタイルを認めざるを得ない。

 志賀がどこかで、夢二などに拘泥してゐては仕方がないと、忠告してくれたとかいふことを私は耳にしたが、なぜそれほど夢二がいけないのだらう、理由はきいてゐないが、私は未だに夢二を明治大正の不滅な風俗画家と信じ愛してゐる。センティメンタルな時代の感情や、風俗を夢二位よく後世に伝へ得る画人が他にあるであらうか。この魅力あってこそ当時の子女を熱中させたヴォグが巻き起されたのであらう。(たとへ固定観念の芸術家や、批評家等に無視されつつも、大衆と特殊なファンの支持はゆるがなかった)

一体どの程度志賀は夢二の作品を知ってゐるのだらう。或は知ってゐても反撥するのであらう。。せいぜい雑誌の挿画か、絵端書位しか見てゐないのではあるまいか。夢二には六枚折の屏風とか、全紙の軸物とか、二百種に余る著書とか、茶函四個にぎっしり詰った写生帳とか(戦時中この茶函を整理するのに、四人係りで三四日かかった程の量の)、今日なほ隠れた作品があとから吾々の目に現はれて来る、この多産勤労の驚くべき事実を果たして知ってゐるであらうか。

地ぢ亜の鑑賞と青春の情熱に耽溺した夢二はそのエネルギーを右のやうな数々の形で女性の創造に燃し尽した観がある。所謂「夢二の女」なるものはオスカー・ワイルドのいふ「芸術が自然を作る」好適例であった。幾人かの夢二の恋人等は悉く夢二の画中から抜け出して来たかに見えた。それが単に髪型や、化粧のせゐ許りでなく、身のこなしや、顔だちまでそっくりだった。又街に夢二式の若い女が溢れた時代で、呉服橋の港屋の図案による襟、衣類をきた女に逢ふと、妙な錯覚が起こったと夢二自身話したことがあった。

七夕、黒船屋、立田姫といふやうな絢爛たる女人、或は高揚した自由な空想が華々しく続いた後、彼の情熱もやがて下火になって行った。渡米する前後昭和五年頃から漸く(ようやく)甘美な女性美に対る(ママ)倦怠が芽ざしたのか、人よりも山がかき度いと云った。それが榛名湖畔への移住となり、湖のみえる山腹に山荘が落成した。そこで連山、それも寂しい冬枯れや、雪景色に独特のスタイルを与へようとしてゐたが、急に苦難の米欧旅行にそれが切代へられてゐた。この長旅は彼の心身を極度に酷使した。痛ましい努力と苦闘の連続で声明を自ら磨りへらした。夢二の一生は要するに日の殉教者のそれであったが、特に最後に近づくに及び全くその様相を備へるに至った。彼も殉教の一人として金銭には愚かしいまでに無関心だった。
 後年の女人増にはも早や甘い感傷の美を求められなくなってゐる。対象に喰入るに皮肉なまで鋭角化された神経が出て来た。中には鬼気をさへ感じさせるものがある。これ等外遊中の作品は台湾で画商の術策に落ち、多く行衞不明になったやうである。

欧州の旅の疲れの上、台湾の猖気と不慮の災難で、東京へ帰って来た時は全く心身共憔悴の極にたっしてゐた。間もなく夢二は榛名湖畔の山荘から富士見高原療養所へ、旧友正木不如丘院長と、死の床を求め、永遠に委東京を去り、烈々たるポエムの詩のごとき芸術と恋愛の殉教者としての幕を昭和九年九月一日、行年五十一才で閉じた。


竹久夢二の墓石(東京・雑司ヶ谷墓地)

有島生馬の関東大震災を描いた画(東京都復興記念館)


第17回「関東大震災と少年山荘」(竹久不二彦)

2024-12-08 11:03:25 | 日記

今回はまた不二彦(1911-1994)の文章です。不二彦は青年になるまでずっと夢二について歩いていた上、1994年まで生存していたことから、大正時代の夢二を知る大きな手がかりとなる手記をたくさん書いています。今回は震災時の夢二の姿です。

後藤新平に感謝状を送ったというのは驚きです。1933年に台湾に行ったとき、後藤新平のために改装した総督府台湾博物館(現国立台湾博物館)からわずか徒歩5分のところにある「鉄道ホテル」に宿泊したというのも縁でしょうか。記録にはありませんが、台湾を発つ直前に「台湾日日新報」に投稿したエッセイ「台湾の印象」には後藤新平に触れた部分があります。夢二はきっと博物館を訪ねたに違いないと私は思っています。夢二の3週間の台湾滞在期間中、わずか7日分しか行動が分かっていないという謎がその理由です。


*本文は、『生誕100竹久夢二百選展』(サンケイ新聞社主催、日本橋三越本店七階 三越美術館(1983.1.4―16))図録に掲載された「父子雑録」です。

一石橋

 取り払われるかと案じていた「しるべ石」はまだ立っていた。「一石橋」の足のたもとに。
 関東大震災(大正十二年)の跡始末で東京中が掘りかえされ、至るところに区画整理、道路工事のまっ最中であったから、文字もかすれた「しるべ石」など焼跡にはじき飛ばされて、跡かたも残ってはいなかろう。“一石橋はどうか”と案じた夢二は、私を連れて、しるべ石の安否を確めに出かけたのであった。
 わずかに焼け残された渋谷、宇田川町の路地裏から、僕はにぎり飯を腰に、夢二はスケッチブックを懐に、災害地を取材しながら一石橋に向かって歩いた。取材は後に「震災画信」として新聞に掲載され、ご記憶のかたもあろう。
 「しるべ石」は、日本橋、呉服橋と河岸つづきの一石橋の袂の空き地にあった。空き地に立った夢二は、僕に“ここはな、江戸の昔から母をたづねる娘、父親を探がす兄弟縁者の寄り会う巡礼の地であったそうな”と言った。復興事業の嵐の中に残されていた小さな旧跡を見出した夢二は感激、後藤新平市長に謝意を表する一文をおくったりした。
 夢二は一石橋界隈に暮らす(大正三、四年)港屋時代があったため、ことさらに思い出深かったのだろう。当時の夢二の手記から、一石橋の文字を拾って前後の足取りを追って見たら、少年の日の私もいた……。

(夢二の文章)一石橋から一枚描いた。もっと大きなものへ色のあるものを描き度い。しかし、ちいさいスケッチ一枚しただけですっかりつかれてしまっ  た。本銀町の方へいってみようと思ったけれど、日本銀行の所から引き返して魚河岸の方へゆく。飛白のパッチをはいて筒袖をきた若い衆、白いシャツに浅黄のズボンをはいた老人。メモくらむように往来している。大方はもう船から荷をあげたようである。
江戸橋から引き返して、うの丸の方を通って、まる花へきてここで久し振りに味噌汁をたべる。それからまた一石橋へ出て帰る……。
このあたり手を引かれて私も歩いた道だ。

(編者注1)飛白(ひはく、かすり):かすれたような部分を規則的に配した模様。また、その模様のある織物。
(編者注2)パッチ:男性の下着。類語:股引き/猿股/すててこ

少年山荘

 関東大震災を境に夢二は、アトリエつきの自分の家を建てることにした。仮り住まいの漂白生活をきりあげて、“ゆっくり眠りたいんだよ”といっていた。設計図も自分で引いて、蔵造りに赤い屋根、夢二流儀の国籍不明の建てもの、一風変わった雰囲気のものが出来た。建築の基本にはかなわなかったらしく「鬼門」といかいうところが出来て、鬼門除けの南天を植えたりした。武蔵野風景が一望できる丘つづき、雑木雑草の中の一角だった。
 土蔵造りに蔦づるを一面に絡ませた風情のある家は好評だったが、木造に禁忌の蔦づるを覆いつくした家屋は、根太も土台も朽ち果て、十年で寿命が終わることになった。
 この少年山荘は「夢二郷土美術館」の手で岡山の地に復元され、現在美術館の別館となっている。

(編者注3)少年山荘は、震災の翌年、1924年松原に建てられた。





 

 


第16回「外遊から帰った夢二」(鎌原正巳)

2024-12-02 19:39:32 | 日記

今回は作家の鎌原正巳です。
1931年(昭和6)、夢二は翁久允に誘われて、「榛名山美術研究所」設立の計画を一時中止し、アメリカへ旅立ちました。
ところが、夢二がほとんど無銭状態だったことがわかったり、アメリカの新聞社の労使対立に巻き込まれたりして二人は仲たがいし、夢二はその後独り身で流浪の旅を続けました。折悪しくアメリカは大不況の中にあり、絵を売ってその資金でフランスに行こうという当初の計画は破綻しててしまいます。
それでも借金してヨーロッパに渡った夢二でしたが、貧困に苦しみながらも多くの国を巡り歩きました。そして1933年(昭和8)、ドイツのベルリンにある画塾で日本画を教えることになりましたが、ナチスの台頭によりユダヤ人学生を失い、とうとう帰国を余儀なくされたのです。

夢二は帰国後1か月余りで台湾へ旅立つのですが、このエッセイはそのわずかな在日期間に夢二と会った記録という内容で、当時の夢二に関する資料が少ないため、非常に価値のあるものと思われます。(次男の不二彦は、夢二が変わり果てた姿で帰国し、その後は眠ったり原稿を書いたりしていたと書いています。)
正確には、夢二は1933年9月18日に神戸港に到着、そして10月23日に神戸港を台湾に向けて出発していますので、訪問はその間ということになります。「晩秋」とされていますが、定説では、晩秋は10月23日~11月6日のようなので、これよりは少し前、ということになると思います。ただ、その頃夢二は台湾に行く準備をしていたはずですが、当時は台湾は日本統治下にあったため、国内という意識も強かったので、特に言及されていないのかもしれません。

*本文は、女学生雑誌『白鳥』第1巻第5号(1947.8)に掲載された「晩年の夢二と語る」です。

東京の郊外、世田谷区松原に竹久夢二を訪ねたのは、一九三三年の晩秋のある晴れた日の午後であった。
郊外電車の駅に下車して五分ほど歩くと低い丘が続き、その一画がクヌギとアカシアの倭林にかこまれている。その林のなかの小径は、黄色や褐色の落ち葉におおわれ、歩くとバサ、バサと乾いた音がする。秋の足音である。
 丘の下からは見えなかった赤レンガ建の家が、林の間から見えてくる。オニツタのからんだ家、相当古びたその家は、ポーの『アッシャー家の没落』を思わせる。

 玄関わきの呼び鈴をツタの葉の間に探し、ボタンを押す。室内のどこかでベルの音が響き、やがて老婆が顔を出す。家政婦らしい。

 玄関にはいる。うすぐらい光の中に、土間の片すみに据えられた橋の欄干様の装飾が目にとまる。近づいてよく見ると、擬宝珠のついている本物の欄干で、「天文四年、大坂農人橋」という文字が刻まれている。
 やがて通された応接間で、わたしはしばらくの間主人公の現れるのを待っていた。
 夢二といえば、いまの若い人たちには余り親しみのない人間かも知れない。しかしその年譜を見ると、明治・大正時代の抒情画家としての足跡は大きい。生まれたのは明治十七年(一八八四)岡山県の片田舎においてである。明治三十四年上京、早稲田大学の商科に学んだが間もなく退学し、絵画に専心し、抒情画を試み、全国の青年子女を魅了した。明治四十年以降約十五年間にわたり、声明を得たのである。
 のち新聞、雑誌の挿画に筆を染め、また大正三年九月、東京日本橋に自作錦絵、婦人装身染織品などの店「港屋」を開いて装飾美術に対する才能を示し、さらに商業美術への進出を志し、同十二年にドンタク図案社を設立した。昭和五年から三ヵ年にわたり欧米を漫遊帰朝後、宿痾の肺患のため静養の日々を送っていた。
 わたしの訪れたのは、そのような「旅路の果て」にある夢二のもとであった。

六畳ほどの洋風の応接間には、背にこまかな彫刻のしてあるロココ風の椅子、かつての豪華さをしのばせる色あせたソファ、暗い壁間には夢二の筆になる「少女の像」が一枚かけてあるだけ。ほかに何一つ置いてない殺風景で陰気なふんい気のただよっている応接室である。
 窓から見える裏庭には、午后の日ざしを受けて山茶花が咲きにおっている。つややかな葉に、こぼれるように秋の日がおどっている。夢二の家と、明るい山茶花は、ちょっと不釣合いな感じである。崩れかけたヴェランダ、はげ落ちそうになっている天井の壁、庭先の葉の落ちつくしたアカシヤ、庭隅の枯れたクマザサ――夢二はむしろこのようなところに、彼の安住の場を見出しているのかもしれない。
 やがて廊下に足音がして夢二が現れた。

 彼を横浜の埠頭に見送ってから、すでに三年の歳月が流れていた。欧米各地の放浪の画の旅から、彼は何をもって帰ってきたのであろうか。彼の頭髪にはめっきり白髪がふえている。そして眼鏡の奥に光る瞳には深い憂いのかげがきらめいていた。
「よく来てくれましたね」
 夢二はじっとわたしの方を見つめてつづけた。「近ごろは毎日寝てばかりいます。日本に帰って来たら、眠むくて仕方ないんですね。東京の街にもさっぱりごぶさたしていますよ。君たち若いものが訪ねてくれると、ほんとうにうれしいですよ」
 夢二はテーブルの上から外国煙草を取り上げてわたしにすすめる。
 すでに五十にもなっている人間のどこに、欧米を放浪して歩いた情熱がひそんでいるのであろうか。ほほはこけ、やせて弱々しいからだのどこにそんな力があるのだろう。サンフランシスコからニューヨークに行くのに、汽車賃が足りなくて、パナマ運河をまわる貨物船に乗って東海岸に渡ったというエピソードを持つこの老芸術家のどこに、そのような生活力がひそんでいるのだろうか。
夢二はしずかに語る。
「人間を信じることができなくなるのはおそろしい。人生にとってこんな不幸なことはない。だがぼくは人を信じすぎ、そしていつも裏切られる。人々に利用され、そして揚句のはてに捨てられる。ぼくのなかに最後に残されるものは、人を信じられないということです。欧米の旅において、また帰国後の一、ニの小旅行において、いつもはぼくが握らされるのは、適当な報酬ではなくて、人間不信のにがい汁ばかりです」
 人のいい芸術家を利用して、金儲けに狂奔する商売人は、いつの時代にも幅をきかせている。

夢二はまたつづける。
「ぼくには一人の息子がいます。時々顔を合わせるがめったにゆっくり話したこともない。でも先日、ちょっと浅草までいっしょに出てみました。しかしその息子ともぴったりしない。そのときも考えたけれど、ぼくが今、死の床についたとしても、息子に看とられて死んでいこうとは思いませんね。ほかの肉親の者も、むかし恋人だった女も、誰も知らないうちに、ひとりで静かに死んで行きたいという気持ちですね」
 わたしは夢二の顔を見ていた。あまりにもいたいたしい言葉に思えたからである。だが彼の顔は平静である。
 傾きかけた窓外の日ざしを眺めながら、夢二はまた語りはじめた。

「電車に乗ったとき、ふと前の坐席にいる人間を観察し、ぼくはふとこれは人類ではないのではないかと思ったりすることがある。ある者は馬に見え、ある女は風船玉だったり、重役然とした男がカワウソに見え、その隣の中年男が豚に見えたりする。万事こんな調子なんです」
「それはゲオルグ・グロッス的ですね。グロッスの風刺画の発想も、案外そんなところにあるのかもしれませんね。先生の今後のお仕事に、そういう画が出てきたらおもしろいですね」
 わたしはそんなことをしゃべりながら、豚のような資本家、金のために貞操を捧げる若い女、搾取される労働者などを画題にしたあのドイツの画家と、この老風俗画家とを対比して考えていた。それは余りに距離のある対比にちがいなかった。グロッスの意識した現実把握のきびしさとはげしさは、おそらく夢二には欠けたものであろう。そして夢二の独特な抒情は、グロッスのなかにはその片鱗さえも残していないであろう。むしろグロッスはそのような抒情は意識して排除した画家ではなかったろうか。
 しかもわたしは、この大きな距離感を持った二人の画家に共通なるあるものを感じるのだ。それは画材を常に庶民の風俗のなかに見出したということである。そしてそれを、それぞれ自分のものとして一つの完成にまで到達させたということである。

 夢二は、わたしの訪問した一ヵ月後、信州の富士見高原療養所に入院した。そして翌年、彼の希望通り、肉親にも看とられることなく、ひとり淋しく五十一歳の生涯を高原療養所のベッドに閉じた。昭和九年九月一日のことである。

(編者注1)鎌原正巳(かんばら まさみ(1905年5月14日 - 1976年3月15日)
日本の作家。長野県埴科郡松代町(現:長野市)に生まれ、松本高等学校文科乙類卒、京都帝国大学文科中退。早稲田大学出版部にて雑誌編集等に携わる傍ら、1939年に古谷綱武、森三千代らと同人誌『文学草紙』を創刊。1947年-1966年東京国立博物館に勤務し資料室長となる。1954年「土佐日記」で芥川賞候補、「曼荼羅」で再度候補。70年文化財功労者となる。(wikipediaより)

(編者注2)ゲオルグ・グロッス:1893-1959 George Grosz/ジョージ・グロス(ゲオルゲ・グロッス)
20世紀最大の風刺画家(諷刺画家)と呼ばれたジョージ・グロス。ちなみにゲオルゲ・グロッスという表記は間違い。彼はダダイストであり、ドイツ表現主義でもありました。海外の著名人だけではなく、日本の作家や芸術家にも影響を与えた人物です。最初に紹介する本もグロスに影響を受けた柳瀬正夢が編著した本になります。この本は日本の画家である松本竣介にも影響を与えました。(「文生書院」サイトより)