夢二の素顔

さまざまな人の夢二像

第16回「外遊から帰った夢二」(鎌原正巳)

2024-12-02 19:39:32 | 日記

今回は作家の鎌原正巳です。
1931年(昭和6)、夢二は翁久允に誘われて、「榛名山美術研究所」設立の計画を一時中止し、アメリカへ旅立ちました。
ところが、夢二がほとんど無銭状態だったことがわかったり、アメリカの新聞社の労使対立に巻き込まれたりして二人は仲たがいし、夢二はその後独り身で流浪の旅を続けました。折悪しくアメリカは大不況の中にあり、絵を売ってその資金でフランスに行こうという当初の計画は破綻しててしまいます。
それでも借金してヨーロッパに渡った夢二でしたが、貧困に苦しみながらも多くの国を巡り歩きました。そして1933年(昭和8)、ドイツのベルリンにある画塾で日本画を教えることになりましたが、ナチスの台頭によりユダヤ人学生を失い、とうとう帰国を余儀なくされたのです。

夢二は帰国後1か月余りで台湾へ旅立つのですが、このエッセイはそのわずかな在日期間に夢二と会った記録という内容で、当時の夢二に関する資料が少ないため、非常に価値のあるものと思われます。(次男の不二彦は、夢二が変わり果てた姿で帰国し、その後は眠ったり原稿を書いたりしていたと書いています。)
正確には、夢二は1933年9月18日に神戸港に到着、そして10月23日に神戸港を台湾に向けて出発していますので、訪問はその間ということになります。「晩秋」とされていますが、定説では、晩秋は10月23日~11月6日のようなので、これよりは少し前、ということになると思います。ただ、その頃夢二は台湾に行く準備をしていたはずですが、当時は台湾は日本統治下にあったため、国内という意識も強かったので、特に言及されていないのかもしれません。

*本文は、女学生雑誌『白鳥』第1巻第5号(1947.8)に掲載された「晩年の夢二と語る」です。

東京の郊外、世田谷区松原に竹久夢二を訪ねたのは、一九三三年の晩秋のある晴れた日の午後であった。
郊外電車の駅に下車して五分ほど歩くと低い丘が続き、その一画がクヌギとアカシアの倭林にかこまれている。その林のなかの小径は、黄色や褐色の落ち葉におおわれ、歩くとバサ、バサと乾いた音がする。秋の足音である。
 丘の下からは見えなかった赤レンガ建の家が、林の間から見えてくる。オニツタのからんだ家、相当古びたその家は、ポーの『アッシャー家の没落』を思わせる。

 玄関わきの呼び鈴をツタの葉の間に探し、ボタンを押す。室内のどこかでベルの音が響き、やがて老婆が顔を出す。家政婦らしい。

 玄関にはいる。うすぐらい光の中に、土間の片すみに据えられた橋の欄干様の装飾が目にとまる。近づいてよく見ると、擬宝珠のついている本物の欄干で、「天文四年、大坂農人橋」という文字が刻まれている。
 やがて通された応接間で、わたしはしばらくの間主人公の現れるのを待っていた。
 夢二といえば、いまの若い人たちには余り親しみのない人間かも知れない。しかしその年譜を見ると、明治・大正時代の抒情画家としての足跡は大きい。生まれたのは明治十七年(一八八四)岡山県の片田舎においてである。明治三十四年上京、早稲田大学の商科に学んだが間もなく退学し、絵画に専心し、抒情画を試み、全国の青年子女を魅了した。明治四十年以降約十五年間にわたり、声明を得たのである。
 のち新聞、雑誌の挿画に筆を染め、また大正三年九月、東京日本橋に自作錦絵、婦人装身染織品などの店「港屋」を開いて装飾美術に対する才能を示し、さらに商業美術への進出を志し、同十二年にドンタク図案社を設立した。昭和五年から三ヵ年にわたり欧米を漫遊帰朝後、宿痾の肺患のため静養の日々を送っていた。
 わたしの訪れたのは、そのような「旅路の果て」にある夢二のもとであった。

六畳ほどの洋風の応接間には、背にこまかな彫刻のしてあるロココ風の椅子、かつての豪華さをしのばせる色あせたソファ、暗い壁間には夢二の筆になる「少女の像」が一枚かけてあるだけ。ほかに何一つ置いてない殺風景で陰気なふんい気のただよっている応接室である。
 窓から見える裏庭には、午后の日ざしを受けて山茶花が咲きにおっている。つややかな葉に、こぼれるように秋の日がおどっている。夢二の家と、明るい山茶花は、ちょっと不釣合いな感じである。崩れかけたヴェランダ、はげ落ちそうになっている天井の壁、庭先の葉の落ちつくしたアカシヤ、庭隅の枯れたクマザサ――夢二はむしろこのようなところに、彼の安住の場を見出しているのかもしれない。
 やがて廊下に足音がして夢二が現れた。

 彼を横浜の埠頭に見送ってから、すでに三年の歳月が流れていた。欧米各地の放浪の画の旅から、彼は何をもって帰ってきたのであろうか。彼の頭髪にはめっきり白髪がふえている。そして眼鏡の奥に光る瞳には深い憂いのかげがきらめいていた。
「よく来てくれましたね」
 夢二はじっとわたしの方を見つめてつづけた。「近ごろは毎日寝てばかりいます。日本に帰って来たら、眠むくて仕方ないんですね。東京の街にもさっぱりごぶさたしていますよ。君たち若いものが訪ねてくれると、ほんとうにうれしいですよ」
 夢二はテーブルの上から外国煙草を取り上げてわたしにすすめる。
 すでに五十にもなっている人間のどこに、欧米を放浪して歩いた情熱がひそんでいるのであろうか。ほほはこけ、やせて弱々しいからだのどこにそんな力があるのだろう。サンフランシスコからニューヨークに行くのに、汽車賃が足りなくて、パナマ運河をまわる貨物船に乗って東海岸に渡ったというエピソードを持つこの老芸術家のどこに、そのような生活力がひそんでいるのだろうか。
夢二はしずかに語る。
「人間を信じることができなくなるのはおそろしい。人生にとってこんな不幸なことはない。だがぼくは人を信じすぎ、そしていつも裏切られる。人々に利用され、そして揚句のはてに捨てられる。ぼくのなかに最後に残されるものは、人を信じられないということです。欧米の旅において、また帰国後の一、ニの小旅行において、いつもはぼくが握らされるのは、適当な報酬ではなくて、人間不信のにがい汁ばかりです」
 人のいい芸術家を利用して、金儲けに狂奔する商売人は、いつの時代にも幅をきかせている。

夢二はまたつづける。
「ぼくには一人の息子がいます。時々顔を合わせるがめったにゆっくり話したこともない。でも先日、ちょっと浅草までいっしょに出てみました。しかしその息子ともぴったりしない。そのときも考えたけれど、ぼくが今、死の床についたとしても、息子に看とられて死んでいこうとは思いませんね。ほかの肉親の者も、むかし恋人だった女も、誰も知らないうちに、ひとりで静かに死んで行きたいという気持ちですね」
 わたしは夢二の顔を見ていた。あまりにもいたいたしい言葉に思えたからである。だが彼の顔は平静である。
 傾きかけた窓外の日ざしを眺めながら、夢二はまた語りはじめた。

「電車に乗ったとき、ふと前の坐席にいる人間を観察し、ぼくはふとこれは人類ではないのではないかと思ったりすることがある。ある者は馬に見え、ある女は風船玉だったり、重役然とした男がカワウソに見え、その隣の中年男が豚に見えたりする。万事こんな調子なんです」
「それはゲオルグ・グロッス的ですね。グロッスの風刺画の発想も、案外そんなところにあるのかもしれませんね。先生の今後のお仕事に、そういう画が出てきたらおもしろいですね」
 わたしはそんなことをしゃべりながら、豚のような資本家、金のために貞操を捧げる若い女、搾取される労働者などを画題にしたあのドイツの画家と、この老風俗画家とを対比して考えていた。それは余りに距離のある対比にちがいなかった。グロッスの意識した現実把握のきびしさとはげしさは、おそらく夢二には欠けたものであろう。そして夢二の独特な抒情は、グロッスのなかにはその片鱗さえも残していないであろう。むしろグロッスはそのような抒情は意識して排除した画家ではなかったろうか。
 しかもわたしは、この大きな距離感を持った二人の画家に共通なるあるものを感じるのだ。それは画材を常に庶民の風俗のなかに見出したということである。そしてそれを、それぞれ自分のものとして一つの完成にまで到達させたということである。

 夢二は、わたしの訪問した一ヵ月後、信州の富士見高原療養所に入院した。そして翌年、彼の希望通り、肉親にも看とられることなく、ひとり淋しく五十一歳の生涯を高原療養所のベッドに閉じた。昭和九年九月一日のことである。

(編者注1)鎌原正巳(かんばら まさみ(1905年5月14日 - 1976年3月15日)
日本の作家。長野県埴科郡松代町(現:長野市)に生まれ、松本高等学校文科乙類卒、京都帝国大学文科中退。早稲田大学出版部にて雑誌編集等に携わる傍ら、1939年に古谷綱武、森三千代らと同人誌『文学草紙』を創刊。1947年-1966年東京国立博物館に勤務し資料室長となる。1954年「土佐日記」で芥川賞候補、「曼荼羅」で再度候補。70年文化財功労者となる。(wikipediaより)

(編者注2)ゲオルグ・グロッス:1893-1959 George Grosz/ジョージ・グロス(ゲオルゲ・グロッス)
20世紀最大の風刺画家(諷刺画家)と呼ばれたジョージ・グロス。ちなみにゲオルゲ・グロッスという表記は間違い。彼はダダイストであり、ドイツ表現主義でもありました。海外の著名人だけではなく、日本の作家や芸術家にも影響を与えた人物です。最初に紹介する本もグロスに影響を受けた柳瀬正夢が編著した本になります。この本は日本の画家である松本竣介にも影響を与えました。(「文生書院」サイトより)



第15回「きもの名人、夢二」(近藤富枝)

2024-11-26 20:13:17 | 日記

 今回は、1944年に日本放送協会に入局し、翌年退局。その後1968年に処女作『永井荷風文がたみ#--ほろびし東京の歌』を執筆後、作家として大正・昭和の文壇史に始まり、平安・明治・大正の服飾史、王朝継ぎ紙、『源氏物語』関連の著作などの著作がある近藤富枝。
夢二関係では、「待てど暮らせど来ぬ人を」(1987年、講談社)、1989年「夢二暮色」(1989年、講談社)を執筆し、夢二と彦乃、お葉との物語を綿密な調査の上小説化しています。

*『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)より
(注)本文は、近藤冨枝が『きもの名人』(2012年(平成24)(河出書房新社)に掲載したものです。

 竹久夢二(1884~1934)という人はイラストレーターとして一世を風靡した人気者などと思われているが、なかなかそんな単純ではなかった。画質でモデルを前に画筆を動かしているだけではまだるっこしくて、街に飛び出して店を構え、女性たちの風俗を変えようとし、それだけでは足らず、前衛的な図案社(現代の広告業)を企画したり、それが関東大震災でだめになると、「手による産業」を考えて見ん芸の普及をめざして学校の建設を企画したり、とにかく「大正の歌麿」などという評価でおさまるような人物ではなかった。昭和六年から二年間をアメリカやヨーロッパに遊ぶが、世に言う逃避ではなく、勉強家の彼が新しい仕事へのヒントや、将来の飛躍に備えての知識を得ようとしての外遊と、私は解釈している。
 夢二が後輩の抒情画家たちと違うところは、文化に対して鋭敏な感覚を持ち、批判力があって絵も事業も、すべてそこから生まれているということかと思う。さらに美を守ることにも貪婪で、例えば本を買って来ても、装丁が気に入らないと自分で全部つくり直してしまう。女の耳裏の汚れを見ただけで恋心がさめる。そんな夢二がきものに対する思い入れの深さは、当然ならが普通ではなかった。
 本来の好みは渋いものにあった。紬の類が大好きで、一字、夢二の周囲の女性が黄八丈を着だしたら、彼の愛人になった証拠だと言う者がいたくらいである。夢二の画中の女人たちのきものは紬系が断然多い。柄は縞(しま)、網代、市松、格子などで、特に新味はない。染柄の場合も小桜、竹、椿、梅、麻の葉、鱗(うろこ)などで古い。たぶん読者は意外の感がすると思う。しかし夢二はやはり夢二であり、それらの在来柄を使いながら彼流のコーディネートで彼のきもの感を表現しているのである。
 それは帯である。無地それも黒が多い。またあるときは変わった柄であったりモダンだったり、とにかくひとひねりしたものを使っている。ということは、きもの姿をすっきりさせることを新しい時代の女性たちへプレゼントするつもりだったのである。
 夢二の代表作の「黒船屋」の女性を見ると、オレンジ色に薄茶の堅縞のきものに緑色の無地の帯を締めている。黒猫を抱く蠱惑的(こわくてき)な女性の顔は永遠の恋人笠井彦乃だろう。ちょっとよけいなことをいれると、黒船屋は彼が本郷菊富士ホテルの四十番の部屋で大正八年に描いたもの。
 もう一つの作例をあげると舞妓の絵である。かれが京都に住んでいた大正の二年間は、高台寺のちかくにいたので、祇園とは目と鼻で舞妓にも親しい妓がいただろう。彼はたくさんの舞妓の絵を残したが、きものや帯の柄は祇園の風俗そのままを描かなかった。きものは無地か小紋が多く、だらりの帯はというと、これがまったくの夢二流である。一例をあげると「加茂川」という絵は可憐な舞妓のうしろ姿を描いているが、帯は黒地の裾に大きくたんぽぽがポンと一株描かれているだけのもの。こんな帯を締めた舞妓は大正の祇園にいるわけはない。
 というようにゴテゴテした柄、金糸銀糸の贅沢な染や織はまったくといってよいほど彼の描く女人には使わない。だいたい夢二は、女の美しさは普段着姿にあると決めているようである。その着付けも襟もたっぷりくつろげ、また帯の締め方もすべて女のまろやかな肉体の線を失わない工夫がされている。なぜかおはしょりの紐をあらわに見せ、結び目をチョンと描いているのも夢二流だ。
 笠井彦乃は女子美出身で、「あじさいの女」と題する大きな絵を描いている。銀杏返しに結った若い女性が、藍と鼠の地味な棒縞のきものに黒繻子(くろじゅす)の帯(むろん無地)を締め、白い腰紐を帯下にのぞかせ、素足に黒の塗下駄、襟はほんの少し白がのぞき、薄縹(うすはなだ)のあじさいの花のあいだに立っている。両手をつつましく前にかさね、花に見入っている瞳が美しい。彦乃の自画像である。このころの彦乃は夢二の妻同様の立場で、すっかり夢二の趣味に同化しているのがいじらしくもまた驚きにも思われる。
 そうである。夢二は愛する女性の自分の好みで装わせることに熱心であった。実は彼にとって日本の娘たちは全員いとしい存在だったから、大正三年には日本橋呉服町に港屋絵草紙店を開き、彼の頭のなかにつまっている美しいものを娘たちのためにつくり拡めたのだ。
 半襟、帯、浴衣、手拭、風呂敷などの和装品もある。便箋、封筒、千代紙、木版画などと共に全部夢二のデザインによるものであった。半襟は刺繍の豪華を競うのが当時の風潮であったが、夢二の思いは別のところにあった。普通の人が目をつけないささやかなもの、日常的なものを柄に使おうというのだった。「しだれ花」「樫の実」「小鳥」「あかまんま」「いちょう」などが彼独特のモダンなアレンジで愛らしく、または知性的な感じにまとめられ、それを若い女性たちが競って買い、いつも品切れであった。
 浴衣はアルファベットをアレンジしたものとか、片身替りにし、一方を白地に一方を黒地とする。白地には麦の穂が藍で描かれ、黒地には、

 青麦の青きをわけてはるばると逢ひに来る子と思へばかなし

の歌が白抜きになっている。
 夢二というのは不思議だ。ただスイスイと一筆描きのようにした麦の穂が女身のたおやぎのようであり、また字も夢二以外には書けないののびやかさである。この歌は恋の初めのころの彦乃の姿で、下町から郊外の夢二の家に父の目を盗んで通ってくるいとしさを歌っている。
 帯ぐらいになると、夢二は注文主のからだに布地を巻きつけ、柄をつける位置をピンで止めると苺やどくだみや、そんな変わったデザインを描き、縫うことをも彼自身がしたそうである。また夢二は大きな行李にいっぱい衣裳を持っていて、いざ女性を描くとなると、そのなかから気に入ったものと帯と小物をつかみ出してモデルに着せた。そのために彼は街を歩く時は目を光らせて、気に入った色と柄をみつけると買い、例の行李にしまった。
 夢二は日本の古い柄をこよなく愛したけれど、一方では、新しいデザインの夢二風を鼓吹したのであった。そうした彼の作品が好きで、巷には夢二流の美人がたくさん生まれた。会心の笑みを夢二は洩らしたに違いない。
 古いものを大切にしながら新しい感覚を加える。これが夢二の考えた、きものへのビジョンだった。『砂がき』という随筆集に左(以下)のような文章がある。

「日のうちの洋服をぬいで、銀座の散歩に仕立おろしの中形浴衣を引つかけた十六七の娘はまるで日本キモノをアメリカ娘がつんつるてんに着たといつた恰好である。襟をぐつとあけて乳の上を帯でしめつけ腰帯は申わけに胃袋の上の肋骨のとこへバンドのやうにしめて、そこから下はどぼんとまるでスカートを引いたやうにキモノを着たところは、少しもをかしくない。発育の好い肉軆を、従来の着物が表はし得なかつた包み方で、実に新しい感覚を持つたものだ。これは洋服が表はすことの出来ない、日本のキモノが持つ美しさだと思ふ」
 と書いている。たぶん大正の終わりごろの文章であろう。八十年経った今も通用する言葉ではないだろうか。女性たちの肉体が変わったのに普通どおりの約束を強いたり、普通どおりの美しさをきもの姿に要求するのはたしかにおかしい。ともすればそんな気でいる私は、夢二から一撃くらったような気分だ。 
 やがて彼は、右の文章そのままの娘を描くようになる。昭和六年の「青衣の女」などはその代表だろう。襟をぐっとあけ、乳の上を帯で締め付けている。そのため腰から下の線がたいそう長い。椅子に座った彼女は手を組んで断髪の頭上にのせているから、腰から下の線がいっそうくっきりと現れ、たしかにきものの新しい美と思える。夢二の美人像は目の大きな最初の妻のたまきに始まり、品よくやさしい彦乃的な女性、コケティッシュだがやはり紬の似合うお葉の時代はこの時期に終わっていた。
 大正の終わりから昭和にかけて大流行を見たのが銘仙である。銀座を歩く女性の五十パーセントが銘仙を着ていたと言われる。銘仙は絹織物だが平織で安価のために震災後の東京で普及し、やがて日本中に広まった。しかもこのころ研究が進んで複雑で華やかな柄、モダンなアール・デコ風の柄まで現れ、流行した。産地は関東が多いが、夢二も足利銘仙の宣伝用の絵葉書に協力している。というのに彼はそうした超モダンな銘仙柄に反發をした。
「民衆の好む新奇をねらひ外国雑誌の図案や色調をソックリそのまま着物に利用してゐるから新し好みの人は外国人の足にする敷物やカーテンを着てゐるやうなものだ――私は思ふ、古いものの中に一番新しいものがあることを、そしてその土地のローカルカラーをガッチリ出したものが要求される時代のくることを」
 と昭和六年五月に朝日新聞の群馬版に書いている。これは余計な話だが、私も戦中が娘時代だったから銘仙のお世話になった。しかしアール・デコ風の尖端的な柄は持っていなかった。矢羽根、市松、絣の類であった。学生だったし家が下町趣味だったせいだと思う。
 そして夢二はというと、自分の画中の女性に外国直輸入と思えるモダン銘仙を着せなかった。芸術家として潔癖だったのである。他のイラストレーターたちにそんな配慮はない。きものもサイケデリック、羽織もサイケ、帯も似たようなものをかさねてきた時には野暮くさい姿になる。着手に美への見識がないと失敗は免れない。夢二はそのことも考えのなかにあっただろう。
 一枚の着物として衣紋竹(えもんだけ)に吊るされたときのことより考えないのは、素人には許せても美の制作者たちには許されるはずがない。夢二が帯を無地にすることが多いのは、そのためだったと改めて思う。
 夢二はまた、こんなことも言っている。
「これは神楽坂の紅屋で見かけたのだが、支那服に耳かくしをした少女を見たとき、これはおもしろいとおもった。なんのことはない天平時代の風俗だ。あれでもつと大どかな文様のついた布をつけたらそつくり天平だ。元来耳かくしが支那(現代の中国)あたりから西洋へ近頃いつたのが久しぶりに日本へ逆輸入したものだらう」
 長い文章なのでこの辺で終わりにするが、文章の結論は外国のものを取り入れるまえに、もっと日本の古い物を、いま一度見直して工夫する必要があるというので、絣や縞を愛し、かつ天平まで遡って風俗を考えたいという彼の自論である。
 白樺派の洋画家であった有島生馬は、
「後世明治大正の女性を創った画人は誰であったかという問題になると夢二以外誰を挙げ得るであろう」
 と言っている。その通りで、私は「明治大正の」の後に「女性のきものを」と右の文章に手を入れたいと思っている。



+

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


第14回「夢二との音楽会の旅」(淡谷のり子)

2024-11-19 20:53:16 | 日記

今回は歌謡界の大御所、淡谷のり子の登場です。
アメリカで8年間邦人新聞社にいたという翁久允に誘われて、榛名湖畔のアトリエに居を構えようとしていた夢二は米欧の旅に行く気になってしまいました。当時夢二は「榛名山美術研究所」を設立する宣言をしていましたが、長年生涯にあって行けずにいた外遊とあって、支援者たちは画会を開くなどの協力を惜しみませんでした。
淡谷のり子も夢二と音楽会の旅をすることになりました。これはその当時を思い出して書かれたものです。
この一連のイベントで相当額が夢二の手に入ったのですが、一説によれば、夢二が外遊するとあって借金取りがどっとやってきて、ほとんど金を持たないまま船に乗ったということなので、これも”夢二式”というのでしょうか。

*『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)より

(注)本文は、『青春と読書』第20巻12号(1958年(昭和60年)(集英社)に掲載された「渡航前竹久夢二とまわった音楽界のことなど」です。

わたしの母が竹久夢二さんの大変なファンだったんですね。わたしが子供のころの時分から。ですから、わたしも夢二さんのことは小さい頃からよーく知っていまして、母の影響でしょうね、わたしも夢二さんの絵がたまらなく好きで、女学校の頃には夢二さんの絵をなんとなく集めていたりしていましたよ。その頃は、「夢二画描いたような人ね」というのが代表的な美人の形容でしたからね。
 夢二さんの人気というのは大変なもので、浮き沈みなんてなかったんじゃないんですか、その当時から亡くなるまで、ずーっと。
 それでわたしが上野の東洋音楽学校に入りまして、その頃セノオ楽譜というところから夢二さんが表紙の絵を描いている楽譜が出ていまして、わたしもそれでうたったりもしていたんですよ、『宵待草』とか『蘭灯』とかをね。夢二さんが詩を作って、多忠亮さんや本居如月さんたちが作曲して、それをわたしは歌っていました。

昭和4年にわたしは音楽学校を出ましたが、2年後の昭和6年ですか、夢二さんがフランスへ行きたがっているのだけれど、経済的に苦しいようだからその費用を作りだすための「夢二画伯外遊送別舞踏と音楽の会」をやることになったんで、わたしも出ないかというお話がありましてね。
 わたしはその話を聞いて、夢二さんのために歌えるというので、それはもう嬉しかったですよ。

 前橋や高崎と行ったところの何か所かでその会を開いて、そこであがったお金を夢二さんに持たせたんですね。その会が開かれる土地土地に夢二さんの講演者の方がいましてね、おそらく、その人たちもお金を出したんでしょうし、もちろん、わたしたちも無料出演ということで、そうして集まったお金を夢二さんに差しあげて、それで発たせたんですけどね。そのくらい集まったかは知りませんよ。でも随分な額になったんじゃないでしょうか。竹久夢二が来る、淡谷のり子が来るというんで、各会場ともそりゃもう大変な人が集まりました。

 その音楽会の旅にはずっと夢二さんが一緒だったんですよ。夢二さんはその間いつも一生懸命絵を描いていましたね、墨絵だとかの。で、その絵を会場に展示して売っていたんです。だから旅の間は毎日お目にかかりましたし、何度か一緒にお食事もしました。

「夢二は、彼(夢二)の蟇口(がまぐち)を手にとると、一種の興味にはずみながら、無造作に口をあけて逆に、じゃやじゃやらひっくり返した。五十銭玉や十銭玉、五銭玉まで交じって紙幣の数々を並べてみると、漸(ようや)く二百何十何円何十銭しかないのだった。ほゝこれじゃ日米金百弗あまりだね。これぽっちの金をもって秩父丸のキャビンにおさまり、世界漫遊するんだなんて人物は、明治以来君一人かもしれないぜ、こりゃ君、記録(レコード)ものだと。しかし笑いながら、なに、どうせこれから一年あまり、二人は夫婦者かなんぞのように助け合いながら行かねばならぬ長い旅だ。」と翁久允は自著「出帆」に書いています。夢二はどうも資金を全部出発前に使ってしまったようですね。

 その旅の途中のある日のことなんですが、わたしが墨をするお手伝いをしていましたら、夢二さんが「そこに掛けてください」と言って、わたしを椅子に掛けさせて、わたしをモデルに夢二さんが絵を描いたんですよ。でも、何に描いたと思います?それがお寺に行くと「過去帳」というのがありますでしょ、あれにわたしの絵を描いたんです。そしてその横に「私の絵の権利は全部のり子さんにあげます」と書いたんです。

 それはまわりの人達やわたしの家の者も見ていまして、皆から「いいわねえ」ととてもうらやましがられましたけど、絵の権利がどうということじゃなくて、あの夢二さんに自分を描いてもらったということが、わたしはもう嬉しくて、嬉しくてね。
 でも、それを持っていたら今頃は大変なことになったんでしょうけれど、戦災で焼いてしまったんです。とても残念でしたね。
 そのほかにも夢二さんは黒じゅすに絵を描いて帯を上げるからという約束もしてくれたんです。
 当時、夢二さんは四十七、八歳でしたか、わたしから見たらもういいおじさんなんですけどね、あまり喋らない人でとても女性関係の派手な人だなどとは思えませんでしたけどねえ。

「フランスに行くんです」
「フランスにいらっしゃるんですか、いいですね」
 何度かそんな話をしましたけれど、アメリカへ寄ってそれからフランスに行く予定だったんでしょう。でも、アメリカにいらっしゃる時間が予定よりも長くなって、それからヨーロッパへお入りになった。しかし、間もなく病気になったんでしょうね。やがて日本へ帰ってこられて「帯をあげるから取りにいらっしゃい」という通知をいただいて、わたしは竹藪のいっぱいあるお宅に訪ねて行きましたけど、その時はもうご病気がずいぶんと進んでいたんじゃないのかしら、夢二さんにはお目にかかることもできませんでしたし、約束の帯もいただけなかったですからね。

 夢二さんと会ったのは、本当にその音楽会の旅の間だけでしたから、それに夢二さんが旅の間もほとんど喋らない人でしたから、夢二さんとはそれほど深いお付合いがあったわけではないんですけども、小さい時から好きで好きでしようのなかった夢二さんのために歌い、その人と一緒に旅が出来、そのうえ、「幾つかの忘れがたい思い出が作れたということです。
 わたしがお目にかかったあと、夢二さんがアメリカでどんな生き方をなさったのかは、とても興味があります。(談)
(注)淡谷のり子(歌手・1907~99)、1931年(昭和6)当時は24歳でした。


                                                                                    20代~30代の淡谷のり子(Wikipedia)

 


第13回「父の死の秘密」(竹久不二彦)

2024-11-13 09:43:13 | 日記

今回は、夢二と最も長く共に暮らしていた次男の不二彦の文章の第3弾です。
不二彦は1911年(明治44年)に岸たまきとの間に生まれ、兄の虹之助とともに育てられていましたが、離婚して同棲中妻の岸たまきが1916年(大正5)に3人の子どもを残して失踪。このため、虹之助は夢二の両親の住む八幡に送られ、不二彦は京都に住んでいた夢二のところに来ました。皮肉にも夢二は駆け落ち目的で京都に来ていたので、不二彦は20歳の笠井彦乃という2人目の母親と暮らすことになります。
それ以来、不二彦はずっと夢二と一緒にいましたが、彦乃が23歳で他界し、今度は15歳のお葉が3番目の母親役となるという数奇な運命をたどります。
そして、夢二が外遊後結核にかかり1934年(昭和9)に富士見高原療養所に行ったあとは中国に仕事に行き死に目にあえませんでした。夢二は不二彦をとてもかわいがっていたといいます。その不二彦は夢二をどう見ていたのでしょう。

*本文は、竹久夢二 第一集 『本の手帖』Ⅱ・1(1962.1.1)に掲載されたものです。
 
 父、竹久夢二が、信州富士見高原の正木不如丘さんの病院で、一人の肉親にも看とられることなく、ただ一人寂しく死んで行った時、わたしは山東省青島に暮していた。栗山の伯母と兄の虹之助、そして他家に養子にいったとはいえ三男の草一(俳優・河合栄二郎・ニューギニヤで戦死)この三人は東京にいたのであったが、この三人も、わたくしと同じく父の死に水はとれなかったのであった。

 その後ながらく“青島なんかに行っていたのだからしょうがないさ”と何かの折にこみあげてくる悔恨の情をまぎらわしてきたが、このごろ、父が世を去った年になって、しみじみと申しわけのないことであったと思っている。兄はふるさとの家、祖父のもとで育てられたようなものであり、弟は養子にいってしまっていたのだ。わたしだけが、父の自伝小説『出帆』に山彦という名で出てくるように、どこへ行くにも父のポケットの中にいた訳だ。長崎の南蛮研究家で高名な永見徳太郎さんの家でのながい逗留。京都東山の三寧坂への掛り口、高台寺のあたり、小さな二階造りの家にも暮した。そのころ、彦乃(しのとよぶ)という美しい第二のお母さんがいて、わたしは初めてここで小学校へあがった。父が二階の室で、両側に女人が祈っていて、真ん中の土の中から、にゅっと白い手がはえている気味の悪い油の絵を書(ママ)いていたのを覚えている。

 こう思い出をたどって見ると、兄や弟が、たとえ父の死の床にかけつけられなかったとしても、私だけは、父の死の病を看とらなければならなかったのだ。父が欧州の旅から帰ったのが昭和八年の九月、そしてひと休みする間もなく十一月いっぱい台湾の旅に出かけた。これは案内役を買って出た画商に腕がなかったのか、悪い奴だったのか、持参した絵も描かされた絵も一枚のこらず全部とられてしまった。勿論金も一銭も取れないという、さんたんたる一ヶ月であった。松原の家に帰ってきた父は、がっくりときて、欧米の旅の疲れも重なったか、ちょっと熱を出して寝た。咳も出たが、ただの風(ママ)だと思って、呼吸器という今はあまり見かけない蒸気を出すガラス器械を買ってきて、白いエプロンを胸にかけてハアハアやっていた。わたしが医者に見てもらったらと言ったら、たいしたことはないよと言って、気分のいいときは平気でウイスキーを呑んでいたので、わたしも大したことはないと思っていたものであった。

 ところが、この状態がちっともよくならないで一進一退のまま正月を迎えた。たまたま年始にあらわれた友人の岡田博士(小児科)が、これはどうもおかしいぞ、大分悪いんじゃないかと首をかしげた。友人の間で医者というよりも粋人で通っていた岡田さんが首をひねったので、父も驚いたらしく、やはり友人である結核専門家の正木不如丘博士の往診をお願いした。正月の五日であった。わざわざ信州から来て下さった正木さんが、ちょっと見ると、すぐ、これはいかんすぐ入院だ、今から一しょに行こう、と言われたが父が犬の子じゃあるまいし、俺にも容易があるよと、その場はことわって、十数日あとに、父はスーツケース一つを提げ、普通の旅行者と同じ格好で、円タクで新宿駅へ、新宿から松本行の列車に乗った。小池さんたちとプラットホームで見送ったが、車窓に見える父は病人とも思えない元気さで、列車が動き出すと、小さくうなづきながら、わたしの眼界から消えて行った。それが生死の別れになろうとは、つゆほどにも思われなかったのである。

 それまで、文化学院を出てから絵をかいたり、カンバン屋をやったりの小使いかせぎはしていたが、スネ齧り同然の生活をつづけていたわたしは、父の入院で早速自活の道を考えなければならなくなり、あれこれ考えているところへ、友人から青島で新しい仕事をはじめるのだが、一しょに来ないかという誘いがかかり、遠くへ行く、というのが魅力で、その春、東京松原の家を兄の一家に留守を頼んで出かけたのであった。父の病気は進行していたのであろうが、手紙一本来るわけでなく、わたしには新宿で別れたときの、いつもの顔の父、元気そうな顔だけがあって、青島では至極のんきに楽しく暮らしていた。心ここにあらざれば見れども見えずというが、父の上に心のなかったわたしには、父の死の病が見えなかったのだと思っている。

 だが、九月初旬、父の死を(新聞紙上で)知らされたときは、やはり愕然とした。単身、とるものも取りあえず松原の家に帰ってきて、ようやく雑司が谷での埋葬式に間に合ったのであった。

 わたしの心も父の上になかったが、父の心もわたしの上にはなかったのではないか、ということを考えてみることもある。わたしは若気の至りであったと後悔もし、また、どうして最も足が地についていないような精神状態の時期に、父が死んでくれたのかと、しゃくにもさわっているのだが、父はどうだったのか。最後のメモと思われる手帖の手記に、栗山の姉に謝し、不二彦はしようのない奴だというようなことを書いているが、これは、親らしくして育てた唯一人の子が、親が死に瀕しているとも解らず青島あたりウロウロしているのを憤慨した言葉だろうか。若しそうなら、どうして一枚の葉書もよこさなかったのか、と思う。人間として出来の悪い奴だというなら、これは感受せざるを得ないのだが。

 わたしは、こうも思う。父は一人で死にたかったのだとも。肉親が恋しければ、栗山の伯母などは、呼びさえすれば、それこそ何をおいても駆けつけたはずだ。祖父の家のよつぎのように育てられた兄としても同じであったでえあろう。だが、あえて呼ばなかったのだと、わたしは思う。

  さだめなく鳥やゆくらん青山の青のさみしさかぎりなければ

 これは、父がよく好んだ短歌であるが、どこか人寂しく死んで行こうと、その覚悟をさぐっているように思われるところがある。

 父が死んでどれくらいたってからだったろうか、栗山の伯母から“これは大切な遺品だよ”と、父が、いつも左の薬指から離さなかった太目のプラチナの指輪を渡された。四十九日とか一周忌とかいうような日であったかも知れない。何の変てつもないカマボコ型の指輪だが、誰一人いない暗夜の、高原の病室で、一人で、この指輪一つをしっかりと握りしめて死んだのかと思うと、おろそかにも出来ない心持になって、有難く頂いてわたしも左の指にはめた。松原の家に帰って来て、これは、ほんとのプラチナなら刻印がありそうなもの、といささかさもしい考えなども浮んで、裏側を廻して見ると、“ゆめ35しの25”と横書きに小さくきざまれている。ほう、結婚の指輪はつくっていたのだなと思ったのだが、考えて見るとこれは彦乃さんと一しょになった年齢でなく彦乃さんの死んだ年令なのである。わたしは、そのとき奇妙な寂しさにおそわれて考えこんでしまったことを覚えている。それとあわせて思いだされたのは、四十代になった父と幾度か旅をしたが、幾つになっても何ん年たっても、つねに宿帳に“竹久夢二、三十五”と書いていたことであった。馬鹿なイタズラをやると思っていたが、ただのイタズラではなかったのであろう。

 眼をつむって、父の相貌を思い浮べると、必ずこのプラチナの指輪が、だぶってくる。それともう一つ、小さい時京都東山の家で父が画きつづけていた“土の中から手のはえている”気味の悪い絵だ。地上に深い心残りのあるものが、墓の中から白い手を出して、それを求めているのだと思うが、仏説にでもあるものだろうか、また、この絵の話を教えてくれる人に逢えないでいる。それとも、この真の寓意をも、父は一人で抱いて死んで行ったのであろうか。

(注)竹久不二彦:竹久不二彦(1911-1994)は、母親である岸たまきと別れた後、父親の手元で愛情をうけて育てられました。幼少期には絵のモデルや童話・童謡の聞き手として夢二の創作活動の源となり、青年期には夢二の精神性を引き継いで、「榛名山美術研究所」の設立構想を実現するために奔走しています。夢二の没後は、戦後まもなく「拓北開拓団」の団長として北海道の門別(現沙流郡日高町)で開拓生活を送り、後に富川中学校と高校で美術教師を務め、帰京後はグラフィックデザイナーとして活動する傍ら、夢二の遺作展や画集の出版などを通して父の顕彰活動に励みました。(金沢湯涌夢二館特別展「竹久夢二と不二彦」より(平成30年度))


第12回「パパは空気」(竹久不二彦)

2024-11-13 09:27:21 | 日記

今回は、夢二の次男、竹久不二彦の第2弾です。夢二最も長くともに暮らし、何もかも見てきた不二彦にとって夢二は何だったのでしょうか?3人の”母”と接し、少年山荘でも人の(女性も)出入りの多かった父との不思議な親子関係の一端が見えてきます。

*本文は、『宵待草70年の歳月』竹久夢二展(毎日新聞社主催)図録に掲載された「竹久不二彦(夢二の二男)」です。
(千葉県船橋市船橋そごう(1981.10.16―21)・柏市柏そごう(1981.10.23―28)で開催)

《パパは空気》
 わたしの物心ついた頃には「パパは空気なんだ」といっていたのが、最初のおやじ確認の印象でした。わたしの少年の日の大部分が、母子家庭ならぬ、父子家庭であったから、父と子の二人の人生では空気のように絶対必要な、第一のモノが父親であったことによるということでした。そして少年のわたしは、「空気」を精一杯吸い込む仕草をして見せた情景、「パパは空気」の情景を思い出しております。女親の欠けた、男ヤモメの父は「女親の役目」を果そうとして、少年のわたしに、片親の愛情=男親の愛情を、どんなにか重い荷物として育ててくれたことか、そこには少し特異な二重生活が創られていたように思われます。
 女親的要素の甘さの強い空気として、父の匂いが少年時代のわたしを包んできたものです。オヤジの外出に必ずこんなひと言を残して家を出たことばもおかしく回想します。
「パパはこれから世の中へ行って来るからね。」少年のわたしには「世の中」とは何か恐ろしい、にがにがしい、あらくれた別世界のように思われたものです。子供のついては行かれない世界である、と納得して留守番をすることにしておりました。それはいつもお手伝いのばあやと二人の留守番でした。

《ちこの世の中》
 いつのまにか、わたしは呼び名を、「ちこ」と呼ばれるようになっていました。不二彦の彦をつまって、自分が呼んだものかも知れません。夢二はこの「チコ」を男手で育てるには、大きすぎるような大荷物になった時「世の中」へ出そうとしますが、こんな文章「歌時計」が残っているので写して見ましょう。

 ちこへ。
 呼びならはした
 ちこへ。
 呼びならはしたままにこう呼ばう。

 お前は4年前母親に別れてからこのかたパパの手許で不自由勝ちに育つてきたが、いまパパの手から知らない手に托されようとしている。それがお前のために最善の方法ではないかもしれないが、今のパパにはこれがもう唯一の仕方であつたことは、お前がやがて成人の後にわかつてくれるであらう。
 今にしておもへばお前は生れ落ちるから十字架を負つてきたのだつた。さうなる運命を誰が知つてるだらう。パパはただ力の足りない自分を知つてゐるばかりだ。そしてお前は、パパにとつても二重の十字架ではあつたが、ほんとうに親としての責任と愛情とをパパに教へ、パパの生活を、つねに浄化し高め力づけてくれたことは忘れない。

 かうなると数奇な運命の悪戯も、ただの悪戯ではなかつたのだ。パパは実に善良すぎた。そして力の弱かつたことが、パパの生活をつねに濁し乱してきたのだ。お前を他人の手にゆだねたからとて、パパの責任が軽くなるのではない。ただパパはお前が一人前の人間になつてからパパについて考へるようになつた時、パパは好い床木であつたと言へるやに、パパもやるつもりだ。お前はまだほんの接木されたばかりの芽生に過ぎないが、太陽の光と熱とをうんと吸つて、接木のあとのわからにほど、素直にずんずんと大きくなつてくれ。
 今日はお前の第8回目の誕生日だ。そして今日は、五月姫(めいくゐん)が年若い男女に交つて若草の野辺に一日遊び暮す、1年中で一番自由な幸福な日だ。記念すべき五月祭(めいでい)に、この歌の本をお前への贈物にすることも意味深いことだ。

 1919年5月1日

お前のパパより

《宵待草》
 初めて僕が“宵待草”を印象したのは、街で歌唱されている、いわば流行歌の一つとして、街の歌、巷の歌として歌われ聞かされるそういう時でした。
 仲間の誰彼が「おい、お前のオヤジさんの歌だぜ!」
 一昔も、二昔も前頃のことだから、カチューシャの歌、かれステキ、ディアボロ、と歌い進むプログラムには、必ず出てくるような一節g宵待草であった。

 宵待草の「歌詞」の出生について夢二からわたしに語って聞かされた気憶(ママ)はない。「誰のために」詩がつくられたのか、「いつ」「どこで」の詮索‥‥‥
 夢二の心の中には、必ずつきまとう、宵待草と、それを待つひとがあったでしようがそれは聞いておりません。

 松原時代、少年山荘のベランダで福田蘭童さんが尺八で、桜井八重子さんがソプラノで歌ってくださったり、夢二の若い友達の小宴には必ず出る宵待草でした。
 やはり、詩曲共にすぐれたとり合せで、聞く人の心を捕えた作品でありました。作曲家、多忠亮さんが和魂洋想(勝手な妄言多謝)の極致のような曲を添えて下さったのに依るものだと思います。これは夢二の詩想をまことに深く理解して、表出して下すったと思います、夢二の詩想の底流に在る、地唄の骨組みが、土の中から美しく飛昇する、洋の曲想ではないでしょうか。
 今日この頃、宵待草のヒロイン長谷川カタさんを実在として、その面影に探りあてる夢が可能になるということです。
 天空の旅路で、妖精の羽衣の実在を夢二が確かめるという物語を、夢二一代のハッピー・エンドとして聴きたいと思います。