夢二の素顔

さまざまな人の夢二像

第18回「夢二を最後まで支えた画家」(有島生馬)

2024-12-14 09:46:19 | 日記

今回は画家の有島生馬です。関東大震災後に東京中を巡り歩いてスケッチし「東京災難画信」を連載した時も、榛名を旅して「榛名山美術研究所」の設立を宣言した時も、そして晩年富士見高原療養所に入院した際も、いつも夢二を支えていました。そして、東京の雑司ヶ谷墓地に埋葬される際は、「竹久夢二を埋む」と揮毫した墓石が少年山荘にあった石の上にあります。
両国にある東京都復興記念館には、関東大震災時の風景の中に夢二を含む当時の人々を描いた大きな絵が飾られています。

*『竹久夢二』(長田幹雄編、1975.9.1)昭森社より
本文は、「特集 竹久夢二 第一集 『本の手帖』Ⅱ・1」(1962.1.1)に掲載された有島生馬「夢二追憶」です。

夢二会といふものが同人の間に結ばれてゐるが、毎年九月一日の祥月命日には雑司谷の墓所に会員が集まり、香華を備へる事になってゐる。昨三十六年で二十三回、この行事の忘れられた事がない。わが物故師友の誰かれを顧みても、外にそんな例はないやうである。又集まる会員の雰囲気が実に単純で、義理や、尊敬などといふより、昨日亡くなった隣人を弔うといふほどの親しみで、誰れも夢二先生などといふものはない。夢二がどうしたとか、かういったかとかいふ、懐顧談に耽るのである。この例年の墓参は思ひ出すだけでも何んとなく心温るものがある。

墓標は僅か三尺ほどの自然石の表面だけ磨いたのに、「竹久夢二を埋む」と私が揮毫した。皆が夢二らしくっていいと云って呉れる。今日では東京都豊島区の史蹟に指定されてゐる。

九月一日といふ運命の日は不思議と夢二に深い因縁があった。大正十二年の九月一日は夢二ばかりの厄日ではなかったが、夢二には兎も角深い印象を与へたといふ事はあとに残した多数のスケッチや、詩文に徴して思ひやられる。電車も通らない東京市中をよくもあんなに方々歩きまはり昼夜となく写生出来たものと、超人的な努力に夢二のこの天変地異の感動がいかに大きかったかを推察出来る。私は十年後「大震災紀念」といふ大画布を作った時、その一部に画帖を手にする夢二の憐れっぽい姿を、豪然たる藤島先生の脇に並べてかいた。藤島先生も震災直後軽装して市内を写生してまはった。纏まった制作は出来なかったが、その意図はあったやうだ。

震災翌年の九月一日の朝、私は何を思ったか、渋谷宇田川町の寓居に夢二を訪ねて行った。一人ぽつねん、彼はいつもの渋い顔をしてゐた。去年の事などはなし、どの程度市中が復興したか見物しようと、二人連れ立って外に出、たうとう今は震災紀念堂の建つ本所被服廠跡まで行って終った。

 あちこち歩きまはったのと、この日夢二の気分がいやに沈んでゐて、黙り込んでゐるので、こっちまで酷く疲れて終った。日比谷に出た頃は夕景になったので、帝国ホテルのグリルで食事を共にし別れた。別れる時、夢二はまだ帰りたくなさ相だったが、私の方がそれ以上に夢二に突合ってゐるのが辛くなった。

都になって分ったのであるが、これが夢二にとっての第二の運命の日だった。葉子さんはこの九月一日に家出して終ったのである。家出して藤島先生の所へ身を隠したのである。

その後松沢に新居を構へたが、この少年山荘に余り心楽しむ暇もなく、伊香保に移り、外遊を思ひ立った。この辺が生涯の大転期となったやうだ。

夢二画富士見高原の療養所の独房で肺患のため、唯一人付添ひもなく寂しく死んだのが矢張り又九月一日であった。

寂しさ、これが夢二の感性と芸術とを貫いた一つの鍵で、九月一日が生涯の象徴となったかのやうである。

「画をかく仕事は横に空間を仕切って眺めることだが感性は後から先きの方へ脇目もふらずに進んでゆくやつで、ちょっと身をかはして立ちどまれば案外つまらないことを思ひつめてゐたと気がつくのだが、因果なもので、止まるところを知らない。三太郎は絵かきのくせに仕切ることを忘れて変な道へ深入りしてしまったものだ。」(夢二著、『出帆』七十七回)

これは小説中の自嗤(じちょう)である。夢二は生れながら職業的技巧を身につけてゐたといへ、それにもまして感情の激しさ深さが世俗の監修や作風を蹂躙させた。世人から誤解されることの多かったのも止むを得ない。

画のことに少し触れてみようか。彼はスタイルを持ってゐた。スタイルを持つとは簡単にいもいへるが、ここでスタイルといふのは、視覚、情緒、詰り個人的認識が根底的に異質であった事を指すのである。独自のスタイルなしでは物を観察すること、見ること、写生すること、再現することが不可能で、何をみてもかいても所謂夢二式になって終ふのである。その腕、その指、その像、その濃淡、有力な技巧がスタイルによく従属錬磨されて行ったのである。これは又彼の書、彼の詩歌文章のタッチについてもいへることで、どこでもヂェヌインなスタイルを認めざるを得ない。

 志賀がどこかで、夢二などに拘泥してゐては仕方がないと、忠告してくれたとかいふことを私は耳にしたが、なぜそれほど夢二がいけないのだらう、理由はきいてゐないが、私は未だに夢二を明治大正の不滅な風俗画家と信じ愛してゐる。センティメンタルな時代の感情や、風俗を夢二位よく後世に伝へ得る画人が他にあるであらうか。この魅力あってこそ当時の子女を熱中させたヴォグが巻き起されたのであらう。(たとへ固定観念の芸術家や、批評家等に無視されつつも、大衆と特殊なファンの支持はゆるがなかった)

一体どの程度志賀は夢二の作品を知ってゐるのだらう。或は知ってゐても反撥するのであらう。。せいぜい雑誌の挿画か、絵端書位しか見てゐないのではあるまいか。夢二には六枚折の屏風とか、全紙の軸物とか、二百種に余る著書とか、茶函四個にぎっしり詰った写生帳とか(戦時中この茶函を整理するのに、四人係りで三四日かかった程の量の)、今日なほ隠れた作品があとから吾々の目に現はれて来る、この多産勤労の驚くべき事実を果たして知ってゐるであらうか。

地ぢ亜の鑑賞と青春の情熱に耽溺した夢二はそのエネルギーを右のやうな数々の形で女性の創造に燃し尽した観がある。所謂「夢二の女」なるものはオスカー・ワイルドのいふ「芸術が自然を作る」好適例であった。幾人かの夢二の恋人等は悉く夢二の画中から抜け出して来たかに見えた。それが単に髪型や、化粧のせゐ許りでなく、身のこなしや、顔だちまでそっくりだった。又街に夢二式の若い女が溢れた時代で、呉服橋の港屋の図案による襟、衣類をきた女に逢ふと、妙な錯覚が起こったと夢二自身話したことがあった。

七夕、黒船屋、立田姫といふやうな絢爛たる女人、或は高揚した自由な空想が華々しく続いた後、彼の情熱もやがて下火になって行った。渡米する前後昭和五年頃から漸く(ようやく)甘美な女性美に対る(ママ)倦怠が芽ざしたのか、人よりも山がかき度いと云った。それが榛名湖畔への移住となり、湖のみえる山腹に山荘が落成した。そこで連山、それも寂しい冬枯れや、雪景色に独特のスタイルを与へようとしてゐたが、急に苦難の米欧旅行にそれが切代へられてゐた。この長旅は彼の心身を極度に酷使した。痛ましい努力と苦闘の連続で声明を自ら磨りへらした。夢二の一生は要するに日の殉教者のそれであったが、特に最後に近づくに及び全くその様相を備へるに至った。彼も殉教の一人として金銭には愚かしいまでに無関心だった。
 後年の女人増にはも早や甘い感傷の美を求められなくなってゐる。対象に喰入るに皮肉なまで鋭角化された神経が出て来た。中には鬼気をさへ感じさせるものがある。これ等外遊中の作品は台湾で画商の術策に落ち、多く行衞不明になったやうである。

欧州の旅の疲れの上、台湾の猖気と不慮の災難で、東京へ帰って来た時は全く心身共憔悴の極にたっしてゐた。間もなく夢二は榛名湖畔の山荘から富士見高原療養所へ、旧友正木不如丘院長と、死の床を求め、永遠に委東京を去り、烈々たるポエムの詩のごとき芸術と恋愛の殉教者としての幕を昭和九年九月一日、行年五十一才で閉じた。


竹久夢二の墓石(東京・雑司ヶ谷墓地)

有島生馬の関東大震災を描いた画(東京都復興記念館)


第17回「関東大震災と少年山荘」(竹久不二彦)

2024-12-08 11:03:25 | 日記

今回はまた不二彦(1911-1994)の文章です。不二彦は青年になるまでずっと夢二について歩いていた上、1994年まで生存していたことから、大正時代の夢二を知る大きな手がかりとなる手記をたくさん書いています。今回は震災時の夢二の姿です。

後藤新平に感謝状を送ったというのは驚きです。1933年に台湾に行ったとき、後藤新平のために改装した総督府台湾博物館(現国立台湾博物館)からわずか徒歩5分のところにある「鉄道ホテル」に宿泊したというのも縁でしょうか。記録にはありませんが、台湾を発つ直前に「台湾日日新報」に投稿したエッセイ「台湾の印象」には後藤新平に触れた部分があります。夢二はきっと博物館を訪ねたに違いないと私は思っています。夢二の3週間の台湾滞在期間中、わずか7日分しか行動が分かっていないという謎がその理由です。


*本文は、『生誕100竹久夢二百選展』(サンケイ新聞社主催、日本橋三越本店七階 三越美術館(1983.1.4―16))図録に掲載された「父子雑録」です。

一石橋

 取り払われるかと案じていた「しるべ石」はまだ立っていた。「一石橋」の足のたもとに。
 関東大震災(大正十二年)の跡始末で東京中が掘りかえされ、至るところに区画整理、道路工事のまっ最中であったから、文字もかすれた「しるべ石」など焼跡にはじき飛ばされて、跡かたも残ってはいなかろう。“一石橋はどうか”と案じた夢二は、私を連れて、しるべ石の安否を確めに出かけたのであった。
 わずかに焼け残された渋谷、宇田川町の路地裏から、僕はにぎり飯を腰に、夢二はスケッチブックを懐に、災害地を取材しながら一石橋に向かって歩いた。取材は後に「震災画信」として新聞に掲載され、ご記憶のかたもあろう。
 「しるべ石」は、日本橋、呉服橋と河岸つづきの一石橋の袂の空き地にあった。空き地に立った夢二は、僕に“ここはな、江戸の昔から母をたづねる娘、父親を探がす兄弟縁者の寄り会う巡礼の地であったそうな”と言った。復興事業の嵐の中に残されていた小さな旧跡を見出した夢二は感激、後藤新平市長に謝意を表する一文をおくったりした。
 夢二は一石橋界隈に暮らす(大正三、四年)港屋時代があったため、ことさらに思い出深かったのだろう。当時の夢二の手記から、一石橋の文字を拾って前後の足取りを追って見たら、少年の日の私もいた……。

(夢二の文章)一石橋から一枚描いた。もっと大きなものへ色のあるものを描き度い。しかし、ちいさいスケッチ一枚しただけですっかりつかれてしまっ  た。本銀町の方へいってみようと思ったけれど、日本銀行の所から引き返して魚河岸の方へゆく。飛白のパッチをはいて筒袖をきた若い衆、白いシャツに浅黄のズボンをはいた老人。メモくらむように往来している。大方はもう船から荷をあげたようである。
江戸橋から引き返して、うの丸の方を通って、まる花へきてここで久し振りに味噌汁をたべる。それからまた一石橋へ出て帰る……。
このあたり手を引かれて私も歩いた道だ。

(編者注1)飛白(ひはく、かすり):かすれたような部分を規則的に配した模様。また、その模様のある織物。
(編者注2)パッチ:男性の下着。類語:股引き/猿股/すててこ

少年山荘

 関東大震災を境に夢二は、アトリエつきの自分の家を建てることにした。仮り住まいの漂白生活をきりあげて、“ゆっくり眠りたいんだよ”といっていた。設計図も自分で引いて、蔵造りに赤い屋根、夢二流儀の国籍不明の建てもの、一風変わった雰囲気のものが出来た。建築の基本にはかなわなかったらしく「鬼門」といかいうところが出来て、鬼門除けの南天を植えたりした。武蔵野風景が一望できる丘つづき、雑木雑草の中の一角だった。
 土蔵造りに蔦づるを一面に絡ませた風情のある家は好評だったが、木造に禁忌の蔦づるを覆いつくした家屋は、根太も土台も朽ち果て、十年で寿命が終わることになった。
 この少年山荘は「夢二郷土美術館」の手で岡山の地に復元され、現在美術館の別館となっている。

(編者注3)少年山荘は、震災の翌年、1924年松原に建てられた。





 

 


第16回「外遊から帰った夢二」(鎌原正巳)

2024-12-02 19:39:32 | 日記

今回は作家の鎌原正巳です。
1931年(昭和6)、夢二は翁久允に誘われて、「榛名山美術研究所」設立の計画を一時中止し、アメリカへ旅立ちました。
ところが、夢二がほとんど無銭状態だったことがわかったり、アメリカの新聞社の労使対立に巻き込まれたりして二人は仲たがいし、夢二はその後独り身で流浪の旅を続けました。折悪しくアメリカは大不況の中にあり、絵を売ってその資金でフランスに行こうという当初の計画は破綻しててしまいます。
それでも借金してヨーロッパに渡った夢二でしたが、貧困に苦しみながらも多くの国を巡り歩きました。そして1933年(昭和8)、ドイツのベルリンにある画塾で日本画を教えることになりましたが、ナチスの台頭によりユダヤ人学生を失い、とうとう帰国を余儀なくされたのです。

夢二は帰国後1か月余りで台湾へ旅立つのですが、このエッセイはそのわずかな在日期間に夢二と会った記録という内容で、当時の夢二に関する資料が少ないため、非常に価値のあるものと思われます。(次男の不二彦は、夢二が変わり果てた姿で帰国し、その後は眠ったり原稿を書いたりしていたと書いています。)
正確には、夢二は1933年9月18日に神戸港に到着、そして10月23日に神戸港を台湾に向けて出発していますので、訪問はその間ということになります。「晩秋」とされていますが、定説では、晩秋は10月23日~11月6日のようなので、これよりは少し前、ということになると思います。ただ、その頃夢二は台湾に行く準備をしていたはずですが、当時は台湾は日本統治下にあったため、国内という意識も強かったので、特に言及されていないのかもしれません。

*本文は、女学生雑誌『白鳥』第1巻第5号(1947.8)に掲載された「晩年の夢二と語る」です。

東京の郊外、世田谷区松原に竹久夢二を訪ねたのは、一九三三年の晩秋のある晴れた日の午後であった。
郊外電車の駅に下車して五分ほど歩くと低い丘が続き、その一画がクヌギとアカシアの倭林にかこまれている。その林のなかの小径は、黄色や褐色の落ち葉におおわれ、歩くとバサ、バサと乾いた音がする。秋の足音である。
 丘の下からは見えなかった赤レンガ建の家が、林の間から見えてくる。オニツタのからんだ家、相当古びたその家は、ポーの『アッシャー家の没落』を思わせる。

 玄関わきの呼び鈴をツタの葉の間に探し、ボタンを押す。室内のどこかでベルの音が響き、やがて老婆が顔を出す。家政婦らしい。

 玄関にはいる。うすぐらい光の中に、土間の片すみに据えられた橋の欄干様の装飾が目にとまる。近づいてよく見ると、擬宝珠のついている本物の欄干で、「天文四年、大坂農人橋」という文字が刻まれている。
 やがて通された応接間で、わたしはしばらくの間主人公の現れるのを待っていた。
 夢二といえば、いまの若い人たちには余り親しみのない人間かも知れない。しかしその年譜を見ると、明治・大正時代の抒情画家としての足跡は大きい。生まれたのは明治十七年(一八八四)岡山県の片田舎においてである。明治三十四年上京、早稲田大学の商科に学んだが間もなく退学し、絵画に専心し、抒情画を試み、全国の青年子女を魅了した。明治四十年以降約十五年間にわたり、声明を得たのである。
 のち新聞、雑誌の挿画に筆を染め、また大正三年九月、東京日本橋に自作錦絵、婦人装身染織品などの店「港屋」を開いて装飾美術に対する才能を示し、さらに商業美術への進出を志し、同十二年にドンタク図案社を設立した。昭和五年から三ヵ年にわたり欧米を漫遊帰朝後、宿痾の肺患のため静養の日々を送っていた。
 わたしの訪れたのは、そのような「旅路の果て」にある夢二のもとであった。

六畳ほどの洋風の応接間には、背にこまかな彫刻のしてあるロココ風の椅子、かつての豪華さをしのばせる色あせたソファ、暗い壁間には夢二の筆になる「少女の像」が一枚かけてあるだけ。ほかに何一つ置いてない殺風景で陰気なふんい気のただよっている応接室である。
 窓から見える裏庭には、午后の日ざしを受けて山茶花が咲きにおっている。つややかな葉に、こぼれるように秋の日がおどっている。夢二の家と、明るい山茶花は、ちょっと不釣合いな感じである。崩れかけたヴェランダ、はげ落ちそうになっている天井の壁、庭先の葉の落ちつくしたアカシヤ、庭隅の枯れたクマザサ――夢二はむしろこのようなところに、彼の安住の場を見出しているのかもしれない。
 やがて廊下に足音がして夢二が現れた。

 彼を横浜の埠頭に見送ってから、すでに三年の歳月が流れていた。欧米各地の放浪の画の旅から、彼は何をもって帰ってきたのであろうか。彼の頭髪にはめっきり白髪がふえている。そして眼鏡の奥に光る瞳には深い憂いのかげがきらめいていた。
「よく来てくれましたね」
 夢二はじっとわたしの方を見つめてつづけた。「近ごろは毎日寝てばかりいます。日本に帰って来たら、眠むくて仕方ないんですね。東京の街にもさっぱりごぶさたしていますよ。君たち若いものが訪ねてくれると、ほんとうにうれしいですよ」
 夢二はテーブルの上から外国煙草を取り上げてわたしにすすめる。
 すでに五十にもなっている人間のどこに、欧米を放浪して歩いた情熱がひそんでいるのであろうか。ほほはこけ、やせて弱々しいからだのどこにそんな力があるのだろう。サンフランシスコからニューヨークに行くのに、汽車賃が足りなくて、パナマ運河をまわる貨物船に乗って東海岸に渡ったというエピソードを持つこの老芸術家のどこに、そのような生活力がひそんでいるのだろうか。
夢二はしずかに語る。
「人間を信じることができなくなるのはおそろしい。人生にとってこんな不幸なことはない。だがぼくは人を信じすぎ、そしていつも裏切られる。人々に利用され、そして揚句のはてに捨てられる。ぼくのなかに最後に残されるものは、人を信じられないということです。欧米の旅において、また帰国後の一、ニの小旅行において、いつもはぼくが握らされるのは、適当な報酬ではなくて、人間不信のにがい汁ばかりです」
 人のいい芸術家を利用して、金儲けに狂奔する商売人は、いつの時代にも幅をきかせている。

夢二はまたつづける。
「ぼくには一人の息子がいます。時々顔を合わせるがめったにゆっくり話したこともない。でも先日、ちょっと浅草までいっしょに出てみました。しかしその息子ともぴったりしない。そのときも考えたけれど、ぼくが今、死の床についたとしても、息子に看とられて死んでいこうとは思いませんね。ほかの肉親の者も、むかし恋人だった女も、誰も知らないうちに、ひとりで静かに死んで行きたいという気持ちですね」
 わたしは夢二の顔を見ていた。あまりにもいたいたしい言葉に思えたからである。だが彼の顔は平静である。
 傾きかけた窓外の日ざしを眺めながら、夢二はまた語りはじめた。

「電車に乗ったとき、ふと前の坐席にいる人間を観察し、ぼくはふとこれは人類ではないのではないかと思ったりすることがある。ある者は馬に見え、ある女は風船玉だったり、重役然とした男がカワウソに見え、その隣の中年男が豚に見えたりする。万事こんな調子なんです」
「それはゲオルグ・グロッス的ですね。グロッスの風刺画の発想も、案外そんなところにあるのかもしれませんね。先生の今後のお仕事に、そういう画が出てきたらおもしろいですね」
 わたしはそんなことをしゃべりながら、豚のような資本家、金のために貞操を捧げる若い女、搾取される労働者などを画題にしたあのドイツの画家と、この老風俗画家とを対比して考えていた。それは余りに距離のある対比にちがいなかった。グロッスの意識した現実把握のきびしさとはげしさは、おそらく夢二には欠けたものであろう。そして夢二の独特な抒情は、グロッスのなかにはその片鱗さえも残していないであろう。むしろグロッスはそのような抒情は意識して排除した画家ではなかったろうか。
 しかもわたしは、この大きな距離感を持った二人の画家に共通なるあるものを感じるのだ。それは画材を常に庶民の風俗のなかに見出したということである。そしてそれを、それぞれ自分のものとして一つの完成にまで到達させたということである。

 夢二は、わたしの訪問した一ヵ月後、信州の富士見高原療養所に入院した。そして翌年、彼の希望通り、肉親にも看とられることなく、ひとり淋しく五十一歳の生涯を高原療養所のベッドに閉じた。昭和九年九月一日のことである。

(編者注1)鎌原正巳(かんばら まさみ(1905年5月14日 - 1976年3月15日)
日本の作家。長野県埴科郡松代町(現:長野市)に生まれ、松本高等学校文科乙類卒、京都帝国大学文科中退。早稲田大学出版部にて雑誌編集等に携わる傍ら、1939年に古谷綱武、森三千代らと同人誌『文学草紙』を創刊。1947年-1966年東京国立博物館に勤務し資料室長となる。1954年「土佐日記」で芥川賞候補、「曼荼羅」で再度候補。70年文化財功労者となる。(wikipediaより)

(編者注2)ゲオルグ・グロッス:1893-1959 George Grosz/ジョージ・グロス(ゲオルゲ・グロッス)
20世紀最大の風刺画家(諷刺画家)と呼ばれたジョージ・グロス。ちなみにゲオルゲ・グロッスという表記は間違い。彼はダダイストであり、ドイツ表現主義でもありました。海外の著名人だけではなく、日本の作家や芸術家にも影響を与えた人物です。最初に紹介する本もグロスに影響を受けた柳瀬正夢が編著した本になります。この本は日本の画家である松本竣介にも影響を与えました。(「文生書院」サイトより)



第15回「きもの名人、夢二」(近藤富枝)

2024-11-26 20:13:17 | 日記

 今回は、1944年に日本放送協会に入局し、翌年退局。その後1968年に処女作『永井荷風文がたみ#--ほろびし東京の歌』を執筆後、作家として大正・昭和の文壇史に始まり、平安・明治・大正の服飾史、王朝継ぎ紙、『源氏物語』関連の著作などの著作がある近藤富枝。
夢二関係では、「待てど暮らせど来ぬ人を」(1987年、講談社)、1989年「夢二暮色」(1989年、講談社)を執筆し、夢二と彦乃、お葉との物語を綿密な調査の上小説化しています。

*『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)より
(注)本文は、近藤冨枝が『きもの名人』(2012年(平成24)(河出書房新社)に掲載したものです。

 竹久夢二(1884~1934)という人はイラストレーターとして一世を風靡した人気者などと思われているが、なかなかそんな単純ではなかった。画質でモデルを前に画筆を動かしているだけではまだるっこしくて、街に飛び出して店を構え、女性たちの風俗を変えようとし、それだけでは足らず、前衛的な図案社(現代の広告業)を企画したり、それが関東大震災でだめになると、「手による産業」を考えて見ん芸の普及をめざして学校の建設を企画したり、とにかく「大正の歌麿」などという評価でおさまるような人物ではなかった。昭和六年から二年間をアメリカやヨーロッパに遊ぶが、世に言う逃避ではなく、勉強家の彼が新しい仕事へのヒントや、将来の飛躍に備えての知識を得ようとしての外遊と、私は解釈している。
 夢二が後輩の抒情画家たちと違うところは、文化に対して鋭敏な感覚を持ち、批判力があって絵も事業も、すべてそこから生まれているということかと思う。さらに美を守ることにも貪婪で、例えば本を買って来ても、装丁が気に入らないと自分で全部つくり直してしまう。女の耳裏の汚れを見ただけで恋心がさめる。そんな夢二がきものに対する思い入れの深さは、当然ならが普通ではなかった。
 本来の好みは渋いものにあった。紬の類が大好きで、一字、夢二の周囲の女性が黄八丈を着だしたら、彼の愛人になった証拠だと言う者がいたくらいである。夢二の画中の女人たちのきものは紬系が断然多い。柄は縞(しま)、網代、市松、格子などで、特に新味はない。染柄の場合も小桜、竹、椿、梅、麻の葉、鱗(うろこ)などで古い。たぶん読者は意外の感がすると思う。しかし夢二はやはり夢二であり、それらの在来柄を使いながら彼流のコーディネートで彼のきもの感を表現しているのである。
 それは帯である。無地それも黒が多い。またあるときは変わった柄であったりモダンだったり、とにかくひとひねりしたものを使っている。ということは、きもの姿をすっきりさせることを新しい時代の女性たちへプレゼントするつもりだったのである。
 夢二の代表作の「黒船屋」の女性を見ると、オレンジ色に薄茶の堅縞のきものに緑色の無地の帯を締めている。黒猫を抱く蠱惑的(こわくてき)な女性の顔は永遠の恋人笠井彦乃だろう。ちょっとよけいなことをいれると、黒船屋は彼が本郷菊富士ホテルの四十番の部屋で大正八年に描いたもの。
 もう一つの作例をあげると舞妓の絵である。かれが京都に住んでいた大正の二年間は、高台寺のちかくにいたので、祇園とは目と鼻で舞妓にも親しい妓がいただろう。彼はたくさんの舞妓の絵を残したが、きものや帯の柄は祇園の風俗そのままを描かなかった。きものは無地か小紋が多く、だらりの帯はというと、これがまったくの夢二流である。一例をあげると「加茂川」という絵は可憐な舞妓のうしろ姿を描いているが、帯は黒地の裾に大きくたんぽぽがポンと一株描かれているだけのもの。こんな帯を締めた舞妓は大正の祇園にいるわけはない。
 というようにゴテゴテした柄、金糸銀糸の贅沢な染や織はまったくといってよいほど彼の描く女人には使わない。だいたい夢二は、女の美しさは普段着姿にあると決めているようである。その着付けも襟もたっぷりくつろげ、また帯の締め方もすべて女のまろやかな肉体の線を失わない工夫がされている。なぜかおはしょりの紐をあらわに見せ、結び目をチョンと描いているのも夢二流だ。
 笠井彦乃は女子美出身で、「あじさいの女」と題する大きな絵を描いている。銀杏返しに結った若い女性が、藍と鼠の地味な棒縞のきものに黒繻子(くろじゅす)の帯(むろん無地)を締め、白い腰紐を帯下にのぞかせ、素足に黒の塗下駄、襟はほんの少し白がのぞき、薄縹(うすはなだ)のあじさいの花のあいだに立っている。両手をつつましく前にかさね、花に見入っている瞳が美しい。彦乃の自画像である。このころの彦乃は夢二の妻同様の立場で、すっかり夢二の趣味に同化しているのがいじらしくもまた驚きにも思われる。
 そうである。夢二は愛する女性の自分の好みで装わせることに熱心であった。実は彼にとって日本の娘たちは全員いとしい存在だったから、大正三年には日本橋呉服町に港屋絵草紙店を開き、彼の頭のなかにつまっている美しいものを娘たちのためにつくり拡めたのだ。
 半襟、帯、浴衣、手拭、風呂敷などの和装品もある。便箋、封筒、千代紙、木版画などと共に全部夢二のデザインによるものであった。半襟は刺繍の豪華を競うのが当時の風潮であったが、夢二の思いは別のところにあった。普通の人が目をつけないささやかなもの、日常的なものを柄に使おうというのだった。「しだれ花」「樫の実」「小鳥」「あかまんま」「いちょう」などが彼独特のモダンなアレンジで愛らしく、または知性的な感じにまとめられ、それを若い女性たちが競って買い、いつも品切れであった。
 浴衣はアルファベットをアレンジしたものとか、片身替りにし、一方を白地に一方を黒地とする。白地には麦の穂が藍で描かれ、黒地には、

 青麦の青きをわけてはるばると逢ひに来る子と思へばかなし

の歌が白抜きになっている。
 夢二というのは不思議だ。ただスイスイと一筆描きのようにした麦の穂が女身のたおやぎのようであり、また字も夢二以外には書けないののびやかさである。この歌は恋の初めのころの彦乃の姿で、下町から郊外の夢二の家に父の目を盗んで通ってくるいとしさを歌っている。
 帯ぐらいになると、夢二は注文主のからだに布地を巻きつけ、柄をつける位置をピンで止めると苺やどくだみや、そんな変わったデザインを描き、縫うことをも彼自身がしたそうである。また夢二は大きな行李にいっぱい衣裳を持っていて、いざ女性を描くとなると、そのなかから気に入ったものと帯と小物をつかみ出してモデルに着せた。そのために彼は街を歩く時は目を光らせて、気に入った色と柄をみつけると買い、例の行李にしまった。
 夢二は日本の古い柄をこよなく愛したけれど、一方では、新しいデザインの夢二風を鼓吹したのであった。そうした彼の作品が好きで、巷には夢二流の美人がたくさん生まれた。会心の笑みを夢二は洩らしたに違いない。
 古いものを大切にしながら新しい感覚を加える。これが夢二の考えた、きものへのビジョンだった。『砂がき』という随筆集に左(以下)のような文章がある。

「日のうちの洋服をぬいで、銀座の散歩に仕立おろしの中形浴衣を引つかけた十六七の娘はまるで日本キモノをアメリカ娘がつんつるてんに着たといつた恰好である。襟をぐつとあけて乳の上を帯でしめつけ腰帯は申わけに胃袋の上の肋骨のとこへバンドのやうにしめて、そこから下はどぼんとまるでスカートを引いたやうにキモノを着たところは、少しもをかしくない。発育の好い肉軆を、従来の着物が表はし得なかつた包み方で、実に新しい感覚を持つたものだ。これは洋服が表はすことの出来ない、日本のキモノが持つ美しさだと思ふ」
 と書いている。たぶん大正の終わりごろの文章であろう。八十年経った今も通用する言葉ではないだろうか。女性たちの肉体が変わったのに普通どおりの約束を強いたり、普通どおりの美しさをきもの姿に要求するのはたしかにおかしい。ともすればそんな気でいる私は、夢二から一撃くらったような気分だ。 
 やがて彼は、右の文章そのままの娘を描くようになる。昭和六年の「青衣の女」などはその代表だろう。襟をぐっとあけ、乳の上を帯で締め付けている。そのため腰から下の線がたいそう長い。椅子に座った彼女は手を組んで断髪の頭上にのせているから、腰から下の線がいっそうくっきりと現れ、たしかにきものの新しい美と思える。夢二の美人像は目の大きな最初の妻のたまきに始まり、品よくやさしい彦乃的な女性、コケティッシュだがやはり紬の似合うお葉の時代はこの時期に終わっていた。
 大正の終わりから昭和にかけて大流行を見たのが銘仙である。銀座を歩く女性の五十パーセントが銘仙を着ていたと言われる。銘仙は絹織物だが平織で安価のために震災後の東京で普及し、やがて日本中に広まった。しかもこのころ研究が進んで複雑で華やかな柄、モダンなアール・デコ風の柄まで現れ、流行した。産地は関東が多いが、夢二も足利銘仙の宣伝用の絵葉書に協力している。というのに彼はそうした超モダンな銘仙柄に反發をした。
「民衆の好む新奇をねらひ外国雑誌の図案や色調をソックリそのまま着物に利用してゐるから新し好みの人は外国人の足にする敷物やカーテンを着てゐるやうなものだ――私は思ふ、古いものの中に一番新しいものがあることを、そしてその土地のローカルカラーをガッチリ出したものが要求される時代のくることを」
 と昭和六年五月に朝日新聞の群馬版に書いている。これは余計な話だが、私も戦中が娘時代だったから銘仙のお世話になった。しかしアール・デコ風の尖端的な柄は持っていなかった。矢羽根、市松、絣の類であった。学生だったし家が下町趣味だったせいだと思う。
 そして夢二はというと、自分の画中の女性に外国直輸入と思えるモダン銘仙を着せなかった。芸術家として潔癖だったのである。他のイラストレーターたちにそんな配慮はない。きものもサイケデリック、羽織もサイケ、帯も似たようなものをかさねてきた時には野暮くさい姿になる。着手に美への見識がないと失敗は免れない。夢二はそのことも考えのなかにあっただろう。
 一枚の着物として衣紋竹(えもんだけ)に吊るされたときのことより考えないのは、素人には許せても美の制作者たちには許されるはずがない。夢二が帯を無地にすることが多いのは、そのためだったと改めて思う。
 夢二はまた、こんなことも言っている。
「これは神楽坂の紅屋で見かけたのだが、支那服に耳かくしをした少女を見たとき、これはおもしろいとおもった。なんのことはない天平時代の風俗だ。あれでもつと大どかな文様のついた布をつけたらそつくり天平だ。元来耳かくしが支那(現代の中国)あたりから西洋へ近頃いつたのが久しぶりに日本へ逆輸入したものだらう」
 長い文章なのでこの辺で終わりにするが、文章の結論は外国のものを取り入れるまえに、もっと日本の古い物を、いま一度見直して工夫する必要があるというので、絣や縞を愛し、かつ天平まで遡って風俗を考えたいという彼の自論である。
 白樺派の洋画家であった有島生馬は、
「後世明治大正の女性を創った画人は誰であったかという問題になると夢二以外誰を挙げ得るであろう」
 と言っている。その通りで、私は「明治大正の」の後に「女性のきものを」と右の文章に手を入れたいと思っている。



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第14回「夢二との音楽会の旅」(淡谷のり子)

2024-11-19 20:53:16 | 日記

今回は歌謡界の大御所、淡谷のり子の登場です。
アメリカで8年間邦人新聞社にいたという翁久允に誘われて、榛名湖畔のアトリエに居を構えようとしていた夢二は米欧の旅に行く気になってしまいました。当時夢二は「榛名山美術研究所」を設立する宣言をしていましたが、長年生涯にあって行けずにいた外遊とあって、支援者たちは画会を開くなどの協力を惜しみませんでした。
淡谷のり子も夢二と音楽会の旅をすることになりました。これはその当時を思い出して書かれたものです。
この一連のイベントで相当額が夢二の手に入ったのですが、一説によれば、夢二が外遊するとあって借金取りがどっとやってきて、ほとんど金を持たないまま船に乗ったということなので、これも”夢二式”というのでしょうか。

*『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)より

(注)本文は、『青春と読書』第20巻12号(1958年(昭和60年)(集英社)に掲載された「渡航前竹久夢二とまわった音楽界のことなど」です。

わたしの母が竹久夢二さんの大変なファンだったんですね。わたしが子供のころの時分から。ですから、わたしも夢二さんのことは小さい頃からよーく知っていまして、母の影響でしょうね、わたしも夢二さんの絵がたまらなく好きで、女学校の頃には夢二さんの絵をなんとなく集めていたりしていましたよ。その頃は、「夢二画描いたような人ね」というのが代表的な美人の形容でしたからね。
 夢二さんの人気というのは大変なもので、浮き沈みなんてなかったんじゃないんですか、その当時から亡くなるまで、ずーっと。
 それでわたしが上野の東洋音楽学校に入りまして、その頃セノオ楽譜というところから夢二さんが表紙の絵を描いている楽譜が出ていまして、わたしもそれでうたったりもしていたんですよ、『宵待草』とか『蘭灯』とかをね。夢二さんが詩を作って、多忠亮さんや本居如月さんたちが作曲して、それをわたしは歌っていました。

昭和4年にわたしは音楽学校を出ましたが、2年後の昭和6年ですか、夢二さんがフランスへ行きたがっているのだけれど、経済的に苦しいようだからその費用を作りだすための「夢二画伯外遊送別舞踏と音楽の会」をやることになったんで、わたしも出ないかというお話がありましてね。
 わたしはその話を聞いて、夢二さんのために歌えるというので、それはもう嬉しかったですよ。

 前橋や高崎と行ったところの何か所かでその会を開いて、そこであがったお金を夢二さんに持たせたんですね。その会が開かれる土地土地に夢二さんの講演者の方がいましてね、おそらく、その人たちもお金を出したんでしょうし、もちろん、わたしたちも無料出演ということで、そうして集まったお金を夢二さんに差しあげて、それで発たせたんですけどね。そのくらい集まったかは知りませんよ。でも随分な額になったんじゃないでしょうか。竹久夢二が来る、淡谷のり子が来るというんで、各会場ともそりゃもう大変な人が集まりました。

 その音楽会の旅にはずっと夢二さんが一緒だったんですよ。夢二さんはその間いつも一生懸命絵を描いていましたね、墨絵だとかの。で、その絵を会場に展示して売っていたんです。だから旅の間は毎日お目にかかりましたし、何度か一緒にお食事もしました。

「夢二は、彼(夢二)の蟇口(がまぐち)を手にとると、一種の興味にはずみながら、無造作に口をあけて逆に、じゃやじゃやらひっくり返した。五十銭玉や十銭玉、五銭玉まで交じって紙幣の数々を並べてみると、漸(ようや)く二百何十何円何十銭しかないのだった。ほゝこれじゃ日米金百弗あまりだね。これぽっちの金をもって秩父丸のキャビンにおさまり、世界漫遊するんだなんて人物は、明治以来君一人かもしれないぜ、こりゃ君、記録(レコード)ものだと。しかし笑いながら、なに、どうせこれから一年あまり、二人は夫婦者かなんぞのように助け合いながら行かねばならぬ長い旅だ。」と翁久允は自著「出帆」に書いています。夢二はどうも資金を全部出発前に使ってしまったようですね。

 その旅の途中のある日のことなんですが、わたしが墨をするお手伝いをしていましたら、夢二さんが「そこに掛けてください」と言って、わたしを椅子に掛けさせて、わたしをモデルに夢二さんが絵を描いたんですよ。でも、何に描いたと思います?それがお寺に行くと「過去帳」というのがありますでしょ、あれにわたしの絵を描いたんです。そしてその横に「私の絵の権利は全部のり子さんにあげます」と書いたんです。

 それはまわりの人達やわたしの家の者も見ていまして、皆から「いいわねえ」ととてもうらやましがられましたけど、絵の権利がどうということじゃなくて、あの夢二さんに自分を描いてもらったということが、わたしはもう嬉しくて、嬉しくてね。
 でも、それを持っていたら今頃は大変なことになったんでしょうけれど、戦災で焼いてしまったんです。とても残念でしたね。
 そのほかにも夢二さんは黒じゅすに絵を描いて帯を上げるからという約束もしてくれたんです。
 当時、夢二さんは四十七、八歳でしたか、わたしから見たらもういいおじさんなんですけどね、あまり喋らない人でとても女性関係の派手な人だなどとは思えませんでしたけどねえ。

「フランスに行くんです」
「フランスにいらっしゃるんですか、いいですね」
 何度かそんな話をしましたけれど、アメリカへ寄ってそれからフランスに行く予定だったんでしょう。でも、アメリカにいらっしゃる時間が予定よりも長くなって、それからヨーロッパへお入りになった。しかし、間もなく病気になったんでしょうね。やがて日本へ帰ってこられて「帯をあげるから取りにいらっしゃい」という通知をいただいて、わたしは竹藪のいっぱいあるお宅に訪ねて行きましたけど、その時はもうご病気がずいぶんと進んでいたんじゃないのかしら、夢二さんにはお目にかかることもできませんでしたし、約束の帯もいただけなかったですからね。

 夢二さんと会ったのは、本当にその音楽会の旅の間だけでしたから、それに夢二さんが旅の間もほとんど喋らない人でしたから、夢二さんとはそれほど深いお付合いがあったわけではないんですけども、小さい時から好きで好きでしようのなかった夢二さんのために歌い、その人と一緒に旅が出来、そのうえ、「幾つかの忘れがたい思い出が作れたということです。
 わたしがお目にかかったあと、夢二さんがアメリカでどんな生き方をなさったのかは、とても興味があります。(談)
(注)淡谷のり子(歌手・1907~99)、1931年(昭和6)当時は24歳でした。


                                                                                    20代~30代の淡谷のり子(Wikipedia)