夢二の素顔

さまざまな人の夢二像

第13回「父の死の秘密」(竹久不二彦)

2024-11-13 09:43:13 | 日記

今回は、夢二と最も長く共に暮らしていた次男の不二彦の文章の第3弾です。
不二彦は1911年(明治44年)に岸たまきとの間に生まれ、兄の虹之助とともに育てられていましたが、離婚して同棲中妻の岸たまきが1916年(大正5)に3人の子どもを残して失踪。このため、虹之助は夢二の両親の住む八幡に送られ、不二彦は京都に住んでいた夢二のところに来ました。皮肉にも夢二は駆け落ち目的で京都に来ていたので、不二彦は20歳の笠井彦乃という2人目の母親と暮らすことになります。
それ以来、不二彦はずっと夢二と一緒にいましたが、彦乃が23歳で他界し、今度は15歳のお葉が3番目の母親役となるという数奇な運命をたどります。
そして、夢二が外遊後結核にかかり1934年(昭和9)に富士見高原療養所に行ったあとは中国に仕事に行き死に目にあえませんでした。夢二は不二彦をとてもかわいがっていたといいます。その不二彦は夢二をどう見ていたのでしょう。

*本文は、竹久夢二 第一集 『本の手帖』Ⅱ・1(1962.1.1)に掲載されたものです。
 
 父、竹久夢二が、信州富士見高原の正木不如丘さんの病院で、一人の肉親にも看とられることなく、ただ一人寂しく死んで行った時、わたしは山東省青島に暮していた。栗山の伯母と兄の虹之助、そして他家に養子にいったとはいえ三男の草一(俳優・河合栄二郎・ニューギニヤで戦死)この三人は東京にいたのであったが、この三人も、わたくしと同じく父の死に水はとれなかったのであった。

 その後ながらく“青島なんかに行っていたのだからしょうがないさ”と何かの折にこみあげてくる悔恨の情をまぎらわしてきたが、このごろ、父が世を去った年になって、しみじみと申しわけのないことであったと思っている。兄はふるさとの家、祖父のもとで育てられたようなものであり、弟は養子にいってしまっていたのだ。わたしだけが、父の自伝小説『出帆』に山彦という名で出てくるように、どこへ行くにも父のポケットの中にいた訳だ。長崎の南蛮研究家で高名な永見徳太郎さんの家でのながい逗留。京都東山の三寧坂への掛り口、高台寺のあたり、小さな二階造りの家にも暮した。そのころ、彦乃(しのとよぶ)という美しい第二のお母さんがいて、わたしは初めてここで小学校へあがった。父が二階の室で、両側に女人が祈っていて、真ん中の土の中から、にゅっと白い手がはえている気味の悪い油の絵を書(ママ)いていたのを覚えている。

 こう思い出をたどって見ると、兄や弟が、たとえ父の死の床にかけつけられなかったとしても、私だけは、父の死の病を看とらなければならなかったのだ。父が欧州の旅から帰ったのが昭和八年の九月、そしてひと休みする間もなく十一月いっぱい台湾の旅に出かけた。これは案内役を買って出た画商に腕がなかったのか、悪い奴だったのか、持参した絵も描かされた絵も一枚のこらず全部とられてしまった。勿論金も一銭も取れないという、さんたんたる一ヶ月であった。松原の家に帰ってきた父は、がっくりときて、欧米の旅の疲れも重なったか、ちょっと熱を出して寝た。咳も出たが、ただの風(ママ)だと思って、呼吸器という今はあまり見かけない蒸気を出すガラス器械を買ってきて、白いエプロンを胸にかけてハアハアやっていた。わたしが医者に見てもらったらと言ったら、たいしたことはないよと言って、気分のいいときは平気でウイスキーを呑んでいたので、わたしも大したことはないと思っていたものであった。

 ところが、この状態がちっともよくならないで一進一退のまま正月を迎えた。たまたま年始にあらわれた友人の岡田博士(小児科)が、これはどうもおかしいぞ、大分悪いんじゃないかと首をかしげた。友人の間で医者というよりも粋人で通っていた岡田さんが首をひねったので、父も驚いたらしく、やはり友人である結核専門家の正木不如丘博士の往診をお願いした。正月の五日であった。わざわざ信州から来て下さった正木さんが、ちょっと見ると、すぐ、これはいかんすぐ入院だ、今から一しょに行こう、と言われたが父が犬の子じゃあるまいし、俺にも容易があるよと、その場はことわって、十数日あとに、父はスーツケース一つを提げ、普通の旅行者と同じ格好で、円タクで新宿駅へ、新宿から松本行の列車に乗った。小池さんたちとプラットホームで見送ったが、車窓に見える父は病人とも思えない元気さで、列車が動き出すと、小さくうなづきながら、わたしの眼界から消えて行った。それが生死の別れになろうとは、つゆほどにも思われなかったのである。

 それまで、文化学院を出てから絵をかいたり、カンバン屋をやったりの小使いかせぎはしていたが、スネ齧り同然の生活をつづけていたわたしは、父の入院で早速自活の道を考えなければならなくなり、あれこれ考えているところへ、友人から青島で新しい仕事をはじめるのだが、一しょに来ないかという誘いがかかり、遠くへ行く、というのが魅力で、その春、東京松原の家を兄の一家に留守を頼んで出かけたのであった。父の病気は進行していたのであろうが、手紙一本来るわけでなく、わたしには新宿で別れたときの、いつもの顔の父、元気そうな顔だけがあって、青島では至極のんきに楽しく暮らしていた。心ここにあらざれば見れども見えずというが、父の上に心のなかったわたしには、父の死の病が見えなかったのだと思っている。

 だが、九月初旬、父の死を(新聞紙上で)知らされたときは、やはり愕然とした。単身、とるものも取りあえず松原の家に帰ってきて、ようやく雑司が谷での埋葬式に間に合ったのであった。

 わたしの心も父の上になかったが、父の心もわたしの上にはなかったのではないか、ということを考えてみることもある。わたしは若気の至りであったと後悔もし、また、どうして最も足が地についていないような精神状態の時期に、父が死んでくれたのかと、しゃくにもさわっているのだが、父はどうだったのか。最後のメモと思われる手帖の手記に、栗山の姉に謝し、不二彦はしようのない奴だというようなことを書いているが、これは、親らしくして育てた唯一人の子が、親が死に瀕しているとも解らず青島あたりウロウロしているのを憤慨した言葉だろうか。若しそうなら、どうして一枚の葉書もよこさなかったのか、と思う。人間として出来の悪い奴だというなら、これは感受せざるを得ないのだが。

 わたしは、こうも思う。父は一人で死にたかったのだとも。肉親が恋しければ、栗山の伯母などは、呼びさえすれば、それこそ何をおいても駆けつけたはずだ。祖父の家のよつぎのように育てられた兄としても同じであったでえあろう。だが、あえて呼ばなかったのだと、わたしは思う。

  さだめなく鳥やゆくらん青山の青のさみしさかぎりなければ

 これは、父がよく好んだ短歌であるが、どこか人寂しく死んで行こうと、その覚悟をさぐっているように思われるところがある。

 父が死んでどれくらいたってからだったろうか、栗山の伯母から“これは大切な遺品だよ”と、父が、いつも左の薬指から離さなかった太目のプラチナの指輪を渡された。四十九日とか一周忌とかいうような日であったかも知れない。何の変てつもないカマボコ型の指輪だが、誰一人いない暗夜の、高原の病室で、一人で、この指輪一つをしっかりと握りしめて死んだのかと思うと、おろそかにも出来ない心持になって、有難く頂いてわたしも左の指にはめた。松原の家に帰って来て、これは、ほんとのプラチナなら刻印がありそうなもの、といささかさもしい考えなども浮んで、裏側を廻して見ると、“ゆめ35しの25”と横書きに小さくきざまれている。ほう、結婚の指輪はつくっていたのだなと思ったのだが、考えて見るとこれは彦乃さんと一しょになった年齢でなく彦乃さんの死んだ年令なのである。わたしは、そのとき奇妙な寂しさにおそわれて考えこんでしまったことを覚えている。それとあわせて思いだされたのは、四十代になった父と幾度か旅をしたが、幾つになっても何ん年たっても、つねに宿帳に“竹久夢二、三十五”と書いていたことであった。馬鹿なイタズラをやると思っていたが、ただのイタズラではなかったのであろう。

 眼をつむって、父の相貌を思い浮べると、必ずこのプラチナの指輪が、だぶってくる。それともう一つ、小さい時京都東山の家で父が画きつづけていた“土の中から手のはえている”気味の悪い絵だ。地上に深い心残りのあるものが、墓の中から白い手を出して、それを求めているのだと思うが、仏説にでもあるものだろうか、また、この絵の話を教えてくれる人に逢えないでいる。それとも、この真の寓意をも、父は一人で抱いて死んで行ったのであろうか。

(注)竹久不二彦:竹久不二彦(1911-1994)は、母親である岸たまきと別れた後、父親の手元で愛情をうけて育てられました。幼少期には絵のモデルや童話・童謡の聞き手として夢二の創作活動の源となり、青年期には夢二の精神性を引き継いで、「榛名山美術研究所」の設立構想を実現するために奔走しています。夢二の没後は、戦後まもなく「拓北開拓団」の団長として北海道の門別(現沙流郡日高町)で開拓生活を送り、後に富川中学校と高校で美術教師を務め、帰京後はグラフィックデザイナーとして活動する傍ら、夢二の遺作展や画集の出版などを通して父の顕彰活動に励みました。(金沢湯涌夢二館特別展「竹久夢二と不二彦」より(平成30年度))


第12回「パパは空気」(竹久不二彦)

2024-11-13 09:27:21 | 日記

今回は、夢二の次男、竹久不二彦の第2弾です。夢二最も長くともに暮らし、何もかも見てきた不二彦にとって夢二は何だったのでしょうか?3人の”母”と接し、少年山荘でも人の(女性も)出入りの多かった父との不思議な親子関係の一端が見えてきます。

*本文は、『宵待草70年の歳月』竹久夢二展(毎日新聞社主催)図録に掲載された「竹久不二彦(夢二の二男)」です。
(千葉県船橋市船橋そごう(1981.10.16―21)・柏市柏そごう(1981.10.23―28)で開催)

《パパは空気》
 わたしの物心ついた頃には「パパは空気なんだ」といっていたのが、最初のおやじ確認の印象でした。わたしの少年の日の大部分が、母子家庭ならぬ、父子家庭であったから、父と子の二人の人生では空気のように絶対必要な、第一のモノが父親であったことによるということでした。そして少年のわたしは、「空気」を精一杯吸い込む仕草をして見せた情景、「パパは空気」の情景を思い出しております。女親の欠けた、男ヤモメの父は「女親の役目」を果そうとして、少年のわたしに、片親の愛情=男親の愛情を、どんなにか重い荷物として育ててくれたことか、そこには少し特異な二重生活が創られていたように思われます。
 女親的要素の甘さの強い空気として、父の匂いが少年時代のわたしを包んできたものです。オヤジの外出に必ずこんなひと言を残して家を出たことばもおかしく回想します。
「パパはこれから世の中へ行って来るからね。」少年のわたしには「世の中」とは何か恐ろしい、にがにがしい、あらくれた別世界のように思われたものです。子供のついては行かれない世界である、と納得して留守番をすることにしておりました。それはいつもお手伝いのばあやと二人の留守番でした。

《ちこの世の中》
 いつのまにか、わたしは呼び名を、「ちこ」と呼ばれるようになっていました。不二彦の彦をつまって、自分が呼んだものかも知れません。夢二はこの「チコ」を男手で育てるには、大きすぎるような大荷物になった時「世の中」へ出そうとしますが、こんな文章「歌時計」が残っているので写して見ましょう。

 ちこへ。
 呼びならはした
 ちこへ。
 呼びならはしたままにこう呼ばう。

 お前は4年前母親に別れてからこのかたパパの手許で不自由勝ちに育つてきたが、いまパパの手から知らない手に托されようとしている。それがお前のために最善の方法ではないかもしれないが、今のパパにはこれがもう唯一の仕方であつたことは、お前がやがて成人の後にわかつてくれるであらう。
 今にしておもへばお前は生れ落ちるから十字架を負つてきたのだつた。さうなる運命を誰が知つてるだらう。パパはただ力の足りない自分を知つてゐるばかりだ。そしてお前は、パパにとつても二重の十字架ではあつたが、ほんとうに親としての責任と愛情とをパパに教へ、パパの生活を、つねに浄化し高め力づけてくれたことは忘れない。

 かうなると数奇な運命の悪戯も、ただの悪戯ではなかつたのだ。パパは実に善良すぎた。そして力の弱かつたことが、パパの生活をつねに濁し乱してきたのだ。お前を他人の手にゆだねたからとて、パパの責任が軽くなるのではない。ただパパはお前が一人前の人間になつてからパパについて考へるようになつた時、パパは好い床木であつたと言へるやに、パパもやるつもりだ。お前はまだほんの接木されたばかりの芽生に過ぎないが、太陽の光と熱とをうんと吸つて、接木のあとのわからにほど、素直にずんずんと大きくなつてくれ。
 今日はお前の第8回目の誕生日だ。そして今日は、五月姫(めいくゐん)が年若い男女に交つて若草の野辺に一日遊び暮す、1年中で一番自由な幸福な日だ。記念すべき五月祭(めいでい)に、この歌の本をお前への贈物にすることも意味深いことだ。

 1919年5月1日

お前のパパより

《宵待草》
 初めて僕が“宵待草”を印象したのは、街で歌唱されている、いわば流行歌の一つとして、街の歌、巷の歌として歌われ聞かされるそういう時でした。
 仲間の誰彼が「おい、お前のオヤジさんの歌だぜ!」
 一昔も、二昔も前頃のことだから、カチューシャの歌、かれステキ、ディアボロ、と歌い進むプログラムには、必ず出てくるような一節g宵待草であった。

 宵待草の「歌詞」の出生について夢二からわたしに語って聞かされた気憶(ママ)はない。「誰のために」詩がつくられたのか、「いつ」「どこで」の詮索‥‥‥
 夢二の心の中には、必ずつきまとう、宵待草と、それを待つひとがあったでしようがそれは聞いておりません。

 松原時代、少年山荘のベランダで福田蘭童さんが尺八で、桜井八重子さんがソプラノで歌ってくださったり、夢二の若い友達の小宴には必ず出る宵待草でした。
 やはり、詩曲共にすぐれたとり合せで、聞く人の心を捕えた作品でありました。作曲家、多忠亮さんが和魂洋想(勝手な妄言多謝)の極致のような曲を添えて下さったのに依るものだと思います。これは夢二の詩想をまことに深く理解して、表出して下すったと思います、夢二の詩想の底流に在る、地唄の骨組みが、土の中から美しく飛昇する、洋の曲想ではないでしょうか。
 今日この頃、宵待草のヒロイン長谷川カタさんを実在として、その面影に探りあてる夢が可能になるということです。
 天空の旅路で、妖精の羽衣の実在を夢二が確かめるという物語を、夢二一代のハッピー・エンドとして聴きたいと思います。




第11回「夢二と、私の3人の母たち」(竹久不二彦)

2024-11-02 10:18:59 | 日記

今回は、夢二の次男、竹久不二彦です。夢二最も長くともに暮らした不二彦の夢二観は非常に関心のあるところです。
実は、いみじくも今年の9月、不二彦の奥様の都子さんが亡くなられ、現在は、二人とも東京・麹町のイグナチオ教会に眠っています。
奇しくも、たまき、彦乃、お葉という3人の美女を母親に持つことになった不二彦の文章を、これから3回に分けてご紹介します。

*『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)より
本文は、『夢二美術館1 宵待草のうた』(1985年(昭和60)(学習研究社)に掲載されたものです。

 わたしを生んでくれた母たまきの思い出というのは、とりたてて言うほどのものがありません。
 恵比寿(下渋谷)の伊達跡に家を借りて、母と弟の草一と三人で居たこともありますが、この母子家庭の子育てで母は子供に優しくしようという考えの前に、まず父への関心が強く、それも意地とか勝ち気とかいう気持ちが先立つような人でしたから、思いつめると子供を放ったらかしにして、父のあとを追って行ってしまう、ということもままありました。
 この伊達坂のがけ下の家は、夢二の画家としてのスタートに重大な示唆を与えた(つまり、君はもう既に絵のスタイルを持っているから美校に行って学ぶ必要はあるまい、と教えた)岡田三郎助さんの奥さんの八千代さんのお世話で借りた家で、坂の上のほうには岡田さんのアトリエがあり、そこはまだ現存するはずで、岡田さんのあとはずっと辻永さんがやはりアトリエとして使っていらっしゃったと聞いておりました。
 そんな行きがかりがあって、たまきの留守中、劇作家としてのお仕事もおありでしたのに、岡田八千代さんには乳のみ児と幼い子供がひもじい思いをしているというのでずいぶんお世話になりました。
 あのころお世話になった方々はほかにもいて、守屋東さんという、これは日本キリスト教婦人矯風会(きょうふうかい)のメンバーだった方ですが、多分八千代さんとのおつきあいからときどき面倒をみに立ち寄って下さったのだと思いますし、もう一人、港屋絵草紙店の手伝いをしていた孝ちゃんという青年も、よく見舞ってくれました。この人は豊橋の呉服屋の次男坊ですが、母たまきにあこがれてみなと屋に出入りするようになったらしく、母には港屋の取り巻きが何人かいて、それがまた父とのいさかいの原因にもなっていたように思われます。
 それで、しばらくはそうした親切な方たちのお世話になっていたわけですが、いつまでも乳のみ児たちをガランとした家に住まわせておくこともできず、わたしは京都の高台寺山門脇に家を借りていた父の元に送り届けられ、弟の草一は養子にやられました。この弟はのちに新派の河合武雄の養子になり、河合栄二郎という名で若女形をやっていましたが、私もその舞台姿を二、三回見たことがあります。夢二の出身地岡山という土地は芸事が盛んで、父も幼い頃浄瑠璃を習わされたということです。だから弟がそういう道に進んでもそれほど不自然ではないわけです。しかし不幸せなその弟は、役者として名を上げる前に、昭和十七年にニューギニアで戦死してしまいました。
 京都へ行ったわたしのほうは、何といっても父の庇護のもとにあり、彦乃さんが一緒のこともあって、大人二人にチヤホヤされましたから、それは居心地のいい幸せな生活でした。何しろ、わたしのご機嫌を損ずると、その日の恋人同士の友好関係が崩れますから、二人がそれぞれにわたしにお世辞を使う。わたしはすっかり主人公にされてしまって、若い彦乃さんのふところに手を入れて抱かれて上機嫌の生活でした。
 そのかわり、彦乃さんのまわりにもいろいろあった夢二のそういう御婦人方とのおつきあいというは、子供なりにもなかなか気骨の折れるものでした。しかしわたしはすっかり慣れてソツがなくなり、出しゃばりもせず、邪魔もせず、でも親切にはちゃんと嬉しがってみせるという、少年紳士のマナーをすっかり身につけてしまったものでした。
 さて、お葉さんという人もわたしの大好きな女性です。お葉さんも父と暮らしたり出たりをくり返した人ですが、わたしは通算七年間ほど、お葉さんのお世話になったのではないでしょうか。
 大正十三年、夢二画松原に建てた少年山荘からわたしはお茶の水の文化学院に通っていましたが、そのときもずいぶんお葉さんに面倒をかけたと思います。お葉さんは色白の飽きた美人でしたけれど、いわゆる夢二式の憂愁をたたえた寂しげな女性というより、清潔で健康な明るい感じがしました。それを夢二好みの着物を着せ、夢二流のしぐさをこしらえて、ああいう浮世絵型のモデルにしていた、というわけなんでしょう。
 本来のお葉さんは、優しい家庭婦人でありたいと願っている、ごく気立てのいい従順な人でした。ですから、お葉さんと三人で暮らしていたときは、少年山荘はまったく夢二カラー一色に塗りつぶされていたのですが、そこへあるときものすごく強烈なカラーを持った女性が押し掛けてくるということになりました。
 それは女流作家の山順子(ゆきこ)で、夢二画『流るゝままに』という彼女の随筆集の装幀をしたことから二人の仲が発展し、順子が妹さんをつれて山荘に乗り込んだので、お葉さんいたたまれずにそこを去る、ということになったわけです。
 順子という人も飽きた出身の色白の美人ではありましたが、弁護士だったご主人と別れて小説作家として上京してくるような積極的な女性でした。背の高い、やせぎすの長い肢体に、紫の縮緬の着物をセクシーな感じに着ていて、お葉さん贔屓(ひいき)のわたしにはちょっと強烈すぎましたが、一方で、父が魅かれる気持ちもわかるように思いました。
 順子には女であることをまったくそうとしない、妖艶で一種したたかな雰囲気があって、あのtきばかりは少年山荘も順子カラーに塗りかえられてしまったような感じでした。
 わたしは、例のすっかり見についた少年紳士のマナーで、順子の作ってくれるお弁当を素直に受け取って相変らず学校へ通い、順子のお伴で徳田秋声の家の玄関先までノコノコ出かけていくようなこともしていました。しかし順子と父の仲は、三カ月ほどで終わりました。
 思えばわたしは、ちちの流るるままにまかせた不安定な少年時代を送りましたが、わたしはわたしなりに結構明るく受け入れる日常だったし、また、世間の目がとらえるほど父を女遍歴の激しい浮気者、というふうには思いません。いつでも父は誠実で、一緒に生活する者に優しく正直に対していた。ただ、そういう男女の自由で正直な表面的な交際が新聞や雑誌に取沙汰されて、クラスメートたちに何かからかわれたりするようなことだけは、当時のわたしにとってちょっとつらかった思い出ですが、それでも父に非難めいた気持を抱いたことはありませんでしたし、どんなときもわたしは正直な父を大好きでした。
 ところで、お葉さんとわたしには、後日談があるのです。今から七、八年になりますか、ある人を通じてお葉さんから言伝てがあり、
「ちこちゃん(わたしのこと)の参院の母親の中で、あたしが一番あなたと長くいたのよ、母親の役目を果たしたのよ。」
 ということでした。
 そのころ、お葉さんは富士市の正木病院の副院長婦人として彼女が望んだような幸せな家庭生活を送っていたわけですが、お呼びのかかったわたしは飛んで行って、実に四十数年ぶりの対面というのを果たしてきました。
 お葉さんは、年をとっても相変わらず色白の美しい人で、少しふっくらとして昔よりもっと優しい上品な感じになっていました。
 わたしは、父の愛した女の一人が、こんなにずっとあとになっても、父やその子をなつかしむ気持でいてくれることを非常に嬉しく思い、また父のおかげで味わうことのできたたくさんの母との奇妙な少年時代を振り返って、改めてそれを幸せなことだったと思える自分に、ひどく満足したのでした。

 


「夢二を変えた女 笠井彦乃」(坂原富美代著)より


竹久不二彦・都子夫妻が眠るイグナチオ教会(東京都千代田区麹町6-5-1)


第10回「父はモダンボーイ」(竹久虹之助)

2024-10-30 09:18:28 | 日記

今回は夢二の長男・虹之助です。1907年、出会って2か月で電撃結婚し、その1年1か月後に生まれました。夢二は「レインボー」と呼んでいました。
しかし、たまきとは不仲になり、結局2年目で協議離婚。それでもまた同棲、別居を繰り返し、離婚して2年後の1911年には次男・不二彦が誕生。その後、1915年に夢二が笠井彦乃と関係した翌年に三男・草一が誕生するという壮絶な状況となり、結局、たまきは失踪、虹之助は八幡の夢二の両親が引き取り、不二彦は京都に駆け落ちした夢二の元へ送られ、そして、生まれて間もない草一は養子に出されてしまいました。
その後、1920年に彦乃が結核で早逝してお葉と同棲を始め、1924年に少年山山荘を立てた際、虹之助を呼び寄せて4人で暮らし始めましたが、その後夢二が新進女流作家山田順子(ゆきこ)と関係したためお葉は家を出てしまいました。
本作は、夢二が死去した翌年に書かれたものです。

■竹久虹之助
*『竹久夢二』竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)「父 夢二を語る」より
(注)本文は『書物展望』第四巻第十一号(1934年、書物展望社)に掲載されたものです。

 書いても書いても書きつくせないだろう、父夢二を、齋藤さんに頂いた紙数へ割り込ませるので少し無理がくるかも知れませんが、よろしくご判断をお願いして稿を進めます。

 幼い時から非常に絵の好きな父は、常に姉や妹を驚かせていた。しかし祖父は(私のおじいさん)これはまた絵描きが大嫌いであった。うまくゆく訳がない。描いている父の手から筆、絵ノ具を取って捨ててしまう、取られても捨てられても、父はまた母へこっそりねだって描き初めていた。それを発見する祖父はまた取り上げる。がそれでも絵を描く事をやめなかった父は、ついに抜け道を発見した。それは姉の教室へゆくことであった。姉より先へ入り込みいきなり黒板へ向かって日頃のウップンを晴らすのだった。その頃不思議な絵を描いた。(これは今も郷里岡山の小学校にあるそうだ)今言うところのシュールリアリズムの絵とでも言うのであろうか、八本の足を持った馬の絵である。四本足の馬でも走っていれば、八本にでも十本にでも見えるじゃないか、これがその時の言い草であった。

 また、着物の布(キレ)を集める事がすきだった、娘のように小さな布まで、キレイに取って置く事の好きな父は、母や姉達の着物の切れはしや、お人形の着物を丹念に集めていた。これが今ある昔の着物の収集されてある切抜帖の始まりであろう。浴衣にしろ、黄八丈にしろ其れ相当の見識と意見を持つ父としては、成程とうなずかれる。

 父が幾歳(いくつ)の時か記憶にないが、家を挙げて九州へいった。まだ開けていない九州の小さな街で祖父は、醬油の醸造を商売としていたが、それは失敗して製鉄所の職工と人夫の口入を一手に引受けて盛大にやっていた。まだ父の絵は続けられていた。祖父の眼を盗んでは描いていたが到々それで満足出来なく、誰ひとり身寄りのない東京へ出た。絵の嫌いな祖父は絵を描くのなら学費も送らぬと、きっぱり誓言した、まだその頃は絵描きで立ってゆこうとは思っていなかったらしく、早稲田実業へ入って、書生をやったり、教会の留守番になったり、いろいろ苦労して学校へ通っていた。

 その頃、故島村抱月氏の紹介で何か雑誌のカットを描いた。それが案外よくてそれを機に絵を描いて立つ気持ちになった。(私もはっきり記憶にないので、違っているかも知れない)それからまた、困難な道へ差掛ってきた訳で、当時の苦しかったことは私達へもよく言っていた。先生のない絵だから一層苦しかったことと想像される。

 父の最も尊敬していたのは、岡田三郎助・藤島武二の二先生で、夢二の二は藤島先生の武二から取ったのだと、最近になって知った。

 父は時の文展に出品したい意嚮(いこう)だったが、岡田三郎助先生に「君の絵は、展覧会などに出して君の味を無くすより、自分で開拓すべきだ、自力でやる事は苦しい事や辛いこともあるだろうが、まあ会へなど出品するのはやめた方がいい」と言われた。

 それから後の父の勉強ぶりと言うものは、到底私共の想像も出来ない、まったく死に物狂いの勉強ぶりであった。今整理中のスケッチブックを見ても分るがどのノートを見ても、どれだけ熱心に描いたかが分る。ノートは大きな茶箱にぎっしり二個に入れてあるが、まだ自分で作った帖面に、紙切れに幾千枚、幾千枚と言っても決して過言でない事実である。このように努力に努力を続けて、あの所謂「夢二式」の絵が生まれた訳である。

 その種類は、支那・日本古代・錦絵・平安・元禄と実に整然と描かれてある。またそのノートのあき間には無数の歌・小唄・小説の中に出る言葉・随筆など、雑誌を買って帰りの車の中ですでにもう何か描いているのである。

     そのかみの

     三味の師匠をたずねゆき

     あの娘のことをきくもかなしや。

     さだめなく鳥やゆくらむ

     青山の

     青のさびしさかぎりなければ

 童話を作り小唄を書きした父が、絵を描きながら頭に浮かんだ文句をノートの中に書き留めるのだけ拾っても、優に二冊位いの本は出来上る。着物の柄においても一つの意見を持ったくらいである。父はドイツ、フランスで集めたキレ・図案で日本のそれらに合わせるべく、非常なる意気込みであったがそれも今のとなっては無駄骨にすぎない。しかしそれらの材料を無意味に終らせ度くない。これは息子の私の義務でもあり責任でもあると考えて居る。

父は一風変わった政策の持ち主であっただけに、多くの友人もあったが、敵も多く持っていたようだ。然し女の人には随分と、もてた。(持てたなどと言う言葉はいやだがぴったりするので使った)その父が病院にゆく前夜私達兄弟と、食後の雑談中こんなことを言った。

「女と言うものは男がマスターしていって、始めていい女と言うものが出来るのだ。それからこれは、その方ではお前達よりはずっと苦労してきた俺が、言っておくが、女房と言うものは決して替えるものではない。幾度かえてみたところで決して自分の希望通りの女なんて、あるものではない、幾人かえても結局はもとの女房が一番自分にしっくりするものだ。」と言った。父は最初の結婚に失敗して、幾人かの女房を持った。自分の好みにはまった女を探して歩いた、併し何処にもそれは無かったらしい。

常に幾人かの取り巻き女を持っていた父は、その点非常にめぐまれていたようだ。こんなことを書いていると、父はきっと苦笑いをしていることだろうが、それは事実である。他人から見ると如何にもキレイで幸福そうに見えたかも知れないが、内心は悩んでいたのに違いないと思う。

 最後のノートに、「男にあいたい人もなし、女はぜったいに美しい」と書いてあった。

アメリカにいる時のノートの一節に、

「渡る世間に鬼はない」便所の中でこの言葉を思い出したのだが、こんなことを言った男は、これでさんざ苦労をなめてきた人間に違いない。

「旅をする人はみんな好い人ですわ」と言った、チロルの峠の娘の言葉とは違っている。

 それからまたこんなうたもある。

  カミイル花を煎じてのむ夕け

   あしたの春をまつ心かも

 アメリカでもドイツでもやはり、到る処の風物や言葉や父の好みの裏街や、教会のスケッチがある。また、宿屋や料理やの受取りメエヌー、マッチペーパーなどたんねんに集めてあった。

 父はまた、日影町あたりの古着屋で黄八丈など探すことが好きだった。わたしなどもよくお供をさせられた。今私が少しばかりそんな趣味があるのはそんなとこからきているのである、ひと頃は私どもは無論手伝いの女の人にまで黄八丈を着せて眼を楽しませていたものだ。それらのものも今はもう日影町から姿を消して、今あるのはただ、インチキな品物を売る店や新しい所謂バーバリーのレインコートがぶらさがっている店ばかりが、ならんでしまった。古いもののある店は殆んど姿を消して、わずかに人形町の横丁あたりにそれらしき店が二三その感じを残しているくらいである。

 また父は、変に昔風なものが好きだったり、ウンと新しいものが好きであったりした。鹿鳴館のあった頃、総エナメルの靴で踊ったのも父であり、まだ、スパッツの珍らしい頃それをはいて街を歩いたのも父であった。なにしろ当時モダーンボーイであったらしい。最近でも実にハイカラのものを買ってきて、持っていた。

 終わりに私の歌を一つ高原の花のなかなる白露はしらしらきよくわびしげにちる。  ---一九三四・九・三○


                   (坂原富美代著「夢二を変えた女 笠井彦乃」より)

 


第9回「じいちゃんと呼ばれたくなかった夢二」(竹久みなみ)

2024-10-24 09:40:31 | 日記

今回は、夢二の長男虹之助の娘、竹久みなみさんです。
みなみさんは、2022年10月27日に89歳で亡くなられるまでずっと夢二研究会の会員として活躍されていました。
後段でみなみさんの人となりを紹介しています。今も、両国の東京都復興記念館に行くと、みなみさんの功績「東京災難画信」の展示、そして有島生馬が関東大震災を描いた巨大な画に出会うことができます。

■竹久みなみ
*『竹久夢二 大正ロマンの画家、知られざる素顔』(竹久夢二美術館(石川桂子学芸員)監修(河出書房新社)に「夢二 虹之助 不二彦」と題して掲載されたものです。

 竹久夢二について語った父の文章があった。

 私が会ひに行つたとき父はベッドにゐたが見違えるほど老ひてゐるのに私は、思はず「パパよく帰って来たな」と云つてやりたいほどだった。私はその時すでに一人の子供の父になつてゐたので孫を見せやうと云うと、「ぢいちゃんと云はれるのはいやだね」と父は笑つたけれど、私は涙が出るほど胸が痛くなつた。それからニ、三日して私は子供をつれて行つた。「ほら、おじいちゃんだよ」と子供に云つたとき、父は淋しく笑いながら云つた。「ぢいちゃんはいやだね、夢二兄ちゃんと云へよ」その悲しい言葉は、だが、どんなに夢二らしいひびきをもつていたか知れない。とにかく父はつかれきってゐた。

「いつまでも眠れさうだからねかせてくれ」と云つてベッドへ行つた。

 ここに書かれている子供は私だ。この後、父と母は離婚し、父は五、六歳の私を、夢二の次男不二彦に預けた。父の事母の事は一切知らない。が少しは私の事を思っていたのか。

 戦時中の事、学童疎開の私は戸山のお寺にいた。食糧事情が悪く腸の弱い私は家に帰りたいと手紙を書いた。昭和二十年七月、虹之助が富山へ迎えに来た。その足で富山に住む夢二の妻だった他万喜の家に寄ったら、七月九日に亡くなったばかりであった。虹之助はさぞ悲しかっただろう。そして帰ろうとした時富山の家では、「私を置いていったら」と虹之助に言った。虹之助は私を連れ帰った。何となく少し嬉しかった。

 夢二の事は自然と不二彦(編者注:夢二の次男)に教えてもらうのだが、夢二はこう言った。ではなく、日常普段から不二彦の言う事やる事は、夢二の行った事やっていた事として、私は受け止めていた。

 よく銀座に出掛けていたが、不二彦と叔母の間にいる私は、人生で一番幸せな時期であった。電車を降りる時に、不二彦は叔母に口笛で知らせる。とても恰好良かった。

 普段不二彦は、あまり怒らないが、ある朝味噌汁の味噌をすり、私が擂鉢(すりばち)を摑まえている時、台所の叔母と口喧嘩になり、不二彦が擂鉢をすりこぎで叩き割ってしまった。味噌は四方八方に飛び散り大変な事となった。私はびっくりして従姉妹と一緒に大声で泣いてしまった。という思い出があった。

 後年夢二の何回忌だったか、不二彦が和紙で大きな短冊を沢山作り、九月一日夢二の命日に雑司が谷に出掛けた。墓地の近くの家に集まり、著名な方々が見え、夢二会の面面も集まるなか、墓前で幹事から「一句お願いします」の一声に参加者はすぐさま、さらさらと書いて、夢二の墓のまわりの木に紐で下げたのであった。俳句や短歌がすぐさまできるのを目の当たりにして私は感動してしまった。

 私はその時何も作れなかった。これは勉強しなければと思い、あれから三十年ほど、私も俳句を作り続けているが、今は、見て下さる方々は、もういらっしゃらない。(了)

*旧字体のまま転載しています。

■みなみさんの人となりについて
2023年版「夢二研究会会報」がみなみさんの追悼号だったので、代表坂原富美代氏(夢二の最愛の女性笠井彦乃の姪)の言葉の一部をお借りしてご紹介します。

国会図書館で夢二の「東京災難画信」の掲載され た都新聞を見つけ、夢二研究会の協力のもと、欠落 していた回を探し出し、新聞記事を読みやすく打ち なおして解説を付け、パネルを作ってギャラリーゆ めじで展覧会を開きました。埋もれかけた夢二の貴 重な仕事の一つを蘇らせたといえます。展覧会中に は読み切れないことを心配し、じっくり読んでもらえるようにと、パネルの内容を図録にまとめて出版し、好評を博しました。
展覧会後、展示パネルは関東大震災の惨禍を永く 後世に伝え祈念する目的で建てられた東京都復興記念館に寄贈し、今では館に常設展示されています。図録も評判になりました。ここには夢二と共にがれきの東京をスケッチして歩いた有島生馬の大きな油 絵も展示されていて、その絵には夢二も描き込まれています。ここで二人が再会する形になり、みなみさんは大いに喜ばれました。
 みなみさんは山形県酒田市相馬楼内「竹久夢二美 術館」の名誉館長に就任し、各地で講演を続けていました。夢二没後すぐに発足した夢二会(夢二研究 会ではない)のメンバーとも交流があり、有島生馬、 岡田道一、長田幹雄など錚々たる顔ぶれの思い出も鮮明に記憶していて、貴重な語り部でした。
 みなみさんは染色家で、東京都美術館「新匠工芸」  染色部門に入選した実績があります。大作「流氷」は北海道知床斜里町にある北のアルプ美術館に収蔵 されています。
 夢二と彦乃が金沢湯涌の山下旅館で撮った写真で 彦乃が着ていた夢二デザインの網代模様の浴衣も復刻しています。
 竹久家の方々は芸術家がそろっていて、その作品 を集め、文化学院画廊で竹久四人展(不二彦・都子・ 野生(のぶ)・みなみ)を開きました。またギャラリーゆめじでは竹久三人展〈都子・野生・みなみ)を開催、 みなみさんの個展も開いています。夢二の血を受け 継いだセンスが光りました。
 みなみさんというと思い出すのは北海道の開拓団 の話です。初めてその話を聞いたのは岡山の夢二郷 土美術館で毎年開かれていた夢二誕生祭に向かう新幹線の中でした。あまり面白いので「現代女性文化研 究会ニュース」に寄稿してもらうことにして、12 回に 渡って連載しましたが、文章も力強く、記憶力の抜 群の確かさで、生き生きと語られる話の面白さには 感嘆させられました。
 みなみさんは幼少期、父の虹之介が離婚したこともあり、伯母にあたる夢二の姉松香の家や、夢二の次男で虹之介の弟不二彦の元で過ごしました。不二彦は友人の辻まこととイボンヌ(五百子)の 間の長女野生(のぶ)を養女にしていたので、不二 彦の家では8歳年下の野生と姉妹のように育てられ ました。
 俳句の勉強も続けていました。のびのびとした感 性の溢れる俳句は、みなみさん自身のお人柄と重なるようでした。
いつも朗らかに見えたみなみさんでしたが、夢二 の孫であることは時にみなみさんにのしかかる重圧 になっていたかもしれません。その重圧に耐え竹久家の一員として夢二を正しく理解してもらおうと努 力を重ねたみなみさんは、天国で夢二、虹之助、不 二彦たちによくやったねと温かく迎えられているこ とでしょう。嬉しそうなみなみさんの笑顔が浮かび ます。不思議な魅力を持った方でした。しみじみ、またお会いしたくなっています。
 
竹久みなみさん(右は榛名湖畔にて)