私が、小学生の頃から考えていた事に、
本日のニュース記事で眼を留めてしまいました。
個人的に小三年生の夏休みの最終登校日「8/21」下校途中の野菜畑の脇道で
道を尋ねられ教えた後に、畑の小屋に押し込まれ・・・
暴行された経験を思い出し記事を読みました。
本日の記事と同タイトルで検索ヒット下記に ⇩
女子高生が昼間スカートを履かない国、イタリアで「女子のズボンをずり下ろした」男 #10secondi (msn.com)
女子高生が昼間スカートを履かない国、イタリアで「女子のズボンをずり下ろした」男 #10secondi(Forbes JAPAN) - Yahoo!ニュース
イタリアで「女子のズボンをずり下ろした」男 #10secondi
今、イタリアでハッシュタグ「#10secondi」をつけた投稿が盛んにされている。2006年から米国を中心に世界に広がった「#MeToo」にも似た動きに発展しつつあるのだ。 この問題について、13歳からイタリアに暮らし、イタリア事情に詳しい長谷川悠里氏に以下、ご寄稿いただいた。 ■高校の約1500日間「1日もスカートを履かなかった」 イタリアの女子高生は日中にスカートを履かない。公立校にせよ私立校にせよ、イタリアに制服はないのだが、不思議とその登校風景に、スカートを履いた女子高生の姿は見当たらない。 筆者は13歳のときに日本を出た。のちイタリアで育ち、ミラノの高校と大学に通っており、高校に通学した合計日数は約1500日を数えるのだが、実際に一日たりとてスカートを履かなかったし、クラスメートがスカートを履いてきた日もない。 イタリアにおいてスカートとは、明確な意図をもって着用されるものなのである。美しく早熟なイタリアの女性たちは、十代の頃からすでに大人の色香を持つ。 親にとってはズボンを履かせることは子を守る術となり、子どもたちにとっては、スカートは夜の町へ繰り出し、本来の姿で花開くための武器となる。 「#10secondi」というハッシュタグが、いま欧州でトレンド入りしていることをご存じだろうか。「#10secondi」を検索してみれば、10秒のカウントダウンと共に“無言で身体のプライベートな部分をまさぐる”、奇妙な動画がたくさん出てくるだろう。 その“事件”の発生は、2022年4月にさかのぼる。イタリア・ローマのある高校で管理人をしていた高齢男性と、その高校の女子生徒が主人公である。 4月12日のこと、授業へ向かうため階段を上っていたラウラ(仮名)は、背後から誰かがズボンに触ってくるのを感じた。彼女は友だちかと思ったが、そこには見知った顔の管理人の男性がいた。そして真昼間の校内で、彼女は数秒間にわたって臀部を触られ、体を持ち上げられるなどして、プライベートな部分を傷つけられたのだ。 EUの調査によるとイタリアで性被害にあった女性の7割は、届け出をしないという。しかし女子高生は、裁判で闘うことを選んだ。もし日本でこの事件が起こっていたならば、被害者である彼女自身に「自己責任」が問われ、セカンドレイプを受けていたかもしれない。ラウラの悲鳴は、あたかも公開処刑のように潰されていたかもしれない。 ■ラウラの「鋼の鎧」をずり下ろしたアヴォラという男 しかしイタリアの人々は、か細い悲鳴に、耳を傾ける。そしてときには、数千人もの若者たちが、共に怒りの声を上げるのだ。アヴォラという男は、“ズボンをずり下ろした”のだから。彼女の親が、我が子の身を守るために与えた、ズボンという“鋼の鎧”を。 ローマの検察当局は、禁錮3年半を求刑した。しかし一転して裁判所は昨年7月、アヴォラに無罪判決を言い渡した。その理由は「10秒以内のおふざけであれば、身体を触っても犯罪とは言えないから」というものだった。 きっとアヴォラは冗談でやったのだから、それくらいはオーケーだ。 この判決のおかげで、「#10secondi」というハッシュタグが、好奇心や使命感、自己開示欲がない交ぜとなった若者たちの格好の表現手段となって、世に溢れかえる結果となる。 数千人が彼女のために立ち上がった(ように見える)。果たして女子高生は、その日からなにを得たのだろうか。ラウラの心情は、伊大手紙コリエレ・デッラ・セーラのインタビュー記事でしか知りえない。 彼女は同紙に「裁判官たちは、冗談だったと、男の主張を鵜吞みにして判決を出した」と声を絞り出す。「わたしにとっては、冗談なんかじゃなかった」。
「不器用な方法をとった、適切でない冗談」
判決を反語にしてみればよろしい。「我々は法律にのっとり、未成年の下着に手を入れて身体に触れることは、冗談かつ、10秒以内だったら良しとする」。 事件はアヴォラの犯罪が焦点ではない。そこから発生した判決なのである。該当する行為があったことは、複数の目撃証言からも確証された。しかし犯罪に当たるかどうかという判断は、アヴォラに犯罪的意図があったかどうかにかかっていた。そして裁判官は、アヴォラにそのとき性欲がなかったと推察したのだった。アヴォラの心情を忖度したと言ってもいい。その行為は「不器用な方法をとった、適切でない冗談」だったと結論付けたのだ。 この“不器用な”高齢男性は日ごろから複数の女子生徒に「アモーレ」と呼びかけていたという。実際のところこの日も、「アモーレ、冗談だってわかってるだろ!」と教室まで追いかけてきて叫んでいた。 さて、日本にいるわたしたちは、スカートを一日たりとも履かない、イタリアの女子高生たちの日常を想像できるだろうか。誇張ではない。実際に1500日にわたり、わたしとクラスメートたちは、一度もスカートを履かなかったのだから。 ひととひととの距離が近く、それがゆえに「アモーレの国」と言われているイタリアという国の不文律が、いまかき乱されている。「アモーレ、冗談だよ!」と言われるときの胸が潰れるような気持ちを、どのように推し量ればいいだろう。 日本では渋谷へ行けば女子高生は制服をたくし上げてミニスカートにして階段を上っている。このたびの判決を受けたイタリアであれば、無数の男たちが「アモーレ、冗談だよ!」と、パンドラの箱を開けたような事態になるのかもしれない。イタリアの学校ではミニスカートはおろかキュロットだって履かないくらいなのだ。 ズボン以上のいったい何を、イタリアの親たちは与えればいいのだろう? 一秒であっても“冗談ごと”が起きないように、これまでも心を砕いてきた親たちは、夏になったらタートルネックのセーターでも着せればいいのかと問いかける。 高校時代の複数の友人に、この事件について見解を聞いてみた。返ってきた返答で興味深いものは、「高校時代にさ、一度だけ、スカートをクラスメートの女の子が履いてきたことがあったんだ。僕らは一日中授業に身が入らず、ずっとそわそわしていたよ」。草食男子社会に生きるわたしたちは、大陸を超えた向こうのひとびとの生態系をあまり理解できていないかもしれない。 ところで裁判官に伝えよう。言語学上でいえば、「冗談」とは、聞き手の共感を前提とした、人間関係をよくするための言語ストラテジーであることを。ある行為や発話が冗談として成立するには、聞き手から肯定的に受け取られ、ポジティブに受容される必要がある。 すなわち、「冗談ではない」と被害者が考えた時点で、いかなる場合も、司法はその言葉を用いるべきではないのである。
長谷川悠里(はせがわ・ゆり)◎エルゴン・ジャパン代表取締役。慶応義塾大学非常勤講師。イタリア ボローニャ国立大学卒業。ミラノ国立大学大学院修了。司馬遼太郎奨励賞。10代半ばでイタリアへ渡り、学生時代に起業。その後イタリアの国立研究機関に務める傍ら、貿易商社を創業したアントレプレナー。2018年イタリアで50年の歴史を持つグローバル・コスメティックブランド「eLGON」の日本国内での正規直営店を運営するエルゴン・ジャパン設立。女性起業家コンサルタントも務める。著書に『ダンテの遺言』(朝日新聞出版)ほか。
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