30歳でアルバイトから正社員になれるのか?

30歳でアルバイトから正社員になるために奮闘するリアルを投稿。
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「日本ってなんでこんなに変革が起きないんかなー」・・・と思ったので考えてみた件。

2025-03-12 15:32:44 | 日記

現状:選挙システムに問題がある(民衆の直接投票では総理大臣を選べない。スイス型の直接民主制的アプローチでも参考にすれば良い)

細分:意思決定プロセスに問題がある(理由に書く集団主義における構造的欠陥のため日本人の意思決定の質は低調にならざるを得ない)

結論:日本の制度・体制の独力での変革は不可能。(先の意思決定プロセスによる欠陥。加えて地政学的な民族的特性である過度な摩擦を忌避する感覚が根付いている以上変化への抵抗は著しいものがある為)

理由:集団主義的思考の陥穽にハマっているから(以下に記載の「ダニング=クルーガー効果」「平均効果」によって集団合意を最上とする日本のスタンスは決定的に道理に適う決定を不可能にするため)

 

 

概要

 

政治に対して不満を持つ。おそらく多くの人が何かしら不満を持ったことはあるだろう。

また、例えば実現性が乏しくても、もし仮にどうなれば解決できるのだろうかと思考してみたことがある人も少なからずいるのではないだろうか?

しかし、決定的に日本における変革は不可能であると私は結論が出せた。

 

ので、以下にその理由を書こうと思う。

 

理由:

日本は集団主義的思考を所与の前提としているためだ。

(※集団主義的思考とはみんなのコンセンサスを得ることを何より優先する思考のこと)

集団的思考と書いたが問題は何処にあるのか?

ポイントは合議する点にある。

集団で話し合うほど意思決定の質は低下していく。

人間は「ダニング=クルーガー効果」(バカは認知能力が足りないため自分がバカである事実を俯瞰して認識できない現象)と「平均効果」(バカは自分が周囲より劣っていることを隠す為に自信を装い、賢いものは自信満々のバカの判断に引きずられてしまい、結果として集団での意思決定の質が低下してしまう現象)によって集団で熟議すればするほど決定の質は下がっていく傾向がある。

 

結論としては、原理的にはいくら賢い人間が効用の高い提案をしようが、集団で意思決定するというプロセスを通せば「ダニング=クルーガー効果」と「平均効果」のバイアスからは構造的に逃れることができず、結果として質の低い意思決定となってしまう。

 

この構造的な欠陥を根本的に解決するには、意思決定の質を下げる"バカ"を排除するか,そもそも集団的な意思決定のシステム自体を破壊する必要がある。

これが”理由”として書いた集団主義的思考における陥穽の詳細だ。

詰まるところ、そもそも”個人”としての権利を尊重しない”村社会的”、”集団的”な意思決定の機構を前提としている日本はどうしたって上記二つのバイアスから逃れることはできず、「みな平等主義」的な考え方も相まって"バカ"を排除することもできず、結果的に革新的な決定をどうしようもなく妨げる仕様になっていると言わざるを得ない。

 

つまり、端的にまとめるなら、「みな平等主義」的思想を即刻取りやめ、集団主義的システム(例:政治家選挙の仕組みや硬直化した制度など)を一新し、変革に反発する既得権益者を一掃でもしない限り、そもそも日本が変わる余地などないことを私は理解した。

 

 

(※「平均効果」に関わる進化心理学的なおまけ)

『何故バカは自信満々に振る舞い、賢い人間はバカに引きずられるのか?』↓

答え:人間は進化心理学的に集団内で地位を高める為にマウントしあう必要があったためそうなっている。

前提:今の人間がデザインされたと言われる狩猟採集民族時代では、共同体の中でより高い地位を得て性愛を獲得し子孫を残す必要があった為、周囲より自己が優れているとアピールする必要性があった。その戦略として使われていたのがマウンティングになる。

具体的には:まず、バカは己が他者に劣っていると知れると困るのでそれを隠すために自信満々に振る舞うことで、自分は優れているというシグナルを発信することでアピールとする。逆に、賢い人は自分が際立って優秀だとアピールしすぎると権力者の目に止まって、将来の脅威(ライバル)として排除される危険があるので、無難に周囲のレベルに合わせようと自分を過小に見せるようになる。すると結果的に平均に紛れ込んだバカの意見に引きずられて、賢い人間は提案の質を落とし、議論では常に無難な意思決定しかできなくなる。

 


悪い習慣を止めて良い習慣を飽きずに続ける方法は?

2025-03-10 16:41:05 | 日記
「あなたにとって、今、本当に大事なことはなんですか?」
 
ある日、仕事がない日中、昨日は夜更かしし、朝寝坊し 11時頃に起きてはぼーっとペラペラ本をめくっていた。
ためになると考え、以前に自分が買って、結局ただの見栄だったのか積読状態にしていたビジネス本みたいなものだ。
いつもなら、やっているソシャゲのログインボーナスとクエスト報酬獲得のために、まずスマホを手に取るところだが、気まぐれで本をめくってみたのだ。
 
 
自分は平凡な人間で、何かを成し遂げたいとかスキルアップしたいとかいう欲望を持ちながらも、実際は中々実行ができず、休日は今書いたようにダラダラしてしまう人間だ。いつもだったらそうだった。
 
本を読んだ(というか、中身を頭に入れることも考えずなんとなくめくり続ていただけ)日は違った。
適当にめくり続けて気が済んだところでいつものようにスマホでゲームをしようと思ったのだが、ふと疑問がよぎった。
本を読むことは自分の成長につながる。自己投資だ。今さっきやったみたいに形だけの適当なものですら、なんとなくタイトルや見出しや、太字で強調されていた内容が、「この知識を実践すれば自分は成長できるかもしれない」と思う程度には頭に残っている。
 
こう疑問を考えた時、自分が取ろうとしている選択肢(ゲームをする)についても考えてみた。
 
ソシャゲをするとはどうなのだ?楽しい。それは否定しない。やってる間は夢中になれる。たくさん報酬をゲットできるし、当たるか当たらないかワクワクするガチャも魅力的、クエストを繰り返すことでレベルアップだってできるし、新しいイベントも満載だ。 ・・・だけど、これは現実ではない。当たり前だけど誰かが作った人を楽しませる娯楽に過ぎないのだ。
 
ゲームは好きだ。楽しいから。だけど、それは「誰かが作った人を夢中にする仕組みに自分の脳がハックされている」というだけなのかもしれない。
なぜなら、ゲームをすることの見返りは現実では何もないのだから。(食べ物を得るわけでもお金をもらえるわけでも、服や靴など欲しいものがもらえるわけでもない)
要は楽しくて、夢中になる中で、気が付かないうちに人を夢中にするゲームの仕組みに囚われて、半ば自動的に毎日ゲームをするという選択を自分はさせられている。
・・・そういうことなのではないだろうか?
 
そう思い至ったら、考え方を変えざるを得なくなった。
いくら楽しくても、ゲームでどれだけレベルアップできても、実際の現実の自分は1ミリも成長できていないのだと。
当たり前だけどそれを認めるのは辛い・・・。
 
だけど、じゃあ現実はどうなのか?
クソだと思う。
なぜなら、どれだけ努力しても成果が出るとは限らないし、成功できる確証もない。
もっと端的に言えば、継続しようとしても努力が続かず、スキルアップしようにも結果が出ない。
「これはためになるはず」・・・そうわかっていても、続けるうちに飽きてしまい、継続できなくなる。趣味も習い事も、仕事も出世もおんなじだ。
楽しくないのは当然だと思う。
 
「じゃあゲームの方が素敵じゃないか・・・」
・ゲームならログインするだけでボーナスが必ずもらえる。
・イベントやクエストをクリアするだけでスペシャルな報酬がもらえる。
・キャラクターも時間をかければ必ずレベルアップさせられる。
・常にあるイベントや新しく追加される機能は新鮮で、刺激的だ。
 
 
・・・ということは、現実がつまらないからみんな(かどうかは分からないが)ゲームに夢中になるんじゃないか。
当たり前のことだった。
 
 
だけど、当たり前なのは確かにそうなのだが、それでもやっぱり現実で成功するとか成長するとか、あるいは何かしか人生を変えたいと感じるのであれば、ゲームにずっと夢中になっているわけにもいかない。(なんてことだろうか・・・)
 
結論、逆に考えるしかなかった。
現実には一切何の利益も生じないにもかかわらず四六時中でもできるゲームと、
自分の成長や成功の糧になったり、人生が変えられる可能性があるのにすぐ飽きて辞めてしまう自己投資とは一体何が違うのだろうか?と。
 
考えることになったきっかけは、今日の行動だと思う。
本を読んだ(ただめくっただけだが・・・)。その行動をとっただけで、俯瞰的視点になれたからこそ、今まで書いてきたように自分の行動を(客観的に?)分析できた。
それはつまり習慣というか、悪習になっていたいつもの無意識の選択に自分でストッパーをかけられたということだと考えられる。
ということは、そこが惰性や良くない習慣を直す為の鍵なのだと思った。
 
 
以下、考えてみたこと。(若干文章が箇条になってますがご容赦ください^^;)
 
 
 
 
 
 
◯「脳を動かす」には文脈に触れる必要がある。
 
 
考えてみた。
 
前提:モチベーションは脳が動かないと発揮されない。
(本をめくりでもしてないといつものようにゲームを始めることに疑問を抱くことさえなかった=つまり「脳が動く」ことが重要なのだと推定しました。)
 
 
 
結論:「脳を動かす」には文脈に触れる必要がある。
(※結論の理由については以下記載していきます。)
 
 
 
具体的オプション:
・『問い(自問など)』
・『本を読む』
・『人と関わる』
 
(※なぜいきなり「問い」が出てきたかについては、以下著作から参考にしました。冒頭大文字で書いた問いは本の中から抜き出した1文です)
 
 
では、それぞれの論理
 
 
◯問いではクリティカルな問いを自分に投げると習慣や惰性での選択に疑問を持ち、自分が本当は何をすべきか考え始める。すると「脳がうごく」
 
 
 
毎朝、鏡に映る自分に問いかける。
「もし今日が最後の日だとしても、今からやろうとしていたことをするだろうか?」
『違う』という答えが何日も続くようなら、ちょっと生き方を見直せということだ」
(スティーブ・ジョブズ 2005年スタンフォード大学卒業式でのスピーチより)
 
 
 
 
 
◯本の場合は文章で「脳が動く」
 
 
文章に触れることは文脈に触れることと同義だと思う為。
 
まず、どんな本でも良い。自分が取ったノートを読み返すのでも良い。そこで目に入る文脈や論理的な流れを追ううちに、「あーこの人はこう考えているのか・・・」とか「本の構成ではこの章には〇〇についての情報があるのか」とか、「あ、前に自分がノートを取っていた時はこれについてこんな着眼をしてこんなロジックで考えていたな・・・」とか勝手に浮かんでくる。
そうやって読んでいると、別の考え方が入ってきて、いつもと同じ行動をこれから取ろうとしていた自分の考え方との違いに気づくきっかけになる。(さっき書いたような、休日ダラダラ朝からソシャゲ・・・というような無意識の思考との違いとか)。すると無意識ではなく「自分は今、〇〇のことを考えていて、こういう選択をしようとしている・・・」と、自分の行動をメタ的に観察し始めることができる。(それでもゲームを選んでしまうことも時にあるのだがw)
 
ともあれ、朝方に、思考力皆無で、寝起きにぼーっペラペラ本をめくるだけでも、それでも文脈(文章)に触れれば脳が動き出すというのは、おそらくこういう理屈なのだろうなーという結論に至る。(だから今朝はたまたま、いつもの行動に疑問を持てたのだろう。)
 
 
 
 
 ◯人と関わることで「脳が動く」
 
 
これも理屈は簡単だ。人間は自分と他人を無意識に比べるものだし、コミュニケーションをする上では必ず自分以外の人間はどう考えているのか?どういう意向があるのか?を読み取るために頭を使わざるを得ない。だから自動的に「自分のいつも通りの考え方」の外に出ることになる。
例えば、嫌々で仕事をやっていたとしても、いざ退職し寝坊すらできる気ままな朝になって、24時間を自由に使える日が迎えられたとしても、途端に会社にいた時より活力がない日々になったり、ゲームばかりするようなより自堕落な生活を送ってしまいがちになるのはこれ(対人関係から強制的に「脳が動く」環境が無くなること)が原因だろう。
 
例、
・他人と関わるから自分の外の考え方に強制的に触れざるを得ない。
・仕事という制約の枠組みがあるから時間は浪費が許されず貴重なものとして感じる。
・嫌いな人間を見るから反面教師で「自分はこうならないよう〇〇をしなければ!」とモチベーションが出てくる。(もちろん逆もある)
・満員電車に揺られるから、こんな疲れるような現状を一刻も早く抜け出したいと思う。
 
つまり、これらも自分が自分以外の文脈(他人)に触れるからこそ「脳が動く」のだろう。
 
 
(より正確に言えば状況から感情が先立ち、その興味や驚きや関心、あるいはストレスや不快感などの刺激が身体の中で生理学的に処理されることで脳が刺激され、モチベーションを生み出す(「脳が動く」)状態になるのかもしれないが。)
 

「不条理な社会人生から自由になる方法」

2025-02-15 19:32:37 | 日記

「不条理な社会人生から自由になる方法(橘玲)」を読んでみて

 

 

感想:あくまで個人の感想です。

具体的には宜しければ「不条理な社会人生から自由になる方法」を読んでみてください。

(個人的にはオーディをブックで聴くととてもスラスラ入ってきておすすめです。)

「不条理な社会人生から自由になる方法」

オーディブル

 

 

色々な情報を知ったけど以下自分なりの要約です

1、日本は隠れた身分制度があるということ

 

2、日本の仕事文化はゼネラリストを作り出すが、それは世界では通用しないこと。

→なぜなら、世界はジョブ型の働き方になっているため。(なぜかというと、それが唯一公平な評価方法だから)

 

3、日本では非正規の扱いは正社員と比べて悪いがそれは日本の労働構造とそこから派生する既得権益を守ろうとすることが原因みたいだ。

→労働構造=正社員を守る文化。経済成長時代に取り入れた仕組みだが、現在はそれによる問題が顕在化してきている。 

→既得権益=左記の労働文化を理由に各々の雇用年数などにより利害関係が生じ、実質的に能力や仕事のスキルを無視した評価が行われている。そしてそれを是正しようとした時、それを「今まで自分たちは会社のために身を粉にしてきたので、これはその権利だ」と反発される構図になる。(俗にいう『働かないおじさん』かな笑)

 

4、日本の労働社会にも反映されている「家」文化

→なんのことかといえば、「家」を1単位と考え、「個人」であることを認めない、評価しない文化。(「家」文化の成り立ちなど詳細は結構難しいので割愛)

→日本の会社は働き手にとって「家」と解釈され、そこにどれだけ滅私奉公できるかで評価が確定されている。(就業時間=出世となっているというデータがある※男女の性差別による出世の違いも就業時間の長さを揃えると実際には無くなるらしく、それについては「へぇー」と思わされました。)

→要約すると、昔の慣習が現在も続いていて、現代のライフスタイルで考えるとかなり非合理的になっている。

→理由:今や多くの企業が数十年も続く保証はなく、必然的に人生100年時代においては何度か転職をすることになる。その時会社の「家」文化に従っていては、1つの会社に自分の人的資産(知識・スキル・経験・人脈など)を全て依存させてしまうことになる。(これは簡単に言うと、どれだけ多くの時間をかけても日本のサラリーマンでなれるのは1つの会社のスペシャリストでしかなく、悲しいことに、それは外のフィールド(他社やフリーランスなど)ではほとんど評価されないということ。)

→まとめると、日本のサラリーマンは「家」の制度に従ってひたすら会社の中で社畜のように働きまくっても、いざ転職をしようとした時、その時点で会社に蓄積してきた人的資産を持ち出すことができずに、実際の自分の市場価値との差で将来困惑させられる可能性が極めて高いということ。

 

対策:

この本を読んでみて、自分も将来悲惨なことにならないようにと対策を考えましたが、私の結論は、昨今のグローバルな労働環境で取り入れられているジョブ型の働き方に合わせて、会社とは関係なく自分で自分の看板を持って働きながら専門スキルを高めていくしかないのかなと思いました。

つまり労働観としては会社に所属するということではなく、自分のスキルを提供して報酬を得ている場所がたまたま今の会社という認識で、要するにある意味自分を自営業者みたいに考えながら会社の中で働くということです。

(一応これは「不条理な社会人生から自由になる方法」の中でも取り上げられている海外での一般的な労働観になります。)

 

 


考えたのだが本は買ったら綺麗に使うより、その本を買うのに使った額以上の価値を得るために汚く使うことも惜しまない方が良いと思う。

2025-02-11 17:06:13 | 日記

理由:よく綺麗な状態で保管した方がいずれ手放すときに購入時の分を幾分か取り戻せる、という発想で本を書き込みなどせず新品同然に扱おうとする考え方もあるが、こういう場合考え方としては本を購入に使った額面分以上の価値で見られていないということではないか?

 

購入に1200円したなら、売却には1000円程度はお金を取り戻したい。←と考えてしまいがち。これはよくある思考だが、お金で価値を測ってしまっている。

 

例えば、ある本が1200円したとしてもその本の内容から1200円以上の価値が得られたら、売値が1000円だろうが、2000円だろうが、結局それよりも本から得た知識や考え方を活かして価格(1200円)以上のリターンが得られれば価格以上に得をしたことにならないだろうか?

 

本は価格以上の価値がある知識が得られるかもしれない投資だという捉え方をしていれば、価格に拘泥せずにそれ以上の価値が得られるかにだけ注目してシンプルな本選びができるようになるのではないだろうか?

※投資とは投入した資産以上のリターンが得られることが期待できるもののこと。

 

 

結論:本を買うメリットは購入時に支払う価格よりもリターンが大きい価値ある知識を得られるか見極められれば、その本を買ったことは間違いなくプラスになる。惜しむらくは全ての本が必ずしも読むに値するものではないことだ。本を読むときは、①読み手が求める知識、②読み手の読書への慣れや習熟度、③本がどれだけ上質の知識を提供しているか(コンテンツが充実しているか)が重要になる。

 

①は読み手が求めている知識を自分で自覚しているかにもよる。表面的には関心があるものがわかっているように思えても、実際は違うものを求めていたという場合もある。これはおそらく「無知(自分が求める知識がどういうものなのかを推論するのに必要な知識や情報が足りていない状態)」が問題なのではないかと思う。

 

②は読書は仮に自分の求める知識がはっきり自覚できたからといって、簡単にできるものではない。本を読むというのは一見受動的(パッシブ)な行為に見えて実際は能動的(アクティブ)な活動だからだ。例えば、自分が求める知識が載っている本を仮に入手したとしても、本の内容全てが必要なわけではない。自分が必要とする部分だけが理解できれば良いのだ。問題はそれが本のどこにあるのかを探し当てるには、本の内容や文脈をある程度理解できる必要がある。ただ読み進めるのではなく読解する努力が必要なのだ。

 読解するには慣れに加えてその本の内容を理解するためにわからない単語や理解が追いつかない事柄があったときにそれを調べる作業が必要になってくる。

 これは本を読む人間ほどこの作業に慣れているため素早く本に対応できるということだ。(※素早くといっても、基本人間の能力には大きな隔たりはないので1冊を5分で完全読破できる最強超人みたいな人がいるというわけではない。(人間の認知能力には限界があるため))

 

③は本が読むに値するかという点についてだ。端的にいうと読む価値がない本は2つあると思う。

 1つは知識としてすでに陳腐化(過去のもので現在は反証)されているものを扱っている場合。これは特に反証可能性という科学哲学がある科学の分野では多い傾向にあると思われる。例を挙げれば「人間の脳は10代をピークに成長をやめ、あとはニューロンが減少していく一方だ」という主張は過去には肯定されていたが、現在は「人間の脳は50歳まで成長を続ける」と言われるように過去の見解が見直される(反対の証明がされうる)ことを意味するなどだ。

 2つ目は自分にとって読む価値がない本だ。これは、既知(すでに知っている知識)が大半を占める本は、新たな知識の学習にはならないということだ。読書量が増えれば必然別の本の中にも自分が知っているものと重複する知識が増えてくる。そういった場合、選書において既知が大半を占める本は新しい知識を得るという観点で考えると読書に値する魅力(自分にとっての価値)が少ないということだ。これに関しては個人の知識量によるところなので、同じ本の価値を評価するときも人によって千差万別になるということだ。

 

※2つ目の点で注意がいるのは、全く未知(自分が知っているものが全くない)の本を選ぶのも危ない。理由は内容が100%知らない本を選ぶと、逆に人はハードルが高くなりすぎて読む気が失せてしまうからだ。

これはいくら読書に慣れている人も同じで、基本的にはいきなり全く門外漢の状態で難解な専門書を読破しようとしたりはしない。

理由は単純で、分からないことだらけだと人はつまらなく感じて読む気が失せるからだ。

当たり前だが専門的な本になる程、まず基本的に専門用語の知識があることが前提で書かれていたりする。だから、自分が読んでいて全く理解できない本に出会った時の賢い選択は、まずは潔くその本は諦めて入門書などから入るということだ。わかりやすい解説が多い本でも、なんだったらそのテーマで漫画化されたものでも構わない。なぜなら、基礎的な知識を先に頭に入れてから本を読んだ方が結果的に早く理解が進むようになるからだ。


苦しむマキシマイザー

2025-02-09 12:49:17 | 日記

どうにも自分は文字に起こすとやたらと掘り下げて熟考してしまいすぎるらしい。

あるポイントでは有用な可能性もあるが、基本的にはマキシマイゼーションの典型的な特性を発揮してしまっているのではないか?

つまりサティスファイザー(満足できれば良い)傾向を意識した方が日常生活では快適であると思われる。

 

マキシマイザー(完璧主義)傾向を発揮することがメリットになる場面は局所的と意識しておいた方が良い。

例えば、特定の専門技術など誤差が致命的な問題を引き起こすようなものはマキシマイザーで良いと思われる。逆に日常の常にリアルタイムで物事が進み移り変わっていく状況ではサティスファイザー傾向を発揮した方がマキシマイザーに比べてかなり有利であると思われる。

 

これはリソース配分の戦略にも絡んでくる。

 

究極の1点に自分の全エネルギーを注ぎ込むのではなく、日常的だけどそこそこ重要な自分の判断に各種適切にエネルギーを割り振って行った方が当然総合的な人生の満足度は高くなる。

 

マキシマイザー傾向が強い、あるいはそれが無意識に発揮されてしまう人はある1面では有利だが多くの事柄が関わってくる満足度などを満たす上では不利になると思われる。

 

逆にティスファイザー傾向がほどほどにあれば、ある程度は拘りつつも完璧ではなく、そこそこの結果で満足できあまった余力を別の関心に注ぎ込むことができる。

 

これは投資で例えると分散投資にあたり、当然極端な大当たりはないが、逆に奈落の底に落ちるようなハズレもなく総合的に良いスコアが狙える戦略だ。

 

(そう考えると、自分は投資では1社の会社の株ではなく投資信託で、しかもインデックスという期待値がほどほどのものを購入して満足しているのに、どうして普段の生活ではこうも1つ1つの事柄を突き詰めようとしているのだろうか?

 

それがまだ部分的であれば悪くはないが、ほぼ手当たり次第にそれをやっては時間がない・・・と苦しんでいるのは、「気がつけば」という感覚から考えてもわかる。やはり集中力や一点突破を目指すべき目標とそれ以外とをしっかり判断できていないことが問題になっている気がする。)

 

 

まず第一に、こうした自分の行動自体を俯瞰したメタ分析はともかく、日常の些細なこと(ある特定の行動はうまくいき、別の行動はうまくいかなかったなど)を一つ一つ仔細に分析することは、それを行う労力(コスト)にメリット(リターン)が釣り合っていないのではないか?(コスパが悪い)

 

自分の頭で考えることはもちろん人生を改善していく上で絶対に必要なことだが、しかし、こうした行動を分析し、熟考の末に答えを出すよりは、まず一段手前の基礎的な部分において科学的に証明されている知識を学んで、それをベースに方法を検討した方が圧倒的にコスパが良いのではないか?(本当に一番楽なのは人間が生まれながら持っている直感(ヒューリスティック)に頼る方法なのだが、それでは考える意味も能動的な改善のきっかけも無くなってしまうので直感だけに頼るのは悩みどころ。)

 

自分に足りないのは知識が有用(自分で熟考するより蓋然性がありコスパが良いもの)であることをもっと意識した方が良いという点かもしれない。

”学習”という知識を身につけるために努力できるのであればだが。