Rising斬 the侍銃士

音楽のこと、時代小説、映画を中心にしていくと思います。タイトルは自分のHNの由来になったゲームから

burn one's bridges(背水の陣という意味らしい)

2007-10-01 01:29:33 | 本と雑誌

項羽と劉邦、秦帝国が滅んだ後、群雄割拠の中で頭角を現し、最後まで争った二人。
五十歩百歩など、この頃のエピソードから生まれた故事も多いです。
そんな中で、気になっていた故事が幾つかあり、先日、「十八史略」の翻訳版を少し読む機会がありましたので調べたところ、色々わかったので書いておきます。


新内閣を「背水の陣内閣」と呼んでいるそうですね。
背水の陣はgoo辞書によると
「一歩もあとにはひけないせっぱ詰まった状況・立場。また、そういう状況に身を置いて、必死の覚悟で事にあたること。」
( 参照 )


必死の覚悟で事にあたる、とされていますが、それは戦術上の話。
戦略上は、後方に川や海があれば敵は背後から攻撃してくる事はないので、前からの攻撃に対する備えだけで済む。
敵の選択肢を減らすという面もあるんです。
そして「背水の陣」と言うと劉邦配下の韓信が有名(goo辞書にも挙げられていたし)ですが、彼も決死の作戦ではなく、何か独特の戦法があったのです。
詳しくは忘れたが。
で、今回それを調べてみました。


砦を攻める韓信は、河を背にして陣を組みます(これが背水の陣)。
これを見た砦の兵は「得たりや応」と全軍で韓信軍に攻め込みます。
ところが、実は背水の陣は囮(おとり)。
敵が攻めてきている間に、別なところに潜ませていた兵が、手薄になった砦に攻め込み、乗っ取ってしまいます。
帰る所がなくなった砦の兵たちは逃げて行ってしまいましたとさ。
全軍で攻め込むところが非常に間抜けですね。留守番ぐらい残すか、せめて戸締りはしっかりしましょう。


しかし韓信はよく考えましたね。
背水の陣といえば決死の作戦。倒すにはできるだけ大勢で攻めるべき、と皆が思っているところを突いたのでしょうね。
どうでもいいけど「得たりや応」って言い回しはしばらく使ってみたい。


この時代から生まれた言葉といえばもう一つ。四面楚歌という言葉もあります。
追い詰められた項羽がふと気づくと周囲で楚の歌が歌われ、項羽が負けを悟ったことから来た言葉です。
この言葉の意味、俺は今まで「敵に囲まれている」という意味だと思っていましたが、それだと、項羽も楚の人なのに、なんで自分の国の歌を聴いて敵に囲まれたと思うのか、不思議に思っていました。
で、これもよく調べてみると、
敵の陣地から楚の歌が聞こえたことで項羽は、自分の味方のはずの楚の人間まで敵に寝返ってしまい、自分の味方はもはや残っていないことを悟る。ということだそうです。
たしかにこれもgoo辞書を見ると、四面楚歌の意味は
「味方のないこと。孤立無援。」
( 参照 )

どちらかというと「敵が多い」という意味ではなく「味方がいない」という意味ですね。
ちなみに、司馬遼太郎「項羽と劉邦」によれば、実際楚の歌は風の音を勘違いしたという説もあるらしい。
つまり、項羽があきらめた要因は「勘違い」。このあきらめの早さが彼が天下を取れなかった理由の一つともされています。
言われてみれば、99敗しても最後に1勝すればいいと自分に言い聞かせていた劉邦ならば、そこを生き延びて再起を図るのでしょうしね。


若い頃の項羽は字を教えようとしても「自分の名前が書ければたりる」とすぐに辞め、剣を教えても「剣は一人しか相手にできない、大勢を相手にするものを身に付けたい」と、じゃあと兵法を教えても結局すぐに辞める。
叔父で保護者の項梁は「この子は、かんはいいのだから」と失望はしません。でもとても親バカな発言ですね。
結局物事が長続きしない体質が大人になっても直せなかったのでしょうかね。


項羽は、部下に優秀な人間がいてもその才能を活かさず、もともと韓信も部下でしたが、項羽が意見を取り入れてくれないので劉邦の配下になった経緯があります。


項羽は、侵略の仕方について民の反感を買うこともありましたが、逆に劉邦は部下にも規律を守らせ、民の支持を得ます。これは張良のアドバイスによるもの。


後に韓信が劉邦を称して、「兵に将たるには不向きですが、善く将に将たる器量を備えておられます」
と発言した事があります。この「将に将たる」というのがどういう意味か、上記の点と、さらに韓信の
「漢王(劉邦)は私の言を聴き、私を用いてくれた。私はそむく事はできない」
という発言を踏まえると、「兵に将たる」は「命令に従わせる力」、「将に将たる」は「人の意見を聞く力」といえるのかな、と考えられますかね。


項羽は最後に、自分が実力ではなく、天によって滅ぼされたのだ、と訴えるのですが、こうして考えるとやはり項羽は天に選ばれなかったのではなく、天に選ばれる努力が足りなかったのだといえますね。


司馬遼太郎の「項羽と劉邦」で、劉邦の子分が「劉ニイは俺がいないとただの木偶の棒だ」と発言しましたが、そういう風に見方を作る努力が、やっぱり劉邦は優れていたんだなと、
こうして勉強してみると、阿諛追従とかは一切しない俺ですが、たまにはプライドを捨てて人に頭を下げる力くらいは持ってもいいかな、と思えてきます。


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