これまで種々雑多な読書を続けて来たけれど、「読書とはなにか」という初歩的な疑念にいつもつきまとわれていた。
そのことがまた新しい読書への意欲を促す、あるいは惰性というべきものになっている。
今度また小池真理子さんの『感傷的な午後の珈琲』を手にして、
作家として何ができるかと考えるたびに、烈(はげ)しい無力感に襲われる。しかし、すぐに考え直す。戦時中も小説は絶え間なく読まれていた。死と別離と不安と食糧不足が長期にわたって日常化していた時でも、人々は本を読んだ。本を欲した。言葉は人を救った。
時が流れ、再び立ち上がり、歩き出すにつれ、私たちは必ず、新しい言葉、新しい物語を必要とするようになるだろう。その時のために、私は書き続けていこうと思っている。
(このブログで人の文章や言葉を引用するのに色を使わせてもらっている。これは邪道であると昔何かで聞いているので、ある後ろめたさもあるのだけれど、他にやり方を知らないので、あえてそのままにしている。お気にさわる方があったら許されたい。)
という言葉を読んで、曲がりかけた背筋がしゃんとして来る。
これをなんど繰り返したことだろう。
この慣習を維持したい。
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