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16年目突入。ビッグイベントに心躍らせながら、草の根のスポーツの面白さにも目覚めている今日この頃です。

最も印象に残った球児   37.広島

2012年09月13日 | 高校野球名勝負

◇もっとも印象に残った球児

37.広島



 佃 正樹    投手  広島商   1973年 春夏     


甲子園での戦績

73年春   1回戦    〇   3-0    静岡商(静岡)
        2回戦    〇   1-0    松江商(島根)
        準々決勝  〇   1-0    日大一(東京)
        準決勝    〇   2-1    作新学院(栃木)
        決勝     ●   1-3    横浜(横浜)
    夏   1回戦     〇  12-0    双葉(福島)
        2回戦     〇   3-0    鳴門工(徳島)
        3回戦     〇   3-2    日田林工(大分)
        準々決勝   〇   7-2    高知商(高知)
        準決勝    〇   7-0    川越工(埼玉) 
        決勝      〇   3-2    静岡(静岡) 



広島といえば野球王国の名をほしいままにする県。
夏は第1回から、春は第2回から代表を送り込み、
優勝12回、準優勝10回という、
輝かしい戦績を残しています。

瀬戸内海を挟んで隣県の愛媛とともに、
高校野球界で最高の位置をずっと保ち、今があります。

しかしその中身を見てみると、
面白いですね。

やはり長く言われているように、
『春の広陵 夏の広商』
はその戦績にもよく表れています。

広陵は春は3回もの全国制覇を達成しているものの、
夏はまだ全国制覇を成し遂げていません。
まさに夏の制覇が『悲願』なのですが、
その観点から見ると07年の野村投手を擁したチームは、
悲願にいちばん近づいたチームでした。

反対に広商は夏に強い。
春の優勝は1度なのに、夏の選手権は実に6度の優勝を誇っています。
まさに【夏の広商】です。

その両校のつばぜり合い、
まさに『広島の早慶戦』の趣き。
両校の定期戦の話題を記事にしたものを見たことがありますが(昭和50年代の終盤だったかなあ)、
そのタイトル、【定期戦だといえ、本気じゃけ】というものだったと記憶しています。

全国でもまれな、
90年以上も続く『ライバル関係』ですね。
うらやましい限りです。

ちなみに広商が最初に甲子園の土を踏んだのが、選手権の第2回大会で1916年。
それに対して広陵は、1923年の第2回選抜大会が初のお目見えでした。

出場回数は、広商が選抜21回、選手権22回。広陵は選抜22回、選手権20回です。


そんな両校、過去の選手には素晴らしい選手がたくさんいます。
広陵では、先に挙げた野村投手、土生選手、西村投手などの現役組や渡辺-原のバッテリーなどがすぐに頭に浮かびます。
広商では、やはり”伝説の73年組”の金光主将、佃投手、達川、楠本らの好選手たち。そしてその後の、田所、山村、池本、沖元、上野らの”技巧派”好投手の名前が浮かびます。
両校ともに、70年以前の選手のことは、残念ながら知りません。

ということで誰をピックアップしようか迷いましたが、
やはり”外せない選手”ということで、73年のエース、佃投手を挙げてみました。

ワタシの中での佃投手のイメージは、
”好投手”ということ以外ありません。

たぶん今風にいうと『130キロそこそこ』のストレートしか持ち合わせていなかったと思いますが、
その投球術とコントロールはまさに”超高校級”。
このチームの思い出は、本当にたくさんあります。
ワタシの頭の中に【高校野球のチームとしてのスタンダード】を形作ったのは、
なんといってもこの【73年の広商】に他なりません。
後にも先にも、こんなチーム、出てきたのを見たことがありません。

彼らの最高の試合、
選抜準決勝の作新学院戦。
伝説の『江川攻略』の試合です。

この年の広島商。
決して”豪快に打つ”チームではありませんでした。
1回戦からその安打数を見ても、
6,2,4,2と、
4試合でなんと14本しかヒットを打っていません。

チーム打率は1割台。

それでも四球をもらい、
足と犠打でじわじわと相手を追い詰めていく攻撃、
相手にとっては本当に嫌なものでした。

そして守備では最少得点差を、
まるで楽しむようにスイスイと投げて抑えてしまう、
エースの佃の存在がありました。
準決勝までの4試合でわずか1失点。

【究極の守備と小技のチーム】
これが73年の広島商ということが言えるでしょうね。

いくつもの逸話を残す広商のその集中力。
今では考えられない、
【真剣刃渡り】
の練習で培われたといわれていました。

練習の時に、
集中力を養うため日本刀の真剣の刃の上を歩かせたというもの。
恐ろしいばかりの練習法ですね。

しかし広島商の集中力は、
当時の高校野球では図抜けていました。

特にスクイズの時に、
その集中力の凄さは発揮されていました。

広島商とスクイズを語るとき、
当時、高校野球界には2つの『格言』のようなものがありました。

【広商はスクイズを絶対に失敗しない】
【広商は相手にスクイズを成功させたことがない】

この二つ、
凄い言われ様ですね。
当時の広商の凄さを語るうえでの、キーワードのようなものです。


そして夏の選手権での広島商。

3回戦の日田林工戦で、
2ランスクイズの逸話を残したのを皮切りに次々と『小技の凄味』を見せつけ、
最後も強打の静岡を相手に究極の作戦ともいえる【サヨナラ3バントスクイズ】で見事に優勝を遂げました。

凄いチームでした。

佃投手はエースの貫録を見せ、
センバツ時のような好調ぶりはなかったものの、
全試合で安定したピッチングを見せてチームを優勝に導きました。

左腕からの安定した投球、
忘れられません。


しかしこの年の翌年、
高校野球に『金属バット導入』という大変革が起きました。

これまでの小技と足を使った戦法だけでは通用しない、
『長打で相手をなぎ倒す』戦法が主流となり、
まずは東海大相模がその先鞭をつけて、
池田高校、PL学園、智弁和歌山など、
打撃のチームが甲子園を席巻するようになりました。

広商はかたくなに以前からのチームカラーを守ってチーム作りをしていましたが、
昭和57年決勝で『やまびこ打線』池田の前に12-2で大敗。
大きくチーム作りを軌道修正せざるを得ませんでした。

その後チーム作りが必ずしも機能せずに徐々に力を失っていきますが、
それでも昭和63年夏の選手権で、
小技を駆使した攻撃と技巧派投手を擁しての全国制覇は、
彼らの意地を見た気がしました。


さて、
【究極の73年組】からは、
金光、楠田、佃、川本などの中心になった選手は大学、社会人に進んで『アマチュア野球』の発展に尽力しました。
唯一プロ入りしたのは、チームではあまり目立たなかった捕手の達川(広島)のみでしたね。

この中心になったメンバーのうち、
川本選手とともに佃選手も、
志半ばで鬼籍に入ってしまいました。
時の流れの速さを、
感じずにはいられません。

昨今はライバル・広陵に押されるばかりか、
73年組の指揮を執った迫田監督率いる如水館にも煮え湯を飲まされ続けている広商。

『復活はいつなんだ~い』

この東の空から、
西に向かって叫んでいる高校野球ファンもいるということ、
忘れないでね。

HIROSHO
のユニフォーム、
また甲子園で見せてください。


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