石ころ

みことばの愚かさに在る祝福 ③(ヨシュア記6章)

 

翌朝ヨシュアは早く起き、祭司たちは主の箱を担いだ。
七人の祭司たちは、七つの雄羊の角笛を持って主の箱の前を進み、角笛を吹き鳴らした。武装した者たちは、彼らの先頭に立って行き、しんがりは角笛を吹き鳴らしながら主の箱のうしろを進んだ。(12~13)

 

主に在って働く者は、みな主をほめたたえる喜びに満ちて、朝早く起き出して来てみこころを行う。

此処に勇ましいときの声はまだ無く、ただ、主の臨在を知らせる角笛を聞きつつ進んだ。

 

彼らは二日目も町の周りを一周回り、宿営に帰った。六日間そのようにした。(14)

 

黙々と町囲いを回るだけの従順は、リーダーを信頼してのことである。ヨルダン川を渡って、ヨシュアに居られる主を経験してのことである。

敵を目前にして歩くだけの六日間は、主に魂を平伏させる訓練の時であり、みことばに殉じて自身の思いを捧げるための時である。

 

世の困難の中で誰に相談することもせず、主にすべてを明け渡し、祈りのうちに過ごす時がある。手段や知恵を模索する魂を治め、みことばに応答して愛するものを巻き込み、共に主を経験するためである。

 

主はすでに勝利と脱出の道を備えてくださっている。主に聴いたそのことばを握って、子供でも出来ることに従って待つのである。それは信仰告白である。

 

見ずに、みことばに信頼する訓練を経ることによって、成長した者の平安は揺るぐことが無くなるのだ。むしろ、今突きつけられている困難を通って、主を新しく知ることを期待してワクワクするのである。

 

 信仰の初めに、みことばに従いたいという願いと、まだキリストを知らぬ主人との間で、どのようにしてみことばを成せば良いのか・・、宣教師の先生にその悩みを訴えたことがあった。
彼女は聖書の一か所を開かせて、私に読ませ「このようにしてください」と言われた。

 

妻たちよ、自分の夫に従いなさい。たとえ、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって神のものとされるためです。(Ⅰペテロ3:1)

 

みことば以外の同情や慰めは聞かなかったけれど、拠って立ちべき明確な指示を得て安心した。主人との関係を変える必要はなく、出来ないことを求められてもいなかったからである。

 

そうして、長い年月のうちに何時の間にか主人と頭を突き合わせて祈る時があり、折々一緒にみことばの助けを経験して、イエスさまを一緒に喜ぶようになり、

主人の口から「イエスさんがしてくれはった」という言葉を聞くこともあった。

 

数十年後に主人は自ら洗礼を願い出て受け、何時だったか礼拝の帰りの車の中で、あふれる涙を経験して、少し困惑しながら聖霊に触れられていた。

 

80歳まで生きて、「ありがとう、ありがとう」声が出なくなるまで繰り返しつつ、主にたまわった信仰を全うした。
すべては信仰の初めに頂いたみことばの通りであった。

 

あの時、人間的な知恵の言葉や遣り繰りの方法を聞いていたなら、問題に出会う度に繰り返し繰り返し人に尋ね続け、それでも平安の無い混迷の中に、主人を巻き込んで迷わせていたと思う。

 

永遠に残る言葉は主のみことばであって、それは従順の中で主がしてくださることであり、少しも難しいことではなく、みことばを指し示す以上の愛は無いと悟った。

 

七日目、朝早く夜が明けかかるころ彼らは起き、同じようにして町の周りを七周回った。この日だけは町の周りを七周回った。
七周目に祭司たちが角笛を吹き鳴らしたとき、ヨシュアは民に言った。「ときの声をあげよ。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ。(15~16)

 

主が備えてくださっている勝利を受け取る時が来たのである。
信仰者の成すべきことは、何にも増してみことばを主に聴くことであり、聴いた言葉に信頼して留まり、主を待つことである。


神の約束を完成してくださるのは、昔も今も永遠に変わらぬ神ご自身なのだ。
主と共に人が働くのは、創造主なる神のご真実なことを経験して、御名をほめたたえて礼拝するためである。


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