石ころ

みことばの愚かさに在る祝福 ④(ヨシュア記6章)

 

七周目に祭司たちが角笛を吹き鳴らしたとき、ヨシュアは民に言った。「ときの声をあげよ。主がこの町をあなたがたに与えてくださったからだ。
この町とその中にあるすべてのものは主のために聖絶せよ。遊女ラハブと、その家にともにいる者たちだけは、みな生かしておけ。彼女は私たちが送った使いたちをかくまってくれたからだ。」(16~17)

 

町が、主に従うイスラエルのときの声を聞いたとき、彼らの命は終わった。この町が謙って命を乞うための六日間は終わった。彼らはみな角笛の音を聞いていたのに、命を守るために何もしなかった。聖絶は突然の不幸ではない。

 

子供は親が守らなければ生きられない。親には家族を守る責任があり、ラハブはその熱心によって家族の命を守った。

この世でどんなに良い生き方をしていても、命の主に対して傲慢になり、刻々と失われて行く命の時に、町の人々と同じように聞き流すなら、自分も家族も滅びることになる。

 

罪は恐ろしい思い違いをして神は人ために存在すると思う。しかし、神は天地のすべてを造られた方であり、万物は神の作品であって、人は作者である神の栄光を現わすために存在しているのである。

 

聖絶は作者である神の義と聖によるものである。しかし、神は愛であって、きよい神が受け容れることの出来ない罪人を、キリストの十字架の血潮に洗いきよめて、キリストの愛に応答する者を滅びから救い出し、永遠のいのちに移してくださったのである。

 

すべては神の憐みによることであり、命をもって罪の代価を支払ってくださったキリストの恵みである。
救われた者は一つだけ良いことをして、創造主なる神をお喜ばせした。それはキリストに逃れて、御救いに留まっていることである。

 

あなたがたは聖絶の物には手を出すな。あなたがた自身が聖絶されないようにするため、すなわち、聖絶の物の一部を取ってイスラエルの宿営を聖絶の物とし、これにわざわいをもたらさないようにするためである。(18)

 

キリストに身を避けた者は、世の何かを主に持ち込むことは出来ない。
それは、世の栄光も世の財産や家柄、世の人脈や学歴など、それまで自分自身を喜ばせていたもの、パウロが塵芥と言ったものである。

 

主に在る働きはそれらを用いることはなく、聖霊の導きと働きによってみことばを実現するのであり、人から出たものは霊に逆らうものであって、みことばを蔑ろにするからである。

 

「ただし、銀や金、および青銅や鉄の器はすべて主のために聖別されたものである。それらは主の宝物倉に入れよ。」(19)

 

世で培われた能力や経験が用いられるのは、すべてを主の宝物倉に治めて、キリストの財産キリストの奴隷として働くときに、神の力として用いられるのである。
それらは、魂から発するすべてのものが捧げられて、聖霊の火によって焼ききよめられたからである。

 

民はときの声をあげ、祭司たちは角笛を吹き鳴らした。角笛の音を聞いて民が大声でときの声をあげると、城壁は崩れ落ちた。そこで民はそれぞれ、まっすぐに攻め上り、その町を攻め取り、
町のものをすべて、男も女も若者も年寄りも、また牛、羊、ろばも剣の刃で聖絶した。(20~21)

 

堅い守りの城壁は神の民の声で崩れた。一切人の力を用いず従順に拠ることである。彼らが信頼した主の御わざである。

主に在る者の戦いは自分自身の魂にある肉との戦いであり、みことばを軽んじる不信仰との戦いである。敵がどのような相手であるかではなく、現状がどうであるかでもない。

 

ラハブは勇気をもって主を選び取り、神の使者を匿って自分と家族の命を得た。信仰を守ることは子供でも出来ることであるが、子供であっても若者であっても、老人でも、一つの条件は、昨日までどっぷりつかっていた世から向きを変え、主の味方になる勇気である。そのとき、神が永遠までの味方であることを経験するようになるのだ。


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