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石ころ

世の終わりのこと (マルコの福音書13章)



イエスがオリーブ山で宮に向かってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに質問した。
「お話しください。いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。」(マルコ13:3~4)


 ひそかに語られること、親しい者だけの内緒話。
イエスさまを信仰する者、私たちは主にわからないことを質問する特権を頂いている。
昔お弟子がそうしたように、今も、人に向かって聞くことではなく、主に直接聞くことが大切であると思う。

イエスさま以外に誰が御国のこと、みこころのことを知るだろう。それは、助け主である聖霊を通して(実際には、このとき聖霊を意識することはない。彼はイエスさまだけを現されるから)教えられ、新しい知識を与えてくださる。
その時、親しくイエスさまに触れる甘さを味わい、主の御声を覚えるのだ。


だが、その日には、その苦難に続いて、太陽は暗くなり、月は光を放たず、 星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。
そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。
そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます。(マルコ13:24~27)


「その時」はイエスさまも知らないといわれる。だから目を覚ましていなさいと警告された。
「目を覚ましている」ということは、具体的にはどういうことなのだろう・・。私はどのようにしていればよいのだろう。

ペテロはゲッセマネで眠ってしまった。私はペテロ以上になんかなれない。彼は屈強な漁師だったのだ。でも、ペテロと私の違いに気がついた。ペテロは、イエスさまとは石を投げたら届く距離にいた。

私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。(ガラテヤ2:20)

今、イエスさまは天の御座におられる。しかし、聖霊によって私のうちにおられるという約束があるではないか!私のうちに生きて働いていてくださっている。

見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない。(詩編3:3)
主は眠ることもまどろむこともない方なら、私もそのようであると信じることができる。

彼は、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。
しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。」(ヨハネ10:4~5)


絶えず主の御声を聴いている者が、偽キリストに惑わされついて行くことはありえない。苦難の日のための主の備えは、日々のごく普通の時間の中にある主との交わりの中に備えられていた。


災いの時着物を取りに家に戻ってはならないと言われている。私はこの記事を思い出した。
ロトのうしろにいた彼の妻は、振り返ったので、塩の柱になってしまった。(創世記19:26)
世を振り返らず、主に向かって真っ直ぐに駆けて行くことだけが、キリスト者の身を守る方法である。みことばを通して親しんだ方の元に、御声を慕って駆けて行くことは主の備えられた救いである。

創造の日からこの方、今に至るまでかってない苦難の日が来る。そうして、必ずこの世は終わりを迎える。
しかし、それは「産みの苦しみの初め」それは、イエスさまを信じる人には、災いではなく祝福、御国に招くために来られるイエスさまを迎える喜びである。私はその日を主に身を避けつつ待っている。

しかし、イエスさまはエルサレムを見て泣かれた。滅び行くエルサレムの子らを思って涙と流された。
イエスさまの涙を忘れないでいよう。私には何ができるのだろう・・主が用いてくださいますようにと祈りつつ・・。

この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。(マルコ13:31)


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