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石ころ

言葉の力



 使徒行伝を読んでいてまず、聖霊に満たされたペテロやパウロの伝え方、謙遜な態度で丁寧に言葉を選んで話して居ることに気づいた。
しかし、それは決して妥協したり、相手におもねることではなく、事実を真っ直ぐに、正確に説明をしていることに心を刺された。
そのような伝え方からは、真実さ、神の愛がヒシヒシと感じられるから。

私は心を尽くして説得する。ということが苦手で、すぐにかんしゃくを起こしてしまう。独りよがりになりがちだと、常々心してはいるのだけれど・・。
日常でも息子に「落ち着け。」って一喝されて、順序をただして話直しす・・そんなことが時々ある。

 しかし、いかに彼らが心を尽くして話しても、たとえ人が耳をそばだてる言語を選んで話しても、感情的な「除いてしまえ」(使徒22:22)というひとことで、すべてが徒労に終わってしまうこともあるではないか・・

言葉なんか虚しいと・・バベルの塔以来、人の言葉なんか虚しいのだと、一瞬そんなふうに心が萎えてしまう・・。
しょせん真実が言葉によって伝わることなんか無いのだと、人は自分の信じたいことを信じ、感情によっててんでに動いているだけなのだと、そんなふうに心が揺らいだとき、

 ふっと我に返るように気づかされた。
でも、私が今読んでいるこの聖書のことばが真実であると思うのは、それはなぜなのだろう・・、私は何処からこのことばを信じることを知ったのだろうと・・、
それはパウロ以来、人から人へと語り続けてくださった方々の言葉によるのだ。

聖霊と共に働いて、愛し、忍耐を持って伝え続けてくださった人々によるのだと・・、言葉は確かに届いていることを自分の中に見ているではないか。
その言葉によって、私は新しいいのちを得、訴える者から解放されて、「見よ。すべてが新しくなりました。」と、深い安息、永遠の希望を頂いたのではないかと・・。

どれほど、「除いてしまえ」という感情的な言葉に力があるとしても、ここ自分自身の中に、救いのみことばはちゃんと残って居るではないかと、それこそが事実なのだと、救いの言葉の力を知り、感謝に浸された今朝だった。


しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
(ローマ10:14~15)

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