息子の作品が載った本が贈られて来た。ワクワクと一緒に開いたときに、彼の作品には間違った名が記されていることを発見した。
一瞬息を呑んだ。できるだけ冷静に「あら」という程度の反応にとどめたけれど、内心私はとてもショックだった。
「なぜ」とはいいたくない、どのようなことが起ころうとも。
イエスさまのご存知ないことが起こることはないのだから・・。すべては主の赦しの中で起こっていること。
私は十字架を知っている。すべての理不尽を負って死んで下さった方を知っているから、だから「なぜ」とは言えない。
「なぜ」と問うことが出来るお方はイエスさまだけ。なぜ、このような者のためにも死ななければならないのかと・・何処にその価値があるのかと・・。
だから私は「アーメン」としか言えない。時々「いいえ」と言うけれど、それは主とのコミュニケーションの始めなの、「私を説得して下さい」という意味。
最近許さなければならないことが次々と起こる。まるで試されているみたいに・・。
でも、もし試されているのなら、「アーメン」とそのまま受け入れて、主の御足跡に従ったときには、信仰を告白するチャンスとなることに気が付いた。
それは、自身の中でしばらく格闘することにもなるけれど、主の慰めは絶えることなく、主の甘い言葉は蜜の様に滴ってくるからこそ出来ること。
元気があればなんでもできる、なんてテレビで言っていたけれど、主の愛があれば赦せるのだ!なぜなら、理不尽の悲しみを最も良く知って居て下さるお方が、心配していてくださるのだから・・。
今回のことを息子と祈るうちに、「許す」側であることの幸いを教わった。「許される」側に立つことも、私たちにとっては紙一重ほどの違いだと思うから・・。
人は間違う者であり、ミスを犯す者である。
息子は、その会社からのメールに「もう、気にしないでいいです。」と書いていた。
許したり、許されたりする中で、いよいよ主を知る者でありますように。
また事前の祈りについても示された。
すべてのことを主に祈ることから始めていたかと・・そうして、その会社が主に聴くようにと祈っていたのかと・・。
すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。どうか、この神に、栄光がとこしえにありますように。アーメン。(ローマ11:36)
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