石ころ

「恥じる」





そこで、私はその所、アハワ川のほとりで断食を布告した。それは、私たちの神の前でへりくだり、私たちのために、私たちの子どもたちと、私たちのすべての持ち物のために、道中の無事を神に願い求めるためであった。

私は道中の敵から私たちを助ける部隊と騎兵たちを王に求めるのを恥じたからである。
私たちは、かつて王に、「私たちの神の御手は、神を尋ね求めるすべての者の上に幸いを下し、その力と怒りとは、神を捨てるすべての者の上に下る。」と言っていたからである。

だから、私たちはこのことのために断食して、私たちの神に願い求めた。すると神は私たちの願いを聞き入れてくださった。(エズラ記8:21~23)



 彼らは王からすべてのものを与えられていた。願えば何でも与えられた。神さまが、彼らへの好意を王に導いていてくださったからであった。

しかしエズラは、神さまを証する選民として、世に恥じるべきことが何であるかを知って居た。
彼らは、王に守りを求めることを「恥じた」とある。

 キリスト者も世に多くを依存して暮らしている。生きるための糧は、直接にはほとんど世から受けており、近所の方から時に叶った助けを受ける事も多いし、助言も受ける。

しかし、キリスト・イエスの守りにいる者として、一線を画すことがなければ、主を証することは出来ない。
それは私たちの人生に、世に触れられない聖域を設けることであり、世に依存することを「恥る」という聖域である。

 キリスト者として、世で立派に認められ褒められるような生き方をしよう・・などと思うなら、そのような取り繕は敵の格好の餌食になってしまう。
世では、世の人の方がよっぽど立派に振る舞うことができるのは当然であり、キリスト者にはこの世はそもそも相応しい場所ではないのだ。

・・この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした。・・荒野と山とほら穴と地の穴とをさまよいました。
この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束されたものは得ませんでした。
神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです。(ヘブル11:38~40)


 ただ、私たちの人生に神の栄光が現される場所を準備しているなら、その聖域を守っているなら、主の備えによって御名があがめられるのである。これこそ、私たちの最も栄えあることである。
だから・・だから何を世に「恥じるか」、ということが大切である。

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