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石ころ

愚かなことば(2)



さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った。」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。(ヨハネ4:39)

このサマリヤの女の言葉は単純で愚かしい言葉だ。少しも自分を惜しまず、恐れず、飾らない裸の言葉だから・・。

そして彼らはその女に言った。「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」

サマリヤの人々は後に女にこう言った。此処で彼らはこの女とのつながりを切ったように見える。それは、日頃の彼女の評判が芳しくなかったこともあり、彼女の愚かしい言葉によって救われたわけではないと伝えたかったのだろう。

しかし彼らには、彼女からもっと聞かなければならない言葉があり、交わりを必要としていた。共に礼拝を続けて行くことが、彼らの成長のためには必要であったと思う。イエスさまは大切な礼拝の奥義をこの女に語られたのだから。

「私たちの先祖は、この山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムだと言われます。」
イエスは彼女に言われた。「わたしの言うことを信じなさい。あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。
しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。(ヨハネ4:20~24)


人はアダムの時から、賢くすると言う善悪知識の木の実に惹かれる。賢くなることは良いことであり、賢い人との交わりは良いことであると・・それは努力ではなく、自然に惹かれて行くところ。それは肉が好むこと。

愚かな言葉に耳を傾けるには、謙遜が必要であり忍耐が要る。恥を忍ぶ必要さえあり、
ニコデモは自分の地位を守るために、人に隠れて暗闇にイエスさまを尋ねて行った。彼にはイエスさまを尋ねることは恥であったのだろう。
愚かな十字架のことばを聴くことは、肉を持つ身には安易なことではない。

十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。(Ⅰコリント1:18)

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