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石ころ

霊とまことによる礼拝



パリサイ人や律法学者のような宗教者には、イエスさまは律法に従わない奔放な大酒飲みの食いしん坊で、いつも罪人達を引き連れ、神殿で暴れたときには「三日で建て直す」なんて意味の分からないことを言う・・それは気が狂っているとしか思えず、良いわざでさえ、いちいち肉に逆らうことであったろう。

エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている。」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ。」とも言った。(マルコ3:22)

イエスさまの良いわざは彼らには何の益ももたらさず、むしろ安息日という律法を犯しているのであり、そこに神の聖さを見出すことはできなかった。

真理はこのようなイエスさまの姿の中に隠されていた。生まれつきのままでは決して見出すことが出来ない、霊の深い所に隠されて・・

「こうしてイザヤの告げた預言が彼らの上に実現したのです。『あなたがたは確かに聞きはするが、決して悟らない。確かに見てはいるが、決してわからない。」(マタイ13:14)

彼らの清さは取り繕われ、目で見て理解できるものであり、都合の悪いものすべてを白く塗りこめた墓の清さ。墓の中身はお互いさまで問わないルールだった。

しかし、イエスさまはその墓を暴く方、影のない聖霊には隠すことはできないから・・。
処理しなければならない罪のすべて光りの中にさらけ出される、それは神の聖さによること。

そのような自身の姿を嘆いて願う者には、それらを十字架で負って取り除き、罪の縛りから解放しきよくしてくださるイエスさま。

だから、人の目にどのように見えようとも、イエスさまが「きよい」と言われた者はみな聖い。
人の目にはその違いが分からないけれど、聖霊は霊の目を開いて私たちに教える。それでもその事実に同意するかどうかは、私たちの意志に任されているのだけれど・・。

パウロも気が狂っていると言われたことがあり、キリスト者にさえ酷評されてもいる。彼は人を癒しても、自分自身には癒されることのない弱さを身に抱えていた。
アブラハムも、ノアも、ダビデも人の弱さを聖書に暴露されている。それは人には躓きとなる部分、そのような土の器に神のご計画が備えられてある。

真理は取り繕うことができないからすべてがあからさまである。だから、人の肉には耐えることが出来ないのだろう。

「私は、こう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです。」(Ⅰコリント4:9)

当たり前の日常の中で普通に生活をしていても、満足も平安もイエスさまご自身にあり、すべての時の中で続く礼拝は、「イエスは主です」と告白し続けることの幸い。

聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。(Ⅰコリント12:3)

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