石ころ

安息日の主(ルカ6章)




ある安息日に、イエスが麦畑を通っておられたとき、弟子たちは麦の穂を摘んで、手でもみ出しては食べていた。(ルカ6:1)

幼い頃、若い大麦の穂を摘んで食べたことがある。チューインガムと子供たちは言っていた。うっすらと甘くもちもちとした食感と、ちょっと青臭かったことを覚えている。あの頃はおやつなど何もなかったから・・。

イエスさまの弟子と同じ事をしていたのだと思うと、懐かしいような近しい気持ちになる。神の子のイエスさまは歴史の事実に居られ、人の日常を生きて居られたことを改めて噛みしめる記事である。

すると、あるパリサイ人たちが言った。「なぜ、あなたがたは、安息日にしてはならないことをするのですか。」
イエスは彼らに答えて言われた。「あなたがたは、ダビデが連れの者といっしょにいて、ひもじかったときにしたことを読まなかったのですか。
ダビデは神の家に入って、祭司以外の者はだれも食べてはならない供えのパンを取って、自分も食べたし、供の者にも与えたではありませんか。」(ルカ6:2~4)

そこで祭司は彼に聖別されたパンを与えた。そこには、その日、あたたかいパンと置きかえられて、主の前から取り下げられた供えのパンしかなかったからである。(Ⅰサムエル21:6)

この箇所を初めて読んだ時、「許されることなの?」と思った。しかし、何時、何を与えるかは主のみこころによることである。主は殺す神ではなく生かす神なのだ。
みことばのパンや神のことばにある甘い蜜を、人が制限することは呪わしいことである。神さまは律法の下にはいないのだ。

その日、イスラエル人はひどく苦しんだ。サウルが民に誓わせて、「夕方、私が敵に復讐するまで、食物を食べる者はのろわれる」と言い、民はだれも食物を味見もしなかったからである。
この地はどこでも、森に入って行くと、地面に蜜があった。
民が森に入ると、蜜がしたたっていたが、だれもそれを手につけて口に入れる者はなかった。民は誓いを恐れていたからである。(Ⅰサムエル14:24~26)


豊かに備えられたみことばの糧を味合うことを制限されてはならない。聖霊の臨在によって開かれて行くみことばを、何時でも自由の中で豊かに味わって成長しなければならないからである。

あなたがたの場合は、キリストから受けたそそぎの油があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、──その教えは真理であって偽りではありません──また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。(Ⅰヨハネ2:27)

人の子は、安息日の主です。(ルカ6:5

ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

コメント一覧

ムベ
デ某さん台風のお見舞い感謝します
昨日のお昼過ぎから今朝まで停電しておりました。
如何に電気に頼る暮らしをしているか・・思い知りました。
無意識に部屋のスイッチを押し、pcの前に座ってしまいます。
でも発見もありました。
嵐過ぎロウソクの火のやわらかさ

昔のテレビアニメのギャートルズ?が大好きでした。今も肉を食べるとき、
輪切りのマンモスに噛みつく絵を想像して、それだけで元気になります。ふふふ・・

神は人に生きるための知恵を備えられましたから、人の文化の発達は信じます。
(良くなるかどうかは別として・・)
命の種の進化論は違うと思います。

私は、人が偶発的な過程で発生して進化したものではなく、
造り主の明確な愛の計画によって、完成した形に造られたと信じています。
それは安定した命の意味を持っています。

文化は発達すると思いますが、人が進化して何かになってゆくなんて
ことは無いと思います。もし、進化論が正しければ種の進化が続いて
いるはずで、今後宇宙人みたいになってゆくかも・・なんて嫌です。

どうかデ某さんにとって、最善の答えが導かれますように。
デ某
That's question.
https://blog.goo.ne.jp/00003193

凄まじい台風でしたね。
正直、1時間余、先の地震より怖かったです。
ムベさんところは被害はありませんでしたか?
心よりお見舞い申し上げます。

さて、もう半世紀も前、高校生の頃に読んだ朝永振一郎さんの随筆
記憶は曖昧ながら 「鏡の中の世界」 だったと思いますが、
その中に人類の進化について概ね次のように記されていました。

人類が火を利用するようになったの「山火事!がきっかけだった。
狩猟で動物をとらえ、その生肉を食べていた人類は、
山火事で焼かれた動物の肉には見向きもしなかった。
が、山火事で動物が激減、空腹の若者が勇気を奮いその肉を食べる。
するとその美味さに驚き、みんなに奨め食べるようになった。
やがて人類は焼肉が欲しくなると山火事を起こす時代が長く続く。
食べる分だけ捕えていた狩猟から、
捕えた動物を飼育し計画的に動物を食するようになり
山火事ではなく必要な分だけの火を起こし肉を焼く文化へ進化した。

進化論は神様の教えとは異なるものとされています。
が、人間が気づき進化する文化に総て神様の意思が働いているとすれば
「火の利用」に関わる人類の進化はキリスト教文化の一環かと思いました。

「主は殺す神ではなく生かす神なのだ」とのこと。
生きとし生ける人はみな例外なく最期を迎えます。
生きようとすることは罰(原罪?)ではなく恵みであり、
より豊かに生きるための智慧こそ文化なのだと思います。
どのように死を受け容れるかは、人間の文化なのか生理なのか信仰なのか
ハムレットではありませんが 私には 「That's question」 ではあります。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「Weblog」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事