イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものだから。(ルカ6:20)
イエスさまは使徒を選んで、彼らが生きるためのことばを授けられた。
主のことばだけを頼りに生きる心の貧しい者に、天の御国に住む者であることを知らせ、移り変わることのない真実な望みを与えられた。それはイエスさまから聴いたことばによって、地上の日々を喜びと誇りを持って生きるためでもある。
いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。(ルカ6:21)
心に空しさが付きまとう霊の飢え渇は、イエスさまのことばが流れ込んだ時に、経験したことのない平安が満たされる。それは聴き続ける限り日々満たしてくださり使徒のいのちの源となり、目の涙はすっかり拭われるようになるのである。
人の子のため、人々があなたがたを憎むとき、あなたがたを除名し、辱め、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。その日には喜びなさい、おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。(ルカ6:22~23)
イエスさまのために、憎まれるようになれたならそれは光栄である。自分自身の至らなさや恥によって憎まれるべき者が、イエスさまが「わたしのために」と言ってくださる者となれたのならそれは大きな喜びである。
罪ある者が神さまに受け入れられ、栄光をたまわり天で報いを受けることは、すべて一方的な恵みである。なぜなら、すべてを備えて導いてくださっているのは主であるから・・。イエスさまは使徒に言葉を備え導かれたように、今もキリスト者にはすべてみことばによって教えて備えてくださり、「そのとおりにする」時みことばが実現するからである。
そして、みなの者を見回してから、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。そのとおりにすると、彼の手は元どおりになった。(ルカ6:10)
迫害された弟子たちもイエスさまのことばによって備えられ、確信を持って福音を伝え続けた。
そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。(使徒5:41)
ほめ言葉の無い所に置かれることは、主の大いなる守りである。それは警戒するべきことであり、ほめる人の無い所には自由がある。人の評価に拠ることは主のみこころではないことが此処からわかる。
みなの人がほめるとき、あなたがたは哀れです。彼らの父祖たちも、にせ預言者たちに同じことをしたのです。(ルカ6:26)
しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。(ルカ6:27~28)
呪う者をそれと知らずに祝福して祈り続け、奪い取られようとしていることも気付かずに祝福を祈っているなら、それはキリストの臨在によることである。イエスさまはそういうお方だから、内におられるキリストの働きによることでとても安心なことである。
もちろんイエスさまは人の心を全部ご存じだけれど、来るすべての人を癒された。キリストの心は疑いではなく、賢さによる警戒でもなく、人を選ぶ裁きでもなく、赦しと癒しと平安である。キリスト者は内におられるキリストによって生きる。
あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。(ルカ6:36)
故もなく憐れみを受けて私は救われた。本当に恩知らずな者を御子の十字架の御救いに預からせてくださったから、一番大切な喜びの種を送り続けたい。
口先の甘い言葉ではないけれど、聖霊に聴き続けるみことばと、感情には拠らずに祝福を祈り続けるのである。
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。(ピリピ1:21)
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