石ころ

「いつも喜んでいなさい」(2022.01.01)

 

 

 キリストの十字架は、創造主なる神がすべての人をどれほどに深く愛しておられるかを伝え続けている。神は「これはわたしの愛する子」と言われた御子に十字架を負わされた。このことに私たちは心を刺される。
十字架で御子イエスは、「父」と呼ぶことも許されずに、負っておられる我らの罪の故に見捨てられたのである。

 

三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイ27:46)

 

 私は救われた深い喜びの中で「イエスさまの十字架のお苦しみを、幾らかでも私も知ることができますように」と祈ったとき、「知らなくても良い」と厳しい御声を心のうちに聞いた。
なぜかと・・ずっと思い巡らせていたが、信仰生活の中で分かって来たことは、それは主のお喜びではないということであった。

 

御救いに与ったばかりの者は神には幼子であり、ただ、たまわった御救いの中で安らぎを受けて、驚くばかりの恵みに浸っているのみであった。
どれほどの恵みや慈しみを受けても幼子に出来ることは何も無く、そう、幼子は受けるばかりのうちに成長するものなのだ。

 

 幼子が父母に「あなたの苦労を教えてください」などと言って喜ぶ親があろうか、与えられた食事を何でも喜んで食べ、すくすくと成長する姿を見ることが、親の何よりの喜びであり満足である。あっけらかんとして泣いたり笑ったりのすべてが幸せなのだ。

 

子は親の声を聞いて言葉を覚え「ママ」と呼びかけ、側にくっついて離れないことも愛らしいのである。やがて、親の価値観の中で成長して自立して行くことこそ、親の栄光であり誇りとなる。

 

幼子が親の苦労を知ろうとすることなど僭越なことなのだ。しかし、成長した時には、自分が受けて来た愛をもって親と同じことをするようになり、親の労苦を身をもって経験するようにもなる。

 

 キリスト者も聖霊の助けの中で成長させて頂いたとき、愛する者のために恥をかいたり、あるいは血を流すことさえ厭わないまでになったなら、キリスト十字架のお苦しみ、その愛の深さを真に知るのかも知れないのである。

 

「彼は自分のたましいの激しい苦しみのあとを見て、満足する。わたしの正しいしもべは、その知識によって多くの人を義とし、彼らの咎を負う。(イザヤ53:11)

 

イエス・キリストは十字架に死んで葬られ、三日目に墓よりよみがえって天に昇り、今、神の右の座に在って、信じる者のいのちの故に十字架のお苦しみをも喜んでくださっている。

 

いつも喜んでいないさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。(Ⅰテサロニケ5:18)


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