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石ころ

ご焼香のこと

 お葬式でクリスチャンが必ずぶつかる問題はご焼香。私はイエス様に出会ってすぐに、態度をはっきりさせるためにご焼香はしなくなった。それでも、主人にずいぶんかばってもらったことも事実。また、ある意味迷惑をかけ非常識と非難された事も事実。座を白けさせてしまったこともあった。私の気の利かなさもあった思うけれど・・・。

「自分がこうと思ったら、周りが見えなくなって、矢のように飛んでいってしまう。その矢で誰が傷ついてもおかまいなし。」なんて非難されたこともあった。事実だろう・・と思っている。不器用で一直線な単細胞、でもね、そんなこと主は百もご承知で私を選んでくださった。

ご焼香をすることで、救いがどうこうなるとは思ってはいないけれど、私が曖昧な信仰を続けることは証にならないと思った。救われ祝福された生活の中で、私が今までと同じように偶像に関わっているなら、人は私の生活の何処にイエス様を知ることが出来るのだろうとも思い、私の後に救われる人が歩きやすい道を整えたいとも思った。

そして、このことは愛から出ていると思っている。どんな方法であっても、キリストをお知らせすること以上の愛は無いと思うから。


 今、イエス様をお伝えしている方が、先日のお葬式で早速この問題に直面された。彼女がご焼香をしないと側に来られた時には、その選択を喜んであげた。でも、次の日のお葬式には、誘われてみんなと一緒にご焼香をされたことを話された。

「私はしたくなかった。本当はしたくなかったけれど、うっかり昨夜『明日する』って言ってしまったから断れなくなった。ごめんね。でもね、私はこのことをあなたに悪いと思って謝っているわけじゃないのよ。」この言葉に私は本当にほっとした。これでよいと思う。ご焼香するとか、しないとか、そんなことよりももっと大切なことがちゃんとわかって居られる。

何を選ぶときにも、人に対してではなく「イエス様に対して」ということ。彼女にイエス様は私たちの弱さには同情してくださるお方であり、ちゃんと心を見ていてくださるとお話したけれども、「私たちはこの信仰を守るために、したくないことをさせられてはならない。」とそのことを伝えていかなければとも思っている。


「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)

「あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。」(Ⅱペテロ2:16)

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コメント一覧

石ころ
イチゴさん、愛知県のさっちゃんさん
コメントを感謝いたします。
私の足りないところを、コメントで補ってくださっていることに、何時も主の備えを感じて喜んでいます。
このようなので、安心して自由に思いのままに書いていくことが出来ます。
愛知県のさっちゃん
焼香
私自身、もちろん焼香はしません。
でも、できるだけご遺族の方々にお悔やみのご挨拶を申し上げ、そのとき、クリスチャンですので、ご焼香はできませんが、ご家族の方々のためにお祈りさせていただきます。・・とできるだけお伝えするようにしています。ほとんどの場合、快く受入れてくださいます。後、身内の葬儀の場合などは、率先的に裏方に回るようにしたり、ちょっとした合間に、亡くなられたご家族の方々に声をかけ、その場で主の慰めと葬儀が最後まで守られるように、お祈りさせてくださいと、声をかけ、そこでお祈りすることもできます。大切なのは悲しむ人々と共にいる主に、私たちも共にとどまることだと思います。クリスチャンとして証するということは(もちろんあくまでも自然体)主の憐れみと共にあること、主が愛してくださったように愛することなのだと感じます。そうしてゆくうちに、自然と親族の人たちは、たとえ焼香しなくても理解してくれるようになります。

今年4月に母を亡くしましたが、そのとき、母が亡くなるまでの間に、母と一緒に礼拝したことや母に対しての思い、そこで感じた主の十字架を書き綴ったブログのコピーを、父に渡しました。父はキリスト教を「ヤソ」呼ばわりするほど、嫌っていましたが、ブログを読んで泣きながら電話をくれました。「お前のことはよーくわかった。ありがとうな。この記事、ずっと大切にするよ」と。その後の葬儀、初七日法要、法事、すべてにわたって父のほうから、焼香をしなくてもいいように配慮してくれたのです。「仏壇も、自分の代で終わりだから、一番安いのにしたよ」と言ってくれました。

主が愛してくださったその愛にとどまり、注ぎだしてゆくなら、主の側で道を開いてくださいます。
その時、焼香しないという証さえも、用いてくださると信じます。
イチゴ
イエス様なら どうするだろう 何て言うかしら って考えます 
「何を選ぶ時にも 人に対してでなく イエスさまに対して」 アーメンです
私の場合周りに誰もクリスチャンがいなかったので、以前は、焼香は適当に皆に合わせていた。で どうするべきか いつも考えていた。 ところが ここ数年神は用意していてくださると信じるようになってから、その瞬間が来るまで考えないようになった。神にお任せ!よろしくね!っていう感じで。そうしたら 前まで行って遺影に言葉をかけるだけ(頭は下げない)とか 「宗旨が違いますので」と言ったら自分の子らが(彼らはキリストを信じないのだが)同じように述べて済んだりと 神が応じて助けてくれるように。 しかも 信仰の証の機会さえプラスしてくださるようになった。 
伝道するように人を与えられると やはり どんなふうにどれだけ伝えられたかが とても気にかかる。その人の霊に触れてくださるのは 神ご自身。結果は神のもの。
石ころさんが 知恵に溢れた言葉を 安心して 語っていけますように。神に委ねて伝道の時を過ごし その方と共に祝福を喜び分かち合える時が来ることを期待し 信じてお祈り申し上げます。  
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