「自分がこうと思ったら、周りが見えなくなって、矢のように飛んでいってしまう。その矢で誰が傷ついてもおかまいなし。」なんて非難されたこともあった。事実だろう・・と思っている。不器用で一直線な単細胞、でもね、そんなこと主は百もご承知で私を選んでくださった。
ご焼香をすることで、救いがどうこうなるとは思ってはいないけれど、私が曖昧な信仰を続けることは証にならないと思った。救われ祝福された生活の中で、私が今までと同じように偶像に関わっているなら、人は私の生活の何処にイエス様を知ることが出来るのだろうとも思い、私の後に救われる人が歩きやすい道を整えたいとも思った。
そして、このことは愛から出ていると思っている。どんな方法であっても、キリストをお知らせすること以上の愛は無いと思うから。
今、イエス様をお伝えしている方が、先日のお葬式で早速この問題に直面された。彼女がご焼香をしないと側に来られた時には、その選択を喜んであげた。でも、次の日のお葬式には、誘われてみんなと一緒にご焼香をされたことを話された。
「私はしたくなかった。本当はしたくなかったけれど、うっかり昨夜『明日する』って言ってしまったから断れなくなった。ごめんね。でもね、私はこのことをあなたに悪いと思って謝っているわけじゃないのよ。」この言葉に私は本当にほっとした。これでよいと思う。ご焼香するとか、しないとか、そんなことよりももっと大切なことがちゃんとわかって居られる。
何を選ぶときにも、人に対してではなく「イエス様に対して」ということ。彼女にイエス様は私たちの弱さには同情してくださるお方であり、ちゃんと心を見ていてくださるとお話したけれども、「私たちはこの信仰を守るために、したくないことをさせられてはならない。」とそのことを伝えていかなければとも思っている。
「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)
「あなたがたは自由人として行動しなさい。その自由を、悪の口実に用いないで、神の奴隷として用いなさい。」(Ⅱペテロ2:16)
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